・ 発見のモニュメント ・ ポルトガル、リスボン 

今日はポルトガルはリスボンの西の地区ベレン・Belémにある
「発見のモニュメント」をご覧下さいね。

いやぁ、毎回あちこち飛びまわりたい訳ではないのですが、
ヴェローナのドゥオーモかお城を、と用意しつつもイマイチ気が乗らず、
結果、大航海時代を開いたポルトガルの男達がわんさかいる、
ははは、この記念碑の背後の青空を思いだし・・、という訳です。

写真はベレン地区に向かうバスの中からの4月25日橋、約2kの長さ。

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対岸に見える腕を広げたキリスト像は、
ブラジル、リオ・デ・ジャネイロの山上にあるもののレプリカ。

海の様なイメージを持つ大河テージョが緩やかに蛇行してゆき、
リスボンの街と対岸を繋ぐ橋は、この4月25日橋と、
上流側のヴァスコ・ダ・ガマ橋の2本。

ヨーロッパで一番長いと言われる17kに及ぶヴァスコ・ダ・ガマ橋については
n.2 リスボンの新地域 ・ 町の新しい顔
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474011914.html



西に向かい、やがて見えてくる「発見のモニュメント」

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ベレン地区には、1枚の写真に収まらない程の大きな
このジェロニモ修道院も、

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有名なベレンの塔もあるのですが、
今回は1枚づつだけでパスし、次回に、ね。

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ベレンの塔前からこんな風に見える4月25日橋と、
手前左に「発見のモニュメント」。

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こんな風にカラヴェッラ帆船、15~17世紀にかけポルトガルやスペインで
使われた3本マストの快速帆船、の舳先を模したもの。

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後ろから近ずくとこんな風な形で、高さは52mと。

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中程までエレベーターがあり、その後は階段を自力で、はい、
塔の一番上まで上がれ、パノラマを堪能できるそう。



船の両側には、ポルトガルに大繁栄をもたらし、世界地図、地球の形への
認識を大いに改めさせた、大航海時代の男達の姿が居並びます。
こちらは東側、先頭に立つのはエンリコ航海王子。

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テージョ河に舳先を向けた形のモニュメントですが、現在のこれが
作られたのは1960年、エンリコ航海王子の没後500年を記念しての事。

それ以前にも同様の記念碑があったようですが、粗雑資材での
建設で崩壊の危険もあり、この記念年を期しての再建設だった様子。
船型部分はセメントですが、両側の人物像は白い石像。



背後の突堤には、この羅針盤を模した大理石のモザイクがあり、
「薔薇の風」と呼ばれる円形の直径がなんと50m!
写真はウィキペディアから拝借で、

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こちらも拝借の写真で、中心にある世界地図の様子を。

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白く描かれたシダの葉型、と、なんの気なしに「シダの葉」と書いたのですが、
シダの葉に何か意味があるのかも知れませんが、
航海に関連する、羅針盤の中のブルーの部分なので、
ひょっとして「海草」を現わしているのかも!と気が付きました。
どう思われますか?
 


如何、この大きさなのです、 全体をご想像下さい!

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で、はい、我が日本国は! 許容範囲の姿かなぁ・・?!

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帆船も見え、shinkaiの頭も写っていますが、ははは、
日本の下に見える数字1541は、ポルトガル側からの日本発見年で、

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我々は1543年に、種子島にポルトガル人が鉄砲を伝来、
と学んでいますが。



人間像の細部をご覧頂きますが、東側から、前半分をまず。
       
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先頭に立つ、手にカラヴェッラ船を持つのがエンリコ航海王子(1394-1460)



こちらがポルトの街で見かけた大きなエンリコ王子のタイル装飾、
教会の壁にあったものですが、

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大航海への熱い情熱を持ち、航海士たちへの資金提供をし、
大航海時代の到来を招いた人物としての評価ですね。



もう1度写真をご覧頂き、2人目はアフォンソ5世・AfonsoV(1432-81)
エンリコ航海王子の甥にあたるポルトガル国王で、
航海への資金提出をしたと。

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3人目がヴァスコ・ダ・ガマ(1460-1524) アフリカ南岸を経ての
インド航路を開拓、ポルトガル海上帝国の大繁栄の基礎を築いた人とでも。

頭だけ見える方を除き、手前に全身が見える4人目は、
ペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467-1520)ブラジル発見者。
ポルトガルの大繁栄は、ブラジルそしてアフリカに植民地を持ったのに
由来しますが、そう、この方が発見者。

5人目がフェルナン・デ・マガリャンエス、はい、フェルディナンド・マゼラン
(1480頃-1521)、初の世界一周航海を成し遂げたものの、
自身はフィリピンで戦死という。



後ろ半分をどうぞ。

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紋章の付いたのを持っているのが、アフリカのコンゴ発見の
ディオゴ・カオン(1450–1486)
       
後ろから2人目十字架を胸に、手を合わせているのが、1549年日本に
初のキリスト教伝道のフランシスコ・ザビエル(1506頃-1552)
    
   

では西側の全体をまず見て頂きまして。

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私がなぜこのモニュメントに興味を持ったかと言いますと、
こちら側の真ん中から下辺りに僧服が2人、
上の1人は十字架を高く捧げ持っているのですね。
あ、坊主がいる、(失礼!) 神の名の下に、侵略を大いに励ました
輩に違いない、と名前を知りたくなったのでした、はい。



エンリコ航海王子の後ろに屈む人物は、
エンリコの弟フェルナンド聖王子(1402-1443)
聖王子と呼ばれているのは、モロッコ遠征に出かけて捕虜となり、
獄死して後、カトリック教会より列福されている為で、
       
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そうですね、大航海時代と言うと華やかな大冒険のイメージが沸きますが、
植民地を求めての大航海で、戦争、残虐な殺戮も大いにあった訳ですね。



航海士、数学者、天文学者などが続きますが、中程にパレットを持った
画家の姿! ヌーノ・ゴンサルヴェス、15世紀後半に活躍の画家と。

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その次がカモンイス、又はカモイーシュ(1524年頃-1580)
ポルトガル史上最高の詩人と謳われますが、

彼が謳った  ロカ岬 ・ ここに地が果て、海が始まる
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461067791.html



その後ろに僧服2人が続き、フエレイ・エンリケ・カルバーリョ、
(フェルナン・ゴンサロ・デ・カルバーリョ)と言い、神学者というのですが。
続くもう1人の名が見つからず、

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王冠を戴く女性が1人、この方はエンリコ航海王子、フェルナンド聖王子、
後ろに控えるコインブラ公ペードロ達の母君、そして東側にいるアフォンソ5世の
祖母に当たるドナ・フィリパ・デ・レンカストレ(1359-1415)と。

