・ オペラに生き、恋に生き ・ プッチーニの家博物館 

TVはいつも、ご飯を食べる時に前に座るだけで殆ど見ない毎日ですが、
先日偶々チャンネルを変える時に見た場面から、このF.ゼッフィレッリの映画
「カラス・フォーエヴァー」の最後の方を見る事が出来ました。

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世界のソプラノの女王とも言えるマリーア・カラスの53歳で亡くなる最後の日々を
描いたもので、背後に流れるカラスの歌声から、
そうそう、「プッチーニの家博物館」のご案内を、と思い付いた次第、はい。

皆さんも、オペラがお好きな方は多いと思いますが、プッチーニのオペラの、
濃厚で甘美な旋律、とりわけ「トスカ」の、歌に生き、恋に生き、の一節は、
プッチーニ、そしてカラスの生様とも重なる感じがしますので、
今日はそんな事も少し含めてご案内いたしますね。 ごゆっくりどうぞ!

今日ご覧頂く写真は、右下にサイト名が入っているのがshinkaiの撮った物、
または手持ちのガイドブックからの物で、あとはサイトから拝借の物です。



プッチーニの家博物館は・・、地図をどうぞ。
左中程のトッレ・デル・ラーゴ・プッチーニ・Torrre del Lago Pucciniという、
右に見えるマサチュッコリ湖・Massaciuccoliの湖畔にあります。

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この春出かけた時は運悪く、湖に着いた頃に雨となり、
本来ならば良い眺めでしょうに残念でした。

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家の前、プッチーニが住んでいた頃は家のすぐ前まで湖が迫っていたそうですが、
現在は埋め立てられて小さな公園となり、彼の像もあり、

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こちらが現在の家博物館で、グループに分かれガイド付きでの見学で、
内部写真はダメの、結構厳しいものでした。

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これが見学の後に買ったガイドブック。

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現在のこの家博物館と、ルッカ市中にある生家博物館は、唯一の残存子孫の
シモネッタ・プッチーニ・Simonettaの持ち物だそうで、

ここの見学時間は
11月~1月 10時~12時40分 14時~17時20分
2月~3月 10時~12時40分 14時半~17時10分
4月~10月 10時~12時40分 15時~18時20分
休館 月曜 12月25日 11月
この他に、閉館前40分が最後の入館、見学は40分とか、
夏のプッチーニ・フェスティヴァル期間の7~8月は、午後16時~20時40分

などといろいろ細かい事を言っておりまして、見学予定の方はお確かめ下さいね。
予約は Tel 0584.341445
http://www.giacomopuccini.it/en



こちらはルッカ市中にある、プッチーニの生家博物館。

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見学は 休館火曜日
11月~3月  11時~17時    4月~10月 10時~18時



所で我々は普通ジャコモ・プッチーニ・Giacomo Pucciniと呼び習わしていますが、
戸籍にある名は、なんとまぁ、驚かれますな、

ジャコモ・アントーニオ・ドメーニコ・ミケーレ2世・マリーア・プッチーニ、
Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini     
という、音楽家5代に渡る祖先の名を全部貰っておりまして!

こちらが父親ミケーレで、ジャコモが5歳の時に亡くなっております。

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全部で9人の子!!の内、ジャコモは6番目(1858年12月22日生)
男子は彼と弟の2人。



母親のアルビーナ・マージ。

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父親の早い死で、一家の生活は大変だった様ですが、ジャコモは14歳で
早くもルッカのドゥオーモのオルガン弾きとなり、経済的に援けたと。

が、逸話によると彼は無軌道な若者で、小銭を稼ぐために、ドゥオーモの
オルガンの管を何本か売り払う、という様な事もしたそうですが、ははは、
1880年から3年間、奨学金を受けミラノの音楽院で学ぶチャンスを。

若く貧しく元気で大望に溢れた学生生活だったのでしょうが、
友にマスカーニ・Mascaniや、師にポンキエッリ・Ponchielli等の名が見えます。


1883年初のオペラ「妖精ビッリ・Le Villi」がコンクールの入賞を逃すものの
翌年上演され好評を得、2作目の「エドガー・Edgar」に取り掛かり、
この作品はかなりの難産だった様子ですが、


       
1884年にプッチーニは、ルッカの食料雑貨商・droghiereの妻、
既に2人の子持ちであったエルヴィーラ・ボントゥーリ・Elvira Bonturiと知り会い、
駆け落ちを!
       
