・ キュズーレ ・ シエナのクレーターの小さな村

トスカーナのご案内が続きますが、
キュズーレ・Chiusureという村の名をご存知ですか?!

トスカーナはシエナの東南部、シエナのクレーターと呼ばれる太古には海だった浸食地・
カランキの中にぽつんとある、2001年の人口が僅か115人という小さな村。

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私も知らずにいて、クレーターの写真を探していて偶然村の広場の写真を見つけ、
そしてグーグルのストリート・ヴューで見る土地の風景にも魅かれ、行ったのでした。

上の写真は村に4つほどある広場の一つ、ぐるっと回りつつ駐車場を探し、
やっと2周目に、はは、遂にこの近くの道脇に留め、中心の広場に。



キュズーレの村はどこにあるか、地図をどうぞ。
シエナのクレーター探訪の中心ともいえるアシャーノ・Ascianoの南約10Kほどに。

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キュズーレに並びモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院・
Abbazia di Monte Oliveto Maggiore と見えますが、
はい、かの有名な修道院がすぐ傍に。

と地図の中、見難いですが、アシャーノの町手前から南に直接の道と、斜めに
東南に行きヴァル・ダッソ・Val d'assoの手前から左にキュズーレに下る道の、
2通りがあるのが分かりますか?

私はアシャーノの手前で標識が出ていたのでつい曲がり、悪くは無かったですが、
ヴァル・ダッソ周辺の眺めが広大なので、次回のチャンスには是非そちらの道をと。
       
既にご案内の土地は、アシャーノサン・ジョヴァンニ・ダッソ、そしてモンティージ



キュズーレの村は海抜401m、下の道から上ってきて、村の外側をぐるっと道が回り、
また下の道に下り他の村へと、つまり小さな集落の中は坂道と石段で車は入れずで、

こんな風に下の道から見上げながら中心に向かい、

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小さな広場に出た所に、バール兼食料品店。 確か中でジュースを飲んだ記憶あり、

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その右手から坂道が上の広場に続き、
これは左が下から辿ってきた道で、石垣越しに上の店の他のテーブルを撮った所。

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上の広場に井戸があり、が飲み水ではないとの表示で、奥に上の家並みに続く石段。

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実はキュズーレに寄った時、着いた時は曇り空だったのが途中から良いお天気になり、
喜んで大体の場所は撮り直し、坂道も上りなおしで、はい。 
がまるで同じ場所からは撮っておらずで、今回は曇り空と晴れと混ぜこぜでご了承を。


上の広場の様子、一番右の下の道の教会はオリジナルが8世紀に遡るといい、
サン・ミケーレ・イン・ルーコ・San Michele in Luco。

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壁の石の大小、扉の位置が変わったりの変遷が楽しめる壁!

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下の道の、家の扉を覗き込み。

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上に続く石段、

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半ば上がって来て見える上の家並み。
ほら、やはりお天気の時の写真は、影が立体を強調してくれますね。

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上から見る石段の曲がり具合いと、三角の広場。

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この石段の途中の曲がり角に、こんな家の扉と壁があり、
これがなかなか良い感じで、でもどう撮ったら良いのかと
あれこれ何枚もトライしておりまして、ははは、

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こちらは陽が射して後の1枚。

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ふと気がつくと、はは、後ろからワン君が小首を傾げshinkaiを眺めておりまして・・!  
村のお爺さんが見つめる様な、そんな目でしょう?! ははは。

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石段を上りきった所、右手にあるアーチ、かっての村の門だったのでしょうね。

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門の外から逆に。

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そして村の下の道と家、遥か向こうに広がる波打つ平野。

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アーチの所から左に折れ、も一つ坂を上った所からで、右背景に
少しカランキ・浸食地が見えるかな?

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奥に広がる丘の流れ。

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ゆるい坂道を上りつつ、上から賑やかなお喋りの声が聞こえ、今日は何かあるのかな、
と思うほどだったのですが、
       
上に辿りつくと展望台式に開けた小さな公園があり、その後ろにこの建物。

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建物はカーザ・ディ・リポーゾと呼ばれる老人ホームで、大きな古い建物なのが、
ちょうど祭日で、たくさんの老人達と訪問者がお喋りし、公園のベンチに腰を下ろし、
素晴らしい眺望を楽しんでいたのですね。



下の家並み越しに見える風景は、こんな感じで素晴らしく、

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ほら、右手中ほどに見えるのが、
       


これ、モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院。 マッジョーレという言葉通り、
大変大きく威容を誇ります。

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14世紀初めから建設され、完成が16世紀というこの修道院、shinkaiはまだ訪問
してませんので、サイトから様子が分かる何枚かを拝借し、
大回廊。 見える像はサン・ベネデットで、奥に井戸も。

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大回廊の周囲は全面フレスコ画で装飾されていて、主題はサン・ベネデットの生涯、
15世紀末のルーカ・シニョレッリの作品が8面、他は16世紀初頭からのソドマの作品と。

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こちらはレフェットーリオ・Refettorioと呼ばれる食堂。

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そして合唱隊席の、木の嵌めこみ細工の一部。 見事ですねぇ!