英国ランカスター家出身の王妃で、ポルトガル王ジョアン1世との婚姻での
嫡子達が優秀で、ポルトガルを繁栄に導いた、という事で、
ここに唯一の女性像なのかも。

最後は上に名が出たコインブラ公ペードロ(1392-1449)
最初に名を知った時は少し驚き、あれこれきちんと名前を調べる元にもなりました。
       
はい、私のブログに何度か名前が出ておりますが、覚えておいででしょうか?
フィレンツェ、ルネッサンス期の彫刻家デジデーリオ・ダ・セッティニャーノを。
コインブラ公ペードロは彼の実の父親で、デジデーリオは庶子の為
フィレンツェ近郊の石工の家に養子に出されたと、
森下典子さんの「前世への冒険」に。
デジデーリオ・ダ・セッティニャーノという彫刻家をご存知ですか?
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464150494.html
       
コインブラ公ペードロは旅行好きで外交官を務めていた様子で、
イタリアはフィレンツェのみならずヴェネツィアにも勿論、トゥレヴィーゾにも
来ている事を知り、驚きつつもなんとなしに親近感を感じたものでしたが、

エンリコ航海王子の兄にあたるのに気が付かず、知らずにおり、
・・なにせ同じ名がめったやたらですものね、と言い訳、
当然東側2番目にいるアフォンソ5世王の叔父、というのに結びつかずで。
幼い王の即位に関し摂政を勤め、後に反逆罪の名の下で戦死、       
というので、こちら側の一番しんがりの位置に、と思いますが、

ポルトガル王家の歴史まで手が届かず、知らない事ばかりで、
時々芋づる式にこうしてずるずると出てくると・・!!
       
n.1 オビドス ・ ポルトガル
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/473960774.html



カモイーシュが「ここに地が果て、海が始まる」と歌った
ロカ岬からの大西洋の海。
この海の先を目指し、彼らは出かけて行ったのでした。

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最後はサイトから拝借した、美しい写真をどうぞ。
海の先は落ち込んでいて、誰も戻れないかも、という恐怖と闘いつつ、
夢と欲を持ち航海に出かけて行った男達の姿を想像できるような。

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・ 夏のヴェローナ ・ ランベルティの塔の上から

悪天候続きで、肌寒い、と文句タラタラだった北イタリアも、
遂に先週半ばから暑くなり、寒がりのshinkaiも漸くに半袖!

プール体操も屋外になり、前の駐車場のたくさんのシナの木の花が暫く前から
満開で、奥にあるプールまでにも良い香りが漂っています。       
で、はい、屋外プール3回目をこなした今、既に赤銅色で~す!!


さて今日は夏のヴェローナの、ははは、暑そうでしょう?! 街の一番の
中心であるエルベ広場周辺と、ランベルティの塔の上からの眺めを。

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ランベルティの塔に上ったのは2007年の初夏、漸くに修復が済んだ所でしたが、
ご覧頂くチャンスを逸しており、今回は昨夏にヴェローナに出かけた時の写真と
混ぜて、エルベ広場周辺をもご覧頂きますね、ごゆっくり!



地図をどうぞ。 アディジェ河がぐるっと街を囲むように蛇行し、半島の様に
突き出したこの部分が、ヴェローナのいわば旧市街。
青く囲った中心に、南北に細長くエルベ広場・Piazza delle Erbeが。
       
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この地図の番号で言うと、エルベ広場が2.、1.がパラッツォ・コムーネ・
Palazzo del Comuneで、その北西の角35.に、ランベルティの塔・
Torre dei Lamberti.
   
エルベ広場に面した北側の建物との間に細い通路があり、そこを東に抜けると
もう一つのシニョーリ広場・Piazza dei Signoriがあり、
北東側をロッジャ・デル・コンシ―リオ・Loggia del Consiglio4.と、
パラッツォ・デル・ポデスタ・Palazzo del Podestàの3.が。

南はパラッツォ・ディ・カンシニョーリオ・Palazzo di Cansignorioが囲み、
その間を東に抜けた所にアルケ・スカリージェレ・Arche scaligere・
中世ヴェローナの領主だったスカーラ家の幾人かの記念墓、棺が納められた場所、
教会があり、

その上8.サンタナスターシャ教会・S.Anasutasia、12.ドゥオーモ・Duomoは、
塔の上からの写真でご覧頂きますね。



こちらの地図で、もうちょっとイメージを膨らませて頂けるかな。

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エルベ広場の東側の建物、フレスコ画が描かれた有名な壁。

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で、この先を東に抜けると、

ちょうど良い写真が無く、これはウィキぺディアから拝借したシニョーリ広場で、
広場の真ん中に立つのがダンテ像。

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正面に見えるのがパラッツォ・デル・ポデスタ、またの名をパラッツォ・デル・ゴヴェルノ・
Governoと呼ばれ、13世紀後半、ヴェローナのポデスタ・執政長官となった
スカーラ家のアルベルト1世・Alberto Iにより建設され、
その後ヴェローナの領主となったスカーラ家の住居となった館。



ダンテ像がここにあるのは、このポデスタ宮に滞在した客人の内でも
第一級の著名人だから、という事の様で、他の客人としてはジョット・Giottoや
ヴァザーリ・Vasariも。

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所でよく出会うスカリージェロ、スカリージェリという言葉は、スカーラ家の形容詞で、
この家系が1262~1387年に至る125年間のヴェローナ領主だった訳ですが、
今は勉強不足でして、いずれヴェローナのお城のご紹介も、と思ってますので、
その時にまたご説明致しますね。
     
で、上の写真の右手奥にちらっと見えるのが、アルケ・スカリージェレ・スカラ家の墓所で、



こちらで、右手に見える教会はサンタ・マリーア・アンティーカ・S.M.Antica.

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私は実はこれを書くまで、この手前の素晴らしい記念柩の塔が、スカーラ家の
代々の中でも一番の大物、カングランデの物と思いこんでおりましたが、
カングランデの棺は、この右手手前の教会の壁に納まっているのがそう、
へ、へ、と知りましてございます。

まさに、ブログ書きのお陰であれこれ知る事ができる・・、ブログさま様!
読んで下さる皆様に、感謝です!!



で、この素晴らしいゴシック建築物の主は、マスティーノ2世だそうで、
一番上の騎馬像の本物はお城の方に。
       
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蛇足ながら、カングランデ・Cangrande・大きな犬とか、マスティーノ・Mastino・
マスティフ犬とか、なぜこういう名が一族に多いのか・・。
スカーラ家に付いて読むのも、興味が湧きますです、はい。



シニョーリ広場の方に戻りつつ、
  
これがパラッツォ・デル・ポデスタの脇のロッジャ部分で、素晴らしい装飾でしょう?!
サイトで見ると内部も素晴らしい様で、見学できるのであれば、またのチャンスに。

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シニョーリ広場の北側、ロッジャ・デル・コンシ―リオ。15世紀の建築物、
やはり装飾がとても優雅ですね。

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で、ロッジャの西の端と隣の建物を繋ぐアーチの上の人物像、
以前から目につきながら調べておりませんでしたが、はい、今回はからずも!

