・ 我が町コネリアーノ ・ フェッラゴストの城と町 

あっという間に8月も終わりに近づき、夏休みを終えた町は、
子供達はまだ9月上旬まで夏休みですけど、
車の通行もいつも通りに戻っています。

この夏はアフリカからの熱波到来で何十年ぶりかという熱さが続き、
とはいえ大都市でないこの辺りは、
皆さんのブログやメールから拝見する日本よりは楽に過ごせました。

所が夏の初めに歩き会のメンバーであるジュリアーナが山歩きに参加し、
右脚の腱かどこか痛めて歩けなくなり、それに伴うこの夏の熱さと
年から来る皆の横着さとで、ははは、
日曜午前の歩きの距離が大幅に短くなり、

お城の上のバールで待っているジュリアーナに合流すべく、坂道を上って
お城に行く程度の距離に縮まり、いつもは2時間半程度歩いていたのが
1時間ほどに縮まり!
涼しいテラスのバールでジュースを飲みながらのお喋りに堕落!
と言うような様子が続いています。 が、

8月15日はこちらは「聖母子被昇天」の祭日、そして16日と連休の、
どのお店も閉める夏休みの大締めの日。

いつもよりは少しぐるっと大回りし、それもかなり早歩きで1時間半で
お城のバールまで行き、戻りは閑散とした町中を通った様子をご覧下さい。

上の写真は、お城への坂道にかかった辺りのオリーヴ畑。
     
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柿の実もこんなに大きくなっていて、あ、ちなみにこちらでもKakiです。

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坂道が大きくカーヴする場所から。 葡萄畑の緑も今一番濃い季節。

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ずっと上り坂が続く道のりを大幅に省略し、お城の北の門。
先を歩くエレオノーラ。

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今この道が車でお城に行く時の唯一の道で、以前は車も通れた
南側の道は、歩きと許可された住民の車のみ通行可。



門の内側。


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門を出て左側に聳える塀の内側が現在のお城で、今見える突き当りの
道の右端に隠れて、町からの古い城壁沿いの小路も通じます。
       
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道を左に折れると、



こんな風に、今も残るコネリアーノのお城。

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上り石段際の石榴の実も大きくなっていて、 

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お城の横庭というか、かっては城郭内だったのでしょうが、今は駐車場で、
見える元サンタ・オルスラ教会と鐘楼、かってはここが
コネリアーノのドゥオーモだったのだそう。

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駐車場の端から見る町の南とヴェネト平野、そう、地平線が見えるのです。
これは南部分ですが、東のフリウリ平野にかけても地平線が続きます。

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もともとのお城は10世紀に遡るそうですが、かっては中心に4本あった
という塔も残っておらず、

今残るこの塔は、町の人々や役員に招集をかける為の鐘があった鐘楼と、
手前は鐘楼への入り口の塔で、中は現在市の博物美術館。

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鐘楼の塔・トッレ・カンパニーレには上がれ、それこそヴェネトから
フリウリ平野が一望ですが、う~ん、写真はまだご覧に入れてないなぁ・・。



内庭の井戸。

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庭の北に残る現在はバール兼トラットリーアになっている
かってのサラチェーナの塔・Torre Saracena.

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我が町コネリアーノのお城、 ほんのチョッピリ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465414480.html

我が町コネリアーノ  その周辺  ご案内は
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460854137.html



ここには城の庭に続く張り出しのテラス席もあり、
日陰で風通しも良く、町の人々が散歩がてらに集まります。

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で、ここで冷たい生オレンジのジュース2,5エウロを飲みつつ、
お喋りに1時間半ほども潰したこの夏!

8月15日は「聖母被昇天の日」の祭日ですが、一般に「フェッラゴスト・
Ferragosto」とも呼びます。

この呼び名が何に由来するのかと思いましたら、
古代ローマのアウグスト帝が、自分の誕生日にちなんで制定した
「アウグストの祭日・Feriae Augusuti・8月1日」に因るのだそう。
でも私にとっては、やはり「お盆」ですね。



テラスからの町の北側の見晴らしが素晴らしく、
中程の丘ほぼ中央に見えるのが、オリアーノ村の教会鐘楼で、
スコミーゴ村はあれより坂を下りますので、ここからは見えず。

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少し西に向いての眺め。 中央奥に見える教会鐘楼はフォルメニーガ・
Formenigaで、以前はあそこまで往復3時間半程も歩いたのになぁ~!

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さて漸くにお喋りも切り上げ、南の坂道を下りますが、
こんな風に素晴らしい並木の坂道が続き、

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2度目のカーヴを過ぎた所で素晴らしい眺望が開け、
北側から順に見ていただくと、小さな葡萄畑の向こうに、
パドヴァのカッラーラ家が造ったという10世紀頃の古い城壁内の道が見え、

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奥に見える山並みのも少し左に、先頃ご案内のサン・サルヴァトーレの城が。

中世の城跡 ・ サン・サルヴァトーレ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463525627.html



町の山側西端に位置する、かってのサン・フランチェスコ修道院、
修復され、現在は国立醸造業学校の本部に。

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そして平野部にこんな風に広がるコネリアーノの町。 手前山側の
この一廓が古い町の中心地で、現在ドゥオーモの鐘楼が修復中。

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中程上に見える細長い建物がコネリアーノ駅で、

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こうして下って来た道は突然に町に接し、といつも感じ、
右はピアッツァ・チーマに面するテアトロ・アッカデミアと、正面突き当りを
東西に走るヴェンティ・セッテンブレ通り・via XX Settembre.

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左側のポルティコの奥側は市役所の本部で、結婚式場と
3階ぐらいだったかに市の記録古文書館があります。

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右奥にチラッと見えるスフィンクスみたいなのは、

       

これ! ほらウィーンのベル・ヴェデーレ宮殿の庭にもありますよね? 
あれです。

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これ、あれ、というのは、正しい言葉を知らないからでして、ははは、
コネリアーノがかってオーストリア治下にあった事を物語ります。
       
トリエステの西にあるミラ・マーレのお城にも、ありましたっけ。
このお城はハプスブルグ家の最後の王の弟、マキシミリアンが造った城ですから、
まぁ、当然でしょうが、
ですが、実際は何を現すのでしょうか? ご存知の方、よろしくぅ!

◆ 追記です。
いつものごとく即教えて頂きまして、「スフィンクス」で宜しいとの事です。
シニョレッリさんクリスさん、いつも本当に有難うございます!



