今回のタイトルをお読みになって即、ああ、あそこか、とお分かりになる方は、
かなりと言うか、大変に通の方! と思うのですが、
ここにはイタリアでも有数の庭園を持つヴィッラがありまして、はい。
かなりと言うか、大変に通の方! と思うのですが、
ここにはイタリアでも有数の庭園を持つヴィッラがありまして、はい。

首都ローマのあるラツィオ州ですが、北部に位置するヴィテルボ・Viterbo周辺を
4年前の春に訪問、ヴィテルボはそれ以前にも訪問しているのですが、
余りにも見所の多い土地、街町で、ご紹介できたのはほんの少し!
で、ずっと私めの宿題になっておりました。
4年前の春に訪問、ヴィテルボはそれ以前にも訪問しているのですが、
余りにも見所の多い土地、街町で、ご紹介できたのはほんの少し!
で、ずっと私めの宿題になっておりました。
が、この春再度ラツィオ訪問のチャンスが訪れそうで、前の分を消化しておかないと!
とお尻に火がつき、ははは、頑張って写真整理、検索に励んでおりま~す。
とお尻に火がつき、ははは、頑張って写真整理、検索に励んでおりま~す。
という事で、今回はヴィテルボのすぐ東にある町バニャイア・Bagnaiaの
ヴィッラ・ランテ・Villa Lanteのご案内を。
ヴィッラ・ランテ・Villa Lanteのご案内を。
上と次の写真2枚は、バニャイアの町の広場で、なんと名前がない!

というよりも、かっての町の中心は見える塔の、脇にある門をくぐった中にあり、
この前の道をヴィテルボからのヴィア・フィウメ・via Fiumeが通り抜ける、
という場所なのですね。
地図をどうぞ。 バニャイアの町はヴィテルボから東に5Kmほど、緩やかな坂道を
上った所にあり、中世のローマへの巡礼道のヴィア・フランチージェナが通っていた町。

南にあるカプラローラ・Caprarolaには、素晴らしいファルネーゼ家の城と
庭園があり、ここは既にご案内済み。
庭園があり、ここは既にご案内済み。
ヴィーコ湖・Lago di Vico一帯も含め、ヴィテルボから南西に50kほどの、
ティレーニア海に近いタルクイーニア・Tarquiniaにはエトルスコの一大墓地群があり、
この町の博物館で見た有翼の馬の像も素晴らしかった!ので、
ぼちぼちご案内できると良いなと思っています。
今日は皆さんにも良く分って頂ける様、不足の写真をサイトからかなり拝借し、
shinkaiのサイト名のないのが、拝借した写真です。
ティレーニア海に近いタルクイーニア・Tarquiniaにはエトルスコの一大墓地群があり、
この町の博物館で見た有翼の馬の像も素晴らしかった!ので、
ぼちぼちご案内できると良いなと思っています。
今日は皆さんにも良く分って頂ける様、不足の写真をサイトからかなり拝借し、
shinkaiのサイト名のないのが、拝借した写真です。
カプラローラ ・ ファルネーゼ家邸宅のある町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467764132.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467764132.html
地図だけでは分り難いでしょうから、上空からの写真もどうぞ!
これ素晴らしいでしょう?!

北上に、谷に突き出す形で見えるのがかっての町で、
左上に見える谷を渡るアーチ型の道を左に行くとヴィテルボの町で、
町に入って四角に見える広場が上の写真で見て頂いた広場。
手前に四角く見えるのが庭園の一番下部分で、山腹に沿い、左側一帯にも
ずっと広く広がります!
ずっと広く広がります!
町の広場から上り坂の道の奥に見える庭園の門。

さて、坂道を上り、庭園に入って頂きましょうか。
この庭園の開園時間と値段ですが、月曜休園で、夏は9時から19時半、
冬は9時から16時半。入園料は大人2エウロ、シニアまたは学生1エウロ。
ラツィオ州の博物館に付いてのご案内サイトは
http://www.polomusealelazio.beniculturali.it/
http://www.polomusealelazio.beniculturali.it/
上の写真で見えた門は中央の門で、現在の入り口はその右側にあり、


入ってまず見えるのは、土地の段差を利用したペガサスの泉。
大きな円形の泉の真ん中にペガサス・翼を持つ天馬。
大きな円形の泉の真ん中にペガサス・翼を持つ天馬。
泉の右に見えた階段を上がるとこんな感じで、庭園内にある並んだ建物
2つの内の右側のと、
2つの内の右側のと、

右一帯に広がる林と言うか、広大な庭部分。
人々がゆっくりと散策を楽しみ、日向ぼっこをしたり・・。


上の写真に見えた右の建物の脇にある門を入ると、奥にもう一つ、
良く似た建物があります。

これは手前建物の窓部分の装飾とフレスコ画で、上に見える四角い網の目は、
殉教した聖ロレンツォが炙られた格子を現しており、教会への忠誠を示すものと。

2つ並んでよく似た建物があると言いましたが、右はこの庭園を造った枢機卿
ガンバラ・Gambaraの名を冠し、パラッツィーナ・ガンバロと呼び、
30年ほど後に建てられた奥を、パラッツィーナ・モンタルトと。
覗きこんだガンバロ小邸の、内部装飾のフレスコ画。