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ジローラモ・フラカストロ・Girolamo Fracastro(1478-1553)という
ヴェローナの旧家の出で、パドヴァ大に学んだ科学者。

ええとです、有名な著書には「梅毒 またはフランス病」があり、
接触伝染病を知らしめた方なのだそうで、梅毒、チフスの命名者でもあると。
衣装からローマ期の人物かも、と思っていたのですが、
はぁ、伝染病の大家、そして天文学の研究もされた方なのでした。
       


こちらがティツィアーノ描くジローラモ・フラカストロ像。
1528年頃の作品で、現在はロンドンのナショナル・ギャラリーに。

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さて、いよいよランベルティの塔に近づきまして、

こちらはパラッツォ・デル・コムーネ、12世紀建設の四角い建物の中庭。
今左手角上にちらっと見える部分がランベルティの塔。

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建物の壁は、煉瓦と凝灰石との横縞でかなりの迫力ですが、
これはヴェローナのロマネスクの典型なのだそう。



中庭を囲むロッジャの下には、こんなフレスコ画も残り、

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こちらは西側、15世紀に建設されたスカーラ・デッラ・ラジョーネ・
Scala della Ragione・ラジョーネ階段。 
     
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建物に半円アーチの名残が見えますが、この部分が何度か改装された
建物に残るオリージネの部分と。



西側のエルベ広場から東のパラッツォ・デル・ポデスタ辺り、この一帯が
ローマ期のフォーロがあった場所だそうで、
      
中庭にガラスをはめ込んだ部分があり、覗くと地下の発掘されたローマ期の
モザイクも見えます。

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さて、建物の北西角、階段の脇にエレベーターがあり、いよいよ塔に上ります。
お待たせいたしましたぁ!

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塔には毎日9時半から20時半まで上れ、週末はもっと夜遅くまで上れるそうで、
夜景もまた素晴らしいかも!



塔の高さは84m、83と書いてあるのもありますが、テレコムの近代の鉄塔を除くと、
ヴェローナで一番高い塔で、

これは確かエレベーターが止まる3連窓の所からの、エルベ広場の眺め。

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広場の北に見える白い建物がマッフェイ邸で、その横にある塔がガルデッロ塔・
torre del Gardello. 塔自体は古いのだそうですが、14世紀に
鐘楼として改装され、この鐘は毎時打ち鳴らされ、市民生活に重要な物だったそう。

のちに時計が取りつけられ、公的な時計としてイタリアで一番最初の物だったのが、
どういう理由からか無くなり、
こちらのランベルティの塔に18世紀後半に取りつけられたと。

ランベルティの塔の建設は古く1172年、この町の有力者ボゼーノ・デ・ランベルト・
Bozeno de Lambetoが建設したもの。
ですが塔がランベルト家の物というのはどこにも出てくるのですが、
ボゼーノで検索をかけても他には出ませんので、ひょっとしたらあやふやな記述かも。

最初から84mの高さではなく、15世紀には雷にやられ修復したり、塔の高さも
付けたされ、一番上の部分は、のちにヴェネツィア共和国が大理石を使い、
美しく高くした物で、
この高さに次ぐヴェローナの塔としては、高さでは10mほど低いドゥオーモの鐘楼と。
       


広場の西向かい側、左がドームス・メルカトールムかな・Domus Mercatorum・
商人の家と呼ばれる建物で、中世には商人達の組合などが使っていた物で、
現在は銀行がね。

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北側、ドゥオーモの正面壁の上部と、鐘楼。

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足元東側のシニョーリ広場、ロッジャとポデスタ宮。 右側塔の建物が
カンシニョーリオ宮・Palazzo di Cansignorio、スカーラ家14世紀の建物。

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西の先には、アレーナも見え、

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さて上の階に上りますが、ここからは階段を自力で。

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塔には16世紀鋳造の鐘が2つあり、多分下に見える少し大きな方が
レンゴ・Rengo、これは市民集会を知らせたり、緊急の場合用で、
もひとつはマランゴーナ・Marangonaといい、仕事時間の知らせ用と。

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最上階は窓に全部細かい網が張られていて、写真を撮るとこんな風になりますが、
こちらは東、サンタナスターシャ教会。

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長い修復が済み、昨夏の訪問では大変美しい内部と、ピサネッロの
「サン・ジョルジョと姫」の素晴らしい壁画が元の位置に戻っておりました。
またご案内いたしますね。

背後左にテアトロ・ロマーノも見え、サン・ピエトロの丘も。



余り色がよく出ておりませんが、ポンテ・ピエトラ・Ponte Pietra.

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ヴェローナ ・ 旧地区 探訪
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463417582.html



最後にもう一度、足元のエルベ広場と、

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広場から見上げるランベルティの塔をどうぞ!

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ヴェローナのご案内あれこれは、こちらから
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460835170.html

新ブログでのヴェローナのご案内は、総目次から
http://www.italiashiho.site/category/26843760-1.html

ヴェローナ訪問は、ミラノからヴェネツィアに移動する間に、が殆どと思うのですが、
エルベ広場の屋台で聞きましたら、日本人は15分間だけねと、ははは、
笑っておりましたが、見所は多く、そして、この街は都会です!

イタリア紹介で、都会です、というのは変ですけど、洒落た街なんですね。

ヴェネツィアからでも幹線で行きやすいので、是非お出かけ下さいね。
お楽しみ頂ける事、受合いますです!


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・ 薔薇に囲まれたお家にお邪魔して 

今日日曜の午前中、歩き会を兼ねて山の中のお家、それも私設の薔薇園
とでも言える程に素晴らしいお庭のお家にお邪魔して来ましたので、
大急ぎで整理したのをご覧頂きますね。

場所は、春に歩き会+アグリトゥリズムでの食事でご覧頂いたすぐ近くの村
タルツォ・Tarzoですが、かなりの傾斜の山道を行った奥にある一軒家。
友人のジュリアーナが以前から誘われていたのだそうで、
今回漸くに季節にお邪魔した、という訳でした。

写真は、山道に差し掛かった辺りの桑の並木で、
かって盛んだった養蚕を偲ばせるもの。

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仲間との歩き会+食事風景はこちらに。 地図もこちらに。
4月25日、祭日大快晴、 ヴェネトの春をどうぞ!
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/472174337.html    
   


桑の木を下から見上げると、そう、懐かしいグミの実がかなり大きくなっており。

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山道を上りつつ、お家の石垣から下がる紫つゆ草。

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ジャガイモ畑の花。

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曲がり角にあった古い家は半分改装されていますが、半分は以前のまま。

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車が1台通れるほどの細い傾斜道が奥に続き、脇はかなり奥深い林で薄暗く、
ときどき両脇からの木の茂ったトンネル道で・・、

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時に開けて明るくなるのですが、またカーヴして上り坂!

