・ n.1 リミニ ・ モザイクの魅惑と、外科医の住居

今日のご案内は、イタリアはアドリア海沿岸にある超有名な大海水浴場
リミニ・Riminiです!

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が、海岸とホテルのご案内でも、街出身の映画監督フェデリコ・フェッリーニ・
Federico Felliniでもなく、ははは、
実はこの街はローマ期からの、いやそれ以前からの定住民がいて、
ローマ期の遺跡が残っている事でも有名なのですね。
現在はサン・マリーノ共和国への、バス便の連絡地としても賑わっている様ですが、

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リミニと言うと、shinkai的にはマラテスタ家!
先回ご案内のグラダーラの城にも登場の、「リミニの狼」と呼ばれたシジスモンド・
パンドルフォ・マラテスタの城が、そして墓所が残っている事でも有名。

そして、リミニの街の博物館訪問の時に見た多数の素晴らしく見事なモザイク群、
近年漸くに一般公開されたという興味深い外科医の家、
絵画館で見たジョヴァンニ・ベッリーニと、ドメニコ・ギルランダイオの美しい絵、
シジスモンドの横顔が刻まれたメダル、貨幣・・ecc ecc.

ご案内したいけど、こんなにたくさんの物をどの様に?!
それに初めてのリミニ訪問で、見落としもたくさんある・・、     
テなことで、あれこれ迷いましたがぁ、えい、ままよ、なるようにしかならんぜよ、
と思い切り、ははは、見切り発車と致します!

で今回はローマ期のモザイクの美しさと、発掘された「外科医の家」に絞り
ご覧頂くことに・・。 ごゆっくりどうぞ!

サン・マリーノ共和国 ・ 絶景かな、絶景かな!!
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463938760.html



ローマ期のリミニの町の地図をどうぞ。
紀元前268年、アリミヌム・Ariminumuと呼ぶ植民地をつくり、
左を囲む太い破線が最初の町の壁、そして上の点線が後の壁。

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この町の大きさは現在のほんの中心地にあたり、町の名アリミヌムの起こりである
アリミヌス川、現在のマレッキア・Marecchia川が海に注ぐ海岸線がすぐそこ、
現在の鉄道駅の辺りまで来ていた事が分かります。

良港を持ち、町の外れに野外闘技場・アレーナ、ここは現在ほんの少しの壁が残り、
ローマとを繋ぐフラミーニア街道・Via Flaminiaが右下から町を真っ直ぐ通り抜け、
町入り口に残るのがアウグスト門・L'Arco d'Augustoで、
町の北で渡る橋がティべリオ橋・ Ponte di Tiberio、いずれもローマ皇帝の名が。

フラミーニオ街道はローマからリミニまでで、この後ラヴェンナを通り
北西に続くのがポピーリア・アンニア街道・Via Popilia-Anniaで、
パドヴァからアクイレイアを通り、現トリエステまで。
で、リミニから西に向かうエミーリア街道・Via Emiliaが現在のピアチェンツァ迄と、
この町は交易の重要基点でもありました。

地図に見える真ん中の斜線部分はフォーロ・Foro・ローマ期の政治商業の中心広場
があった場所で、この近くに劇場があった様子。
今日ご案内するリミニの市博物絵画館は、赤点を付けた辺りに。



こちらが現在のアウグスト門で、白い部分が紀元前1世紀の物で、
その周囲の煉瓦は後の時代のリサイクル活用で・・!

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こちらはティベリオ橋、1世紀の建設。

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shinkaiが本当に仰天したのは、この橋は未だに現役、車がビュンビュン通り!

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使われている石も大きいですし、ちゃんと歩行者用部もあり、写真略ですが
雨水の捌け口もあるのですね。

尚驚いた事に、この2千年を生き抜いている橋は、第2次大戦中の爆撃にも耐え、
修理部分は石ではなく煉瓦で!
ドイツの戦車部隊も通ったという、素晴らしい設計の立派、見事な橋!!



橋の上から。 かって流れていた川は流れを変えられ街から離れ、
以前の川はここで湖の様になり、公園が広がります。

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現在の街の中心地図をどうぞ。 左上にティベリオ橋が見え、真っ直ぐ南に
コルソ・アウグストが、アウグスト門に続き、
左下にカステル・シズモンド・Castel Sismondo.

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訪問した市の博物館と隣接の外科医の家を赤線で囲いましたが、
前の道を真っ直ぐ行くとシジスモンドの墓所・Tempio Malatestiano.
済みません、この図を見ていて、上のローマ期の地図に付けた博物館の
位置がかなり下がっている事に気がつきました!
      


という事で、博物館方面に向かったのですが、どこか分からず、ちょうど見つけた
ポリさんに聞くと、彼も分からず、ははは、隣の同僚に。
何の事はない、すぐ斜め前のこの建物!

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はい、リミニ市博物館は、元のイエズス派の寄宿学校で、手前が入り口、
・・向こう側もで、中で繋がっております。



ローマ人がここに植民地を持つ前からの、ウンブリ族、エトルスク人、ケルト人、
そしてギリシャ人などなどと続き、ギリシャの展示物もあり写しておりますが、
モザイクに絞る事にし、その他の物はほんのちょっぴりを・・。

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さて、床モザイク! Youtubeを見ていたら、リミニの歴史教授が
「リミニにはモザイクはいっぱいあるんだ」と豪語しておりましたが、
はい、実際に見た今は素直に、ごもっとも!と申し上げます、ははは。

上の白黒の単純な形と、下の多色の石使いの色の取り合わせ、綺麗でしょう?!

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白黒の幾何学模様。 はっきり、くっきり、時に繊細さも・・。

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多色モザイクはビザンティンの影響か、色と柄が絡み合い、素晴らしい効果!

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これは大きな作品で、線の柔らかさ、図柄のモダンさに、とても魅かれたもの。

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写真はもっともっとあるのですが・・!
shinkaiがゆっくり見ながら次々と写すので、管理の女性が、壁に展示せずで
立てて収納してあるのも、次々と引き出して見せてくれ、

隣に、近年発掘の素晴らしいのが展示されているので、是非見るようにと
教えてもくれたのでした。

ローマ期の家の発掘については、マルケ州のこちらもどうぞ。
       

オデルツォ ・ 3000年前、既にヴェネトの中心地
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462784598.html

n.1 ラヴェンナ ・ モザイク詣で
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463938572.html

n.2 ラヴェンナ ・ モザイク詣で
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468770205.html



博物館の中庭の眺め。

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後先の順序が交ざりますが、博物館の入り口が奥に見え、隣の教会の手前に
低いガラス張りの建物が見えますね。
これが2007年から一般公開されている
外科医の住居・Domus del chirurgo・ドムス・デル・キルルゴ。

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住居跡の図面で、見える床モザイクはこの発掘跡に残され、現場で見られるもの。
この世界で唯一といわれる外科医の住居の発掘は、1898年のこのフェッラーリ広場・
Piazza Ferrariの見直しによって発見されたもので、700平方mの広さ。

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10年の歳月をかけた忍耐強い研究と共に蘇り、
床モザイクの発見のみならず、住居の主が外科医であった事を示す、150点にも
及ぶ外科手術用の器材、中にはここでのこの1点と言う手術用具もあり、
その他に住居の様子、主の好みまでもが偲べる素晴らしい発掘だった様子。

