・ n.4  リミニ ・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタとその周辺 の2 

引き続き有難うございます! リミニの狼、シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタの
その2、彼の妻達についてと、教皇ピオ2世について続けます。

こちらはなんとも優雅なピサネッロ描く所の、ルーヴル所蔵
ジネーヴラ・デステ・Ginevra d'Este (1419-1440)の肖像
シジスモンド・Pの最初の妻。

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デステの姓が示す様に、フェッラーラのエステ家ニコロ3世の娘で、1434年
15歳でお輿入れ。 子供はおらず、6年後に夫に毒殺されたと。

彼女は生まれ育ちも幸薄く、母親パリジーナ・マラテスタ・Palisinaは義理の息子
ウーゴ・Ugoとの姦通により斬首刑になっており・・。
フェッラーラの城内には処刑前の2人が入れられていた、という牢も残りますが、

フェッラーラの城の2記事がバックアップなしで消えてしまい、いつかの再アップを
目指します。 この城には、人物にも、他にも興味深い逸話が幾つもなのです。



シジスモンド・Pの2番目の妻ポリッセーナ・スフォルツァ・Polissena Sforza
(1428-1449)の肖像が無いので、父親フランチェスコの顔を、ははは。

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追記:記事の引っ越しであれこれ調べていて見つけたポリッセーナの肖像を追加。
良い時代になり、ははは、探し物が何とか見つかる様になりましたですね。

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ポリッセーナは父親とその愛人ジョヴァンナ・アックワペンデンテとの子で、ポリッセーナと
いう名は1420年に亡くなったフランチェスコの最初の妻の名なんだそうで! 神経!

フランチェスコ・スフォルツァ、お分かりですね、傭兵隊長から最後のミラノ公の庶子、
唯一の世継ぎであるマリーア・ビアンカ・ヴィスコンティと結婚し、ミラノ公となった人物で、
いずれもシジスモンドの最初の2人の妻は、政略結婚で、しかもそれなりの家柄からの
お輿入れだったのですね。

シジスモンド・Pの最初の妻が亡くなった2年後、1442年に14歳で嫁いで来ますが、
1449年没。 タオルで窒息させられたらしいと。

子が2人、長子のガレオットは何ヶ月かで亡くなり、娘ジョヴァンナは成長し嫁ぎます。
夫シジスモンド・Pは、既にそれ以前からイゾッタ・デッリ・アッティと関係を持っており、
何と彼女が12,3歳の時に見初めたのだそう!

そしてそれ以外にヴァンネッタ・デイ・トスキ・Vannetta dei Toschiという愛人が
ポリッセーナとの結婚生活中におり、彼女との間に生まれたロベルト、イル・マニーフィコ・
偉大な、というニックネームを持つ息子が、シジスモンド・Pの跡を継ぎます。


こちらがシジスモンド・Pがイチコロとなり、深い真実の愛を注ぎ、政情無視の
愛情での結婚をし添い遂げたイゾッタ・デッリ・アッティ・Isotta degli Atti
(1432頃-1474)の横顔が刻まれたメダル。

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彼女は裕福な商人、両替商の娘だったそうで、シジスモンド・Pに見初められ愛人となり、
15歳の時に最初の彼らの子ジョヴァンニを生みますが、何ヶ月かで死亡。
2人が結婚したのは1456年、彼らの10周年記念だったと・・!

私が彼ら2人の話を読み救われる想いを受けるのは、政略結婚が当然の時代にあり、
シジスモンド・Pも最初の2度の結婚において領土も増やし、引き立ても受けるのが、
夫婦の間はしっくりせず幸せな結婚生活ではなかったと。
  
何人もの愛人を持ち婚姻外の子も産まれるわけですが、そんな彼が29歳にして
心から愛する女を見つけ、ずっと年下の彼女も彼を愛し支え、おまけに大変に賢く、
後年彼が苦境に落ちた際も励まし支え、彼が国を留守にしている間も
しっかりと国を守り、自分の宝石も売ってまでも支え続ける、賢明で、
彼の愛にしっかり応えた女であった事に、こちらもホッとするのですね。
       

