世界遺産指定、中世の塔が残っているサン・ジミニャーノ・San Gimignano.
先回は雲海の朝焼けを見て頂いたので、今日は塔の上からの眺めを。
先回は雲海の朝焼けを見て頂いたので、今日は塔の上からの眺めを。
例により塔の名を確かめつつ、あれこれ興味深い事も知りましたので、
そんなもろもろも。 ごゆっくりどうぞ!
そんなもろもろも。 ごゆっくりどうぞ!
写真は町の外からの景観、4ヶ所程の遠方から見れたのですが、
これはコッレ・ヴァル・デルザ行き方面からのもの。
これはコッレ・ヴァル・デルザ行き方面からのもの。

上に上がれる塔は、ドゥオーモ横にある現市役所のパラッツォ・デル・ポーポロ・
Palazzo del Popoloの右にあるトッレ・グロッサ・Torre Grossaですが、
ここでは上が切れて・・!

塔に上がるには、写真中央に開いて見える入り口から、
中庭に入り、

正面の上り階段を行きますが、

階段からは、トッレ・グロッサがこんな風に!
高さ54m、現在町で一番高い塔で1300~1311年に建設。
高さ54m、現在町で一番高い塔で1300~1311年に建設。

塔の下の入り口を入ったところに切符売り場があり、大変親切な係りが笑顔で、
各国語で対応。塔だけで良いからまけろ!なんぞというお客にも丁寧に、ははは。
いやぁ、一体にこの町の人は観光客に親切でしたねぇ!
塔内の階段。 段数は書いてあるのが見つからず、
ええ、まぁ、大丈夫、心配なく上がれますです、はは。
ええ、まぁ、大丈夫、心配なく上がれますです、はは。

途中の窓から見える、ドゥオーモとその東の広場、
そして双子の塔と呼ばれるサルヴッチ・Salvucciの塔。
そして双子の塔と呼ばれるサルヴッチ・Salvucciの塔。

塔の最上階を北にある要塞から眺めると、こんな風に登っている人が見えますが、

こんな感じ、かなり広いでしょう? 真ん中に大きな鐘が二つ下がり、
その下を通り抜けたり、あちこちから展望が楽しめます。
その下を通り抜けたり、あちこちから展望が楽しめます。

が、壁の高さが私の胸の位置で、かなり幅も広いので一生懸命に爪先立って
下を覗くのですが、背の高い男性の方が、こういう場合は有利ですねぇ!
さて、町の南側。
左に切れて見える塔はクニャネージの塔・Cugnanesiで、
見える通りはサン・ジョヴァンニ・Via San GIovanni、
突き当たりに町のサン・ジョヴァンニ門・Porta San Giovanni.

ついでに右のベリニャーノ通り・Via Berignanoの、古い家並みの感じを。

真ん中辺り、右に突き出す丸い形は、町の城壁にいくつかある見張りの塔。
左に戻り、右の塔が上の写真で切れて見えたクニャネージの塔で、13世紀建設、
足元に大きなクニャネージ邸がありますが、後ほど。
足元に大きなクニャネージ邸がありますが、後ほど。

左が、先回の朝の写真でベッチのアルコの横に見えていたベッチの塔・Becci.
塔の名前、また町のどの位置にあるかなどは、改めて後程地図でご説明しますが、
今は塔の上からの眺めをお楽しみくださいね!
今は塔の上からの眺めをお楽しみくださいね!
ドゥオーモ広場のドゥオーモの向かい、パラッツォ・(ベッキオ)・デル・ポデスタ・
Palazzo Vecchio del Podestàの、つまり古い政庁の塔で、
町で一番古い1200年に建設のロニョーザの塔・Rognosaと、
左に切れて低いのはキージの塔・Chigi.
Palazzo Vecchio del Podestàの、つまり古い政庁の塔で、
町で一番古い1200年に建設のロニョーザの塔・Rognosaと、
左に切れて低いのはキージの塔・Chigi.