ピアッツァ・チーマ・チーマ広場は、コネリアーノ・ダ・チーマ・Conegliano
da Cima、15~16世紀にかけて活躍の画家の生地でもあり、
生家がこのすぐ近くにある記念で、

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北正面にあるテアトロ・アッカデミア、19世紀建設で、私がイタリアに来た頃は
映画館でしたが、現在は元のテアトロで、様々な催しが行われています。

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n.2 チーマ・ダ・コネリアーノ展 ・ コネリアーノの町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463848078.html

n.1 チーマ・ダ・コネリアーノ展 ・ コネリアーノの町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463847804.html



ここで家が近いエレオノーラと別れ、1人でヴィア・ヴェンティ・セッテンブレの
東半分を、閉まった店をのんびりと覗きながら行きます。

室内装飾の展示ルーム、店にかかっている半抽象の絵が上手いなぁ!と眺め、

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この通りは、かってのコネリアーノの一番の通り、お金持ち達の豪勢な家が
並んでいた通りで、こんな風にフレスコ画で装飾されていたのが今もたくさん残ります。

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フレスコ画がもっと良く見えるのもたくさんあるのですが、ははは、
この時は白い窓のテントを写すつもりで。



市が企画展示する絵画展の会場などとなっているサルチネッリ邸の前には、
既に済んだカルパッチョ展の案内がまだ出ていて、

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う~ん、この大ポスターのこの絵はさすがぁ!と思う素晴らしさでしたが、
イーストリアの方で活躍したという息子ベネデットの絵は、
何これ、shinkaiより下手じゃん!という感想だったもんなぁ、ははは、言わせてぇ。



人通りが本当にまばらなポルティチを通り、

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閉まっている骨董店の中を覗き、 

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春頃から店開きした額兼画材店も偵察に覗き、はは、
正面に見える水彩用額縁は、ちょっと変化に乏しいなぁと。

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扉が開いていたので、ちょっと覗きましたら、
新モンタルバン家の入り口と言うのか、馬車寄せというのか、向こう側は
現在の町の中心通りコルソ・マッツィーニとを結ぶ、こんな広い邸宅内の様子。

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天使が窓の下に残り、

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近くのワイン・バールの飲み残しか、グラスが一つ。 

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通りの東の門・モンティカーノ・Monticano. こちら側には、ヴェネツィア共和国の
シンボルである小さな有翼のライオン像で、向こう側には大きなフレスコ画のが。

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道を横切り、橋を渡り、



ここにも骨董店があり、

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お向かいには、大きな前栽を持つ大きなお屋敷。 木立に囲まれ如何にも涼しそう。

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フェッラゴストの日、この夏の思い出でしたぁ。
皆さんも、夏のお疲れが出ませんように!


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・ コッラルトの城跡と村 そして コッラルト家の人々

先々回お隣のスセガーナの町にある、サン・サルヴァトーレの城のすぐ下に
広がる葡萄畑をご覧頂きましたが、

あの日は葡萄畑の後shinkaiの希望で、写真仲間と一緒に
スセガーナの北西にあるコッラルトの城を見に行きました。

ここは古い塔に有名な伝説も残る城跡と小さな集落がある村で、
スセガーナの町のサン・サルヴァトーレの城主コッラルト家の最初の城でもあった、
いわば本拠でもあった地なのですね。

写真は古い塔12世紀の物と、南にある中世の門。
      
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写真右下に小さく柵が見えますが、



こんな感じで、多分湧き水のある場所なのだろうと。

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位置関係の地図をどうぞ。 我が町コネリアーノが北東に、サン・サルヴァトーレの
城のあるスセガーナ・Susegana、そして北西にコッラルト・Collalto.
スセガーナとコッラルトの距離は約6kmと。

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西に流れるのはピアーヴェ河・Piave、かっては北のベッルーノ・Belluno
から木材を筏に組んでヴェネツィアに運んだといいますが、
今でもピアーヴェ西、東という呼び名がある、いわばヴェネツィア領域とフリウリ領域に
分ける河だったようです。
      
左下に囲んだネルヴェーザ・デッラ・バッターリア・Nervesa della battaglia
の上から西に広がる楕円形の山、丘はモンテッロ・Montelloと言い、
ここはピアーヴェ河を挟んでの第一次大戦の激戦地だった一帯で、
ネルヴェーザには大戦の大きな慰霊所があります。

モンテッロの丘、この地図に見える範囲よりも少し西には、「王の監視所」と
呼ばれる山中の農家を改装した、半地下の視察所が今も残る程で、
オーストリア軍側にあった、ピアーヴェ河東すぐのスセガーナの城は、
コッラルトの城共に砲撃を受け、大破壊されたのも良く分る距離と思います。
       


今回の写真はshinkaiの撮ったのにはブログのアドレス入りで、
他はサイトからの拝借です。

奥にもう一つ門が見えますが、まずは最初の門をくぐり、

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左には3~4軒の家並みがあり、右には広場。

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コッラルトの村に行きたいと言ったのは、ずっと以前に一度訪れた事があり、
その時の印象がとても良く、この何軒かの家並みに描けそうな印象があったからで、

が、今回改めて見ると、私めの目が肥えすぎたのかどうか、へへへ、
ちょっと面白い所もあるにはあるのですが・・。

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右に広がる広場には、ドゥエ・トッリ・Due Torriという、リストランテ、
トラットリーア・バールがあり、
       
これは最初の門を入る前にあった看板で、左に見える拙い絵が、失礼、
ははは、伝説を物語ります。

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こちらが広場にあるトラットリーア。 まだ入った事はないのですが、
かなり広そうでしょう?

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サイトで見つけたスピエード・串焼きの写真!

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そしてこちらは部屋のフレスコ画。 土地の画家が描いたと言う、新しい物と
思いますが、真ん中上がコッラルト家の紋章、その右の肖像がコッラルティーノ・
ディ・コッラルト・Collaltino di Collalto。

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彼については後に、そして下の真ん中にある大きな戦闘図をご記憶下さいね。



最初の門から真っ直ぐ、広場の脇の坂道を上りますが、

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その前に、こちらは最初の門をくぐった右手から広がる城壁で、ぐるっと城郭を
囲む城壁ですが、背は高い物の厚みが無く、城自体も12世紀の物
だったのを物語ります。

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そして高台に見える古い大きな塔。

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ここには上れず、近づいて見れるのも夏の期間の定められた日に、
解説付きの見学ツァーがある様子。



坂の手前にあった城の簡単な解説。

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コッラルトの城、中世の塔と外域を囲む城壁の名残の跡、
初代トゥレヴィーゾ伯爵エンセディージョ・Ensedisioにより
1110年に建設されたもの。 1312~1806年まで伯爵領の本拠地。
1917~18年の第一次大戦で破壊された。



坂道を上り奥の門をくぐると、右手にもう一つ門が見え、
この奥が城の中核、城主の居住地であったのでしょう。

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鉄柵の門からのぞくと、こんな感じに城壁の名残が見え、

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サイトで見つけた、内側の小さな写真2枚。

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実はこの城の塔に残る有名な伝説があり、時は中世のいつ頃か、
どこにも出ませんが、

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主人公はトルベルト・ディ・コッラルト・Tolberto di Collaltoと、
その妻キアーラ・ダ・カミーノ・Chiara da Camino、
そして奥方付き侍女のビアンカ・Bianca.