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修道院の持つ富というのはどこも凄い様ですが、モンテ・オリヴェート・マッジョーレは
19世紀に修復されたものの、他に特別な被害とか破壊とかは無かった様子で、
建設当時のままの姿を保っているようですね。

キュズーレの村の起こりを読みましたら、シエナの貴族トロメイ・Tolomei、伝説では
エジプトの王家に繋がるという家系が、へへへ、12世紀シエナの記録に出てくる旧家で、
このキュズーレ辺りにも広く領土を持っていたとの事。

1313年にベルナルド・トロメイ・Bernardo(1272-1348)が隠者生活に入る事を決め、
彼の土地であったキュズーレに程近いデゼルト・ディ・アッコーナ・deserto di Accona
に居を定め、オリヴェターナ信心会・Congregazione Olivetanaを起こし、
それがモンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院の基となったと。

デゼルト・ディ・アッコーナは、アッコーナ砂漠と言う意味で、かっての乾燥した不毛の地と
言うことでしょうが、どこにあるのかと調べると、なんとなんと現在シエナのクレーターと
呼ばれているアシャーノ周辺の東部と南部を指すのを知り、

その中でも有名なのは、ビアンカーネ・biancaneと呼ばれる白い丸い形のカランキの
カステッロ・ディ・レオニーナ・Castello di Leonina周辺と、カランキ・caranchiの
キュズーレとモンテ・オリヴェートと!



も一つ知ったのは、ははは、無知ムチshinkai丸だし、シエナの市庁舎にある
アンブロージョ・ロレンツェッティの「善政と悪政」のフレスコ画の中に、
ビアンカーネが描かれていた事!!

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なんと単にトスカーナの山風景と単純に思い込んでいましたが、へへ、

このフレスコ画を基にした楽しい絵本「トスカーナのスキャンダル」、
こちらにご紹介していますので、どうぞ。



という、このキュズーレ周辺のカランキですが、見た時は、わぁ、凄く大きくて広いなぁ!
と驚いたものの、2年前の春はずっと雨が多かったせいか、谷の木の繁殖も多く・・、

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サイトで見つけた写真拝借で、
手前下が村の門のあったアーチの外で、老人ホームは一番右上。
       
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こうして見ると、凄いですよね、やはり! ぼこっと穴が開いたというか、隕石でも落ちた様な
大きさで陥没し、それが村の何倍もの広さなんですね。
村から見る修道院はかなり低い位置に見えるのですが、こうして見るとカランキの上で、
説明にあったデゼルトの高所に修道院を、というのも納得です。




衛星写真を追加し、右上に小さく見えるキュズーレの村と、カランキの大きさを
比較してご覧くださいね。

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それにしても、村のすぐ脇にこんな大きな侵食陥没地! この一帯の畑を見ても、
水が流れる筋がしっかり見えますし、時にぼこっと陥没している所もあり!
こういう土地のすぐ横に住み、村があるというのは、少し怖い気がしますが、
土地の人は平気なんでしょうか? 太古の昔からあったんだから、とでも?
      


修道院の奥に広がる土地の様子と、

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こちらはキュズーレの北東方向。

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しっかり上からの眺望を楽しみ、村の下に。
    
これは石段を降りてきた所の、土地の高低を利用した納屋。 
石の厚い壁の、存在感が凄いでしょう?!

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サイトで最初に見つけた、村のもう一つの広場の、井戸と円柱のあるレストラン。
が、行った時はお休み。

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建物の間の小路を入ると、古い厚いレンガ壁が続き、

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写真を撮っていると、中からお年のシニョーラが顔を出されたので、ちょっとお喋り。 
美しい村ですね、と言った様な・・。



突き当たりの正面右の扉、なかなか良いなぁと思ったのですが、気が付いたのは、
番地が変わったのでしょうが、扉脇の番号が乱暴にXで消されたままで、ははは。

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右のお家の鐘の上に、何があるのかと撮りましたら、王冠を被った蛙が
仰向けに寝ており・・!

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王冠を被った蛙は、ここから西南にある町ブオンゴヴェルノ・Buongovernoの、
町の紋章にもあり、お土産で買ってこられたのかな?


さて、キュズーレの村、下の端にある教会の古い形の鐘楼に
別れを告げ、南に下ることに。
      
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途中の道で見た古い小さな教会は、色鉛筆+水彩画ブログの方に
載せていますので、お暇な方、はは、見てやって下さいね。
http://italiashinkai.seesaa.net/article/451920946.html


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・ オルチャの谷風景 ・ 緑の大地が恋しくて 

ここの所北イタリアはず~っとお天気がすっきりせず、昨日やっと悪天候の間の
良いお天気だったのですが、今日はまた雨・・。

そんな心が少し鬱屈しそうな時に思い出し、恋しくなるのは
トスカーナはオルチャの谷の緑、大地の広がりと吹き渡る緑の風!

そんなこんなで思い出したオルチャの谷を、まだご覧頂いてない写真で、
春5月、ピエンツァの町の南に広がる平野の様子をどうぞ!

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どの辺りか、地図をどうぞ。
ピエンツァ・Pienzaが中上にあり、その西に囲ったのがサン・クイリコ・ドルチャ・
San Quirico d'Orcia. そして南、バーニョ・ヴィニョーニ・Bagno Vignoniに
向って下り、SP53への分岐点から東に、そしてその先赤点の辺りで、
この大きさの地図では出ませんでしたが、左にピエンツァへの地道の分岐点。

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ほぼ北東に辿る地道で、道筋には幾つもの農家があり、時たま車が通る位で、
ゆっくり風景を眺めながら撮りながら行くには最適な道!
今日のトップの写真はまだSP53線の辺り。

この南から斜めにピエンツァに近づく道は、上方にもう一つ赤点を打ったよりも上の、
ピエンツァの町からくねくねと下る道に出ますが、
赤点の道は、そこから坂道を下りきり、そしてほんの少し先の東に入る地道で、坂を上り
平地が少し続き、その後谷を下って上るモンティキエッロ・Monticchielloに行く道。

いつもは殆ど写真の色味を弄りませんが、今回はほんの少し、緑の黄味色が強く出た
分だけ調整しました。 写真をRAWで撮っておらず、調整がニコンのソフトで出来ずに、
PCに入っているマイクロ・ソフトのでしましたら、画素数がガクッと落ち、
・・つまり少しボケまして、ご容赦!