発掘の後、一般公開の為の法律の制定、建物の設立と、漸くに18年後の
2007年12月からの公開なんだそう。
 
発掘に伴い、この2世紀に建てられたと推測される住居の上に、中世初期の
住居跡があり、そして地下には大きな墓地があった事も分かり、
この外科医の家は多分260年、ドイツからのアレマンノ民族の襲撃で町が炎上し、
この家の屋根が焼け落ち、為にほぼ完璧な姿で、約2千年近く眠っていたものと。

細かい点に至るまで分かるのは、勿論研究者達の賜物で、
寝室に残っていた患者のものと見られる落書きの”Eutyches homo bonus”・
エウティケスは良い人、から、この家の主がEutyches・エウティケスという名の
ギリシャ人で、評判の良い医者であったろう、という事まで。

裕福なだけでなく、教養があり洗練された趣味の持ち主で、
その東方好みは家の中のあらゆる所に見られると。

小さな入り口を入った所に小部屋があり廊下に通じ、廊下の片側には中庭があり、
そこから家族用の幾つかの部屋にと、いわば職住分離の大きな家。
居間が2つ、その1つは外科医の診療所であり、患者の診療、手術が行われ、
時には入院患者の収容も。

寝室が1つ、温められた小部屋もあり、トイレと、キッチンと食料保存庫が2階に。



と言う様子で、博物館内に、その住居の様子を偲んでの一廓が設えられており、
少し小奇麗過ぎる感じもしますが、まぁ、こんな様子であったろうと。

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机の上に見える様々な医療器具。
発掘で見つかった器具の中には世界で唯一という、「ディオークレのスプーン・
Cucchiaio di Diocle」と言うのがあり、長い柄の先に、真ん中に穴の開いた
薄板が付いていて、これは矢の先を肉から抜き出す為のものだそうで、
見つかった他の手術用具からも、彼は軍医、それも整形外科医であったろうと。
       
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部屋の装飾も単に裕福なだけでない、洗練されたオリエント好みと。

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こちらは発掘された医療器具類で、一番左端のはちょっと恐ろしいなぁ・・!

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この大きなモザイクは、主が診療室にしていたとみられる部屋のもので、
真ん中にオルフェがいて、周囲を森の動物達が囲みます。
ギリシャ神話のオルフェはアポロの息子で竪琴の名手。 彼が竪琴を奏でると、
どんな動物も耳を傾けた、とか。

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ね、こういうお話のモチーフを選ぶ外科医だった、と想像すると、
俄然興味深くなりません?!



という事で、最後はサイトから写真拝借で、こちらは公開されている発掘場所。
外光が差し込む透明な通路を歩きながら見物できると。

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私は時間外で見物できませんでしたが、次回には!



最後のこの練りガラスで作ったものは、外科医の家の食堂にあったものだそうで、
彼がギリシャ人だった、というのも素直に頷ける様で、素敵でしょう?!

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単に発掘現場を見ても、我々素人にはモザイクの美は分かっても、
その家の主がどうだったか、などとは到底想像できませんが、
今回はあれこれ読むのもとても楽しめました。

発掘品がちょっと特殊であった事、とても良い保存状態だった事もあり、
次々とまるで謎解きのように、明らかになる様々!

皆さんにも、どうぞ上手くお伝えできておりますように!


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・ ヴィッラ・コルデッリーナ ・ モンテッキオ・マッジョーレ

先月末に出かけた「ヴェローナのモネ展」の前に寄ったヴィチェンツァ西の
モンテッキオ・マッジョーレ・Montecchio maggiore.

この町のパッラーディオ風のヴィッラ・コルデッリーナ・Villa Cordellinaが、
今日のご案内です。

特別有名でも豪勢な館でもないのですが、ここの大広間にあった
ジャンバッティスタ・ティエポロ・Giambattista Tiepoloの大きなフレスコ画2面と
天井画の素晴らしさに魅せられたのと、

深い霧の朝、高速を走るバスの窓から撮ったヴェネト平野の風景がなかなか美しく、
それもご覧頂こうと思います。

まずは7時に集合出発、暫くして霧の中に見えてきた太陽。
 
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この日の予報は雨になる、平地でも雪に、と散々で、皆覚悟してしっかり着込み、
足元も厳重に傘も持ち、という様子でしたが、最初こそ曇り日の霧の風景だったのが、

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少しずつ晴れ間が見え始め、青空も感じるようになり、

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ヴィチェンツァ手前の幾つかのトンネルを潜る頃にはすっかり晴れ!
この辺りの、トンネルの上の丘に見えるヴィッラの点在風景は、
通る時いつも、良いなぁ、と眺める好きな場所なのですが・・、
う~~ん、こうして撮ってみると、どうも上手くイメージが出ていませんねぇ・・。

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地図をどうぞ。 ヴィチェンツァ・Vicenzaにはコネリアーノからだと120kの距離、
約1時間10分ほど。 目指すヴィッラ・コルデッリーナはモンテッキオ・マッジョーレの
町の北東ヴィア・ロヴァーラ・Via Lovara36に。

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ヴィッラ見学の後、また高速でヴェローナに向かいましたが、
地図に囲ったソアーヴェ・Soaveは白ワインで有名な町。



狭い道をそろっと抜けつつヴィッラ前に到着。 道を挟んで向かい側に駐車場あり。

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この辺り、本当に長閑な丘陵地の眺めが広がり、

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丘の向こうには、小さな村々が点在します。

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そして、ヴィッラ・コルデッリーナの裏正面。

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建物の左脇には厩舎とバルケッサ・納屋が続き、その間を抜けていきますが、
厩舎、納屋への壁の上にも、こんな彫像が並び、

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分かります? 馬首の像が付いているのが・・!
はぁ、まぁ、高級車のガレージというわけでありますがぁ・・、

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さて正面側に回ってきまして、広がる前庭の眺め。
何せまだ低い朝の光が強すぎまして、色が飛び・・!

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ヴィッラ正面。 パッラーディオ風そのものですが、少しそっけないかな・・、

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上部、神殿風タンパン部と、

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真ん中にあるコルデッリーナ家の紋。 ハートが3つに、上の花は麻と聞いたと。

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コルデッリーナという姓はコールダ・Corda、ロープとか綱に由来し、
元からのヴェネツィア貴族ではなく、ロープを扱う商人だったと。

このヴィッラを建てたのはカルロ・コルデッリーニ・Carlo Cordellini
(Venezia 1703-Vicenza 1794)で、父親は彼がまだ若い内に亡くなった弁護士で、
カルロも弁護士になったのですが、これが大変敏腕の弁護士、おまけに面倒見がよく
熱情込めた仕事ぶりで、その生涯に素晴らしい財産を築き、名声も得たという人物。

このヴィッラを建てたのは1735年から42年にかけてで、納屋の建設もすべて済んだのが
①760年ということで、カルロが30代から40代の事。
この他にヴィチェンツァの街中にもヴィッラを持ち、息子の代になり、その遺言から
法人の学校も作っている様子で、その財をご想像あれ!



建物の向こう側のバルケッサかな、と庭の彫像。

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こちらが全体上からの写真、サイトから拝借で、広いでしょう?!

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正面から階段を上がった所の床のモザイク柄、やはり家紋のハートと花。  
可愛いですよね?!

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内部は写真禁止で、ガイドさんが素晴らしく優秀で美人さんでしたので、
今回はshinkaiも大人しく規則を守りまして、ははは、写真なし。

で、サイトで必死で探してきたのがこれ、広間の様子。

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我々もこうして座って両側を眺めましたが、この大きさのフレスコ画、そして天井にも!