3人目の妻イゾッタ・デッリ・アッティが賢明で良き妻だった、と書きましたが、

じわじわと彼の運が傾きかけた頃、追い討ちをかける様に彼を追い詰めた権力者は、
こちら時の教皇ピオ2世・Pio II(1405-1464)。

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ピオ2世は本名をエネア・シルヴィオ・ピッコローミニ・Enea Silvio Piccolomini
現在のトスカーナはオルチャの谷に位置するピエンツァ・Pienzaが
彼の生まれ故郷でもあり、現在は世界遺産に登録されてもいますが、
教皇在位たった6年の間に、この田舎町をルネッサンス風にすべく奮闘、

はたまた時代錯誤的なトルコ相手の十字軍派遣をぶち上げ、
遠征艦隊の船待ちのアンコーナの街で、力尽き逝去という方。
       

あ、その前にシジスモンド・Pの街リミニの繁栄について少し。
1450年前後ヴェネツィア共和国に雇われ、ここは支払い報酬が他の雇主と違い
毎月きちんとしていたそうで、はは、
自軍の整備も整え、国の整備もし、カステル・シスモンドの建設、自領内の
道路の整備、田舎と都会の経済流通の改善、職人達の組合の整備、
などなどと順調だった様子。

こうして順調にマルケ州においての力を蓄えていく様子を見、疑念を抱き始める
教皇側ですが、1454年に起こったのがローディの和と呼ばれるもの。

これはコスタンティノープル(現在のイスタンブル)がオスマン・トルコの手に落ち、
東ローマ帝国の崩壊となった事で、トルコの脅威の前にいつまでも国内の戦争のみに
関わっておれない、と、漸くにイタリア国内領土の確認を権力者達がしたもの。

でその時にナポリ王でもあるアルフォンソ5世アラゴン国王が、それ以前に
トスカーナ侵略に乗り出した際にシジスモンド・Pに思いがけない手酷い敗北を
喰らったのを深く根に持ち、息子への遺言にもマラテスタ打倒を託したほどだそうで、
この会議へのシジスモンド・Pの出席を、彼が出席する会議には一切出ないとの
強硬姿勢で拒みます。

ナポリ王国はローマの南に位置するカトリック王国で、北を警戒する教皇側は
常に寄り添っているわけで、そんなこんなで主要会議からはじき出されるマラテスタ家。
       
おまけにシエナ近郷出身、シエナ大学で学んだピオ2世にとっては、かってのシエナの
敗北に一役買ったと誹謗の的ともなったシジスモンド・pは許しがたい相手。
1458年に教皇となった後、3度にわたる召還にも応じない彼を1460年クリスマスの日、
破門に処します。雄弁家として鳴らしたピオ2世の弾劾書はまさに火を噴く激しさで、

  殺人、強姦、姦通、近親相姦(3人兄弟だったはずで?)
  冒涜、偽証 eccecc。 卑劣で残忍冷酷の大罪人、と決めつけ、
  彼の肖像だったか人形を火刑に処すという・・、

傭兵隊長として戦地で戦う、作戦を練り、奇襲もかけ待ち伏せ戦もする、
これは戦が仕事の事で、これ以外に読んでいて、シジスモンド・Pが住民や
家臣相手に残虐さを見せた、というのは見当たりませんし、
徹頭徹尾に大悪党に仕立て上げているのが分かります。

まさに頭に血の上りきった有様で、こういう権力者が相手ではどうあがいても勝てず、
教皇の目を気にし、傭兵隊長に雇う側も少なくなり、
ここぞとばかりモンテフェルトゥロは領域に攻め込み、苦しめます。



当時のイタリアの勢力範囲図をどうぞ。

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薄い黄土色のStato di Pontificioが教皇領で、この中をそれぞれに
委任を受け治める形で、マラテスタ家があり、モンテフェルトゥロ家が存在するわけで、
破門を受ける事は半ば追放に近く、自領土も遂にリミニの街のみに。

こうしてシジスモンド・Pは、きつい事が分かっていて誰も引き受けないヴェネツィア
共和国の仕事、ギリシャに出かけてのトルコとの対戦の仕事を請け、出かけ、
結局消耗し疲れきって戻ります。

漸くに、失礼! 1464年にピオ2世が逝去し、1466年新教皇パオロ2世の元、
ローマに出かけ、トルコとの対戦での褒章に、元の領土の返還を願いますが、
こちらも狐の教皇で、出来るだけ長くローマに引き止める間に、
秘密に兵を動かしリミニまでをも乗っ取りに出るほど!