高さは約52mあり、トッレ・グロッサに継ぐ高さで、名前のロニョーザはローニェ・
Rogneに由来し、なんと疥癬病の事!
というのも、この古い政庁から新しい建物の現在の市役所に移った後、
この古い建物が監獄として使われ、その収監者に疥癬病者がいたのですと!
ははは、これは伝染病だそうですから、いっぱいうつったんだろうねぇ!!
頃は14世紀、中世ですものねぇ、ははは、読んだだけで痒くなりそう!
この古い建物が監獄として使われ、その収監者に疥癬病者がいたのですと!
ははは、これは伝染病だそうですから、いっぱいうつったんだろうねぇ!!
頃は14世紀、中世ですものねぇ、ははは、読んだだけで痒くなりそう!
所で当時の高さ52m、町で一番高い塔だった、というのをご記憶に。
ロニョーザの塔はドゥオーモ広場にあるのですが、その足元、少し南側は
チステルナ広場・Piazza della Cisternaで、
見える塔はディアーボロ・Diavolo・悪魔の塔。
チステルナ広場・Piazza della Cisternaで、
見える塔はディアーボロ・Diavolo・悪魔の塔。

いやなに、名の由来は、上階にある建て増しが素晴らしく大きいでしょう?
それも持ち主が旅行中に出来ていた!という伝説的な由来なのだそう。
チステルナ広場の様子をどうぞ。
手前真ん中に見える塔が、2本あるうちの1本のアルディンゲッリの塔・
Ardinghelliで、もう1本は見え難いので、後ほど広場側から。

朝の雨が嘘みたいな午後の暑い日で、ワンちゃんものびてますねぇ!

遠くに望む平野の眺め。
オリーヴ畑、葡萄畑、雲が動いて行きます・・。



ドゥオーモ広場から繋がるドゥオーモの東側の広場、エルベ広場・
Piazza delle Erbeに面する塔2本、双子の塔・Torri Gemelleとも
建設者の名でサルヴッチの塔とも。

サン・ジミニャーノに到着の最初の午後、雨上がりの広場に出かけて即
目の前に立ち塞がったこの2本の塔。
素晴らしい白グレーの石の迫力で、威圧感を受けた印象が鮮明です。
その左斜め上に見える低めですが太い塔は、ノーミ・ペショリーニ・
Palazzo Nomi Pescioliniと言い、その手前に見える低い赤い屋根部分も含まれ、
そこが現在アパート式の宿になっていて4泊しましたので、またご案内致しますね。
そこが現在アパート式の宿になっていて4泊しましたので、またご案内致しますね。
ノーミ・ぺショリーニ邸の正面で、ここは確か大きなレストランだったと。

真ん中の壁に石碑が見えますが、
こんな様子で、ラテン語は読めないものの、はは、RONGOBARDO REX なんぞと
彫られたのを見て調べましたら、13世紀の物で、
当時ロンゴバルドの王デジデーリオの宮殿だったとか、フェデリーコ・バルバロッサも
滞在した事があるとか!
彫られたのを見て調べましたら、13世紀の物で、
当時ロンゴバルドの王デジデーリオの宮殿だったとか、フェデリーコ・バルバロッサも
滞在した事があるとか!

・・当時の事情に無知なshinkai、読んだままに記し、どなたかのご説明を
当てにしてお待ちしておりま~す!
追記: クリスさんがコメントを下さり、やはり13世紀ロンゴバルド王の宮殿、
というのはおかしいとの事。
で、続くコメント欄の方は無くなってしまい・・、残念。
というのはおかしいとの事。
で、続くコメント欄の方は無くなってしまい・・、残念。
さて、復讐の、いや、復習のお時間で~す! ははは。
町の中心部にある塔の位置と名前ですが、主なものを。
1. ノーミ・ぺショリーニ、塔の家
8.9. 双子の塔、またはサルヴッチの塔
12. キージの塔・Chigi
14. ドゥオーモの鐘楼
16. トッレ・グロッサ
8.9. 双子の塔、またはサルヴッチの塔
12. キージの塔・Chigi
14. ドゥオーモの鐘楼
16. トッレ・グロッサ

17. ロニョーザの塔
18.19. アルディンゲッリの塔
23. ディアーヴォロの塔
24. ベッチの塔
36. クニャネージの塔
コムーネのサイトから拝借の写真に、しつこく、ははは、上と同じ番号を
入れてみました。 これで位置関係がお分かりでしょうかぁ?