今迄あちこちでジャンバッティスタ・ティエポロの絵や壁画を眺め、
恐ろしく腕達者で華やかな絵だ、とは思っていたのですが、
今回はなぜかとても親しく感じ、その光溢れるような絵の世界に浸りました!



上の写真の右になる「アフリカのスキピオ将軍」 ローマ期の軍人の逸話で、

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こちらは「アレクサンダー大王」

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天井画

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絵画モチーフの逸話についてガイドさんが話しておられましたが、
まぁ、歴史の逸話も知らずで頭に残らず、ははは、
ただただ光溢れる空間と色のハーモニーに浸っておりました。



そんな以前ではなく、ヴェネツィアのカ・レッツォーニコで見たティエポロの、
有名な天井画はこれ。

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余りにも華麗すぎて、はぁ、はい、拝見いたしましたぁ、で済んだのですが、
はい、貧乏性のshinkaiでして、ははは。
       
ガイドさんの説明の言葉に、コッチョペスト・cocciopestoというのがあり、
ティエポロはこれを使っていたので、全体に赤茶系の柔らかいトーンが出たのだと。

隣をつついて、なに、あれ?と聞きましたが、知らない、というので、
ガイドさんに質問すると、
いわゆるテラコッタ・粘土の素焼き、を砕いて絵の具に混ぜたのだ、という事。

成程!とは思いつつも、今回もう一度調べましたら、
コッチョペストはやはりテラコッタを細かく砕いたもので、これと石灰を混ぜると所謂
防水状態になり、古代から水道の内側とか建物の壁の上塗りに使われたのだとか。
       
ヴェネツィアでもよく見る床の模様柄、このヴィッラの入り口、紋章入りもそうでしたが、
すべすべと大理石風に見えるのも、このコッチョペストと知りました!

テラコッタ、はお分かりですね。
赤茶色の軽くてもろい素焼きのもので、植木鉢も、建築用煉瓦もテラコッタで、
色柄の派手な食器類もこのテラコッタに釉薬をかけて焼いたものですね。
なので絵の具に混ぜて使うには、かなり密に細かく潰す、挽くという感じで準備したと。
       
フレスコ画というのは、下塗りをした壁の上に、当日描けるだけの範囲の上塗りをし、
それが乾かないうちに、絵の具を水で溶いて描きますが、
描くモチーフが大きいですから、下描きの方法がいろいろあります。

画家によっては、シノーピオと呼ばれる、赤茶色で下描きを直接し、
薄い上塗りに透けるのを辿って描くとか、
原寸大の下描きの線に小さな穴を開け、タンポンで叩いて色の点をつける、
とかいろいろあるのですが、

ティエポロは型紙を作り、切り取り、それにそって細い釘の先の様なもので引っかいて
線を付けた様子で、絵の下部の線などは肉眼で確かめる事が出来ました。

お陰様で初めてという程に、ティエポロその人にも興味を持って読みましたが、
18世紀のヴェネツィアにおいて、ヨーロッパ各地にも出かける程に、華麗で明るい
画風が持てはやされ、既にキャンバスに油絵の時代においても、
稀代のフレスコ画家であった事も知りました。

ヴェネツィアは海に面した湿気の多い街で、残るフレスコ画はどれもがたいがい
湿気にやられて剥げ落ちているのが多いので、私はてっきり、彼の作品はすべて
キャンバス地に油絵で描いたものと思い込んでいたのでした!

なので尚更、この光溢れる、それでいて豪華絢爛すぎない、・・これは何度もの
修復のせいかも知れないのですが、この大きさで、この筆勢の達者なのが
フレスコ画と知って驚きもし、新鮮なイメージを受けたのかも知れません。

このヴィッラのティエポロ(1696-1770)の作品は1743年、47歳の作品で、
1770年スペインのマドリッドで74歳で亡くなっています。



建物を出て厩舎に寄ったのですが、そこで旧いままの床煉瓦を見て、
ついパッシャッと、ははは、いつもの条件反射的に撮ったのをどうぞ!

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バスに乗り込み、ぐるっと建物の前の道に出て来て、

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モンテッキオ・マッジョーレの町中を通り抜ける前に、山の上に見えた中世の城。
ずっと以前1度行った事がありますが、山の上に城が2つ少し離れてあり、
それぞれがロメオとジュリエッタの城と呼ばれております。

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えっ、シェークスピアのお話はヴェローナが舞台だよ、と思われたでしょう?
ですがねぇ、この町の名もチラッと記録に登場するのもあるそうで・・。
つまり、調べれば調べるほど、あやふやな2人のお話になるのだとか・・!



さて、高速を行くバスの窓からの眺めですが、ここにもパッラーディオ風の
教会の正面が見え、ちょっと変わった鐘楼ですねぇ・・!

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こちらはソアーヴェの町とお城、山上の城から城壁が町に降りてきて、
取り囲む様子も見えますね。
     
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ソアーヴェ ・ Soave ・ 中世の城と、白ワインの町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462246865.html



葡萄畑の広がる丘の上、ぽつんぽつんと見える農家、塔。
少し狭いけどトスカーナみたいねぇ、とお喋りしつつ、

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1時間弱でヴェローナに到着、お疲れ様でしたぁ!

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・ n.2  グラダーラ   城  と パオロとフランチェスカ 

先回からご案内のマルケ州はグラダーラ・Gradaraの城。
この城、要塞はたくさんの歴史に遭遇しつつ生き残り、またその修復に情熱を
かけた方がおられ、現在の姿である様子をご案内しておりますが、

今回はその後半あれこれと共に、城の名を高めるダンテの「神曲・地獄篇第5曲」
に謳われる「パオロとフランチェスカ」の愛のお話を、
サン・ヴァレンタイン・デイに因みまして、へへへ、お贈りいたしますです。
ごゆっくりどうぞ!

写真は、城と町を800mに渡りぐるっと取り囲む城壁の上を、
かっての見張りの兵士の気分で歩ける、と言う見学コースのご案内。

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嬉しがりのshinkaiは即申し込む気になったのですが、残念、偶々閉じられており!



城壁の内側はこんな様子で、すぐ間近まで家が迫っており、

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間に多角形の塔が挟まります。

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傍らのお家の前に並ぶのは。

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さて、この城・要塞を舞台に繰り広げられる夏の一大行事のお祭りは、
「城の襲撃・アッセーディオ・アル・カステッロ」。

先回もちょっと書いた、1446年に実際にあった43日間に及ぶ城への襲撃を偲ぶもので、

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まぁ早い話が、中世の回顧祭り、大人のチャンバラごっこみたいなもの、失礼!と
想像しますが、
実際の襲撃は、かなり凄惨な籠城戦だった様で、聞いてやって下さいませ。

事の起こりはペーザロ・Pesaro、グラダーラから15kほど南に位置しますが、
そこの領主ガレアッツォ・マラテスタ・Galezzzo、

彼はリミニ、そしてグラダーラの領主でもあるシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ・
Sigismondoの従兄弟に当たるそうですが、
そのニックネームがl'Inetto・イネット・役立たず、馬鹿 だったそうで、ははは、
他のマラテスタ家のメンバーに似つかぬ、個性なし勇気なし。