長年の敵である現在はヴィットリオ・ヴェネトになるチェーネダ・Cenedaの
カミーノ家から、和平の為に輿入れして来た美貌は並ながら大変嫉妬深い奥方、
はは、ちょっと可笑しな言葉使いですが、
       
そして彼女のお付侍女となったビアンカ・Bianca、長い波打つ金髪の髪、
優しい笑顔、優しい性格と、それはもうそうでなくてはね、ははは。
    
トルベルトはビアンカを愛しますが、奥方の嫉妬を恐れ密やかに。
そして戦に出発する朝、奥方の部屋に挨拶に出向き、
髪をといていたビアンカにも微笑んで挨拶。

ビアンカの頬を伝う涙からすべてを察した奥方は、トルベルトが出発するや否や、
上の絵のようにビアンカを生きたまま、塔の壁の中に閉じ込めたのですと!

お話の終末は2筋ありまして、トルベルトは戦から無事戻り、出来事を聞くや否や、
奥方のキアーラを追放したというのと、戦からついに生きて戻らず、という説と。

ですがビアンカの亡霊は、その後コッラルトの人々の前に、良い出来事が
ある時は白いベールで、逆の時は黒いベールに顔を隠し、現れるのですと!
このお話は、1925年にコッラルト家の伯爵夫人から明かされた物だそうで、
如何にもでしょう? 
なので演劇や音楽劇にも何度も取り上げられているのだそう。



コッラルトの村では、このビアンカの悲劇を扱ったお祭りもあり、
かっての衣装で皆さん参加される様子。

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少し奥には左に見える13世紀の古い塔が残り、右はかって砲撃で破壊された
大きな屋敷跡に建てられたと思われる教会があります。

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塔の上部。

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城郭跡を囲む古い城壁の名残。

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下の写真の城壁には張り出しが付いていますね。 これで壁の上の通路は
少し広くなり、小砲位は撃てる広さなのだと。



奥の方はまさに森の佇まいですが、

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一廓にあったこれ、多分牢であったろうと。

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今はまさに「つわものどもが夢の跡」の佇まいなのですが、

20世紀初めの砲撃前の、村と城の様子が絵葉書に残ります。

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そしてこちらが、模型で復元されたかってのコッラルト。
右端下に見えるのが最初の門で、坂道を上り、右に折り返した高台に城郭と
今も残る古い大きな塔があったのですね。

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コッラルト家はロンゴバルド族出身で、記録は無いものの、カール大帝などが
イタリアに来た頃一緒に付いて来た戦士だったろうと言い、上手く立ち回り、
騎士の位を手に入れたのだろうと。
いつコッラルトの姓を名乗ったかも定かではありませんが、住み着いた土地の
名を姓として名乗ったのであろうと。

958年最初の記録にでるランバルドは、イタリア国王であった(950-961)
べレンガーリオ2世・BerengarioIIとその息子アダルベルト・Adalbertoから
トゥレヴィーゾの南の土地とモンテッロ近くを受けた様子で、
ランバルドはべレンガーリオの娘ジスラ・Gislaと結婚したというので、
重く用いられたのでしょう。

モンテッロの近く、というのは戦術的に重要なピエーヴェ河の渡河を見張る位置で、
べレンガーリオがその下に下ったオットー2世、オットー3世の元で
正式にトゥレヴィーゾ伯爵の位も受け、領土も徐々に増え、
1000年の最初にはトゥレヴィーゾからチェーネダ、パードヴァからヴィチェンツァ一帯に
散らばり広がる領地を持つ大きな貴族になっていた様子。
       


城郭跡のある位置から下に広がる土地には、茶色の牛達が草を食み、

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こんな土地が遥に広がりますが、サイトによると、これもコッラルト家の土地と!

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先々回の葡萄畑を思い出して下さいね。
我々は写真中程に見える坂道を上り、上のサン・サルヴァトーレの城の手前から
左に行って下り、ちょうど緑の葡萄畑が見える三角形を歩き戻ったのでした。
つまりコッラルト家の葡萄畑をちょっぴり歩かせて頂いたという訳!

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写真に見える大きな赤屋根の建物が、現在のコッラルト家の企業本体である
ワイン醸造所、コンテ・コッラルト。



で1千年続くコッラルト家の現当主は、右から2人目のイザベッラ・Isabellaで、
右は夫のギュローム・ドゥ・クロイ・Guillaume de Croÿ ベルギーのクロイ家の
君子だそうで、イザベッラもIsabella Collalto de Croÿ と名乗ります。
・・家柄としてはどちらが上なのでしょうかぁ?

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先代のコッラルト家には男子が生まれず、4人の姫、プリンチペッサのみで、
長女のイザベッラがコッラルト家の農業企業、ワイン企業を統率している様子で、
2人のお子は、左がエマヌエーレ・Emanuele、既に現在公的に活躍しておられ、
右がヴィオレッテ・Violette.

今回平民のshinkaiがふぅ~んと思ったのはです、
サイト記事に出る名前にきちんと Principe、Principessa、Contessaと
敬称付きなのですね。
イタリア共和国になってこういう敬称は廃止されたと思っていたのですが、
やはりきちんと残っているイタリア社会なのでした。
       


コッラルト家のイザベッラ様、お綺麗な方ですねぇ!

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ワイン醸造についてなど、現在のコッラルト家の活動については、
http://www.cantine-collalto.it/



ウィーンには、こんなコッラルト家のお館もあるそうで~す。

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さてこちらは、トラットリーアの壁画に肖像が見えた
コッラルティーノ・ディ・コッラルト・Collaltino (1523-1569)

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第何代になるのか分りませんが、コッラルト家の中で名が残る有名な方、
それも武勲ではなくロマンスで、なので~す。

父マンフレード・Manfredo、母ビアンカ・マリーア・ヴィンチグエッラ・
Bianca Maria Vinciruella、この母親が詩人だったそうで、
勿論当時の貴族として武術も納め、と同時に文学もたしなみ、
1545年には詩集も出版しているとの事。
教養ある洗練された人柄で、ヴェネツィアの文学者達の集まりにも
すんなりと溶け込み、



そこで知り合ったのが、女流詩人ガースパラ・スタンパ・Gaspara Stampa
(1523-1554)で、

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パードヴァで父親が亡くなった後、母親の郷ヴェネツィアに戻り、その家が
文学サロンとなり、貴族、詩人、音楽家、文学者の溜まり場となり、
その美貌と秀でたリュートの演奏と歌、詩で有名だったのだそう。
       