まずは南からピエンツァに向う地道から、
       
雄大な大地が広がり、奥中央に見える山はラディコーファニ!  
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麦畑に残るトラクターの跡。

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丘の上、1本の木。

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奥に広がる、まだ若い葡萄畑。

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地道は低く丘の間を辿ったり少し上ったりで、やがて見えてくるピエンツァの町。

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背後の丘の上のオリーブ畑は、ピエンツァからも見えますが、
この農家はこちら側からのみ見えるのですねぇ。

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大地の不思議、よく小麦が育つ部分とはげちょろけの所と!

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孤独に佇む木たち、そしてうねる大地。

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ピエンツァへの道! 
と、町のアップ、左にピッコローミニ邸と右に聖堂。

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丘の上の農家。
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点在する農家と、列を作る覆われた藁。

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ときどき見かける無耕作の地、土地を休ませるのだろうか?

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これは既にピエンツァの下から東への道を入り、ずっと先に進み、
谷の向こうに見えるモンティキエッロの町。

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この谷にはカランキ・calanchiと呼ばれる、かなり大きな浸食地があり、

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そして、曲がりくねる道、糸杉の並び。

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谷にはピエンツァから2,3本モンティキエッロへの道が通り、皆試しましたが、はは、
ハイキングには良くても、林の中に入ったりで眺めの良い道でなく、写真はパスで、
引き返し、平野が広がる高い部分に。

波打つ大地、麦畑の畝の筋、点在する農家。

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東側から見るピエンツァ。 建物の間の隙間が無く、はは、こちらの眺めが好き! 
見えないものね、ははは。

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この丘のうねり、この広がり!!  凄さのある美でしょう?!
ここに身を置ける幸せ、見れる幸せをしみじみと感じる時。

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秋に行った時は、ここには荒々しい茶のうねりが広がり、
その広大な粗い眺めに圧倒され、暫し放心状態になりましたっけ。
       
・・・ また行けます様に!! また見れますように!!


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・ n.3 ヴィテルボ ・ コンクラーヴェ(教皇選出)なる言葉の初まり、聖堂 

ヴィテルボの街のご案内も今回が最後! 中世が盛りだくさんに残っている
ヴィテルボの街ですが、
その中でも大変興味深くもあり、はたまたご案内が面倒な、はは、失礼、
歴史に残る長~い教皇選出が行われた街でもあり、
現在も使われるコンクラーヴェ・conclaveという言葉が生まれた街。

教科書的、無味乾燥な歴史の記述はshinkai本人が苦手ですので、
何とか分りやすくご説明を、でもなるべく正確詳細に、をモットーに、ははは、
取り組んでみますので、宜しくお願いいたしま~す!

写真はサイトから拝借の、上から見たサン・ロレンツォ広場の様子。

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左側に鐘楼と共に見えるのが、街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂で、
右奥に長く続くのが、パラッツォ・デイ・パーピ・Palazzo dei Papi・
13世紀に教皇庁が30年ほど、ローマからこちらに移っていた本拠地。

教皇様の事をイタリア語でパーパ・Papaと呼びますが、(父親を呼ぶパパ・papàの
場合は終わりのaにアクセントが) 約30年間の間に、9人の教皇が
このヴィテルボに居られたので、複数形でパーピ・Papiとなる訳ですね。



上の写真の左下にちょっと見える、サン・ロレンツォ広場の北西角、ドゥオーモの
左手前にあるヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタの家・Casa di Valentino
della Pagnotta、13世紀建設の、典型的な中世の邸宅なのだそう。

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名を残すヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタという人物は、1458年に
町の執政官に選ばれたと記録に残る、農業の財産家だったのだそう。

大きなアーチを持つ美しくエレガントな家ですが、何度か改装されたり、
第2次大戦の爆撃の後にも、元々の姿に再建されたものなんだそう。



さて、サン・ロレンツォ聖堂の美しい鐘楼、これは12世紀のオリジナルで、
2つ並んだ窓と、白と青灰色の縞模様。

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聖堂は、この場所に7世紀に遡る小さな教会があった後に建設された物で、
現在、聖堂の内部は建設時12世紀のロマネスク様式ですが、 
正面はご覧のように16世紀に改装された姿。

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聖堂内部の、天井も側廊アーチも床も全部見えるのをサイトから拝借し、

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柱頭飾りもなかなか興味深いのがあり、

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天井の梁装飾が興味深く、なんと書いてあるのか読めると良いのですが。

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床模様がコズマ式! 綺麗に残っているでしょう? 好きなのです、これが。

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右下の平面図をどうぞ、と言うのも、16世紀に教会の正面を改装したのと同様、
内部左右の側廊の壁を開け、10の礼拝堂を造ったのですね。 
これで壁の以前のフレスコ画が失われ、