自分が軍を指揮せず傭兵を雇うために、その借金がかさみ、遂に1444年にペーザロを
2万フィオリーニでフランチェスコ・スフォルツァ、後のミラノ公に、
1445年にフォッサンブローネ・Fossambrone、ウルビーノの南西に位置する、
をフェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロに1万3千フィオリーニで売り払います。

すぐ隣を、領土拡大野心に満ちた敵側に囲まれ、危機感が募るグラダーラ・リミニ。
       
そして1446年の10月、シジスモンドは教皇エウジェニオ4世・EugenioIVに召還され、
これは教皇庁への税の支払いに感謝する「金の甲冑」の受け取りでしたが、
その隙にフランチェスコ・スフォルツァの軍がグラダーラの城を包囲します。

連盟軍はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロを始め、グイダッチョ・ダ・ファエンツァ、
シモネット・ディ・カステル・ディ・オイエロと名が並びます。

近くの城は落ち、グラダーラの籠城戦が始まり、冬に向かい飼葉や食料の不足も出始め、
急ぎローマから戻ったシジスモンドも9回に渡り外側から攻め、緊急食料を届ける急襲も。
負傷者死者も多くなる城、要塞側で、このままでは長く持たないと判断した
シジスモンドは若い従者・騎士を呼び、
敵の包囲を突撃し、城内に必要な味方と糧秣を届けるだけの勇気があるかと問います。

これに答え、パオロ・ダ・モンテストゥリドーロ・Paolo da Montestridoloは
  我が殿、君にお仕えするためならば、他に従う方々同様
  一日に千回死ぬ事も厭わず、殿の赦し以外に褒賞は何も望みません、と。
こうしてこの突撃は大きな損失もあったものの、城内に味方と食料を届ける事に成功し、

一方シジスモンドはフランチェスコ・スフォルツァの舅に当たるミラノ公である
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに、彼の為に働くとも持ちかけ、その仲介もあり、
ここに遂に43日間に渡る包囲戦が解けたと言うお話ですが、

これだけの大軍に囲まれた長期の戦いにも、このグラダーラの城は落ちず。
そうなんですよね、籠城戦、城壁に囲まれたこちらの町の籠城戦は、
単に兵士だけの戦ではなく、女子供も巻き込まれての戦いになる過酷なもの。
       
そして死を覚悟しての突撃戦に挑む若武者のお話は、日本の幾多の戦国時代の
武士、そして神風特攻隊の若者にも通じるものを感じ、胸が熱くなるのを禁じえません。
ええ、決して戦争賛美ではなく、そこに込められた人々の真情が心を打つのですね。

フランチェスコ・スフォルツァについては  n.2 スフォルツェスコ城 ・ミラノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464968932.html

フェデリーコ・ダ・モンテフェルゥロのウルビーノのお城
ウルビーノの、パラッツォ・ドゥカーレ・Palazzo Ducale di Urbino
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463304758.html



もう一枚の町のポスターをどうぞ。
中世の料理を町のレストランで食べれます、と言うもので、

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下に記されたレストランで、10月から5月の間の毎月の第2金曜に、
6月から9月は、月の第2木曜日に。
それぞれのレストラン名の下には、土地の方言でお勧めの言葉、ははは。



こちらは、イタリア、ヨーロッパもかな、のロマネスク教会を制覇しつつある
クリスさんがコメントで教えて下さった、グラダーラの一品
「タリオリーノ・コン・ラ・ボンバ・爆弾のタリオリーニ!」

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爆弾?!と調べましたら、「その道の権威を仰ぎ、長年の調査研究の果てに」、
ははは、でも本当にそう書いてあったのですよぉ、
「これぞグラダーラの一品!」と定めたのだそうで、この地方で昔から食べ継がれた、
いわば貧しく素朴な、多人数の家庭向きパスタなのですね。
いぇ、戦争の爆弾には何の関係もありませんで・・、

その料理法と由来を。
少しのオリーヴ油でタマネギとラード、または脂身のベーコンを炒めます。
先に塩を入れた湯でタリオリーニ・細めのパスタを茹ではじめ、その茹で湯を多めに残し、
写真に見える様にちょっとした深めの器に饂飩風に入れ、
その上からタマネギとベーコンを炒めたのを注ぎ、胡椒を。

つまりです、お湯たっぷりのパスタに熱いベーコンとタマネギの油を注ぐ時、
プシュプシュと音がし、素晴らしく湯気が立ち上りますよね、
で、爆弾のタリオリーニ!!

でも、冬の寒い夜など美味しそうでしょう?! お試しくださ~い!



さてお腹も満足したところで、では後半戦を、ははは。
お城の案内図をもう一度どうぞ、

11-nfo.JPG

番号2が、フランチェスカの部屋と言われており、
これは城の各部屋の修復後に、それらしく決めたのであろうと思いますが、
ガイドさん風に言うと、ここが彼女の部屋で、
ダンテが謳う所の「パオロとフランチェスカの悲劇の愛の結末」が起きた部屋と。


先回見て頂いた部屋の写真が上ので、もう1枚もどうぞ。

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13-sca.jpg



この愛の悲劇は、平たく言うと、兄嫁と義理の弟の姦通事件、そしてその挙句の、
夫による妻と弟殺し、という事件で、

当事者は実在の人物ではあるものの、事件そのものはまるで記録に残っておらず、
唯一ダンテの「神曲」に謳われ、今に至るも長く人々の心を揺さぶり、
文学者、画家、彫刻家、音楽家のインスピレーションを刺激する物のようです。

登場人物
パオロ・マラテスタ・Paolo Malatesta  ニックネーム・ベッロ・美男、という
マスティン・ヴェッキオの次男 1250~か52年生まれ(大方は1246年生まれと・・)

フランチェスカ・ダ・ポレンタ、またはフランチェスカ・ダ・リミニ・
Francesca da Polenta リミニの領主の娘 1259年か1260年生まれ
       
ジョヴァンニ・マラテスタ、またはジャンチョット・マラテスタ・Gianciotto Malatesta
パオロの兄 1240年から44年の生まれ、 足が悪くおまけに性格粗暴醜男!

ロマーニャの大家であるラヴェンナのポレンタ家と、リミニのマラテスタ家の繋がりを
強固にするため1275年頃、フランチェスカとジャンチョットは結婚を。
フランチェスカが15歳くらい、ジャンチョットは既に40歳過ぎになりますね。

結婚式は代理人結婚だった様で、それに美男の誉れ高い弟パオロが出席し、
何も知らないフランチェスカが騙され、パオロに夢中になった、と大方が書いていますが、
既にパオロが結婚していた事も、代理人である事も彼女が知らない筈はなく、
要するに、一目見た彼に心を惹かれ想いを寄せた、と言う事でしょう。



幕開け
ダンテの「神曲・地獄篇第5曲」に謳われているフランチェスカとパオロのお話は、
ダンテが地獄で風に吹かれ漂う2人の人物を認め尋ねると、フランチェスカが答えます。  
       
格調高い文章はサイトより、「山川丙三郎訳」をお借りして、

われら一日こゝろやりとて戀にとらはれしランチャロットの物語を讀みぬ、
ほかに人なくまたおそるゝこともなかりき

14-sca.jpg

書はしばしばわれらの目を唆かし色を顏よりとりされり、
されど我等を從へしはその一節にすぎざりき
かの憧るゝ微笑がかゝる戀人の接吻をうけしを讀むにいたれる時、
いつにいたるも我とはなるゝことなきこの者
うちふるひつゝわが口にくちづけしぬ、ガレオットなりけり書も作者も、
かの日我等またその先を讀まざりき