気が付いて怒り狂うシジスモンド・Pに、1500ドゥカーティの褒章が渡され、
漸くに和平が整うものの、1468年春、教皇側の軍として出かけたノルチャで病を得、
同年10月遂に帰らぬ人に。 未だ51歳の若い死でした。

彼のロマーニャ地方一帯をしっかり自領にする夢も、テンピオ・マラテスティアーノの
建設も、すべて未完のままに終わり、先回絵画館の絵でご案内した様に、
彼の孫の代パンドルフォ4世で、マラテスタ家も絶えます。

彼の愛した妻イゾッタは、その後修道院に引きこもり亡くなったとも、
シジスモンド・Pの跡を継いだ継子ロベルトに毒を盛られたとも・・。
       


SとI、シジスモンド・Pとイゾッタの名前の飾り文字の入ったマラテスタ家の紋、
これがテンピオのどこにあったのか思い出せませんが、こうして今に残る2人の印。

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シジスモンド・Pの生涯の敵であったフェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロも、
彼の死後は息子に跡継ぎが生まれず、家が途絶えますし、

当時の小領主として、いずれは絶える運命の家柄だったのかもですが、
大変鮮やかに生きた男、という感銘をも受けますし、
冷酷非情と評判の男の隠された内面心情が、なかなか良いではありませんか?!

一方的な権力者側の非難のみでなく、最近の研究によってもあれこれ明らかな
領民にとっての良い領主であった事、詩作もし文化芸術のパトロンでもあった
シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタのお話、

長々と書きましたが、どうぞお楽しみ頂けました様、願います。
お付き合い、有難うございました!



最後はサイトから拝借の写真で、リミニの空気を。

夜の灯の中のテンピオ・マラテスティアーノ

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夕暮れのリミニの海

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2千年を生き、未だ現役のティベーリオ橋

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そして、アウグスト門

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夏の夜の賑わい、リミニの浜、ディスコテーカ

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年越しの夜の花火

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・ n.3 リミニ ・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタとその周辺 の1

リミニのご案内3回目、いよいよ最後の大詰めとなりましたが、はは、
うまく纏まる様に頑張ってまいりたいと思います。

今回のご案内の主たるものはタイトル通り、「リミニの狼・ルーポ・ディ・リミニ」
と呼ばれ恐れられた、15世紀のロマーニャ周辺一帯の領主
シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ・Sigismondo・Pandolfo・Malatesta.
彼の事をもっとよく知りたい、の好奇心はもう何年来もの宿題でした。

ですが何せ相手が大物で、当時の情勢も知らぬままあれこれ読んでも
笊で水をすくうようなもので、 ははは。
それでもあちこちで彼の名に出会うたびに少しずつにじり寄り、
少し前のグラダーラのお城のご案内の時に遂に覚悟を決め、・・大げさなぁ!
       
まずは彼の墓所であるテンピオ・マラテスティアーノ・Tempio Malatestino
のご案内をしつつ、ご紹介したいと思います。

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彼についてはサイトでの日本語情報が余り無く、それも一方的なもので、
武人としては優秀でも残忍冷酷で妻殺し、などという事ばかりですが、
あれこれ読みだんだんに分かってきた事は、詩も書き、芸術家達のパトロンでもあり、
政略結婚の妻を、しかも2人!殺した様ですが、ははは、と笑うと不謹慎ながら、

見初めた3番目の妻にはぞっこんで、当時の武人としては珍しく政治的条件抜きで
結婚し連れ添う、という、大変に純情直情な、可愛い男でもある様な・・!