コッラルティーノとガースパラは同い年で、25歳の出会い。
じきに恋愛関係となったものの、彼女の方が真っ当に深く愛し求めたのに対し、
彼の方はなかなかで、別れもあり、縒りが戻った時期もあり、彼女に素晴らしい
ソネットが生まれた事もあったものの、結局約3年後に彼女は捨てられた形となり、
元々虚弱体質であった彼女には精神的にも厳しく、ついに僅か31歳の
生涯を終えたのでした。
       
ガースパラ・スタンパについては、pescecrudoさんが3回に渡り書いておられます。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-92.html

コッラルティーノとの関係については、2回目のこちらに。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-93.html
      

コッラルティーノのその後ですが、
1557年にジューリア・トレッリ・Giulia Torelliと結婚し、
2人の息子フーリオ・カミッロ・Furio Camilloと、ピッロ・Pirroが生まれますが、 
長子の名にご留意を。

そして1558年、武装してヴェネツィア共和国領内に入り込み、親族に激烈な
恨みを持ち襲撃したかった様なのですが、反逆罪に問われ追放とされ、
マントヴァのゴンザーガ家に逃げたそう。
 


そして今回最後の人物、フーリオ・カミッロ・ディ・コッラルト、これはつい最近
出版された本で、トラットリーアに描かれたフレスコ画が表紙にもなっているのですが、
絵の下に見える副題が、Traditore innamorato・恋に落ちた裏切り者。

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そう、上のコッラルティーノの長子フーリオ・カミッロが主人公で、小説仕立てで、
実際に起こった事件をヴェネツィアの記録古文書から拾い出し、
歴史を踏まえ当時の世相なども知るように描かれていると。

つまり落ち着きの無い乱暴者のフーリオ・カミッロが、同じ一族のジュリアーナ・
ディ・コッラルト・Giulianaに恋をし、1585年コッラルトの城を襲撃し、
彼女をさらったのだそう!

父親コッラルティーノは、サン・サルヴァトーレの城で生まれていますから、
多分直系がコッラルトに住んでいたのだと想像し、
父親がいつまでマントヴァに追放の身でいたかなのですが、フーリオ・カミッロは
サン・サルヴァトーレの城にいて、こちらのコッラルトの城のジュリアーナを見初め、
奪いにかかったという、彼が28歳の時の事ですね。

彼女を奪い、目指したのがマントヴァと言うので、父親の追放先でもあるので、
知り合いがいたのとも考えられますし、
最後がどうなったのか、これを知りたいのですがぁぁ、
       
フーリオ・カミッロの名で検索をかけると、でるのは、この本のことばかり!!
作者のインタヴューも見ましたが、結末はでませんし、
12エウロで本を買うべきかどうか、ははは、今考慮中で~す! 
       
◆ 追記 ◆
確かコッラルト家の歴史について書いた古い出版(1929)の復刻版を
持っていた筈と探し、フーリオ・カミッロについて何か書いていないか調べました。

7行ほど触れておりまして、フーリオではなくフルビオ・Fulvio Camilloで、
1585年の4月にたくさんの兵と強力な武器を持ってコッラルトの城を襲い、
破壊し多くの戦利品を奪ったと。

原因はコッラルトの城にいた親戚に利害関係の古い恨みがあったものと。
どうやら父親の襲撃事件とおなじ怨恨が続いていたのではないかと思われ、
これには「恋した女性ジュリアーナ」には触れておりませんし、
行きがけの駄賃に、失礼、略奪したのかも知れず、

それを今回改めてちょっとお話を膨らましたのかも知れないな、と思いましたです。 
       


そんなこんなで、ちょっと浮世離れのした古城跡と人物伝が続きましたので、
最後も綺麗に、コッラルトの美しい秋の風景をどうぞ!

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・ 乗馬センター 再訪探訪

先週木曜の夜アンナリーザからメールが届き、乗馬教室の宣伝に使う
写真が欲しいのだけど、というので、2,3度のメールのやり取りの後、
急遽翌朝7時半過ぎに出かけました。

アンナリーザ・Annalisaは以前私のイタリア語の先生だったのですが、
私は現在お絵描きにすっかり時間を取られ、友人としてのお付き合いで。
 
乗馬教室云々というのは、
彼女の実家が以前はトロット競馬の飼育訓練をしていたのが、
暫く前から乗馬センターとして発足しているのですね。

場所は我が家から車で東南に20分ほどのコドニェ・Codognéという村にあり、

写真は、馬場への道の入り口にあった新しい看板、
「乗馬センター・薔薇の騎士」 カッコいい名前ねぇ~!

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突き当りを右に折れ、ずっと奥に、広く広く広がります。

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行く途中の道がロータリーやら新しい道やらに変わっており、8時ちょっと過ぎに
到着しましたが、既に各準備室というのか、では準備が始まっていて、

アンナリーザとグレンジャー・Grenger 17歳

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このグレンジャーの目がちょっと変わっていて、写真ではグレイに写りましたが、
もうちょっと水色なんですね。 そう、青い目なの、とアンナリーザ。

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あんたの目はこんな色なんよ、と撮った写真のモニターを
彼の鼻先に見せたshinkaiですが、分ったかな、ははは。



準備が出来てパカパカと部屋を出て行く、馬の体の大きさ!
鼻先を寄せて来るだけだとそう大きさを感じませんが、
体の横が目の前に来ると、大きいぃ!!

表で既に準備が出来ていた少女ガイア・Gaiaと、ガストーネ・Gastone 14歳。
ガストーネがこちらを見ている目が可笑しいでしょう?

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ガイアはこの馬には2年位だけど、馬に乗り始めたのはもっと前からだ、と。
       
アンナリーザのママ、アントネッラ・Antoenllaの説明によると、
このガストーネはポニーのちょっと大きめで、
背までの高さ149cmまではポニーと呼ばれるのだそう。



馬場に入ってから、アントネッラと向こう側にちょっと見えるガエターノが、馬に何か
注射器の大きいので飲ませているのですね。
何かと思ったら、咳が出るので、咳止めシロップをね、ははは。

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ガイアが引き綱を付け、舌をチッチッと鳴らしながら、ガストーネを走らせます。

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何周かするとガエターノの指示により、反対側のくつわに引き綱を移し、
反対向きに走らせるのですね、なるほどぉ。



もう一人のシニョーラ、ルチーア・Luciaも準備を終えて馬場に。
馬はオレゴン・Oregon 23歳。

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真ん中の赤いTシャツが、アンナリーザのマンマ・アントネッラ、
手前がアントネッラの夫(アンナリーザのパパではない)ガエターノ・Gaetano.

日本の競馬は単直走というのか、言葉を知りませんで、
3歳とか4歳とかのサラブレッドの若い馬ばかりですが、障害物用の馬は
もっと年を取ってから練習を始めるそうで、それに年を取っている馬の方が
騎手初心者には良いので、皆かなりのベテラン馬がここにいる様子。

幾つぐらいまで大丈夫なのかと聞きますと、人間と同じで、馬も病気したり
あれこれあるものの、30歳位までは大丈夫なんですって!
   