で、しつこく、今度は下からの眺めでどうぞ! ははは。
ドゥオーモ前から、向かい正面の古い政庁の17.ロニョーザの塔、殆ど切れてますが、
も一つ左に切れているのが、キージの塔。
ドゥオーモ前から、向かい正面の古い政庁の17.ロニョーザの塔、殆ど切れてますが、
も一つ左に切れているのが、キージの塔。

このロニョーザの塔が1200年建設の、町で一番古く当時一番高い塔の約52m
だったと書きましたが、1255年この塔より高い塔を造るべからずという御触れが。
所で町の歴史を簡単にご説明しますと、中世の塔がたくさん見事に残る町として
世界遺産にも指定されているこの町ですが、
イギリス・フランスからローマへの巡礼通商道路であるヴィア・フランチージェナ・
Via Francesinaが南北を、とシエナからピサの東西を結ぶ道が交差するこの町。
Via Francesinaが南北を、とシエナからピサの東西を結ぶ道が交差するこの町。
エトルスクの時代からの住民移植がありローマ期と徐々に栄え、1199年に
自由都市を宣言、公平である目的から、執政官を「外国人・この町以外の人間」
から、半年毎に選ぶと言う方法で、
自由都市を宣言、公平である目的から、執政官を「外国人・この町以外の人間」
から、半年毎に選ぶと言う方法で、
法王支持派のグエルフィ・guelfiと、皇帝支持派のギベッリーニ・ghibellini
の町内抗争が熾烈な時期も乗り越え、農業、とりわけサフランの栽培・染料、
薬用、料理にも使われる高価なもの、そしてワイン用葡萄、羊毛の取引、
金融・高利業で栄え、1300年代前半には13000人の人口に。
の町内抗争が熾烈な時期も乗り越え、農業、とりわけサフランの栽培・染料、
薬用、料理にも使われる高価なもの、そしてワイン用葡萄、羊毛の取引、
金融・高利業で栄え、1300年代前半には13000人の人口に。
こうして町が一番の繁栄を迎えたのが14世紀だったのですが、1348年のペストで
町の人口の3分の2を失い、これ以降フィレンツェの元に下り、遂に衰亡のまま、
再繁栄することは無かったと言います。
17世紀のペストの後は人口が3000人と言う、トスカーナ大公国内で
一番貧しい町だったそうで、
町の人口の3分の2を失い、これ以降フィレンツェの元に下り、遂に衰亡のまま、
再繁栄することは無かったと言います。
17世紀のペストの後は人口が3000人と言う、トスカーナ大公国内で
一番貧しい町だったそうで、
そのお陰と言うとおかしいのですが、町に新しい建築モードが押し寄せることなく、
中世のまま殆ど無傷で、この町が今に残っている訳ですね。
中世のまま殆ど無傷で、この町が今に残っている訳ですね。
これはドゥオーモ東側のエルベ広場からの眺めで、一番右にロニョーザの塔、
次いでキージの塔、そして手前2本が双子のサルヴッチの塔。
次いでキージの塔、そして手前2本が双子のサルヴッチの塔。

塔の形は大体四角形、ご覧の様に余り窓や開口部がないのが古い塔の
特徴で、時に見える横一列の小さな穴は、外部にテラス、通路を造る為の
支えの持ち出し材用なのですね。
このサルヴッチ家は町のギベリン派一番の大物で、商売は高利貸し業だったそう、
その優勢を見せ付ける為、1255年公布の52mのロニョーザの塔を
越える事なかれを無視し、もっと高い塔を建てたのを、後に切り取られたのだと!
その優勢を見せ付ける為、1255年公布の52mのロニョーザの塔を
越える事なかれを無視し、もっと高い塔を建てたのを、後に切り取られたのだと!
チステルナ広場に出てきた所。

広場の北側にあるのがディアーヴォロの塔。 最上階の建て増し部分が
はっきり見えますが、ここが所有者が旅行から戻ってきたら出来ていた!
というのが、このディアーボロ・悪魔の名の付いた所以と。 ホンマかいな。
はっきり見えますが、ここが所有者が旅行から戻ってきたら出来ていた!
というのが、このディアーボロ・悪魔の名の付いた所以と。 ホンマかいな。

元の塔の上部に張り出しの腕木が明らかに見えますが、
これを利用して屋上バルコニーとか、ちょっとした部屋を造ったとか。
ちょっと見え難いですが、この塔の下は通路になっていて、その名も「金の小路
・vicolo dell'Oro」と言い、金箔師達が店を持っていたと。
彼らはフローリン金貨を叩き薄く薄く延ばし、その板金は黄金背景の絵を
描くのに使われたのだそう・・! なんと、金貨を叩き伸ばして使っていたのかぁ!
・vicolo dell'Oro」と言い、金箔師達が店を持っていたと。
彼らはフローリン金貨を叩き薄く薄く延ばし、その板金は黄金背景の絵を
描くのに使われたのだそう・・! なんと、金貨を叩き伸ばして使っていたのかぁ!
こちらはチステルナ広場の西側、中央の建物の隙間にドゥオーモ広場とを
繋ぐ道が通りますが、
左奥にトッレ・グロッサ、そして右にロニョーザの塔が見え、
手前2つの塔が、アルディンゲッリ・Torri degli Ardinghelli.