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プッチーニ28歳、エルヴィーラ26歳。 彼女は2人の子のうちフォスカ・Foscaという
娘を連れての事で、プッチーニは大変この子を愛したそうで、

2年後には彼らの唯一の息子アントーニオ・Antonioが生まれますが、
彼らが正式に結婚したのは1904年、エルヴィーラの先夫が死亡して後の事。

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プッチーニにとってのエルヴィーラの存在は大きく、彼女の性格の難しさと無理解は
2人の生活に様々な支障となり、後年に大変な事件の切っ掛けも作る羽目にも。

  君は芸術という言葉を口にする時、冷やかしの種とする。
  これは私をいつも侮辱し、傷つける。
と、後年の手紙にプッチーニは書いておりますが、
とは言え、彼女の存在は彼にとって深い結びつきでもあり、
逆に様々な作品への思いつきも運んで来たようです。

そう、こういう所が結婚生活の難しい所なのでしょうね。
ソクラテス、リンカーンの奥方も、世の定評は悪妻という事になっておりますが、
・・良妻必ずしも夫を育てず、という事もあり、へっへっへっ。
一方、糟糠の妻を見捨てる夫も数知れず・・! ・・うん、蛇足。



トッレ・デル・ラーゴのこの家に移って来たのは1891年。
この地の鄙びた様子が大変気に入り、最初は借家住まいでしたが、
のちに現在の家を買い取り改装し、1900年から住み始めます。

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写真の奥に見えるのは現在展示室になっていますが、かっては台所だったそうで、
左からエルヴィーラ、ジャコモ、そして息子のアントーニオ。



息子のアントーニオ。 彼は音楽家を継がず、技師だったそう。

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こちらが現存する唯一の相続者、アントーニオの娘、プッチーニの孫シモネッタ。
アントーニオは結婚相手との間に子がありませんで、彼女は彼の結婚前の娘で、
法廷が「プッチーニ」の姓を名乗るのを認めたのだそう。

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プッチーニのオペラは大変有名で、それに付いては多くの方が書かれていますので、       
あらすじ等は省略し、古いポスターでご覧頂きますね。

プッチーニの第3作目のオペラ「マノン・レスコー」 1893年2月に初演で、
35歳にして大成功を収め、

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続く「ラ・ボエーム」 1896年2月。

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1900年の「トスカ」

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この3作の大成功で、彼は一躍有名作曲家となり、生活状態も激変したと言います。
下の「トスカ」のポスター、小舟上の姿はこの湖での彼の写真を使った興味深いもの。
「マノン・レスコー」の脚本からルイージ・イッリカ・Luigi Illicaが加わり、

ボエームから参加のジュゼッペ・ジャコーザ・Giuseppe Giacosa、
この3人での作品作りが大成功を収めた訳で、
   
モーツァルトにとって、ロレンツォ・ダ・ポンテ・Lorenzo da Ponteという
素晴らしい脚本作家の存在があった様に、
オペラ作曲家には、優れた台本作家が不可欠なのが良く分かりますね。



1904年「蝶々夫人」、これも三人の共作。

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「蝶々夫人」は初演には評判が良くなかったそうですが、次第に人気を得、
現在はプッチーニの代表作のひとつである事は皆さんも良くご存じの通りで、

この後「西部の娘」「燕」そして最後の作「トゥーランドット」と続きます。

夏の夜の、広場での「蝶々夫人」公演の様子は
      


家博物館、内部の様子をどうぞ。

湖に一番近い部屋、入り口左手の書斎。 ピアノがありその左手に書き物机、
ここでかの名作オペラが次々に作曲されたという場所。

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こちらは書斎右側の部屋で、右手に見えるガラスケースの中に、彼のデスマスク。

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プッチーニはブリュッセルで、喉頭癌の手術後亡くなり、
1924年11月29日、66歳のまだ若い死でした。



上の写真の壁に見える肖像画がこれで、晩年の姿。

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葬儀はブリュッセルとミラノと2度行われ、
この家の礼拝堂と呼ばれる部屋に葬られています。