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17世紀には内陣を深くする改装が行われ、図に見える突出した部分で、
この聖堂も第2次大戦の爆撃でやられた部分の修復時に、出来るだけ元の
ロマネスクの形に復元され、

現在は聖堂内からは突出した内陣部も見えませんが、隣のパラッツォ・デイ・パーピ
内部見学と共に、聖堂横の博物館受付に申し出ると見学できるとの事。



これは聖堂内に残っていた数少ない壁画。

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パイプ・オルガン。 これは20世紀後半の物と。
  
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16世紀に教会正面をルネッサンス様式に変えた人物の名が、正面に彫り込まれており、

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IO FRANC CAR DE GAMBARA、つまり、Io Francesco Cardinale Gambra
我フランチェスコ枢機卿ガンバラ で、
バニャイアのヴィッラ・ランテを造ったと同じ人物、あのヴィッラの東屋にも同じ彫りが
残されていましたが、こういう場所には、教会の名とか神に捧げる献辞とかが
あるものと思い込んでいたので、これを知った時には少し驚き! この顕示欲!!
       
ガンバラ(1533-1587)は1568年から80年までヴィテルボの司教を務めており、
教皇ピオ5世の下に、異端審問にも確固たる信念を持って働いたという、
ちょっと怖い人物であったのも知ると・・、
まぁ、俗世間から離れ、ゆったり寛げるお庭も欲しくなりますわな。

ヴィッラ・ランテ ・ ラツィオ州バニャイア
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467881855.html



これは聖堂の脇壁だったと思うのですが、ここにも見つけたガンバラ枢機卿の紋章!
上につばの広い枢機卿の帽子が見え、下に鷲と海老の彼の紋章。

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ここヴィテルボには、カンタベリーからローマに至る中世巡礼の道、
ヴィア・フランチージナ・Via Francigenaが通っていた、と言う小さな標識が右に。

モンテリッジョーニ ・ 市壁と、中世巡礼街道の町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462678404.html
       


聖堂正面、張り出した脇壁にあった小さな薔薇窓。

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サイトから拝借の写真で、 聖堂とパラッツォ・デイ・パーピの間の様子。

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右手前に見える階段は、パラッツォ・デイ・パーピの入り口階段で、
奥が司教座、教皇庁の本部でもあり、住居区でもあった建物類。



聖堂、そしてパラッツォ・デイ・パーピの間に広がる広場の石畳。

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広場の奥に広がるパラッツォ・デイ・パーピと、正面部。
     
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写真は2度の訪問で撮ったものの良い方を使っていますので、
陽射しの様子が違うのはご勘弁を。



階段上部と扉、そしてテラスへの入り口部、そして扉上のライオン像。

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正面階段の下はこんな風になっており、建物裏側を通る道が奥に見えるアーチの
下を通り、ここ迄着いているのですね。

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階段の上にある円柱の下に見える横縞の紋章にご注目を。




そして建物に続いてあるテラス、ロッジャ・開廊と呼ばれる部分、その上部のアップ。

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アップにもしっかり見える横縞の紋章。これは街のご案内にも出たガッティ家のもので、
そうなんですね、このガッティ家の当時の当主、ラニエーロ・ガッティ・Raniero Gatti、
街のカピターノ・デル・ポーポロ・行政官でもあった彼が、パラッツォ・デイ・パーピ
を造り、教皇庁をローマからヴィテルボに移すために働いたのですね。

つまり1254年に教皇即位のアレッサンドロ4世からの内意を受け、以前からあった
司教庁を拡張したりの設備が整うと同時に1257年、教皇庁がこの街に移転した、
という訳で、ロッジャは1267年にやはりラニエーロ・ガッティにより建設された物。

ガッティ家は当時のイタリアを揺るがせていた教皇派・グエルフィと皇帝派・ギベッリーニの
対立の中にあって、ヴィテルボの教皇派の大物。 穀物の取引と金融業からの
莫大な富を持ち、「ヴィテルボの最初の銀行」と定義付けされているほどだそう。



正式には「祝福の為のロッジャ」という、教皇様がここにお出ましになり、広場の庶民に
祝福を与える為のロッジャですが、内部から見る広場はこんな感じ。

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現在残っているのは、広場に向いた側だけで、天井屋根部分もありませんが、
建設当時は奥の谷に面した壁、そして天井部分もあったのが、1325年に崩れ落ち、
それ以降この姿なのだと。
まぁ、この美しい2重になった円柱の並びと、三つ葉飾りのアーチだけでも、
よくぞ残ってくれた、と思えますですね。



そしてこのロッジャ内にも泉。

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左上の平面図をご覧下さいね。 階段に続いての右のロッジャ部分と、左の大きな
細長い部屋、ここは教皇がお出ましの、いわゆる応接議会室だったのが、
歴史に残る長~い教皇選出、33ヶ月!!が行われた舞台とされ、

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見学できていた様ですが、細長く大きな明るい部屋、両側に6つの窓、
と言うだけで何も無い部屋。
      
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歴史に語られる長~い教皇選出というのが始まったのは1268年11月の末の事で、
1271年9月までの1006日もかかったのですね。

前の教皇クレメンテ4世が、寝室の(書斎という説も)天井穹窿部が落ち亡くなった
後の事で、こんなにも長くかかったのは、ひとえに選出選挙の為に集まった19名の、
一人はフランス王に従いチュニジアに行っており欠席、
枢機卿たちが、いわば教皇派、皇帝派と二分し、当時は教皇選出には枢機卿の
3分の2の投票が必要だったので、妥結点を見出せなかった事によりますが、

街中に滞在し、1日に1度サン・ロレンツォ聖堂に集まり投票がくり返されるのみで、
1年近くたっても結果が出ないのに怒ったのはヴィテルボ市民達。 
もてなし費用は当時は市民が持っていたので、ははは、勿論怒りますよね。
      
ここにラニエーロ・ガッティが乗り出し、枢機卿達を心地よい滞在住居から引き離し、
パラッツォ・デイ・パーピに閉じ込め、食料の差し入れもパンと水だけ!にし、
遂には屋根を引っ剥がし、風雨も流れ込む状態にした、と言う!