右の塔はまさにドゥオーモ広場との境にありますが、このアルディンゲッリ家は
町の有力なギベリン党派で、ドゥオーモ広場に双子の塔を造ったサルヴッチ家に
対抗して、この2つの塔を造ったと言われます。
勿論13世紀に造られた塔で、お触れに従わず、ぐんと高い塔を建てたものの、
その後に当初の半分程にも削られたと!
最初の塔が右で、2番目が左、左右かなり形が違いますね。
その後に当初の半分程にも削られたと!
最初の塔が右で、2番目が左、左右かなり形が違いますね。
こうした力の優勢を見せびらかす為の塔は、当時一体幾本あったか?!
334mの海抜の丘の上の塔の町の姿は最初にご覧頂きましたが、
現在残るのは16本!で、最盛期には多分72本あったろうと!
町の裕福な家柄は、それを誇る為に殆どが塔の家だったと!!
334mの海抜の丘の上の塔の町の姿は最初にご覧頂きましたが、
現在残るのは16本!で、最盛期には多分72本あったろうと!
町の裕福な家柄は、それを誇る為に殆どが塔の家だったと!!
では塔の内部の生活はどうだったか?
普通の塔の場合、内部はとても狭く大体が1X2m、ただし壁の厚さは約2mあり、
夏は涼しく冬は暖かく・・。
普通の塔の場合、内部はとても狭く大体が1X2m、ただし壁の厚さは約2mあり、
夏は涼しく冬は暖かく・・。
1階部分は店、2階に住居、寝室、台所は一番上の階にというのも、
これは火を使う事からの用心ですね。
階段に使う梯子は、上に上がった後引き上げ、とりわけギベリン対
グエルフィ抗争時には襲撃対策で。
と言うような塔の建設も12世紀後半から13世紀を境に、その後は造られなくなり、
というのも上記した様に町の経済状態が衰退に向ったからですが、
こうした古い状態の塔が今も残る要因とも。
グエルフィ抗争時には襲撃対策で。
と言うような塔の建設も12世紀後半から13世紀を境に、その後は造られなくなり、
というのも上記した様に町の経済状態が衰退に向ったからですが、
こうした古い状態の塔が今も残る要因とも。
n.1 ルネッサンスの都に、中世を探して
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463022763.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463022763.html
n.2 ルネッサンスの都に、中世を探して
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463022941.html
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463022941.html
チステルナ広場からサン・ジョヴァンニ通りに出て振り返るべッチの門と、
ベッチの塔。 この塔は13世紀の物で、ベッチ家は商人ながら町の有力者で、
重要な政治的位置を占めていたそう。
重要な政治的位置を占めていたそう。

この門前の左手にあるのがクニャネージの塔と、左手に邸宅。

ベッチの塔、そしてこのクニャネージの塔の位置は、町の最初の城壁を双方から
固める位置にあるのですね。 ベッチの塔と同じく13世紀のものと。
脇通りの奥にトッレ・グロッサが見えますが、その手前に見える蔦の絡んだ建物、

ここに小さな博物館があり、その名も「サン・ジミニャーノ1300年」と言い、

一番栄えた黄金時代のこの町の様子を再現し、往時を偲ばせて見せます。


博物館のサイトは http://www.sangimignano1300.com
この部分は、ベッチのアルコ・門が真ん中下に見える町の中心部の様子で、
塔の林立もよく想像でき、当時の資料を集め、忠実に再現したという事からも、
張り出しの腕木に乗っかるテラスや通路も良く分かりますね。
塔の林立もよく想像でき、当時の資料を集め、忠実に再現したという事からも、
張り出しの腕木に乗っかるテラスや通路も良く分かりますね。

こんな塔の内部の様子もありましたが、狭く、プライバシーなんぞはまるで・・、
でしたでしょうねぇ・・!

という塔の町のもろもろでしたが、お楽しみ頂けました様に!
最後は、夜の空に浮かぶロニョーザの塔を。

お付き合い、有難うございました!
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