彼をご贔屓のshinkaiとしては、時代の波にもまれ消えていった、15世紀の
一領主のそんなこんなをご披露したく存じますので、よろしくお付き合いのほどを! 

上の写真はテンピオ・マラテスティアーノの正面、左奥に鐘楼が見えるのをご覧頂こうと。
今回掲載の写真も例により、ブログのサイト名が入っていないのはサイトからの拝借で。



テンピオ・マラテスティアーノに行く前に、やはりリミニに残るシジスモンドの城、
要塞であり居城でもあったカステル・シスモンド・Casrel Sismondoをどうぞ。
この写真は城の裏側のもので、

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正面側はこんな感じ。

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行った時はちょうど印象派絵画の展覧会開催中で、威圧感ある要塞の壁に
大きな印象派のポスターが、しかも女性像なんかが下がり、何となしがっくり、ははは、
おまけに周囲はご覧のように大駐車場となっていて足元も見えず・・!

チャンスを見て出直し、内部も見たいと思っていますので、本来はこれらの周囲を
城壁が取り囲む、大規模な物だったようで、お城のご案内はまたいつかの事に。



街の中心の地図をもう一度。 左下に城があり、先回ご案内の博物絵画館は
真ん中上に。そこからまっすぐ東南に辿ると、テンピオ・マラテスティアーノ。

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この道はそう広くもなく、街外れの感じのある道。 今見えるアーチは15世紀の
お屋敷があったのが、第2次大戦で爆撃されたそうで、内部は何もなしの草地で。

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道の先にテンピオが見えてきた時。 道はまっすぐ行き、テンピオは脇にあるので、
こんな風に半分が先に見えます。

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テンピオ・マラテスティアーノの正面。 通称テンピオと呼ばれていますが、
地元ではドゥオーモで通り、正式にはバジリカ・カッテドラーレ・サンタ・コロンバ・
Santa Colomba.

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検索をかけましたら教会のサイトが出て、にっこり司教様の写真やミサの時間等で
一瞬泡を食いましたが、ははは、まさに現在も教会で博物館ではないのでした。



正面扉の上部と円柱の柱頭、マラテスタ・パンドルフォの名も見えます。

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元々9世紀の教会があり、12世紀にゴシック様式のサン・フランチェスコ教会に、
が建物も小さく、14世紀初頭からマラテスタ家の墓所となっていたのを、
15世紀半ばにシジスモンド・パンドルフォが壮大な霊廟とすべく、当時の著名な
設計建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ・Leon Battista Albertiに
設計改築を依頼し、内部の装飾にも当時の一流芸術家を招いたというもの。



内部、入り口から内陣に向かって。

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祭壇奥にかけられた、ジオット・Giotto作と言われる十字架。

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内部はご覧のように一廊式で、両側に4つずつの礼拝堂。 こちらは左側。

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そして右側。

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右側一番奥に、

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はい、こんな形で、シジスモンド・パンドルフォの姿。 フレスコ画は
ピエロ・デッラ・フランチェスカ・Piero della Francescaの作、1451年。

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聖シジスモンドの前に跪く、シジスモンド・パンドルフォ、というタイトル。

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こちらでは毎日のカレンダーにその日の守護聖人の名が書かれていて、別の日に
生まれてもその聖人と同じ名を持つと、オノマスティコ・onomasticoといい、
その聖人の日におめでとうを言ったりするので、同名の聖人に守護を願う姿でしょう。

聖シジスモンドとはどんな人かと調べると、ブルグンド族!フランス東南部に行った
ゲルマン民族の6世紀の王で斬首され殉教、蛮族として聖人となった最初の王らしい、
というのだけ何とか分かったのですが・・!
どういう経過なのかも読んでも何も分からず、ははは、と力なく・・、
左手に持っている球も何を現すのか、まるで分からず・・、
どなたかの、クリスさんあたりかな、ご教授をお待ちいたします!