鍵で部屋に閉じ込めたので、clausi cum=con clave・コンクラーヴェ、
ここに初めて、教皇選出に今も使われる言葉の登場、となります。

現在の研究者によると、この屋根も引っ剥がした部屋に監禁は、約3週間続き、
その後はパラッツォ・デイ・パーピ内の部屋に住まう事が許されたと言いますが、
やはり建物内監禁で、選挙中に19名のうち2名の枢機卿が亡くなり、
17名になっても、それでもまだ枢機卿たちは頑張ったのですねぇ! ははは。

屋根を引っ剥がすと言う思い切った行動に出たのも、枢機卿の一人が機知で、
こういう部屋には、神の意思も届きにくいね、と言ったのが、
通り易くする為にインスピレーションを与えたのだと、ははは。
       


所でコンクラーヴェの行われたのは、上でご覧頂いた大部屋という事だったのですが、
2014年末から公開されている、このサーラ・グワルティエーロ・Sala Gualtiero、
美しくフレスコ画で装飾された部屋で、上でご覧の大部屋に続いてあるのだそうで、
ここが実際に13世紀のコンクラーヴェが行われた部屋ではないかと。

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広さは約200平米、20名弱の枢機卿達が集まって協議する、投票するには
ちょうど良い大きさで、 何よりも早急な修理が望まれるこの部屋は、
天井からの雨漏りの為に破壊されているのだそうで! 成る程ぉ!!


こうして約33ヶ月を費やし、選出された教皇はグレゴーリオ10世、
俗世名をテダルド・ヴィスコンティ・Tedaldo Visconti、ピアチェンツァの貴族出身で、
かのミラノ大公ヴィスコンティ家の支流であるともないともの方で、
ただ彼の精神の正しさと正直さが大変に評価されていた、聖職者の位置としては
最下の、司祭でもなかった方!

選出選の間にも、指名され驚いて逃げ出した候補者、辞退した候補者もいた様で、
彼は呆然としながらも遂に受託し、1272年3月27日に即位。
後にこの方は教皇選出に付いての新しい法則に付いても、発布されたと。
       

所でヴィテルボに教皇庁が置かれていたのは約30年間と短く、が、その間の教皇は
9人と多く、まぁ、年を取って教皇になられるのが多いので必然そうなるのかもですが、
以下にヴィテルボでの教皇様の一覧を。

・アレッサンドロ4世 1254年から61まで在位 ヴィテルボには1257年から
           1199-1261  選出時55才  没62才
・ウルバーノ4世 在位1261-1264 ヴィテルボとオルヴィエートを行ったり来たり
         1195-1264   選出時66才  没69才
・クレメンテ4世 在位1265-1268 殆どヴィテルボに 1195-1268
         選出70才 没73才
・グレゴーリオ10世 在位1271-1276 実際には約1ヶ月間ヴィテルボに居たのみ
           1210-1276   選出61才  没66才
・インノチェンソ5世 1276年1月選出 6月没! 約半月間ヴィテルボに
           1225-1276  選出51才
・アドリアーノ5世 1276年7月選出 8月没! 殆どヴィテルボの修道院に
          1205-1276  選出71才
・ジョヴァンニ21世 1276年9月選出 1277年5月没 殆どヴィテルボ
           1215-1277  選出61才  没62才
・ニッコロ3世  在位1277-1280 ヴィテルボとローマ、そしてソリアーノ・
         ネル・チミーノ  1216-1280   選出61才  没64才
・マルティーノ4世 1281年2月選出後、すぐにヴィテルボから教皇庁を撤退
          1210-1285  選出71才  没75才
       
なんとまぁ、3人の教皇様が数ヶ月で亡くなっていますねぇ! 悪口を言うと、
そう先が長くなさそうだから、というので選ばれた、という話もあるそうで、はい。
      
所で長期間かかったグレゴーリオ10世選出の際の枢機卿17名ですが、
その中の4名が後に教皇になられていて、このリストの中のアドリアーノ5世、
マルティーニ4世も長い教皇選出に加わった方。
       

枢機卿というのは、司教叙階の位の中から教皇が選ばれる方々で、
教皇に継ぐ位階というか、現在は新しい教皇は枢機卿の中からが自然で、
その数も現在は過去最高の230名くらい居られるとか!
教皇選挙は現在も完全秘密必須のコンクラーヴェではありますが、
80歳以上の枢機卿は、教皇非選出との事。
       
現在では、世界10億人を超えると言うカトリック信者の頂点に立つ教皇様として、
政治的にはともかく、厳然と大きな影響力をお持ちと思うのですが、
中世のこの時代、政治的にも権力を持っていたいわば領主の立場でもあり、
勢力権力争いの真っ只中で、大変だったんだろうな、との感想も。

この後ヴィテルボの街に教皇庁が戻る事は無く、当時の繁栄は廃れ、
ラツィオ州内でも常に2流の立場に甘んじたと。



ロッジャからは背後の眺めが大変素晴らしく、北に広がる街並みや、
旧市街を囲む城壁も見え。

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これはパラッツォ・デイ・パーピの背後からの眺めで、間の谷をファウルの谷・
valle FAULと言い、まさに要塞の趣きも。 素晴らしい威容でしょう?!