ガイアも騎乗となり、

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ガエターノがなにやらアンナリーザに注意を。
確か、きちんと意識して止れ、というような事だったと。

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アンナリーザは自分の子供が出来るまでは乗馬を続けていましたし、
障害物の試合にも出ていたのですね。

で、実家が新しく乗馬センターを開くにあたり、教える為のコースにも
通ったと言っていましたし、この夏は子供達の教室も開き、大活躍だった様子。



本当に広い敷地で、遠くの方にはこんな農家も見え、

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彼らがトレーニングしている場所からもずっと奥に広がり、
逆に見るとこんな感じで、道の奥に見える大きな家が実家。

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朝露でびっしりと露が付いた草原に咲く花。

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馬場と反対側には、こんな雨天練習場も。

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ふと横奥を見ましたら、あれ? あの馬の顔が白いけど・・、
なにせ遠目が効かないので、良く分らずで、へへ、

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近寄ってみて、なんだ、覆面をしているんだ!

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ちょうど刈り取った新しい草を運んできたアントネッラが説明を。
ほら、白い小さい羽虫みたいなのがいますよね、 

この時もお馬ちゃんたちの顔の回りに群がっていましたが、あれが耳に入り込むのを
防ぐ為だそうで、こうしてすっぽり顔を隠していた方が、馬も気が散らないし、と。
それでもまだ耳に入り込む虫がいるんだそう。



彼らの奥にまだ3歳というのもいて、鼻づらに触って挨拶し、

こちらはいつも一緒にいる2頭。 白い方が彼女ベトゥーリア・Betuliaで、
茶の彼はブチェーファロ・Bucefalo.

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普通は決して一緒にパドックには入れないそうですが、彼らはずっと一緒だったので、
ここでも一緒にしているのだと。



白いお馬ちゃんの尻尾の動きや、

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白いたてがみが朝日に光る様子がとても美しい!

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元の馬場に戻ってくると、アンナリーザが今からちょっと飛ぶよ、と。
ガイアがちょうど飛んだところ。

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では、アンナリーザの飛ぶ姿を!

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う~~ん、カッコいいなぁ! 気持ちよいだろうなぁ!!

馬には鳥取の砂丘で昔1度乗ったことがあるのですが、
猫ちゃんの匂いが染み付いているのが気に食わなかったのか、
どんどんどんどん、道の端のほうに歩いて行くのですね。
勿論、くつわを取ってくれていた小父ちゃんも一緒だったのですが・・、

ついに前足を振り上げて、shinkaiちゃんを振り落とし、足の上に仰向けに
なって背中掻きを! 下になった私めは重くて足が抜けずで、ははは。

コネリアーノのプールのすぐ近くに馬場もあり、値段を聞くと多分日本よりも
ずっと安いので、・・やろうか?!と思った事もあったのですがぁぁ、
う~ん、この年で落ちて脚でも折ったら長引きそう、と諦めましたっけ。



約1時間の練習を終えた3騎は、ずっと敷地の奥まで歩いていき、

その間にガエターノに質問を。
障害の後ろにおいてある棒は何の為?

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あの棒の位置まで3mあるそうで、あそこから馬は飛ぶのだと。

凄いですねぇ! あの巨体で3mも、しかも高さを飛ぶのです!
高く飛べるのは、やはり血筋もあるそうで、普通は1mまで飛べたらOKなんだそう。
それ以上は練習だけではなかなか難しいのだと。

アンナリーザに聞くと、ガエターノは大変理論的にきちっと教えるのだそう。
馬術ばかりでなく、かってはフェンシングもしていたのだそうで、

ここのセンター「薔薇の騎士」の名の由来も、長年の彼の夢であった
薔薇の花を頭につけた騎士の決闘、相手の薔薇を剣で落とす、という興行が
かって在ったのと結びついたと。
夏の初めにあった子供達の乗馬集中教室でも、彼は乗馬だけでなく、
午後には希望者にフェンシングも教えたそう。

「薔薇の騎士」というとリヒャルト・シュトラウスの有名なオペラがありますが、
そんな興行が存在していたのは知らず、あれこれ検索をかけましたが
見つからず、でした。



歩行を終えて戻ってくる3騎。 先週は5人練習に来ていたそうで、
大きいのから小さいのに順に並んで歩いていて、見物だったと。

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引き返して来たのを見たアントネッラが、こっちの馬場も撮りたいかと、開けてくれ、
広いでしょう?! 砂場になっていて、使う時は本当は水を撒くのだそう。

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余り走らずに、ゆっくりと歩くだけでしたが、なかなか良い雰囲気でしょう?!

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私は砂埃を撮りたくもあったのですが・・。



アンナリーザと青い目のグレンジャー。
お馬ちゃんは必ずカメラ目線なんですよね、ははは。

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薄いブルーの目の美少女、ガイア、11歳。

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へぇ、馬の足の裏は、こんな風に隙間があるんだ!

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後で水で体を洗ってやる時に、ブラシで土を掻き出していましたっけ。



体を洗って貰っているグレンジャーの額の星の真ん中に、ツムジがあるのも見つけ、

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ここには何年か前に1度、来伊された友人とそのご両親と一緒に、
ちょうど生まれた子馬を見にお邪魔した事があります。
まだトロット競馬用の馬の飼育、訓練をしていた時で、納屋の様子も今と違い、
猫ちゃんもたくさんいたのですが・・。

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当時の様子はこちらに。
       

こちらにも、馬の教室についてちょっぴり。 
n.1 ソンチーノ ・ 中世の要塞と、ユダヤ人の印刷所
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464088820.html



こちらはアンナリーザの言葉によると、ジオストラ・giostra・回転木馬!ははは。

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つまり雨降りの時など、厩舎を掃除したりする時ここに連れて来て、
1人でぐるぐる歩き回れる様に、半強制的にね、ははは。 



現在馬は12頭いて、馬を外に囲っておくパドックは8つ、厩舎は20あるそうですが、
これは厩舎についていた回転扉の餌入れ。

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なんと彼らは1日に20kも食べるそうで! 到底草だけでは不足ですから、
どんな仕事をしているかによって、朝晩にここから小麦などを入れるのだそう。 



あちこちを見て回っていると、ガイアが新しいポニーを連れて行き、    

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ブチのポニーは、ティーノ・Tino 12歳。



ガエターノの指示で馬場を走り、ジャンプに取り組みます。
もっと鞭を入れて走らせろ、と言われるのですが、なかなかで、
上手く飛べる時もあり、コツンと爪が当る音がする時もあり・・、

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舌の先をちょっと出して集中しても、時にティーノとの気合が合わず
避けられる事もあり、

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この練習は余り長い時間ではなく厩舎の方に戻り、漸くに猫ちゃん2人に!