15-sca.jpg

と言う次第で、愛人となるわけでございます。



ロダンの「接吻」。 この作品も二人の物語からインスピレーションを受けた物と。

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こうした隠れた関係が長く続くわけはありませんで、夫ジャンチョットに知られ、
2人は1283年か85年に殺害されるという・・。
右横に帳の影から覗く夫ジャンチョットの姿が見え、
こういう図は余り好きではないですが、まぁ、2人の姿が美しいので・・。

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嫁がせた娘を殺されたポレンタ家としては大変な動揺だったでしょうが、
当時の政治情勢から見て、両家の関係を断絶するわけに行かず、
一切を沈黙の掟の中に閉じ込めた様で、何も記録が残っていないそう。

パオロも単に美男であると言うだけでなく、結婚もし、政治情勢にも心を配り、
教皇マルティーノ4世に認められフィレンツェの民衆隊長を勤めていたのが、
1283年2月にリミニに戻った、という記録が最後になります。



ダンテの神曲によると、地獄を雲のように漂う愛欲に苦しむ2人を見て、
そのフランチェスカに様子を聞く、と言う事になるのですが、

いちはやく雅心をとらふる戀は、美しきわが身によりて彼を捉へき、
かくてわれこの身を奪はる、
そのさまおもふだにくるし 
戀しき人に戀せしめではやまざる戀は、彼の慕はしきによりていと強く我をとらへき、
されば見給ふ如く今猶我を棄つることなし 
戀は我等を一の死にみちびきぬ、我等の生命を斷てる者をばカイーナ待つなり


こんな風に、二人をじっと眺めるダンテとベルギリウスを配した絵もあり、

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大いに同情し、2人の愛情に感じいるようなダンテの顔には見えませんがぁ・・!



こちらは有名なギュスターヴ・ドレの版画

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そしてこれはshinkaiの記憶に間違いが無ければ、
アスコリ・ピチェーノの美術博物館にあったものと。

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金背景の好きなもので、画家はモゼ・ビアンキ。

21-Mosè_Bianchi.jpg

モンザの画家 モゼ・ビアンキ
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20160310-1.html



という事で、事件の起こったのはこのグラダーラの城、フランチェスカの部屋、と
言う事になっているのではございますが、

こちらの、現在は廃墟となっている要塞、ずっと北のフォルリ・Forliから12kの
距離にあるメルドーラ・Meldolaのここが、事件の舞台という説もある様子。

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ですがまぁ、グラダーラの城が父親マスティン・ヴェッキオが建設した城で、
ジャンチョットはその長男、という事ですので・・。

       

ダンテが描いた二人は、多くの芸術家たちの心を捉え、オーギュスト・ロダンの
「接吻」は上でご覧頂きましたが、ガブリエーレ・ダンヌンツィオが戯曲
「フランチェスカ・ダ・リミニ」を、チャイコフスキーが幻想曲「フランチェスカ・
ダ・リミニ」を作曲、そしてオペラも、リッカルド・ザンドナーイの作品がある様子。

ダヌンツィオの戯曲を演じた、エレオノーラ・ドゥーゼについては
アーゾロを彩る女性ふたり ・ アーゾロ市立博物館 n.1
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463693720.html

蛇足になりますが、フィレンツェの政変で亡命を余儀なくされたダンテは、
後年ラヴェンナのポレンタ家に庇護され、ここで亡くなっており、
現在のラヴェンナの街の紋、旗印にはポレンタ家の鷲が真ん中に。

つまりどの記録にも残っていない「フランチェスカとパオロ」のお話は、作り話ではなく、
多分ダンテがポレンタ家滞在中にひっそりと聞いたものであろう、と推測される訳ですね。

こちらは継母と義理の息子との愛情が発覚し・・、フェッラーラのお城



さて長い物語りも漸くに済み、はは、町の城門を一歩出て、深呼吸でも!

夕暮れも徐々に近づき、

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城壁のイルミネーションが始まります。

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海辺の街の明かりも強くなり、

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中世そのままの雰囲気を濃く宿す町にも、明かりが点り、

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やがて町にも、町を護る城壁にも、夜の帳が。

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お疲れ様でしたぁ!
長いご案内にお付き合い下さいまして、有難うございましたぁ!!


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・ n.1 グラダーラ ・ Gradara ・ 町とお城 

さてさて今回と次回の2度に分けてご案内致しまするは、ははは、
マルケ州はアドリア海沿岸より3kmほど内に入り込んだ小高い丘の上、
海抜142mに位置するグラダーラの町とお城。

年間50万人もの観光客が訪れるという名高い町と城ですが、
マラテスタの要塞・Rocca malatestianaと呼ばれ、様々な歴史の変遷に
関連し、とりわけダンテの「神曲・地獄篇」に謡われている
「パオロとフランチェスカ」の舞台となったお城、というと、ああ、あれ!と
ご存知の方も多いと思います。

ここのご案内は町訪問以来、私めの長年の宿題になっておりまして、へへ、
パオロとフランチェスカの愛の物語を、何とかサン・ヴァレンタイン・デイに
間に合わせようと、ははは、必死にあれこれ読み漸くに3年ぶりに、という事で!

ですが到底、町と城のご案内を1回では無理でして、・・見せたがりで、はい、
2回に分ける事にいたします。

まずは町の写真をじっくりご覧下さいね。 東西に長く、お城は東端の
丘の上にあり、この様にぐるっと周囲を800mに及ぶ城壁が囲み、
壁の上を歩ける見学コースもあり、城はまた別の城壁に囲まれています。

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写真はいつもの様に、shinkaiが撮ったものにはブログ・アドレス入りで、
今回は城内の写真が禁止でしたので、サイトから拝借も多数ありますが、
ごゆっくり、中世の町と城をお楽しみ下さいませ! はい、長くなりそうで。



グラダーラの町はどこにあるか、地図をどうぞ。
アドリア海沿岸をマルケ州に入ってすぐの所、グレイの点線がエミーリア・
ロマーニャとの州境で、リミニからは約125kmの距離。

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2010年の秋に行った時、我らはグラダーラからウルビーノ・Urbinoに、
南西の方角に山懐を辿って抜けたのでした。

このグラダーラのご案内は、今迄「旨い物」と「犬・猫ちゃん」だけですが、
ははは、こちらに。
 

宿は町の城門から少し北に歩いた所で、裏庭から北東にアドリア海が。

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北西にはなだらかな丘が広がる素敵な環境。
いや、これは宿の事だけでなく、グラダーラの町自体に言えますね。

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2泊しましたが、これは町の北側をうろついた時の、ははは、オリーヴ畑。

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畑の向こうにお城、 素晴らしい眺めでしょう?!

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写真の中の光線具合、色もあれこれ変化しますが、
なるべく良いのをと探しました結果で、ごちゃ混ぜご容赦。



トップの写真の左下辺りに見える、町の最初の城門。
外側に剥き出しではなく左右に建物があり、少し奥まっていて、

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内側から。 町下からの傾斜がかなり厳しく、お城迄の道も上り坂。

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途中に教会もあり、

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古い建物内部を博物館風に中世を再現しており、まぁ当時はこんなに
小奇麗ではなかったろうと想像しますが、町の商人の家と。

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土地の物産等のスーヴェニール店、勿論バールやレストランもたくさん!