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実は最後のお家の前で、上から下って来た車が止まって我らの近づくのを待ち、
アンナの家に行くのなら乗せて行ってあげようか、1キロ半程の山道だよ、と。
歩きますので結構です、と礼を言って別れたのですが、
そう、田舎では誰がどうなのか、全てお見通しなのですよね、ははは。



向こうの山がこんな風に見える程の山道を、曇り空で蒸し暑く、
少し汗ばみながらもせっせと。

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大きな木が倒れたままですが、草刈りは済んでいて、

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30分程も歩いたでしょうか、遂に、こんな風にお家が見え・・、

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鉄柵から入った奥がこんなお家で、手前に見える前庭から奥に
薔薇の庭が広がります。

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坂道を上る時はそうでもなかったのが、着いて薔薇の写真を撮り出した途端、
わっと汗が吹き出し目に入る程!
こんなに汗を、という記憶は本当に久し振りでした。



こちらがお家のご主人のアンナさん。
お仕事を持ちながらの薔薇園への情熱も凄い方。

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ご本人は写真が苦手、と仰っていたのですけど、
ジュリアーナが、私がOKするからと、ははは。



色とりどり、様々な種の薔薇が咲き乱れ・・。

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写真で拝見する日本の薔薇園は、本当に丹精込められた見事な薔薇園ですが、
逆に整理されすぎて味けない、という勝手な感想も持ちます。

が、このお家のは堆肥も作っての薔薇作りですが、害虫対策を特別強力に
している訳でもなく、ごく自然に咲き乱れ、それがとても良い感じ。

アンナさんに訊ねると、花の名やどういう種なのかも教えてくれ、かなり高級な品種も
ある様ですが、至って普通で、とはいえ花屋さんの薔薇とは大いに違う感じで。

そうそう、花の苗を買うには、この辺りではパドヴァに大きな店があり、
カタログを送ってくれるので、それをネットで注文するのだそう。

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エレオノーラ。

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前庭にこんなテーブルがあり、ここで自家製ジュースとカフェを頂きましたが、
陽が射してくると、どこからともなく薔薇の良い香りが漂い、
まぁ、大変な贅沢ですね、これは。

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前庭の木々の隙間から見える湖。
はい、春に来た時歩いた湖畔と、奥にある村がこんな風に!

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お家には大きな黒い8歳になるラブラドルの、ですよね?
ギアーナがいて、彼女は座ると手をきちんと重ね、

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庭の奥にはクジャクも1羽!

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これはジュリアーナが粘って漸くに写したのを送ってくれ、
そうなんですよね、他人が近寄るとさっさと逃げるのです。
そして時に鳴く声は、・・う~ん、どら猫の雄叫びとでも、ははは。



こちらはクジャクを狙う、粘りのジュリアーナ!

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奥の方、そして前庭の脇のかなりの傾斜地にも、あれこれ植えられており。

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百合もあり、アジサイも大きな塊があり、

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庭のテーブルの上には柿の木が花をつけていて、
ときどきぽろっと落ちてくるのが、子供の頃の記憶を誘います。

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オリーヴ、

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サクランボが美味しそうな赤い色なのに、下の方は薔薇の枝に巻きつかれ。

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最後は、やはり赤いバラをどうぞ!

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咲き乱れる薔薇園、素敵でしょう?!
お楽しみ頂けました様に。

アンナさんが写真を送ってくれ、と言っておられたので、この後選抜し、
はい、130枚程撮っており、それを送るつもりです。
気に入って頂けると良いですが・・。
       
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・ ベリー公のいとも豪華なる時梼書 

本日は突然の、いとも華麗な趣に変身の我がブログ、驚かれた方も
おいでと思いますが、
はい、なんでございます、ガサツなshinkaiにも隠された
華麗で豪華端麗な部分があると言う事でございまして、言わせてぇ、ひひひ、

15世紀の細密写本の時梼書として、世界最高の評をもつ
「ベリー公のいとも豪華な時梼書/Très riches heures du Duc de Berry」
の中からとりわけ有名な、12ヶ月のカレンダー部分をご覧下さいね。

今回は写真が小さいと愉しめませんので、いつもより大きいサイズでご覧頂き、
これらはウィキペディアのイタリア語版から拝借しましたが、

フランス語、オランダ語のウィキのページは「素晴らしい」の星付きで、
これらからもっと大きな写真も見れますし、拡大も出来ますのでどうぞ。

まずトップは1月の大饗宴。 

1.jpg

ベリー公の大広間に集まった貴族たちが年頭の挨拶を交わし、ご馳走に預かり、
贈り物の交換をしている場面と。



「ベリー公の時梼書」に描かれている細密画は、今日ご覧頂く12ヶ月のカレンダー、
つまり上の半円部分に描かれるその月の星座表と、その下の各月毎の
四季感あふれる素晴らしい情景が描かれたものに続いて、

様々な祈りのページがあり、たくさんの細密画も含まれる物。
現在この時梼書はフランスのシャンティイ城のコンデ美術館内、図書館に
収められ非公開との事ですが、

羊皮紙206葉で、ページ・サイズは29x21cm、
カレンダーの絵の大きさは22x14cm!