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アントネッラの言うには、今5匹いるそうですが、朝のうちは殆ど姿を現さず、
夕方お鍋を抱えて母屋から来ると集まってくるそう、ははは。



ではまた!と挨拶して帰る途中、一番端の厩舎から顔を覗かせた黒馬ちゃん、
編んで貰ったたてがみが可愛いでしょう?! 鼻づらをさすって、またね。

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綺麗に咲いていた薔薇の花もあったのに、あ、撮るのを忘れてた、と
戻り際にこの白い花を!
     
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写真の数が多くなった今回ですが、お楽しみ頂けました様に!


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・ ヴェネト盛夏 ・ 葡萄畑の様子は

皆様、残暑お見舞い申し上げます!
立秋の日も過ぎ、今お盆休みの最中ですね。 そろそろ暑さの峠も
過ぎたかなと期待しつつ、夏の最後を楽しんでまいりましょう!

今日ご覧頂くのは、我がコネリアーノの町の西隣、スセガーナの
サン・サルヴァトーレの城の沿っての葡萄畑に、月初めの4日に
写真仲間と出かけてきた時の様子です。

朝の8時15分に城の下にある駐車場に集合の後、お城への坂道を
上り始める脇にある礼拝堂。

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教会ではないだろうと思うのは、入り口扉の上に伯爵冠を戴いた紋章が見えるので、
サン・サルヴァトーレの城主コッラルト家・Collaltoに関するものではないかと。

◆ 追記です。
  入り口扉の上に伯爵冠を戴いた紋章が見えるので、コッラルト家の礼拝堂
  かと思ったのですが、

  シニョレッリさんが「アンヌンツィアータ教会・Chiesa dell'Annunziata」
  であると教えてくださり、確認も取れました。
  シニョレッリさん、有難うございました!



坂道を上り始め、上の礼拝堂の上にも見えた月、見えるかな?
手前の畑のこれは、何の作物だろう・・。

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下の写真の右奥に見える建物を目印にしますので、ご記憶を。       
       


途中にある元修道院跡の建物の一部、住んでおられるのですね。

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こんな花も。

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この辺り既にかなり上っていて、東側に見下ろす大きな古い造りの農家。

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壁の屋根の下そして中程に、少し消えかかっていますが赤い線が 見えるでしょう?
これは城主コッラルト家の持ち物であるという印なんだそう。
       
そう教えてくれたのは、今回一緒したジョヴァンニの奥さんで、きゃ、名前が出ない、
他にも大変興味深い話を聞かせて貰ったので、それは後ほど。



見下ろす、畑の中に見えた最初の農家、納屋。 ほら、ここにも赤い線がね?
手前に茂っているのはオリーヴの木、畑、そしてヴェネト平野、ピアーヴェ河東の葡萄畑。

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大分上ってきて、既にshinkaiは城の前なのですけど、ジャンナ達はまだ途中の
修道院跡辺り。 ここまでお喋りの声が聞こえてくるのですよ!

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とにかく暑い日で、しかも少し湿気があり、逆光で遠くの平野が靄って上手く写らず。



こちらがサン・サルヴァトーレの城の正面。 上に見えるのが、伯爵冠を戴く
コッラルト家の紋章。

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中の見学や、恒例の春の白ワインの催しの時もここからは入れず、
城の下の道をずっと奥まで行って、脇門から入ります。

コッラルト家が最初に歴史に登場するのは958年で、凄いというのか素晴らしいと
言うか、現在まで延々と1千年を越え、家系が続いているのですね。

現在の城壁内の敷地の広さはイタリアで一番とか、時々見聞する事からも、
この家系の大きさ根強さが想像できるのですが、
今回は改めてきちんと読みたい、という気になりました。

中世の城跡 ・ サン・サルヴァトーレ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463525627.html

コッラルトの城址と村 そして コッラルト家の人々
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472436080.html



城の門の前から見る例の農家、納屋。 そして周囲に広がる、見事な葡萄畑!

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ちょうど前の土地が荒地になっていますが、古い写真ではここも葡萄畑でしたから、
きっと新しい苗に植え替えるのでしょう。

我々はぐるっと回り、最後はあの納屋の前の道を通り、最初の礼拝堂の脇に
出て戻ったのでした。



一緒したミレーナ。 彼女はね、私が撮っているとその後から来て写すのです、
狙いをコピーするんですって、ははは。

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石塀の上のトカゲ君。

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お城の正面を過ぎ西側に回ると、こんな風に城壁に沿って道が続きます。
車もたま~に通る位で、散歩の人が何人か。

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そしてまた西角まで行き、曲がり角があり、

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石塀と糸杉の間を道がずっと奥に続きますが、

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我々はミラーのあった脇から、こんな道をだらだらと下り、

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こんな農家、納屋の前に。 ほら、ここにも赤線、もとえ、赤い線が、ははは。

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納屋の中に白く新しいプラスティックの椅子。
 
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向かい合っている建物の前にも、如何にも人待ち顔に!

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今は閉められていますが、こちらはきっと住居で、現在は時たま来る、という感じかな。
白い椅子の前にあるテーブルは、車輪をリサイクルした物でした。

ジョヴァンニの奥さんが話してくれたのですが、
とにかく一帯の領地が広く、小作人として農民達が働いていたわけで、
第一次大戦時は、コッラルト家はオーストリア側だったのでイタリア軍の爆撃も受け、
戦後は土地もイタリア国王に摂取。

で農民達は土地が戻ったら自分達の物になるかも、と期待したのが、
そのまま伯爵領に戻り、農民達は武器を持って押しかけ直に強談判したのだとか!
どこかにこの話について書いたのがないか、もっと詳しく知りたいshinkaiです!



家の中庭を通り過ぎ、葡萄畑の中の道にでます。
手前はジョヴァンニ。 暑く眩しく目を細めている所。

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道はこんな風にだらだらの下り坂。 あの面白い形の木は、松の木なんですよ!

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で、この右に広がる葡萄畑の葡萄が素晴らしく!
こんなまだ赤ちゃんみたいに遅く小さいのもありましたが、

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日当たりが良いせいか、既にもう、こんなに色づき!!
葡萄の木の幹も、太く古いのにご注目を!

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中でもこれが一番熟していた色。 つられて一粒摘みましたが、まだ酸っぱかった!

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今のこの暑さがこの調子で続けば、今年の葡萄摘み・ヴェンデーミア・
vendemmiaは早いでしょうね。 そして良い収穫と!

日本でお米の作柄状況がニュースに出るように、
こちらイタリアでは、今年のヴェンデーミアは、と出るのですよ。



葡萄畑の、畝の間の道、ず~っと遠くまで・・。

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畑の脇の赤土には、蟻んこたちの巣。
この暑いのにせっせと小さな蟻達が働いていまして。

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トラクターに乗った方がこちらにやって来て、にっこりと挨拶しながら

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角を曲がり、あの家・納屋のほうに。

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上からかなりのスピードで下って来たサイクリングの2人が、西に角を
曲がっていった先にも、やはりトラクターが見え、

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上から見た時は変な形と思った松の木も、こうして見ると、威風堂々、に見えません?