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こうして一番上に辿り着くと、ここにもう一つ城の門があり、

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門の内側の小広場。 門には見張りの小塔と兵士の見回り通路がめぐり、

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外側から窺う、中の城の威容。

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現在この城は国有で入場料がいくらか必要ですが、切符売り場は確か左手で、
直接には見えない配慮でして、はい、右の建物奥に格子の扉が見えますが、
そこから中に入ります。



正面に見える濃い茶色の扉の右に見える小さな碑は、こんな顔!
謂れを記したものが見つからず、言葉も読めませんが、
口の部分が磨り減っていので、投書口ではないかと推察。

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城の門内に入る格子扉の、塀の角に取り付けられた忍び返し!

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こうして漸くに本丸前に辿り着くわけですが、

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左奥に見える門、扉は見学者用ではなく荷物車などの通り道で、
一般入場者は左手から上がってきます。

ぐるっと城壁が取り囲んでいるのが見えますが、これは城を囲む内側の城壁で、
町の城壁はもうひとつ外側にあり、如何に実戦を配慮した要塞、城で
あるかがよく分かります。



要塞、城の本丸はこんな高さで続き、下部にはほんの少しの
明り取り程度の窓があるだけ。

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ここが跳ね橋の付いた入り口、その上部。
跳ね橋の奥にある内庭、その手前にも格子戸が降りる仕組みが見えます。

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跳ね橋は3ヶ所にあるそうですが、堀には、かって一度も水が入れられた事が
無いそうで、まぁ、ここは丘の上にある要塞ですしね。

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跳ね橋の手前から、町の城壁に伸びる部分。

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城、要塞の上からの眺めをどうぞ。 城の城壁、町の城壁と2重に
なっている様子がよく分かりますね。

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見学はガイド付きもあるのですが、自由にも見れます。
サイトからの案内図で、写真の載っているのを大きな目安に、

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1. 入り口の跳ね橋
2. フランチェスカの寝室 パオロとフランチェスカの物語の舞台
3. 会議室
4. 礼拝堂
5. 天使たちの部屋
6. ルクレツィア・ボルジャの部屋
7. 内庭
という事で、一応の感触を。



内庭の様子。 特別広くなく周囲を高く囲むので、少し威圧感。

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こうしたアーチの連なりから受ける洗練されたイメージは、そうなのですね、
この城が最初は実戦用の要塞から建設されたものの、時代が下るに付け、
領主の居住としての要素も加わり、装飾されていった事を物語ります。

「マラテスタ家の要塞」と呼ばれていますが、この城の領主は
マラテスタ・Malatesta、 スフォルツァ・Sforza、デッラ・ローヴェレ・
Della Rovere、そして教皇領にと変遷を。



内庭の片隅にある井戸。 後ろに見えるアーチの中にブック・ショップ。

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内庭の敷き石。 磨り減ってはいますが、それでもこの装飾性・・!

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2階の回廊に見えるライオン像と、壁のフレスコ画。

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壁に見える紋二つ。 下はマラテスタ家の紋が中にあり、PとMが見えますから、
パンドルフォ・マラテスタ・Pandolfo Malatestaでしょうが、
マラテスタ家で調べると、パンドルフォと名乗るのが5名もおり!

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一番有名なのはシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタで、リミニの狼と呼ばれ、
この城は彼のお気に入りで、3番目の妻イゾッタ・デッリ・アッティ・
Isotta degli Attiとも住んだ様ですが、
上の白い紋の左右の上側に、「I と S」のイニシャルがありますね。
という事で、そう、「イゾッタとシジスモンド」の2人の紋!

可愛いではないですか?! 「リミニの狼」と呼ばれ恐れられた男が、
こんな2人の紋を作り、城に取り付けているんですものね。

n.3 リミニ ・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタとその周辺 の1
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468933833.html

n.4 リミニ ・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタとその周辺 の2
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468934000.html



こちらの紋の下、に刻まれた名はイタリア語にすると、Giovanni Sforza・
ジョヴァンニ・スフォルツァ。

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グラダーラの城+この名前で、パッと誰かがお分かりの方は凄い!!
そう、教皇アレッサンドロ6世の娘でチェーザレ・ボルジャの妹、
ルクレツィア・ボルジャ・Lucrezia Borgiaの最初の夫の名。

彼はこの城を攻略し、迎えた最初の妻は出産で死亡、ここに2番目の妻として、
ルクレツィアを迎えたのですが、教皇アレッサンドロの政策により、不能の夫、
白い結婚であったとされ!ルクレツィアはこの城から去り、2年後に2度目の結婚を。
ジョヴァンニは3番目の妻を娶り、1510年にこの城で死す、と。



入り口の跳ね橋から入ってきた右側に聳え立つ主塔・mastio・マスティオは、
30mの高さで、ここは牢としても使用されたと。

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内庭にかかる碑。

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この要塞、時の経過と人々の無関心から完全に廃墟となっていたのを、
かっての輝かしい姿に戻すために、ウンベルト・ザンヴェットーリ技師が
私財をつぎ込み、1923年から貴重な修復に取り掛かった。
グラダーラの町はこれを記念し、ここに記す。
          
まさにそのようです。
単に修復するだけでなく、かってのように、これは口で言うと易しいですが、
当時と同じ素材を使い、当時の様式に、というわけで、
大変な年月と財をつぎ込み、結局最後は国に売った、という様子。
       
ヴェネツィアのカ・ドーロの修復も、かっての姿に戻す為にフランケッティ男爵が
私財をすべて注ぎ、結局は国に売ったと知りましたが、
こういう情熱をかけて修復に尽くした方々のお陰で、我々も今こうして
中世の雰囲気を味わえる、という訳ですね。

n.1 カ・ドーロ ・ ヴェネツィアの館
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463740863.html

n.2 ヴェネツィアの館 ・ カ・ドーロ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463741340.html


というところで、少しこの城、要塞の由来を。
マラテスタの要塞、と呼ばれていると最初に書きましたが、元々はペーザロの方から
来たデ・グリッフォ・De Griffo家が1150年代に現在の主塔のあたりに塔を建設、
小さな館を建て領主として住んでいた様子。

で、デ・グリッフォが教皇領の近くでヘマをし封土を取り上げられた際、リミニの領主の
マスティン・ベッキオ・Mastin Vecchio、本名マラテスタ・ダ・ヴェルッキオ・
Malatesta da Verucchio(1212-1312)に預け、
彼がここに13~14世紀にかけ、2重の城壁を持つ要塞の建設を始めたということで、
マラテスタ家としては最初の城、要塞に当たるのだそう。

その後新兵器の銃や砲の出現により、15世紀には城壁に銃眼やスカルパトゥーレ・
scarpatureが導入された、と。
このスカルパトゥーレが分かりませんで、探し回りました、はい。

で分かったのは、従来の城壁だと高ければOKだったのが、時代が下るにつれ、
強力重厚な城壁破壊の知恵も新兵器も誕生するわけで、
これは城壁の足元に少し傾斜部分を付け補強する事なのだそう!
当時の要塞で、このスカルパトゥーラが唯一完全な形で残っているのは、
このグラダーラの城、ということも知りました。

今も夏に時代祭りというのか、「城の襲撃」の再現行事が行われる様で、
1446年教皇軍の襲撃があった時、43日間におけるいわば籠城戦、
フランチェスコ・スフォルツァ・後のミラノ領主とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥレ
の圧倒的な大軍と戦いつつもこの要塞は落ちませんで!