この小さなサイズに閉じ込められた絵の世界の大きさ、素晴らしさに
まさに驚嘆するばかりです。
      

所でなぜ今回ベリー公の時梼書を取り上げたか、と言いますと、
ずっと以前からこのカレンダーの絵に魅かれ、1度模写してみたい、と
考えておりましたが、到底歯が立たない物と半ば諦めていたのでした。
ですが最近自分の絵の描き方が変わった事から、ひょっとして出来るかも、
と考え始め、遂に取り掛かったという次第です。

どの月から始めようかと思ったのですが、はい、やはり12ヶ月分全部をぼちぼちと!
と思い、次はどこかに飛ぶにせよ、まずは1月から、と先日来初め、
今回分室の水彩画の方にアップを。

まだ漸くにペン描きを済ませ、一応の色を入れた所ですが、
1月の饗宴場面を描きながら気のついた事も書きましたので、
この後にでも見てやって下さいね。
       
ベリー公のいとも豪華なる時梼書、 模写を始めました
https://italiashinkai.seesaa.net/archives/20130611-1.html

作品の出来上がりは



2月 雪景色

2.jpg

寒い冬空の下、外で働く姿、家畜小屋、そして家の中で暖を取る人々、
なんという暖まり方! ははは。 暖炉の傍には猫ちゃんも。



3月 春、畑の仕事始め

3.jpg

手前に牛に鋤で畑を耕させる農夫がいて、
向こうには葡萄畑の手入れや種蒔き準備の姿。
奥に見えるお城は、ベリー公の各地の城が各場面に。



4月 婚約式

4.jpg

緑の草原で執り行われている婚約、指輪の交換場面。
侍女たちは傍らで草花を摘み・・、なんとも牧歌的。
       

細密画写本と称される、これら素晴らしい彩りの絵ですが、
羊皮紙に鉛丹インクで下描きをし、彩色は卵白と粉絵具を使うテンペラ画。

鉛丹・ミニウムで描いたのからミニアチュールという言葉が生まれ、
初期の絵は小さかった事から、ミニアチュールが細密画と誤解され、
などとも読みましたが、まぁ、今現在はこの意味ですね。

羊皮紙の作り方、その詳細、そしてインク、絵具の事に付いて、
こちらに大変詳細な説明がありますので、どうぞ。
http://www.youhishi.com/introduction.html
http://www.youhishi.com/manuscriptmaking.html
       
       
             
5月 若葉狩り

5.jpg

貴族の若者たちの、騎馬での春のお出かけ。
ラッパを吹く者たち、2匹のワン君もお伴の華々しさ。



6月 草刈り

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冬の家畜の飼料になる、夏草の刈り入れ場面。


この「ベリー公の時梼書」のカレンダーの情景の素晴らしさは、
単に貴族生活の華やかさが描かれているのみでなく、交互に四季の農民の働く姿、
何の仕事に従事しているかが描かれている事だと思うのですが、
その農民の働く姿も、大変優雅に洗練されたスタイルで、
色の取り合わせの見事さに、本当に魅了されます。


この時梼書に名を残すベリー公・Duc de Berry(1340~1416)ですが、
フランスの歴史にも疎いshinkaiには、読んで来たままの、
フランス王ジャン2世善良王の3男で、兄にシャルル5世賢明王とアンジュー公1世、
弟にブルゴーニュ公フィリップ2世豪胆王がいた、としか書けず、・・すんまへん。

とにかくコレクション・マニア、芸術家たちのパトロンとしてが、政治的な働きよりも
有名な方なのだそう。
コレクションの目録があるそうで、それにより
1月の饗宴場面に描かれているテーブル右端の大きな舟形が、
金製の塩入れ、だと分かるとも!
     
 
一方この時梼書を描いたランブール兄弟・Limbourgですが、アルファベットを
ご覧の様にリンブルク兄弟とも呼ぶそうで、
オランダのブルージュ、またはナイメーヘンの生まれとあり、
有名なのが兄弟の内の3人、大体1385年から88年に3人が生まれた様子。

ヘルマン・Herman、ポル・Pol、そしてヨハン・Johanの3人が
この「ベリー公の時梼書」に関わっており、これ以前にも他の公の時梼書の制作も
しており、大変なお気に入りとなり、とりわけポルが腕も立ったのでしょう、
リーダー格で、公からの贈り物もたくさん頂いていた様子です。

コレクション・マニアだけでなく、大変な目利きでもあったベリー公の下で仕事をし、
多分そのコレクションを見る機会も持ち、それに参画していただろう立場で、
大いに勉強できるチャンスもあった事でしょう。


shinkai が関心を持って調べた話としましては、
1月の饗宴図に半ば顔を隠されて登場のポルの愛妻ジレット・
Gilette de la Mercièreですが、

日本語版ウィキの記事で読んだものの良く分からず、興味をひかれ好奇心
満々のshinkai、イタリア語版フランス語版にも書いてないので、
遂にオランダ語版を翻訳して読んで参りましたぁ! ははは。
はい、オランダの画家ですから、やはり本国版が詳しく・・。

つまりです、ポルはブルージュの実業家の富豪の娘、父親は亡くなり、
母親だけだった様ですが、
その娘を、なんと8歳の娘を好きになり、結婚したいと申し込んだものの、
母親と親戚がウンと言わず、考えてみずとも当たり前の話で! 
彼を気に入り私的従者にも任命していたベリー公に頼み込み、
公は娘を城に監禁してしまい、こういう所が如何にも乱暴ですが、
ははは、で、公自身も事件に巻き込まれた形となり、娘を母親に戻す事で
一件落着。

で次にどうしたか、と言いますと、ポルとその兄弟にブルージュで一番豪奢な
家をプレゼントし、遂に1411年、12歳になったジレットとポル24歳がめでたく結婚。
       
ですが子供に恵まれず、1416年ポルを始め、兄弟3人が次々と亡くなります、
ベリー公も同じ年に!
       
これはこの歳に流行ったペストのせいだろうと言うのですが、
関係者が全て亡くなった事でベリー公の時梼書は中途のままとなり、
のち70年後に他の画家が引き継ぎ完成させます。

兄弟3人とも28歳から31歳の若い死で、これが大変残念な事。
一方残されたポルの愛妻ジレットですが、夫の亡くなった同年の内に再婚、
夫の残した豪奢な家にそのまま再婚相手と住んだそうなもし。


◆ 追記 
ポルの妻となったジレットの件がフランス語版に書いてなかった、と上記しましたが、
書いてありまして私の見逃しでした。 ですが、やはりオランダ語版の方が詳細に。
      


さて本題に戻りまして、

7月 羊の毛刈りと麦の刈り入れ

7.jpg       



8月 鷹狩りに出かける貴族の一行

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背後の川では裸になって泳ぐ男達がおり、その後ろの畑では刈った麦を束ね、
荷車で運ぶ姿も。



9月 葡萄摘みと運ぶ様子

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10月 畑の畝を作り、種蒔きをし、左には即ついばむ小鳥の姿も。

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11月 林のドングリを落とし、豚に食べさす場面

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ランブール兄弟、そしてベリー公が一時に亡くなり、この時梼書作成は
長い中断があったと書きましたが、

9月からの描き方、色使いが少し違う事に気が付きます。
後年制作が再開されて後、画家が変わったと言う事ですが、
とりわけこの11月、そして12月の変化が激しいと。   
       


12月 イノシシ狩り   猟犬が激しく襲いかかる狩りの姿。

12.jpg

リアル感溢れる場面、描き方ですが、
やはりランブール兄弟の優雅さ、色使いの端麗さとは程遠い感じですね。


1412年頃から制作が始まった、といい、関係者一同が亡くなる1416年までの
4年間に渡る時梼書の作品。
たった22x14cmの大きさの絵の中に描かれた世界の素晴らしさ!
       