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ずっと目印に見ていた例の家・納屋の前から、今度は逆にお城を。

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今見える真ん中の塔は礼拝堂の鐘楼で、大塔もあったのが爆撃でやられたと。
残っていたら、さぞや素晴らしい眺めでしょうに、ね。



という事で、出発点の礼拝堂の後ろに戻った我々。
   
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暑い中、ご苦労様でしたぁ!


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・ ノルチャと、モンテ・シビッリーニ国立公園周辺あれこれ

先回に続きジョヴァンニ・Giovanniの写真で、ウンブリアはノルチャの町の
ご案内をちょっぴりと、
ジョヴァンニ達が泊まった大平原近くの山小屋周辺の風景、
高原の花や蝶の写真と、 Grazie Giovanni!!

そしてちょっと珍しい話題と思う、もののご紹介です。
     
先回のジョヴァンニの写真を、いつも私めのを載せている大きさと画質で
最初アップしましたら、何でこんなに小さくしたの? 質が落ちた感じがするけど、
と言って来ましたので、途中で大きめに、画質も上げてアップ!

という訳で今回も、大きめ画質もアップで参ります。 先回のを最初の内に
見てくださった方、前のも見直してあげて下さいませませ!

トップは、ノルチャ・Norciaの町の中心にある広いサン・ベネデット広場。
左がパラッツォ・コムナーレ・Palazzo Comunale、元は14世紀の物だそう。
ですが残っているのはポルティチ部分で、19世紀の地震後に再建されたものと。

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右がサン・ベネデット聖堂・Cattedrale di San Benedetto.
写真左端に切れている像は、広場の中心にあるサン・ベネデット像で、



こんな感じ。

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聖ベネデットは480年にこのノルチャの生まれ。 双子の妹はサンタ・スコラスティカ
・Santa Scolastica.
彼は初めて修道院の規律を作り上げた方で、ノルチャの町のみならず、
ヨーロッパの守護聖人とされている方。



サン・ベネデット聖堂の正面。
扉の両脇の2つの像が、サン・ベネデットとサンタ・スコラースティカ。

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この聖堂のオリジナルは中世で、14世紀に大改造されているそうですが、
伝承として、この両聖人の生家の上に建てられた物とされており、
地下のクリプタで生家跡が見られます。

この地下の生家跡も、聖堂脇にある穀物売り場のロッジャで見た当時の秤も、
いつかと思いつつご案内してないのに今回気がつき・・。
       


これはジョヴァンニが、サンタ・マリーア教会の聖水盤、として送ってくれた
写真なのですがぁぁぁ、

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ヴィッソのサンタ・マリーア教会の入り口や、中のフレスコ画の写真をノルチャとして
送ってくれたもので、はぁ、
私はざっと見たのみで気がつかないまま先回のヴィッソに含めずで・・。

このノルチャにもサンタ・マリーア・アルジェンテア教会があるので、そちらのかと
思っていたのですが、間違いが分って後、2つの町の聖堂、教会の写真を
探し回りましたが、この聖水盤がどこのか分りません!
ですが、大変美しい素晴らしい物だと思いますので、ここに!



ノルチャはサン・ベネデットの生まれた町としても有名なのですが、それ以上に
有名なのが豚肉加工品で、町の通りにはこういう店がずらっと立ち並んでおり、

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こんな風に、palle de nonno・お爺ちゃんのたまたま、とか、
cojone de lu mulu・ノルチャ訛りで・ラバのキXタマ・・!!

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ノルチャの旨い物として、こちらに詳しく。
      


銅製品の店が広場の一角にあり、shinkaiめも同じこの鍋の並びを
撮った事が、ははは。

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ジョヴァンニ達はノルチャには半日行っただけだそうで、写真の数も少なく、
次に、大平原に近い山小屋周辺の写真をご覧下さいね。

まず地図をどうぞ。 左上にカステルッチョ・Castelluccioとノルチャ・Norcia、
緑枠で囲ったのがピアン・グランデ・大平原。

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赤点2つの下が、彼らの泊まったというアルプス兵の山小屋、上の赤点が
山小屋から2時間かそこら歩いて辿り着くピラートの湖・Lago di Pilato.

ピラートというのは、キリストに死刑判決を下したポンツィオ・ピラート・
Ponzio Pilatoの事で、

以前この大平原に行った時に彼の名前を読んで以来気になっていたこの湖と、
彼の生家について今回好奇心からちょっぴり調べました。
で、地図の右下に見えるアブルッツォ州テーラモ県のビゼンティ・Bisenti
に彼の生家と言われるのが残ります。


まずサイトからの写真で、雪に埋もれた山小屋・Rifugio degli Alpini・
標高1560mを。

11-alpini.jpg


ジョヴァンニの話を聞きましたら、今頃はアルプス兵の山小屋といっても、
普通の山小屋と変わらずに個室になっているのも多いのが、
ここは大部屋10人で、2段ベッドだったそう!

それも2段ベッドの上がり下がりに必要な梯子がなく、ははは、よじ登り、下りにも
時間がかかり、ベッドの上のが寝返りを打つと、下のベッドも揺れるという・・!



ただし食事は大変美味しかったそうで、 この写真はサイトからで、

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ハム類、チーズ、レンズ豆のスープや付け合せ、肉の焼いたのやら色々で、
1泊2食付40エウロだったそう。



サイトで山小屋の写真をあれこれ探していましたら、こんな狐君のが何枚か。

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これは夏の写真のようですが、雪の山小屋の入り口か、灯りがもれる中に
座っている、多分食料依頼ね、がありました。



さて、ジョヴァンニの写真による、山小屋からの夜明け。 

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山小屋のある場所は、フォルカ・ディ・プレスタ・Forca di Prestaと言い、
フォルカと言うのはフォーク、つまりUの字型に山がえぐれる場所を指し、
こんな風に大平原が見えたのだそう。

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道の奥右に見えるのが山小屋、だそう。 大平原から上ってきた山道で、
shinkaiも通ったアスコリ・ピチェーノへの道から少し分岐した場所と。
奥に見える山肌が凄いですよねぇ!

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山小屋からのパノラマ。

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こちらが奥にあるピラートの湖に向う方面と。

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上のような山道を2時間か2時間半歩いて見れるという、
ジャ~ン、これがピラートの湖! 標高1.941 m.