* 追記 * 
クリスさんより、聖シジスモンドが手にしているのは、王の象徴である杖と宝珠 
と教えて頂きました。 有難うございましたぁ!
       


ルーヴル美術館所蔵の有名なシジスモンド・パンドルフォの肖像画と、
あちらはテンペラ画で後ほどご覧頂きますが、同じ画家の手とはいえ、そっくり!
ですが今回、後頭部の膨らみが直されているのに気が付きました!

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全体図を見ると、当初の背景は濃い色、黒かそれに近い色で埋められていたのが
分かりますから、となると、この手直しは一体誰がぁ? というミステリー!
まぁ、白い背景の中、白に近い衣装となると、この頭の大きさでちょうどバランスが、
とは思いますがぁ・・。



背景の丸窓の中に見えるカステル・シスモンド。

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そしてその手前に交互の向きで座るワン君2頭。 手前の白いワンちゃんの、
本当に美しい姿!これだけしか描いていないのに、しっかり肉が詰まっている!!

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ピエロ・デッラ・フランチェスカはフレスコ画の下描きに、原寸大下図を作り、
線に沿って小穴を開け、タンポンで叩いて下塗りに印をつけた様で、
白い方のワンちゃんの延ばした首から肩、手前の前足、肘、背中の流れ辺りにも
しっかりポツポツが見え、なんとなし、こういうのはちょっと嬉しい発見!



実はこのテンピオには、お昼休みで閉まる直前に飛び込み、ピエロの絵はしみじみと
眺めたのですが、他は写真を殆ど撮る暇が無く、おまけに管理人が話しかけて来て、
コネリアーノ?! あそこはプロセッコが旨いよね、とか・・!
   
という事で、サイトで見つけた写真で細部をご覧ください。
象の姿はマラテスタ家に所縁があるのだそうで、白い大理石に金と青の手の込んだ
素晴らしい装飾。 諸所に散らばって見える、SとIの組み合わせ紋にご注目を。

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建物の設計はルネッサンス期の著名な建築家のレオン・バッティスタ・アルベルティ
によるもので、大変に荘厳ですっきりした正面壁をご覧に入れましたが、
結局このテンピオは未完のままに・・。

アルベルティは美術にも古典にも法学にも数学にも秀でた人文主義者。
レオナルド・ダ・ヴィンチよりも半世紀ほど前に生まれ、その多方面への才能の発揮で
「万能の人」と呼ばれた最初の人で、建築以外の実作品が残っていないのが残念。

内部の装飾はマッテオ・デ・パスティ・Matteo de' Pastiの設計や、大理石の
浮き彫りなどはアゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ・Agostino di Duccioの手になると。

このテンピオは1447年シジスモンド・パンドルフォが改築を決め、シジスモンド・Pは
(以下この様に省略を・1417-1468)当時30歳、
2度目の妻ポリッセーナ・スフォルツァ・Polissena Sforzaが1449年に死亡した後、
その2年前から関係のあったイゾッタ・デッリ・アッティ・Isotta degli Attiとの
事実を公にし、ここを2人の墓所とすべく・・。

上の写真に見えたS・シジスモンドと、I・イゾッタの頭文字を組んだ紋が至る所に、
はぁ、至る所に見え、・・この一途さ!



教会はその後も増改築を重ねますあ、これが古い往時の様子。

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第2次大戦の爆撃でこの内後陣部は破壊され、現在はジオットの十字架のみで。

マラテスタ家代々の墓所教会といいますが、買って戻ったガイドブックと、検索して
読んだものとちょっと違い、私もしっかり現場で見ていませんので、
どの礼拝堂が誰のとご説明できませんで、ご容赦を。



さてこちらが、ピエロ・デッラ・フランチェスカ描く所のルーヴル蔵の、
シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ像。

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1451年頃の作といいますから、フレスコ画製作と同時期ですね。      
酷薄そうな鋭い目と薄い唇が特徴の顔ですが、1417年に、先回見て頂いた
濃い赤の胴着・ファルセットの主であるパンドルフォ3世の次男として、
父親の愛人アントーニア・ダ・バリニャーノ・Antonia da Barignanoとの間に誕生。