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ファウルの谷のこちらには大駐車場があり、緑地で若者達が遊ぶ姿も。

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あれこれどこかまだ書く事が不足している気もするのですが、これで一応
今回のヴィテルボのご案内をお終いとし、
皆様、長いお付き合い有難うございました!!


最後は、サイトから拝借の写真で、サン・ロレンツォ聖堂の夕景と、
パラッツォ・デイ・パーピの夜のイルミネーションをどうぞ!

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・ n.2 ヴィテルボ ・ サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸

中世13世紀に、短いながらも教皇庁が置かれたヴィテルボの街。
当時一番の繁栄期を迎え過ごし、旧市街は今もその建物雰囲気を保ちますが、
 
今日は750年前からずっと毎年9月3日の夜に行われる「サンタ・ローザの大灯明」の
行進について、これはまるで知らずにおりましたが、あれこれ知るとその規模の大きさ、
市民の熱中さにいささか驚きましたので、ご案内を。

この写真がその大灯明で、高さ30m、重さ5トンの大灯明が、街中の明かりを
全部消した暗い道を、100人もの男達の肩に担がれ、運ばれるのです!

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この大灯明はマッキナ・ディ・サンタ・ローザ・Macchina di Santa Rosaと呼ばれ、
マッキナというと一般に機械とか車とか指しますが、
教会用語で「聖像を運ぶ山車」の意味もあると知り、納得です。



この大灯明についてどう知ったかと言うと、偶然に小路を入って行き見つけた扉
「サンタ・ローザの家・Casa di Santa Rosa」で、扉に見える張り紙見学時間案内。

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サンタ・ローザなる人物も知らず、調べ、13世紀前半に生きたフランチェスコ会派の
尼僧であった事、僅か18歳で亡くなっていますが、
皇帝派(ギベリン)と教皇派(グエルフィ)の敵対する中、熱烈な教皇支持派で、
異端信仰とも戦った方で、ヴィテルボの守護聖女として愛されている事などなど。

聖女・サンタと書いておりますが、実際にはまだ列聖されておらず、
現教皇フランチェスコ様の在位間にと、運動が続いているとの事。



この家、聖所はどこにあるかと言うと、街地図の右上緑で囲って3と打っている場所に。

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という事で、今回のご案内はサンタ・ローザの大灯明の他に、地図の真ん中から左に
見えるジェズ教会・Chiesa del Gesù、そしてその左下4のファルネーゼ邸・
Palazzo Farneseを。

そして次回最後に、あれこれ新しいニュースも仕入れた、ははは、教皇邸・
Palazzo dei Papiと、サン・ロレンツォ聖堂・Cattedrale di S.Lorenzo
に分け、ご案内を計3回とする事にしましたので、宜しくお願いいたしま~す。
       

さて、大灯明の大きさ、重さは上に記した数字が標準で、というのも、
大灯明は5年毎にデザイン・コンクールによって選ばれた、新しいのが登場するからで!

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担ぐ1000人もの男達はこんな様子で、不謹慎ながら、はは、
一瞬昔のハリウッド映画「クレオパトラ」なんぞを思い出しましたぁ!



何年のかは知りませんが、こんな過去の大灯明の写真も見つけ、

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こうなると、どこを通るのか知りたくなるでしょう、皆さんも!
お陰様で今回は割とすんなり行程図も見つかりまして、ははは、

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1.のローマ門から始まり、  2.フォンターナ・グランデ広場
3.中心のブレビシート広場   4.エルベ広場(ライオンの泉のある)
5. コルソ・イターリアを通り   6.ヴェルディ広場
7.上で見て頂いたサンタ・ローザの家(聖所とされている)

750年前の1258年9月4日、この日7年前に亡くなった聖女の遺骸は、
埋葬されていた共同墓地から移動天蓋に載せられ、クララ会修道院に。
最初に見て頂いた「サンタ・ローザの家」の左手に、大きな教会があり、
そこに現在も彼女の遺骸が。

という事で、彼女の祭日は毎年の9月4日で、その前夜3日21時に大灯明が街を
練り歩く、という伝統的な宗教行事ですが、これが無形の世界遺産指定だそう!で、
その前日2日には、ファッキーノ・複ファッキーニと呼ばれる、担ぐ男達の行進と
時代衣装の行列も行われる様子。

となると実際にどんな様子なのかご覧になりたいでしょう?!
はい、あれこれ試写をし、ははは、良いのを選びましたぁ。
ローマ門からの出発。 ファッキーニが灯明の下に入り込み、
「ソッレヴァーテ・エ・フェルミ・持ち上げて、止って」の号令一過移動が始まります。
https://www.youtube.com/watch?v=SxGeCuD_pXw

プレビシーテ広場に見えてくる大灯明。そして広場で3回転!
https://www.youtube.com/watch?v=FiwMin6ocjk

真っ暗な中に、最初は屋根越しに塔の頂上のみが見え、そして道の角から
全身がするっと見えて来ると、撮影者がマンマ・ミーア!と声を上げますが、
いやぁ、shinkaiもマンマ・ミーア!と一瞬鳥肌が立ちました。
そして広場でゆるゆると3回転するのにも、わっ、2回転している! 本当は
1回転しかしないんだよ、と聞こえる間に3回転!