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上の写真はまだ雪が残り湖も繋がっていて、下のは、なんとタイトルが
「ピラートの目」!! ははは。 右上の盛り上がりが、モンテ・ベットーレ。

手前側のもう一つの山の峰との間に挟まれており、長さが約900m、
幅が130mほど、水深は8~9mと。
場所の神秘さといい、この水の色といい、なんとも凄い湖。

なぜローマ帝国第5代ユダヤ属州総督ポンツィオ・ピラートの名がこの湖に
ついているのかですが、
最終的に住民達から直訴され罷免されたピラートは、死刑判決を受け、
遺骸が水牛に引かれるままにここに来て、湖に落ちた、という伝説があるのだと。



それにしても1世紀に生きた人物の名がこうして残っている、というのに、
最初はひどく驚いたのでした。
ハリウッド映画の中で、キリストに判決を下したのち手を洗う、
そんな人物の名にこのウンブリアの大平原で出会う、なんて、ね。

そしてずっと昔、子供向けの雑誌でピラートの生家は、というのを読んだのが
肝心の場所を忘れてしまっていたので、
湖があるなら、この辺りだったのだろうか、と調べてみたのです。

最近の研究で、多分ここで生まれたと言うのが確からしい、という記事も見つかり、

はい、こちらがアブルツッオ州テーラモ県ビセンティにある、
ピラートの生家と呼ばれているもの。

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その後の何世紀間において改装されてはいるものの、それでもローマ期の
住居の特徴を良く残しているのだそうで、無くなっているのは中央の入り口と
玄関ホールで、部屋に明かりを与える中庭は完璧に残り、
地下に雨水をためる井戸も。

ずっとピラートの家と呼び習わされてきた物の確証が無かったのが、
近年の研究者によって、土地の教会との間に交わされた文書から、
多分ビゼンティ・Bisentiが生まれた町であろうと、半ば確認されつつある、
という事でありました。



最後は山小屋周辺で撮ったというジョヴァンニの写真で、
アザミと、てんとう虫

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そして、蝶のあれこれ、美しい!

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この百合は、こちらでは「サン・ジョヴァンニの百合」と呼びます。

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ヒヨス・Giusquiamo というのですって。

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最後は、夜の星空。

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月が明るく出ていて、星空が上手く写らなかった、と言いましたが、
星が皆さんにもよぉ~く見えますように!!

 
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・ ウンブリアの大平原のお花畑 と ヴィッソの町

皆様、酷暑お見舞い申し上げます!
こちらも今週月曜から、天気予報どおりに、はい、暑さが戻っています。

先回、申し訳ないくらい涼しい、と書きましたら、
風邪引かないでね! というお優しいメールが届きましたので、
暑いです!! ご安心を! ははは。

今日はウンブリアの奥の大平原、ピアン・グランデ・Pian Grandeに
咲き乱れる花の写真をジョヴァンニ・Giovanniが送ってくれましたので、
せめてもの酷暑お見舞いにご覧下さいね。
Grazie Giovanni!!
       
まず平野の中程、東側から見た平原の様子と、平野の北側に半ば突き出す
形の山の上、標高1452mに位置するカステルッチョ・Castelluccioの町.

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ジョヴァンニ達は7月3~5日に行ったのだそうで、
ちょうどこの時期、6月から7月にこの平原に花が咲き乱れるのですね。
      


上の写真、そしてここにも見える黄色い花畑は、
名高いカステルッチョのレンティッキエ・レンズ豆の畑。

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カステルッチョの村はこんな風に。

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平野の東側に悠然と広がるヴェットーレ山・Monte Vettore、標高2478m. 

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「大平原」という名に相応しい平原の広さで、15平方km.
細長い畑がかなりの高さにまで広がり、放牧の羊や牛、馬達の群れも
幾つもが平野のあちこちに。

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さて、お待たせいたしましたぁ!  ここから花畑の写真が続きますが、
赤色はポピー、白はデイジー、青紫は矢車草で~す。

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この平原は、太古には湖だったのが干上がったのだそうで、標高約1350mに
位置するので冬の寒さは厳しく、マイナス30度前後にも達するのだと!
その分、春の訪れる5月の末から7月にかけて一斉に咲き出す花は見事で、
世界各国からのカメラマン達も集まるのですね。

追記です。 ジョヴァンニが書いてくれたのですが、これらの花々は、
土地の所有者達の話し合いにより、化学肥料などは一切使わず、
自然のままに任せているのだそう。

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もう一度カステルッチョの村の眺めをどうぞ。

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優しいジョヴァンニは、shinkaiにも良く分るようにと、ははは、
レンズ豆の袋の写真まで送ってくれましたので、はい、皆さんにも!

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shinkaiのカステルッチョのご案内
n.1 カステルッチョ、 そして、大平原のお花畑
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464308843.html

n.2 カステルッチョ、 そして、大平原のお花畑
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464309182.html

雨と霧のカステルッチョ と 大平原
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464309438.html



地図をどうぞ。
カステルッチョはウンブリアの南東の端に位置し、行き方は
スポレートから東にノルチャ・Norciaにでて山を越すか、
真っ直ぐ地図の北に見えるヴィッソ・Vissoまで行き山を越えるかの二通り、
アドリア海岸からだとマルケ州のアスコリ・ピチェーノ経由で。

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今回ジョヴァンニ達は、アルプス兵の為の山小屋・Rifugio degli Alpini
に2泊したのだそうで、
緑で囲った大平原から、と言うより、カステルッチョから約7kmの位置。

山小屋周辺で見かけた花や蝶の写真、そしてノルチャの写真も送ってくれたので、
これは次回にご覧いただきますね。
・・と、shinkaiも夏休みが出来るという事になりますし、うふうふ。

で、今日は「イタリアで一番美しい村々」にも選ばれているヴィッソの写真も
送ってくれましたので、ちょっぴりご覧下さいね。

以前のヴィッソのご案内は  ヴィッソ ・ ヴァルネリーナ渓谷の珠玉の町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304165.html


町の中心にある教会の鐘楼、尖がりの屋根が珍しく石造りなのと、
山上に見える要塞の塔。

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町には中世の面影を残す古い石造りが多く残っていて、

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写真を見つつ、5年前に訪れて歩き回った時の記憶が蘇り、
ああ、あそこだ、ここだと、とても懐かしかった!
イタリアの町の、街の良さは、何十年経っての再訪でも
変わらない姿を見せてくれる事!!



細い、でもかなりの水量の川が町の脇を流れ、

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この泉の写真が唯一、場所が分らなかったのですが、
またジョヴァンニに聞いてみましょう。

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追記: これは町の門の手前にある泉、と判明です。



古い建物の横を細い小路が通り、曲がりくねり、

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この細い真っ直ぐの小路も懐かしい!
小路の真ん中が低くなっているのは、雨水が流れる工夫です。

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今回の彼の写真は、かなり光と影を意識した様子。

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ここも懐かしいですが、花鉢が減ったような・・!

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今回のヴィッソの写真で一番気に入ったのを最後に。
素敵でしょう?!
     
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如何でしたか?
写真に対してのご伝言をいただけると彼が喜びますので、どうぞお願いいたしま~す!

    
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