6世紀を経て、未だこの鮮やかな色と優雅な絵画世界が見れる嬉しさ!!
じっくり眺めつつ絵の世界に入り込むと、静かで幸せな気持ちに満たされます。


◆ 追記 
ブログリンクさせて頂いているフランスはブルゴーニュにお住まいのOtiumさんが
興味深いコメントを入れて下さり、お邪魔して拝見して来ました。

この時梼書の「1月の饗宴」をご自分のプロフィール写真に使っておられる程
お気に入りの様子ですが、お友達が遺産相続したお家で見つかった
石像の追跡調査で、この「ベリー公の時梼書」からヒントを得られた事など、
如何にも彼女らしい追跡と蘊蓄が語られます。
      
こちらをどうぞ。
http://otium.blog96.fc2.com/blog-entry-1971.html


◆ 追記 
「うたたね歳時記」のうたたねさんも、この「ベリー公の歳時記」を大いに気に入り、
ご自分のプロフィール画にされた事、画集も買われた事
などのあれこれをお知らせ下さり、こちらの記事にリンクして下さいました。
私が書かなかった事などもあれこれ載せておられますので、どうぞご訪問ください。  
http://utatanetion.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/--fd5a.html


*****

いつもブログご訪問、有難うございます!
毎日バタバタ過ごしておりますが、この日曜にちょっと嬉しい事がありましたので、
聞いてやって下さいね。

暫く前から毎週日曜の午前、お天気が良い時は仲間と歩く事にしていますが、
はい、大体2時間半位の歩きで、コネリアーノの橋の脇に集まり、そこから出かけます。
この朝ジュリアーナが今日来る?と電話をくれ、行くよ、いつもの時間にね、と。
で9時半までお絵描きし、9時50分にいつもの彼女との待ち合わせ場所、
エディーコラ前に行きますと、・・いない!

訊ねると、ジュリアーナは歩いて先に行ったよ、と。
手前のロータリーで、自転車ハイキングの長~い一行に出会い、
車が列を作って待った事もあり、焦って行ったのですがアウト。
おまけに駐車場がもう満杯でぐるっと回ってやっと滑り込み、
大急ぎでバール、いつも出発前に元気付けのカフェをやるバールに行きましたが、
だあれもおらず、あ~あ、置いて行かれたぁ!

バールに急ぐまでに既に脚が重いのにも気が付き、家に帰ったら近くを歩かないと、
と戻って来ると、なんと家の前に3人仲間が居るではないですかぁ!

つまりです、皆が一斉に焦って話し分かった事は、先週は私は月1の
お墓行きで欠席だったので、暑くなったから、と
集合を30分早めていたのを知らず、だったのですね。

彼女達は私が事故でもしたのかと心配し、ヘルガの家まで行って車に乗り、
我が家に来てくれたと言う訳!
はぁ、携帯はいつも消しており、持たずでして。

で、ガレージのシャッターや、コンドミニオのドアをどんどんやったそうで、
上の奥さんが下に来て話しており、もひとつ向こうの奥さんも何があったの?と
出てくる所に私が戻ったと言う訳でした。

私めは単純に、ああ、置いて行かれちゃった、と思ったのでしたが、
彼女達は本当に心配してくれた様子で、ジュリアーナなど顔つきが変わっていて、
申し訳ない!

理由が分かると大いに安堵してくれ、1時間半程我が家の周囲を
歩いた後に寄って貰いカフェとジェラートのサーヴィス付きで、絵も見て貰い。
申し訳ない事でしたが、本当に嬉しくも有難い思いでした!
       
はい、お陰さまで良い友人達に恵まれ、
元気で無事に毎日を過ごしております。
皆さまにも、今後ともよろしくお願いいたします、と申し上げます!
       
       
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・ 古物コレクション、 スコミーゴ村のお隣さん

今日ご覧頂くのは、ちょうど1年前にお邪魔して写真を撮った、
同じスコミーゴ村の2軒先のお隣さんのお家の、
彼女のコレクションのほんの一部をご覧下さいね。

これが彼女のお家で、緑色の鎧戸の家の方にお住まいで、

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こちらの古い方は細い道を挟んで向かい側の納屋。 手前左に伸びている
石壁の中にはイタ鴨や鶏小屋があり、結構賑やかに鳴くのが、時折聞こえます。

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彼女・マリーアの家にお邪魔する切っ掛けは、たまたまコネリアーノの町中で
出会った時、人形を見に来た、集めていると言うので、
古い人形かどうか聞きますと、古いのもある、というのででは見せて下さい、
と頼んだのでした。

ずっと昔油絵を描いていた時に、フランス人形のアンティークを1体持っていたので、
そんな古い人形かと思ったのでした。

が彼女のは古いと言っても、所謂アンティーク人形ではなく、
とにかく可愛らしいのを、お家の中所せましと集めておりまして・・!

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私にはそれよりももっと他の古物類、かっての生活道具類が、
大いに気に入りましたので、今日はそれらをご覧頂きますね。

お家の1階にあったマヨリカ焼きのストーブ。大変暖かいのですよ、これ!

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イタリア語の先生のアンナリーザのお家にも、マヨリカ焼きのストーブがあると。



外から見るお家は、如何にも古い農家風なのですけど、中はしっかり
修復されており、・・はぁ、お金持ちね。

これらは古い秤類等ですが、一番左に見える球はコーヒーの豆煎り。

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これは素晴らしく大きな、直径60cm位だったかな、銅の鍋。

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何に使ったのか、チーズ作りか、はたまた洗濯物を火に掛けるのか・・。
済みません、聞いたのですけど1年経って忘れています!



蹄鉄と、それを打つ釘ですって!
釘が余りにも長いので、見ただけで痛くなったshinkai。

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これは靴直しに使った物。

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所で皆さんお気付きになりましたか? 古い家の床は、この様にいろいろな
大理石の破片を集めて固めて床にしているのですね。
今頃は木の床が流行っている様ですが、我が家の様に庶民用コンドミニオは、
タイル床で~す。



2階への階段の壁には、こんな風に古い写真が、これもまた所せましに・・。

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1900年代の初頭、ちょうど100年前のコネリアーノの町の姿。信じられない程に
建物が少なく、これはどうやら家畜市で、丘の上に見えるのはコネリアーノのお城。

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位置は違いますが、こちらが現在のお城。

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この橋は今もありますが、今は手前に建物が立ち並び、写真に見える
このお屋敷は奥の並びになってしまっています。

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この通りの様子は、馬車等は別として、ははは、余り変わらずに今も存在し、

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手前に見える橋はこちらで、

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左手奥に見える建物の並びは、逆向きですが、ここ。
       
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右手から2軒目は、キプロス王の家でご紹介した建物。 まだ再アップ無しで・・。
     


ご両親とご一家の写真で、抱かれている女の子が彼女、今も目もとが同じ!