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家の2階部は見れずで、1階の各部屋に所狭しと様々な品、多くの写真、
果ては狩猟好きの彼が使ったという銃の様々が所狭しと置かれ、
マリーア・カラスの歌声が少し高過ぎる程に流れ・・。



こちらがプッチーニの若い、というか、中年の渋い、魅力ある男性の写真。

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所で勿論ながら、はは、博物館で買ってきたカタログには全然触れられていなかった、
彼の女性関係を少し、はい。

「度し難い女たらし」というのが伝説的な評で、
彼自身「野鳥と台本と美しい女達の、偉大な狩人」と豪語していたそうで、ははは、
ドン・ファン的な女たらし、女好きとは違い、内気で繊細で、
軽く女達との関係は持てなかったと。

ですが、妻となった最初のエルヴィーラとの大きな愛以外、新しいオペラ上演の
度毎にと言えるほど、主役ソプラノとの関係が始まりまして、
そこから次のオペラへのモチーフが生まれてくる、というなんとも芸術的な生き方で、
ははは、私の数えによると7人かな、他に大した事のないと記されたのが2人、はい。


最初の他人の妻だったエルヴィーラとの駆け落ちも、大きなスキャンダルを
引き起こしたのですが、

1909年彼の家の女中のドーリア・マンフレディ・Doria Manfredi 23歳が、
夫との間を疑ったエルヴィーラの執拗な追及に、洗剤を飲み自殺という事件が。

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これは夫婦間に深い亀裂を生じただけでなく、刑事事件となり、大スキャンダルと。
で大変気の毒な事に、遺体解剖の結果、彼女が処女であった事が明白に、
という哀れさで、
この事件は近年映画になり「プッチーニの愛人」として、日本公開もあった様で、
ご存知の方もおありかと。

問題はこのプッチーニの浮気相手が、ドーリアの従姉妹のジューリア・マンフレディ・
Giuliaで、
1923年には、プッチーニの2番目の息子であろう、しかもアントーニオという
同じ名前の子が生まれているのですね。

この件は2007年から調査が進んでいるそうですが、こちらのアントーニオの娘
ナディア・Nadiaから、1914年に撮影された未公開の物とか、手紙類が
明らかにされているのだとか。
       


こういう莫大な遺産問題が絡む様々な問題はさて置き、
このトッレ・デル・ラーゴでは毎年夏にプッチーニ・フェスティヴァルが開かれているそうで、
湖に臨む、この素晴らしい舞台の様子。

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では、マリーア・カラスの歌う「歌に生き、恋に生き」をこの写真とは違いますが、
YouTubeでどうぞ!

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映像は、確かゼッフィレッリが監修のロンドンのコヴェント・ガーデンの舞台の物と。

プッチーニのオペラに登場する主人公達も、こうした素晴らしいソプラノを
得る事により、より深い味を持てるのでしょうね。


マリーア・カラス・Maria Callasというと、ギリシャの大富豪オナシスとの
関係が有名ですが、

彼と出会う前、彼女がまだ若いほんの駆け出しで、美声の持ち主ながら
大デブちゃんだった時、ヴェローナで出会ったイタリアの富豪実業家・
ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニ・Giovanni Battista Meneghini
と結婚していたのですね。

彼の方が27歳も年上だったのですが、アレーナで歌ったカラスに大変魅かれ、
"半年間の協定"なる物を提案します。 彼女にダイエットをさせ、
こうしてすらりとした美女の、世界的ソプラノ誕生、という訳。

二人は結婚し、彼は自分の仕事を放り出し、世界中どこでも彼女の舞台の
ある所に付いて回り、10年ほど睦まじい関係が続いた後、オナシスの登場。

離婚はしないまま、ガルダ湖畔のシルミオーネの家で彼の失意に沈んだ生活が続き、
カラスが53歳でパリで亡くなると、82歳の彼が、妻の遺産相続を、という事に。
       
85歳で彼が亡くなった後、最後まで誠実に看取った家政婦が遺産相続し、
彼女亡き後はその甥に。

歌に生き、愛に生き、  オペラに生き、恋に生き、

・・みなさ~ん、頑張って生きて参りましょうねぇ!!

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