で、見れなかった、撮れなかった部分をサイトで見つけると、

ファルネーゼ家の城と庭園建設が改めて再開されたのは1559年で、
こちらヴィッラ・ランテの前身が建設され始めたのは1511年。
で、ガンバラ枢機卿が多分建設途中の物を手に入れ、1566年に一応完成を
させたものの、亡くなった1587年までずっと続いた様子で、
こちらヴィッラ・ランテの前身が建設され始めたのは1511年。
で、ガンバラ枢機卿が多分建設途中の物を手に入れ、1566年に一応完成を
させたものの、亡くなった1587年までずっと続いた様子で、
同じ枢機卿同士の行き来もあったでしょうし、近くですし、
素晴らしい庭園や城を見て描かせたのかも、と想像します。
そしてなんと、設計建設が同じジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ・
Giacomo Barozzi da Vignolaである事にも、気がつきました!
ガンバラ卿の没後はヴィテルボの聖職管理職・枢機卿でもあった
アレッサンドロ・ペレッティ・ディ・モンタルト・Alessandro Peretti di Montalto、
シスト5世教皇の甥、14歳で枢機卿に任命され、当時僅か17歳だった
モンタルト枢機卿が後を継ぎ、工事を完成させ、2つ目の小邸にその名を残します。
アレッサンドロ・ペレッティ・ディ・モンタルト・Alessandro Peretti di Montalto、
シスト5世教皇の甥、14歳で枢機卿に任命され、当時僅か17歳だった
モンタルト枢機卿が後を継ぎ、工事を完成させ、2つ目の小邸にその名を残します。
こちらは小邸のロッジャ部分で、真ん中に上のフレスコ画が見えます。

これはチラッと修復中の建物内に入らせて貰った時、写真禁止と言われたのを、
厚かましくパッシャッとやりまして、へへへ。
時代が後のが分る繊細な装飾文様でしょう?!

こちら、庭園全体の様子が分かる写真を探しました。
外の広い林部分は別として、内側庭園はこんな感じ。

刈り込まれて模様を形作る低い植木もですが、上から水が流れ落ちながら
次々と様々な噴水で遊ぶ、その様子が見所だと思いますので、
今回はshinkaiが見たのとは順序を逆にし、水が流れ落ちる順に上から、
つまりかっての貴族達が楽しんだ様を皆さんにも!!
つまりかっての貴族達が楽しんだ様を皆さんにも!!
という事で、こんな椿の咲く小道を一番上まで上って頂きますね。


上には、こんな東屋があり、

軒下の壁にはっきり浮き彫りの海老が見え、下にDE GAMBARA・デ・ガンバラと。

反対側には、JO FRAN CAR、つまり左右を繋ぐと、
Francesco Cardinale Gambara・枢機卿フランチェスコ・ガンバラ、と
この庭園造りに情熱をこめた枢機卿の名!
この庭園造りに情熱をこめた枢機卿の名!
ロッジャというか、東屋と言うか、中の壁にもフレスコ画があり、
芸術の女神、多分、と鳥と植物、優雅ですねぇ!


さてこちらが枢機卿フランチェスコ(1533-1587)
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ガンバラと言い、ブレーシャの貴族出身。
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ガンバラと言い、ブレーシャの貴族出身。

バニャイアの土地は13世紀から教皇領で、近くのヴィテルボの司教に恒例的に
管理が任されていたのだそうで、
このヴィッラ・ランテの建設が始まったのは多分1511年で、一応の完成を見たのは、
ガンバラ卿によって1566年と。
ガンバラ卿によって1566年と。
普通ヴィッラには建設者の名がついて残るのが一般的で、後に持ち主が変わった
場合は、並んで名がつくのですが、
なぜかここはヴィッラ・ランテと、建設後100年にして持ち主となった
ボーマルツォ公爵のイッポリート・ランテ・モンテフェルトゥロ・デッラ・ローヴェレ・
Ippolito Lante Montefelrto della Rovere, Duca di Bomarzo
の名のみが残ります。
場合は、並んで名がつくのですが、
なぜかここはヴィッラ・ランテと、建設後100年にして持ち主となった
ボーマルツォ公爵のイッポリート・ランテ・モンテフェルトゥロ・デッラ・ローヴェレ・
Ippolito Lante Montefelrto della Rovere, Duca di Bomarzo
の名のみが残ります。
n.2 ボーマルツォの怪物公園 と 町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467763742.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467763742.html
ウィキでも余りガンバラ枢機卿の事が分らなかったのですが、ひょんな事から、
ヴィテルボの時代に活躍した異端裁判官であったらしいのが分かりました!
それに、ヴィテルボのドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂の上にもやはり、
Io Giovanni Francesco Cardinale de Gambara と彫り込んでいる事も!
異端裁判官としては、かのミケランジェロがあがめた
Io Giovanni Francesco Cardinale de Gambara と彫り込んでいる事も!
異端裁判官としては、かのミケランジェロがあがめた
ヴィットーリア・コロンナにも矛先を向けた男だった様で。
現在は歴史の中に埋もれた様な枢機卿ですが、そんなこんなで、
案外に皆が記憶から消したかった名前でもあったのかと思った事でした。
案外に皆が記憶から消したかった名前でもあったのかと思った事でした。
さていよいよ一連の水の遊び、水運びの様子ですが、
一番上にあるのがこれ、
フォンターナ・デル・ディルーヴィオ・fontana del diluvio.
一番上にあるのがこれ、
フォンターナ・デル・ディルーヴィオ・fontana del diluvio.