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私がスコミーゴ村に来た22年前!には、まだこのお父さんがご健在でしたっけ!



写真の中には、こんなイタリア国王とムッソリーニが写っているのもあり・・、

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屋根裏というのか、3階に上がると、まさに羨ましい感じのアトリエ風で・・!
ここにもたくさんのコレクション。

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この胴の鍋も素敵でしょう?!

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古いバリカン類に、なぜか並んでパスタ切り、ははは。

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古いトランク。 上が厚紙製で、下が木製でお父さんが作ったのだと。

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イタリアも昔は貧しく、日本と同じ様に移民する、出稼ぎに行く人々が多く、
こんな厚紙のトランクに詰め、縄で縛っている写真を見た事があります。



20cm程の籠の中に、いっぱいの大きさのハチの巣!

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部屋の反対側で、右の本棚の上に見える木製の枠は、
真ん中に炭火を入れたアンカを置き、冬のベッドを温めたもの。

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この形の物はウンブリアでもヴェネトでも見かける、かって本当に庶民が
使っていた物なのですね。

民衆伝統博物館 ・ チッタ・ディ・カステッロ ・ Città di Castello
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462901367.html



同じ様なのを日本でも使っていましたっけね。 そう、湯たんぽ。

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糸取り器。

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これ、分かりますか?  かっての脚のギブスで~す。

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古い籠類と鍋と。 静物画が描けそう、ははは。

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古い手回しのミシン、今も動きます!

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古い琺瑯の水差し。 右のブルーと白の斑のが、とても綺麗でしょ?!
モダンに見えますよね?! やはり琺瑯の洗面器と共に、昔は寝室に。

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最後はおまけの1枚を。 漸くにこちらのお天気も収まりそうな気配ですが、
今2週間の休暇でヴェネトの浜辺に行っている、アンナリーザから届いた、
チビちゃん2人の写真。

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漸くに青空の見える浜辺ですが、まだ少し寒そう!

皆さんも良い季節をお楽しみくださ~い!!


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・ オペラに生き、恋に生き ・ プッチーニの家博物館 

TVはいつも、ご飯を食べる時に前に座るだけで殆ど見ない毎日ですが、
先日偶々チャンネルを変える時に見た場面から、このF.ゼッフィレッリの映画
「カラス・フォーエヴァー」の最後の方を見る事が出来ました。

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世界のソプラノの女王とも言えるマリーア・カラスの53歳で亡くなる最後の日々を
描いたもので、背後に流れるカラスの歌声から、
そうそう、「プッチーニの家博物館」のご案内を、と思い付いた次第、はい。

皆さんも、オペラがお好きな方は多いと思いますが、プッチーニのオペラの、
濃厚で甘美な旋律、とりわけ「トスカ」の、歌に生き、恋に生き、の一節は、
プッチーニ、そしてカラスの生様とも重なる感じがしますので、
今日はそんな事も少し含めてご案内いたしますね。 ごゆっくりどうぞ!

今日ご覧頂く写真は、右下にサイト名が入っているのがshinkaiの撮った物、
または手持ちのガイドブックからの物で、あとはサイトから拝借の物です。



プッチーニの家博物館は・・、地図をどうぞ。
左中程のトッレ・デル・ラーゴ・プッチーニ・Torrre del Lago Pucciniという、
右に見えるマサチュッコリ湖・Massaciuccoliの湖畔にあります。

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この春出かけた時は運悪く、湖に着いた頃に雨となり、
本来ならば良い眺めでしょうに残念でした。

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家の前、プッチーニが住んでいた頃は家のすぐ前まで湖が迫っていたそうですが、
現在は埋め立てられて小さな公園となり、彼の像もあり、

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こちらが現在の家博物館で、グループに分かれガイド付きでの見学で、
内部写真はダメの、結構厳しいものでした。

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これが見学の後に買ったガイドブック。

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現在のこの家博物館と、ルッカ市中にある生家博物館は、唯一の残存子孫の
シモネッタ・プッチーニ・Simonettaの持ち物だそうで、

ここの見学時間は
11月~1月 10時~12時40分 14時~17時20分
2月~3月 10時~12時40分 14時半~17時10分
4月~10月 10時~12時40分 15時~18時20分
休館 月曜 12月25日 11月
この他に、閉館前40分が最後の入館、見学は40分とか、
夏のプッチーニ・フェスティヴァル期間の7~8月は、午後16時~20時40分

などといろいろ細かい事を言っておりまして、見学予定の方はお確かめ下さいね。
予約は Tel 0584.341445
http://www.giacomopuccini.it/en



こちらはルッカ市中にある、プッチーニの生家博物館。

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見学は 休館火曜日
11月~3月  11時~17時    4月~10月 10時~18時



所で我々は普通ジャコモ・プッチーニ・Giacomo Pucciniと呼び習わしていますが、
戸籍にある名は、なんとまぁ、驚かれますな、

ジャコモ・アントーニオ・ドメーニコ・ミケーレ2世・マリーア・プッチーニ、
Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini     
という、音楽家5代に渡る祖先の名を全部貰っておりまして!

こちらが父親ミケーレで、ジャコモが5歳の時に亡くなっております。

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全部で9人の子!!の内、ジャコモは6番目(1858年12月22日生)
男子は彼と弟の2人。



母親のアルビーナ・マージ。

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父親の早い死で、一家の生活は大変だった様ですが、ジャコモは14歳で
早くもルッカのドゥオーモのオルガン弾きとなり、経済的に援けたと。

が、逸話によると彼は無軌道な若者で、小銭を稼ぐために、ドゥオーモの
オルガンの管を何本か売り払う、という様な事もしたそうですが、ははは、
1880年から3年間、奨学金を受けミラノの音楽院で学ぶチャンスを。

若く貧しく元気で大望に溢れた学生生活だったのでしょうが、
友にマスカーニ・Mascaniや、師にポンキエッリ・Ponchielli等の名が見えます。


1883年初のオペラ「妖精ビッリ・Le Villi」がコンクールの入賞を逃すものの
翌年上演され好評を得、2作目の「エドガー・Edgar」に取り掛かり、
この作品はかなりの難産だった様子ですが、


       
1884年にプッチーニは、ルッカの食料雑貨商・droghiereの妻、
既に2人の子持ちであったエルヴィーラ・ボントゥーリ・Elvira Bonturiと知り会い、
駆け落ちを!
       