時に父親47歳、シジスモンド・Pより6歳上の兄と、こちらはまた別の愛人との子
とも言われ、はぁ、一つ下の弟との3人兄弟で、
1427年シジスモンドが10歳の時父親が亡くなります。

こうしてリミニの伯父カルロの元で育ち、伯父は何とか教皇に3人の実子認可を貰い、
1429年の伯父の死後、シジスモンド・Pの兄ガレオット・ロベルト・マラテスタ・
Galeotto Robertoが後を継ぎますが、1432年僅か20歳の若さで亡くなり、
こうして15歳でシジスモンド・Pがリミニの領主に。

早くから軍事に才能を発揮し認められ、1435年には教皇軍の隊長として名が載り、
槍騎兵隊長としてデヴュウを。



彼の肖像としては、上でご覧頂いたピエロの横顔が有名ですが、フィレンツェの
メディチ・リッカルディ宮の有名な礼拝堂にあるベノッツォ・ゴッツォーリ・
Benozzo Gozzoliの壁画にも登場しているのを知りましたので、どうぞ。

有名な「マギの礼拝」のフレスコ画のこの場面の左隅最前列、

31-agi.jpg



一番左がシジスモンド・P、右の白馬がミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・
Galeazzo Maria Sforza.

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壁画が描かれたのが1459年、シジスモンド・Pが42歳 ガレアッツォ・M.Sが14歳。
それ以前に画家が見た記憶、または聞いた話、想像で描いているのでしょうが、
皆さんどなたもが可愛いお顔で・・!

殊に画中真ん中のにっこり美男貴公子がロレンツォ・イル・マニーフィコと言うので、
まぁ、物凄いヨイショというか、ははは。
     
ガレアッツォ・マリーアは、スフォルツァ家に変わって2代目のミラノ公で、最後の
ヴィスコンティ家のフィリッポ・マリーアの庶出の娘ビアンカ・マリーアと
フランチェスコ・スフォルツァとの子。 大変残忍な性格で、結局暗殺され・・。

メディチ・リッカルディ宮 ・ フィレンツェ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464156876.html

n.1 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464968600.html

n.2 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464968932.html

n.3 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464969065.html

n.4 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464969267.html



さてこちらも有名なピエロ・デッラ・フランチェスカ描く所の
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロ・Federico da Montefeltro.

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フェデリーコ・M(1422-1482)はすぐ南隣マルケ州ウルビーノの領主で、
シジスモンド・Pとは積年の宿敵。

フェデリーコ・Mはほぼ一貫して教皇側で、つまり教皇側の傭兵として働きますが、
シジスモンド・Pは国を治め、敵のフェデリーコ・Mと戦う為にも、自領を整備美化
するにも大資金が必要で、傭兵隊長としてより多く払ってくれる側と契約し戦い、
鮮やかに勝ちを収める、それがまた逆に憎しみを買った部分もありそう。

日本で読み知っていたフェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロの姿は、軍事にも優れ、
ルネッサンス文化をウルビーノに持ち込んだ宮廷文化とか、芸術文化のパトロンで、
という様な優れた武人の説明が多く、shinkaiもそれを鵜呑みにしていましたが、

こちらであれこれ読み知ると、なかなかそんな生易しい物、人物ではありませんで、
当時の教皇領の一部である自領を収め収益を図り、傭兵隊長として戦に出かけ
勝つことでまた教皇との関係を図っていく、という中で、
かなりあれこれきわどい事もし、第一にまずウルビーノの領主となる為に腹違いの弟、
彼は庶出の生まれで弟は嫡子が、行い粗暴の嫌われ者であったようですが、
その弟を殺害し領主に、という経緯もありで。 

今日はご説明しようと思う事が大きすぎ、単なる人物伝となっても詰まりませし、
なぜ彼シジスモンドの評判が悪くなったかをご説明したく、奮戦中ですが、はは、
長くなりましたのでここで一応お終いとし、シジスモンドのその2として続けますね。


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