町の背後にあるチミーニ山系から、傾斜を利用して運ばれて来た水は、
岩を装ったアーチに隠され、ここから徐々に流れ落ちます。
岩を装ったアーチに隠され、ここから徐々に流れ落ちます。
手前の水槽にちらっと見える岩は、泳ぐイルカたちで、
これはその前にある4面像!

そして、そのも一つ手前にある噴水。

この海老をかたどった形から、海老の手、ハサミをかたどった細い通路を、
水が流れ落ちて行きます。
水が流れ落ちて行きます。


水路の写真は下から眺めているのですが、分りますね?
そしてフォンターナ・デイ・フィウミ・fontana dei fiumi・川の泉。
または巨人の泉とも呼ばれる様に両側に巨人像があり、幾筋もの水が流れ落ち。

で、この細長いプールを挟んでのテーブル状の物は、
メンサ・デル・カルディナーレ・Mensa del Cardinale・枢機卿のテーブル。


夏の外での宴会の折には、この水の流れに食物や飲み物を浸し、
水面が反射してクリスタルのようだった、という枢機卿のテーブル!
水面が反射してクリスタルのようだった、という枢機卿のテーブル!
テーブルの終りは、こんな風に口を開いた男から水が流れ、

最後の大きな水の遊びは、フォンターナ・デイ・ルミチーニ・
fontana dei lumicini・小さな明かりの泉、
70ある噴水の元が蜀台の形をして、噴水が煌くという訳ですね。

これらの素晴らしい水の様々な遊び、細い水の流れから滝のように落ちる、様々な
調和の遊びは、全体の設計をしたヴィニョーラが、シエナから水の設計専門家である
トンマーゾ・ギヌッチ・Tommaso Ghinucciを自分で呼んだのだそうで、
彼の天才ぶりは今もここにこうして健在!
調和の遊びは、全体の設計をしたヴィニョーラが、シエナから水の設計専門家である
トンマーゾ・ギヌッチ・Tommaso Ghinucciを自分で呼んだのだそうで、
彼の天才ぶりは今もここにこうして健在!
この辺りから漸くに下の庭、刈り込まれた植え込みと、真ん中の四角い泉が
良く見え、左側から順に、



この植え込みは、フランスのフォンテンブローや、サン・ジャン・アレーの城と同じ、
まさに最初の花壇の造り手たちの手になるものなのだそう!!
まさに最初の花壇の造り手たちの手になるものなのだそう!!
植え込みは背の高いものではなく、中には入れませんが、
ご覧の様に木が傷んでいる部分があり、少し痛々しく・・。
ご覧の様に木が傷んでいる部分があり、少し痛々しく・・。


こちらの写真のように、多分建物の中からでしょうが、これ位高い場所からだと
植え込みの模様もはっきりで素晴らしい!
植え込みの模様もはっきりで素晴らしい!

ガンバラ・Gambara・海老という枢機卿の姓から、紋章にも海老がありましたが、
水の流れの囲いにも、そしてこの植え込みにも、海老らしい形が見え楽しい!
水の流れの囲いにも、そしてこの植え込みにも、海老らしい形が見え楽しい!
真ん中に見える四角い泉は4つに仕切られ真ん中に丸い噴水があり、
植え込みからそれぞれに道が付き、通れる様になっているのが見えますが、
四角く区切られた泉のそれぞれに小舟が浮かび、中に人型もという芸の細かさ!

真ん中の丸い泉は2段になっていて、真ん中に4体の人物が腕を差し伸べていて、
shinkaiが見た時はこの修復前の姿だったのですが、

現在は梨でもあり山の形でもある、モンタルト家のシンボルを支えた姿に修復済み。

この泉はフォンターナ・デイ・モーリ・Fontana dei Mori・と呼ばれ、
1597年に教皇クレメンテ8世がお越しの時に、当時の持ち主であった
モンタルト枢機卿が取り付けたものの様子。
というイタリアでも有数な庭園のご案内でしたが、お楽しみ頂けたでしょうか?
実はこの下に見える古い町の中もちょっとでしたが見て、その中世が残る
古さの壁や建物にも魅せられました。
古さの壁や建物にも魅せられました。

が今回はあれこれ読むのに疲れまして、ははは、町のご案内はまたのチャンスに!
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