こちらはラツィオ州のヴィデオ、画像が綺麗で、街中の人々が熱狂して待つ様子も。
https://www.youtube.com/watch?v=uzPfBSk9rJ4

今時はどの街のお祭りも、第何週めの日曜に、とか移動するのが普通ですが、
9月3日21時、と定日定刻のお祭り、それもこの熱狂さ!
聖女の名の下に、ヴィテルボの人々が一つになる大灯明の運送です。



さて前回の続き、中心にあるプレビシート広場・Piazza del Plebiscitoから、
古い建物を眺めつつ南に辿ります。

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右に開けるジェズ広場とサン・シルヴェストロ教会・Chiesa di San Silvestro、
または広場の名のままジェズ教会と呼ばれますが、
この教会内で13世紀に、今も歴史に語られる復讐殺人が!

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まずはこの大変古い、多分紀元前のものという、美しい石造りのロマネスク教会の
正面細部をどうぞ。 正面上に帆形型鐘楼があり、左右にライオン像。

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そして正面扉上の半円には後の時代のフレスコ画。
 
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これは入り口左に掲げられた碑。 教会の設立年と名前の下に、
1271年3月13日の朝、ミサの最中に・・、と殺人事件が記されます。

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内部の写真がサイトで見つかりましたので、ご覧を。
身廊のみのいたってシンプルな小さい教会なのですが、

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ここで歴史に残る残虐な殺人が繰り広げられたのですね。

上記の通り、1271年3月13日の朝、シチリア王であるカルロ1世ダンジュー、
フランス王フィリッポ3世、イギリス王エドワード3世の甥であるヘンリー・アルメインが
列席の上、当時未だに空席のままの次の教皇の早い選出を願うミサの最中に、

ギュー・ドゥ・モンフォール・Guy de Monfort(1243-1288)と、弟シモン・Simonが
入り込み、彼らにとっては従兄弟に当るヘンリー・アルメイン・Henry Almain
(1235-1271)を、彼らの父親と兄弟の復讐に殺害したというもの。



上がギュー・ドゥ・モンフォールで、下がヘンリー・アルメイン。

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復讐劇のお話は、6年前の1265年に始まります、じゃん。
1265年の8月4日に行われたエヴァンシャム・Evenshamの戦いで、これはギュー・ドゥ・
モンフォールの父親シモン5世が率いたいわばイギリス国王に反逆する形の戦いだった様で、
イギリス歴史において重要とみなされる戦で、騎士道の戦いが終わりを告げたと
見なされるんだそうで・・。

つまりそれまでは戦いにおいて騎士・貴族が殺害されることは稀で、捕らえられ、
身代金を払えば自由になる、という形が主だったのが、

このエヴァンシャムの戦いの王党派の主となったエドワート皇太子、後のエドワード1世
イギリス国王は数においても圧倒的で厳しく、戦いの初めに裏切りにも合い壊滅的と
なっていた叛逆派であるギューの長兄ヘンリーは直に、そして父親のシモン5世モンフォールも
殺されますが、残虐にも四肢切断、死体は泥の中に引きずり込まれ、という冒涜を。

戦いに参加していたギューは捕虜となりウィンザーの城に監禁されたのを、1266年春
看守を収賄し逃げフランスに渡り、そこで戦いに参加せず逃げおせていた弟のシモンと
出会い、あちこちの戦いに傭兵として参加しながら、イタリアに辿りつきます。

トスカーナで当時副王だったカルロ・ダンジューに仕える様になり、1270年には
ソヴァーナ・Sovanaの伯爵、城主の一人娘マルゲリータ・アルドブランデスキ・
Margherita Aldobrandeschiと結婚し、2女児も。

フィレンツェでの戦いにも参加し、冷酷さを評されますが、
カルロ・ダンジューからノーラ・Nola、ナポリ近郊の領土も受け伯爵と。

そして1271年、彼らの従兄弟でもあり、イギリス王の甥でもあるヘンリー・アルメイン
(コンウォール)がヴィテルボに滞在中なのを知り、弟シモンと駆けつけミサの最中に
入り込み、祭壇にしがみつき助けを求めるヘンリーを殺害した、というもの。

彼以外にもミサを補佐していた2人が殺害されたというのですが、上の写真で
ご覧の様に、あの狭い教会の中は大騒ぎとなったでしょうが、
なぜ防げなかった、と考えていて気がついたのは、皆がまさかと仰天したのと、
多分ミサに参加というので、誰も武器を携えていなかったのではないかと。

当時ヨーロッパでも大スキャンダルとなった教会内の復讐劇ですが、
ギューは罰されず、聖なる教会内を汚した、と破門されただけ!
何年か後には破門も解け、再度カルロ・ダンジューに仕え、1283年からは
教皇軍の隊長となり、シチリア晩祷戦争に参加中の1287年捕虜となり、
メッシーナの獄で翌年に没。
       
と長々と述べましたが、ギューが結婚したマルゲリータ・アルドブランデスキについて、
ギューの没後彼女が再婚した相手、再再婚の相手、そしてまたその次と、
はぁ、余程魅力に富んだ、まぁ、領土も魅力なのでしょうが、ははは、
諦めきれずに教皇に再婚を願った男のその過去などなど、
なんとも興味深く、芋ずる式にずるずると引きづられ読みましたのです、はい。

今現在のスキャンダルは単に生臭いだけですが、はは、失礼をば、
歴史にいささかの残り香で垣間見るスキャンダルには、興味津々のshinkai!
今は残念ながら諦めて先に進みますが、ははは、いずれまたゆるゆるとお話を!