今回その様子を読みつつ、かって真田十勇士とか、源義経、木下藤吉郎などを
お友達に育ったshinkaiは、ははは、ちょっと胸が熱くなりましたのを、ここに告白です。
やっぱり、シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタはカッコいいなぁ!!
いつかは彼の事をきちんと書きたいなぁ、と思っているのですが・・、はい。

n.3 リミニ ・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタとその周辺 の1
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468933833.html

n.4 リミニ ・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタとその周辺 の2
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468934000.html

と以前からマラテスタ、日本語で言うと「頭が悪い」式な姓なので、ははは、
可笑しな姓だと思っていたのですが、今回漸くに調べ、
そうなんですね、やはり、頑固者とか無分別、無鉄砲という意味から呼ばれた
ニックネームだったそう。

マスティン・ヴェッキオというのも響きの良い名だと思われません?!
が本名の姓ヴェルッキオは、エミーリア・ロマーニャ州の南にある地名から来ていて、
それよりも南、州の一番南の山中にあるコムーネの名がペンナビッリ・Pennabilli。

そこに住んでいたカルペーニャ・Carpegna家の子孫、マラテスタとあだ名されたのが、
最初にヴェルッキオに下り、つまり移り、ついでリミニに、というわけで、
こうして大マラテスタ家になっていった、という訳ですが、
グラダーラにおけるマラテスタ家の支配は、1463年に終わります。
     

長くなりまして、すみません!! 
今日は記事自体も文字制限に引っかかりそうなので、ははは、
サイトから拝借の城の内部をさっと簡単に!

内庭を取り囲む2階の回廊

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会議室、 最初の図の案内番号3

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図にはありませんが、シジスモンドと愛妻イゾッタの部屋

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礼拝堂 4

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天使たちの部屋

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この部屋が分かりません・・、

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中世の城、要塞には付き物の、牢と拷問室

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こちらが次回にくわし~~~くご案内いたします所の、フランチェスカの部屋!

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ルクレツィアの部屋。 
1494年、14歳の花嫁としてこの城に嫁ぎ、わずか3年後に父教皇の策略により、
結婚を解消し去っていった彼女。

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この部屋の装飾、そして一つ祭壇画もあるのですが、画家はラファエッロの父親
ジョヴァンニ・サンツィと。



お口直しに、町の広場の写真をどうぞ!

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と、今回はここでひとまず終え、次回に備えます、ははは。
皆さんも体力と根性をつけ、フランチェスカのお話をお待ち下さいませませ!!
長いお付き合い、有難うございましたぁ!!
 

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・ ヴェローナ・チェントロ をちょっぴり、 と モネ展

今日は、先月の末に行ったヴェローナの街の中心をちょっぴりと、
開催中のモネ展の様子をご覧くださいね。

ヴェローナに行く前に、ヴィチェンツァの北西にある町モンテッキオ・マッジョーレに
寄りましたが、ここのパッラーディオ風のヴィッラに大きなそして素晴らしい
ティエポロのフレスコ画があり、また見て頂くつもりですが、

この日のガイドさんは美人で、その上素晴らしく優秀な方で、ヴィッラ訪問も
その後ヴェローナ到着後に見たサン・ゼーノ教会も簡潔で要を得た説明で、
よく分かり楽しかったです。

写真は、サン・ゼーノ教会・San Zeno、ヴェローナの街の西南に位置し、

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既に3回ほど行っているのですが、優秀なガイドさんのお陰で、
今回改めてこの正面壁の美しさに触れた思い!



午前中は快晴で、お昼のこの一時ちょっと太陽が隠れたのですが、
ここから街の中心に移動します。

2年前の夏に訪問したままで未整理の、ははは、と笑いでごまかす、
カステル・ヴェッキオ・Castelvecchio、現在内部は博物美術館で
収蔵品もたっぷり!の横を通り抜け・・、

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この前を横切る通りがコルソ・カヴール・Corso Cavour. ローマ期からの
主要通りで、この先にボルサーリ門があり、その後名を変えながら中心のエルベ広場の
北側をかすめ、まっすぐサンタナスターシャ教会・Sant'Anastasiaに行きますが・・、


2年前のちょっぴりのご案内は
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465494072.html
こちらに街の地図、そして他のヴェローナのご案内にもリンクしております。



我々は城の前で右に折れ、南に下ります。 こんなカフェの前も通り、

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ブラ広場・Piazza Braの北西端に出ます。

4-344_GF.jpg   

右奥に見える大きな建物が、今回「モネ展・verso Monet」の会場となった
パラッツォ・グラン・グワルディアで、

左奥に切れているのが、ヴェローナ市役所。 右手前の建物の陰に隠れて、
時計が真ん中にある大きなアーチがあり、右にまっすぐの大通りが鉄道駅に向かう道。



ブラ広場の奥には、ご存知アレーナ・Arenaが見えますが、
我らはここで一旦解散し、皆それぞれにお昼を食べに。

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ブラ広場の北側にはずらっとレストラン、バールが並びますので、
すぐ近くの、手軽に食べられ値段もお高くない観光客向けに入りまして、
仲間の取った、野菜入りトルタと、ラザーニャ。 半分ずつ食べた様子。

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サラダ・ニソワーズ、素晴らしく大きかった!

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胡椒をガリガリやっているのは見たのですが、後で少し分けて貰ったら、
ピリッどころか、唇がぴりぴりするほどで・・!



ニョッキ・ジャガイモの入った団子、というか・・、はは。

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これがshinkai用、鮭と海老のフェットチーニ。

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そう特別の味ではなかったですけど、観光客相手の店としては悪くなく、
美味しく食べられましたし、量もドイツ人、アメリカ人用にたっぷり目でした。
ですが私とロレダーナで、ポテトの揚げ物を追加して半分こを!



デザートを頼んだ仲間が結構いましたが、
冷凍物か冷えすぎていて硬く、評判がよく無かったですね。

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勿論皆ビールを1杯のみ、いやshinkaiはジュリアーナの半分も引き受け、
ははは、最後に皆カフェを頼み、頭割りの一人分が18,5エウロくらいでした。



お昼と、その後の散歩を一緒した仲間の、奥がロレダーナとタータ。

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右から、レオナルダ、ヘルガ、そしてエレオノーラ。 今回はジュリアーナの写真なし!

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お昼を食べている間に、また太陽が戻り、

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再集合までのちょっとの散歩を楽しみますが、
エルベ広場に行こうと、アレーナの横を。

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こんな円柱の上の聖母子像に気がつきましたが、
14世紀末の、4面に聖人像の彫られた小さな礼拝堂・ニッキだそう。

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モネ展はあっち⇒。  へいへい、後で行きま~す。

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ローマ期建設、今も夏のオペラや各種コンサートに使われているアレーナの
石の階段状席に、アンモナイトの化石を見つけた時は、
なんとなし妙に感心した物でしたが・・、ははは、

そう、今回もブラ広場を歩いていて、こんなのを見つけました。
ええとこれはそう大きくなく、直径10cmくらいだったかな・・。

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ブラ広場とエルベ広場を結ぶヴィア・マッツィーニ・Via Mazziniの入り口角に、
こんな銅版が埋められています。
これはガイドさんが教えてくれていたもので、ローマ期のヴェローナの地図と。

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この位置からだと、北が手前下側になり、左上側にアレーナ、蛇行して流れる
アディジェ河の内に、半島みたいに突き出す形の街の中心に格子状に道が通り、
まっすぐに突っ切って見える道が、最初にご説明したカステルベッキオの前を通り、
エルベ広場(真ん中に見える広場)の北側を通るコルソ・カヴール、途中で名が変わる、
       
東に突き出す山手側には現在もテアトロ・ロマーノがあり、
手前側の橋が現在も残るポンテ・ピエトラ。
          
写真左上に説明が見えますが、それには、
ブラ広場からエルベ広場に直通の道がつけられたのは、14世紀の末、
ミラノ公国のヴィスコンティ家の元にあった時で、当時は新道・ヴィア・ヌオーヴァと
呼ばれた通りで、これはローマ期の、デクマーノ・decumanoの右2つ目の通り
の地形と重なりながら整備されたもの。
       
デクマーノが分かりませんでしたが、アンナリーザの説明により、
ローマ期の町造りにおいて、東西を結ぶ主要道路がデクマーノと呼ばれ、
南北に走る道がカルディーネ・cardineと判明。

左右は、西から見てデクマーノの左右ですから、
上の地図内、現在のコルソ・カヴールの右2つ目、というのが分かり、
この通りがヴィア・ヌオーヴァ、現在のヴィア・マッツィーニになります。



さて、これが現在はヴェローナの名だたる商店街ヴィア・マッツィーニ。
奥にエルベ広場のランベルティの塔が見えます。

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ヴィア・マッツィーニのマッツィーニというのは何?と思いましたら、
ジュゼッペ・マッツィーニ・Giuseppe Mazziniの事で、
カミール・カヴール、ジュゼッペ・ガリバルディと並ぶ、19世紀のタリア統一運動の
3英雄の一人なのだそう!

19世紀にヴィア・ヌオーヴァから名前が変わった前後にも敷石歩道になったそうで、
モダンというか、ちょっとレトロ調なイメージもあるヴュトンの店のウインドウ。

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まだ冬物のバーゲン中でして、それにヴァレンタイン・デイも近いですよね?!

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この自転車宅配急送便、可愛いでしょう?!

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エルベ広場の角、ランベルティの塔が見え、

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細長い広場、北側の眺め。

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ここは既にご案内済みですので、簡単に致しますですが、

この広場から東のシニョーリ広場に抜ける間のアーチに、骨状のものが
吊るされているのに、初めて眼が留まり、あれ、何?! 骨なの? 角なの?

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はい、勿論いそいそと調べます、ははは。
で、これは1470年建設の、コスタ・肋骨のアーチ・l'arco della costa門
と言い、この大きなカーヴした肋骨は誰のものかわからないのだそう!
民間伝承によると、鯨の骨だとも、古い竜の遺物とも言われていると・・!!



エルベの広場の真ん中にある泉、マドンナ・ヴェローナは
まだキチンと写したのをご覧頂いていなかったと・・。

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マドンナ・ヴェローナ・Madonna Veronaと呼ばれるこの像は
実はローマ期380年のものなのだそう。

その下を支える円柱に見える顔ですが、正面はベレンガーリオ・Berengario
という、フリウリ辺境王にして初代イタリア国王、なんぞと出たのですが、
・・すみません、今回はこれでお目こぼしを・・!



テなことで、3時半にブラ広場の西端の、モネ展会場前に集合しますが、
ここで1時間くらい待たされ・・、

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漸くに中に入ったものの、荷物はすべて預け、またまた待たされ・・!
とにかく不恰好という程にただただデカイ建物でして・・。

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パラッツォ・デッラ・グラン・グアルディア・palazzo della Gran Guardia.
もともとはヴェネツィア共和国の元で建設が始まったものの資金不足でそのままに。
それをオーストリア治世下に完成され、軍の施設として使っていたのだそう。

そう聞くと、如何にもの感じでよく分かりましたが、ははは、
係員が言葉は丁寧なものの、不手際というかなんと言うか、
余りにも待たせられて皆ぶつぶつ、やはり軍の施設だった、愛想がない、と・・!

ですが展覧会の正式名称「モネに向かって・Verso Monet」とでも言うのか、
17世紀から始まり19世紀のモネにいたる風景画の歴史、
最初は人物の単なる背景であった風景が主役となっていく経過を時代を追い、
最後の部屋のモネの「柳」に至るまでを、上手く纏めた、
その要旨がよく分かる展示になっておりました。

ですがここでは私流に、良いなぁ!と思ったもの、こんなのもありました、
というのを勝手に並べて、ご覧頂きますね。
サイトから拝借の写真で、おまけに済みません、タイトルも覚えておりませんが、

モネの風景画、光が満ち溢れ、空気が煌くような・・。

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これが最期の部屋にあった、モネの「柳」

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私は一人で会場のガイドさんの説明も聞かずに歩き回り、良いと思う好きな絵のみ
見て回ったのですが、展示の監修者が何を意図しているのかよく分かり、
       
つまりこの「柳」は、既に単なる風景画を越えかけかけていて、
この先は抽象画に行き着くような筆勢とタッチが見てとれるもの。
     

  
カナレット。  初めて実物を見ましたが、凄い仕事をしております!
甥のベッロットの作品も来ておりましたし、以前展覧会も見ましたが、
やはりその空気感は、叔父さんのほうが素晴らしい!

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ルノワール。  かなりの厚塗り、というか、タッチの作品。

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ターナー。   これも実物のこの色、というのが写真では出ておりませんが、
油絵の密な仕事で、素晴らしかった!

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ゴッホ。  余り彼の絵は好きではないのですが、後の作品の如何にもぉ!
というのに比べ、これは色もタッチも良いなぁと。

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フリードリッヒ。  余りにも暗く、何を描いているのやら、顔を近づけて見る程で、
2本の小舟のマストの位置も気になったのですが、
この画家をお好きな友人がいますので、ここに!

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セザンヌ。  彼の絵も私には余りピンと来ない絵なのですが、
今回実物が3点かあり、やはり印刷と違うなぁ、良いなぁ、と思ったので・・。
   
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90点以上に及ぶ作品展示で、すべてが傑作とは言えませんが、
それでもこうして実物を見れるチャンスがあるのは、有難い事と思いました。

仲間のグループと一緒に、また一人で出かけるヴェネツィアでも、
やはり大作家の実物をすぐ傍で見れるのは、有難い!

何かしら必ず得る部分、感じる部分があり、展覧会の中の1枚でも2枚でも、
見れて良かった、と思うのがあれば、それで大OK! なのですよね。

次は3月19日に出かける予定の、ボローニャのフェルメール!
レンブラントなども来ているそうですが、フェルメールの「真珠の耳飾の少女」は
イタリア初公開だそうで、貴婦人並みの待遇で迎えられた、と先日のニュースに。
楽しみに!



絵を見て表に出ましたら、外はとっぷりと暮れておりました!
ブラ広場の北側、お昼を食べた辺りと、

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正面のアレーナと市役所。

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シェークスピアが「ロメオとジュリエット」で書いた、ヴェローナの壁の外には
世界は存在しない、という中世の市壁の内側に沿い、我らのバスまで歩きます。

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大丈夫、ちゃんと我らが町まで連れて帰って貰えましたぁ。
長いお付き合い、有難うございました!!


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