さてこのジェズ広場にも泉がありまして、これ!
いささか藻の掃除が必要なようですが、ははは。

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広場には教会に向き合う形でこんな塔、13世紀の物で
ボルゴニョーネ・Borgognoneの塔、正確ではないが約30mの高さと。

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名の由来は、1218年当時町の行政長官であったウゴリーノ・ボルゴニョーネ・ 
Ugolino Borgognoneがここに土地を持ち、住んでいたとの事ですが、
こうして見ると、今もどなたかが住んでいる様子ですね。



広場脇の、こんな古い大きな屋敷も修復されて使われており、

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傍らのドアのノブも、こんな素敵な物。

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広場の奥、端の家のベランダからこの2匹がひっきりなしに吠えるのですね。
2年前の訪問時にも、この内の片方を撮っているのがありましたっけ。 

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角を曲がり細い小路を、如何にも古い家並みの通りを行き、
      
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出てくるのがピアッツァ・デッラ・モルテ・Piazza della Morte「死の広場」と
凄い名なのですが、どうやら今見える建物に隣接の教会に16世紀、
「オラツィオーネ・祈りと死の信者会」というのが作られ、それに由来するとの事。

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で、ここにまた泉があり、サン・トンマーゾの泉・Fontana di San Tomaso、
または広場の名から死の泉・della Morteと呼ばれ、13世紀半ばの古い設置で、
まさに古い紡錘形の形。

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サイトから見つけた1939年、という古い写真をどうぞ!
こうして見ると、かなり泉が大きな事がお分かりでしょう?

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上の写真でもお分かりのように、この広場の角にカフェがあり、片側の小さな店は、
こんな古い鉄の椅子を使っていて、おまけに聞こえてきた音楽がシャンソン!
なんとも良い雰囲気でしたぁ!

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となると、こんな石畳の落ち葉も撮りたくなろうというもので、ははは。
       
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広場から道を西に曲がると下の道を渡るドゥオーモ橋があり、
奥に見える鐘楼は街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂のもので、
橋の向こう右側の建物はファルネーゼ邸・Palazzo Farnese.

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道の高さ1階に当たる窓と、2階の窓。 1階の窓に付いているのは、ファルネーゼ家の
紋章百合の花で、この百合の花だけの紋章というのは1545年まで使われたものと。

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道から見る建物はいたって素朴な、2階に木製のバルコニーを持つ13世紀の物で、
元々はティニョージ家・Tignosiの物だったのを、1431年にラヌッチョ・ファルネーゼ・
Ranuccio Farneseが購入したと。

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当時ラヌッチョはヴィテルボの町をフォルテブラッチョ・Fortebraccio da Montone
とジャコモ・ディ・ヴィーコ・Giacomo di Vicoの攻撃から護る役を受け、
この地に住むようになったといい、
既に彼の息子2人フランチェスコ・ガブリエーレ・Francesco Gabrieleと
ピエール・ルイジ・Pier Luigi はヴィテルボに住んでいたといい、

とりわけピエール・ルイージは町の市民権を持ち、1468年生まれのアレッサンドロ、
後の教皇パオロ3世はこの家で生まれた、という説もある様で、
一般にはヴィテルボ近郊のカニーノ・Caninoと言いますが、

少なくとも子供の頃のアレッサンドロは、その妹のジューリアと共にこの家で
過ごしたのは間違いないと。 そして教皇パオロ3世の在位中に、ファルネーゼ家が
この屋敷を引き払ったという事。



屋敷の広い内庭と、220代教皇パオロ3世像、ティツィアーノ画をサイトから。       

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ファルネーゼ邸の隣の屋敷の入り口の様子を。 どうやらここも何か謂れのある
建物の様子でしたが、

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その向かいにあったこれも古い屋敷、聖職者事務所という張り紙のあった入り口の、
かっての覗き窓!  手振れご容赦。
こういうのがそのまま残されているのが嬉しいというか、可笑しいと言うか、ははは。

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この辺りの建物を抜けると、聖堂広場が近いのですが、その手前、右手の壁の
足元が見えるように崩されていて、エトルスコの壁だという説明が。

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そうなんですよね、エトルリア人も建築術に関しては優れていた様で、こんな石組みを
見ても、中世の石組みよりもずっと大きな石を使っていたのが、良く分ります。



この先はドゥオーモ広場、ドゥオーモですが、今回のご案内はここでお終いとし、
最後は橋の付近で見かけた、かっての共同洗濯場・ラヴァトイオと、

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橋から見下ろす、どこかのお屋敷の庭の泉。 可愛い泉ですが、
これは大変な贅沢ですねぇ!

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そして、小さな教会だったと思われる建物。 今は廃寺かな。

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さて漸くにヴィテルボの2回目も何とか済み、次回は13世紀の教皇庁の建物と、
ちょっと驚いたニュースも! と、街のドゥオーモでヴィテルボのご案内もお終い。
やれやれ。 はぁい、どうぞお楽しみに!


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