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プッチーニ28歳、エルヴィーラ26歳。 彼女は2人の子のうちフォスカ・Foscaという
娘を連れての事で、プッチーニは大変この子を愛したそうで、

2年後には彼らの唯一の息子アントーニオ・Antonioが生まれますが、
彼らが正式に結婚したのは1904年、エルヴィーラの先夫が死亡して後の事。

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プッチーニにとってのエルヴィーラの存在は大きく、彼女の性格の難しさと無理解は
2人の生活に様々な支障となり、後年に大変な事件の切っ掛けも作る羽目にも。

  君は芸術という言葉を口にする時、冷やかしの種とする。
  これは私をいつも侮辱し、傷つける。
と、後年の手紙にプッチーニは書いておりますが、
とは言え、彼女の存在は彼にとって深い結びつきでもあり、
逆に様々な作品への思いつきも運んで来たようです。

そう、こういう所が結婚生活の難しい所なのでしょうね。
ソクラテス、リンカーンの奥方も、世の定評は悪妻という事になっておりますが、
・・良妻必ずしも夫を育てず、という事もあり、へっへっへっ。
一方、糟糠の妻を見捨てる夫も数知れず・・! ・・うん、蛇足。



トッレ・デル・ラーゴのこの家に移って来たのは1891年。
この地の鄙びた様子が大変気に入り、最初は借家住まいでしたが、
のちに現在の家を買い取り改装し、1900年から住み始めます。

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写真の奥に見えるのは現在展示室になっていますが、かっては台所だったそうで、
左からエルヴィーラ、ジャコモ、そして息子のアントーニオ。



息子のアントーニオ。 彼は音楽家を継がず、技師だったそう。

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こちらが現存する唯一の相続者、アントーニオの娘、プッチーニの孫シモネッタ。
アントーニオは結婚相手との間に子がありませんで、彼女は彼の結婚前の娘で、
法廷が「プッチーニ」の姓を名乗るのを認めたのだそう。

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プッチーニのオペラは大変有名で、それに付いては多くの方が書かれていますので、       
あらすじ等は省略し、古いポスターでご覧頂きますね。

プッチーニの第3作目のオペラ「マノン・レスコー」 1893年2月に初演で、
35歳にして大成功を収め、

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続く「ラ・ボエーム」 1896年2月。

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1900年の「トスカ」

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この3作の大成功で、彼は一躍有名作曲家となり、生活状態も激変したと言います。
下の「トスカ」のポスター、小舟上の姿はこの湖での彼の写真を使った興味深いもの。
「マノン・レスコー」の脚本からルイージ・イッリカ・Luigi Illicaが加わり、

ボエームから参加のジュゼッペ・ジャコーザ・Giuseppe Giacosa、
この3人での作品作りが大成功を収めた訳で、
   
モーツァルトにとって、ロレンツォ・ダ・ポンテ・Lorenzo da Ponteという
素晴らしい脚本作家の存在があった様に、
オペラ作曲家には、優れた台本作家が不可欠なのが良く分かりますね。



1904年「蝶々夫人」、これも三人の共作。

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「蝶々夫人」は初演には評判が良くなかったそうですが、次第に人気を得、
現在はプッチーニの代表作のひとつである事は皆さんも良くご存じの通りで、

この後「西部の娘」「燕」そして最後の作「トゥーランドット」と続きます。

夏の夜の、広場での「蝶々夫人」公演の様子は
      


家博物館、内部の様子をどうぞ。

湖に一番近い部屋、入り口左手の書斎。 ピアノがありその左手に書き物机、
ここでかの名作オペラが次々に作曲されたという場所。

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こちらは書斎右側の部屋で、右手に見えるガラスケースの中に、彼のデスマスク。

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プッチーニはブリュッセルで、喉頭癌の手術後亡くなり、
1924年11月29日、66歳のまだ若い死でした。



上の写真の壁に見える肖像画がこれで、晩年の姿。

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葬儀はブリュッセルとミラノと2度行われ、
この家の礼拝堂と呼ばれる部屋に葬られています。

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家の2階部は見れずで、1階の各部屋に所狭しと様々な品、多くの写真、
果ては狩猟好きの彼が使ったという銃の様々が所狭しと置かれ、
マリーア・カラスの歌声が少し高過ぎる程に流れ・・。



こちらがプッチーニの若い、というか、中年の渋い、魅力ある男性の写真。

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所で勿論ながら、はは、博物館で買ってきたカタログには全然触れられていなかった、
彼の女性関係を少し、はい。

「度し難い女たらし」というのが伝説的な評で、
彼自身「野鳥と台本と美しい女達の、偉大な狩人」と豪語していたそうで、ははは、
ドン・ファン的な女たらし、女好きとは違い、内気で繊細で、
軽く女達との関係は持てなかったと。

ですが、妻となった最初のエルヴィーラとの大きな愛以外、新しいオペラ上演の
度毎にと言えるほど、主役ソプラノとの関係が始まりまして、
そこから次のオペラへのモチーフが生まれてくる、というなんとも芸術的な生き方で、
ははは、私の数えによると7人かな、他に大した事のないと記されたのが2人、はい。


最初の他人の妻だったエルヴィーラとの駆け落ちも、大きなスキャンダルを
引き起こしたのですが、

1909年彼の家の女中のドーリア・マンフレディ・Doria Manfredi 23歳が、
夫との間を疑ったエルヴィーラの執拗な追及に、洗剤を飲み自殺という事件が。

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これは夫婦間に深い亀裂を生じただけでなく、刑事事件となり、大スキャンダルと。
で大変気の毒な事に、遺体解剖の結果、彼女が処女であった事が明白に、
という哀れさで、
この事件は近年映画になり「プッチーニの愛人」として、日本公開もあった様で、
ご存知の方もおありかと。

問題はこのプッチーニの浮気相手が、ドーリアの従姉妹のジューリア・マンフレディ・
Giuliaで、
1923年には、プッチーニの2番目の息子であろう、しかもアントーニオという
同じ名前の子が生まれているのですね。

この件は2007年から調査が進んでいるそうですが、こちらのアントーニオの娘
ナディア・Nadiaから、1914年に撮影された未公開の物とか、手紙類が
明らかにされているのだとか。
       


こういう莫大な遺産問題が絡む様々な問題はさて置き、
このトッレ・デル・ラーゴでは毎年夏にプッチーニ・フェスティヴァルが開かれているそうで、
湖に臨む、この素晴らしい舞台の様子。

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では、マリーア・カラスの歌う「歌に生き、恋に生き」をこの写真とは違いますが、
YouTubeでどうぞ!

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映像は、確かゼッフィレッリが監修のロンドンのコヴェント・ガーデンの舞台の物と。

プッチーニのオペラに登場する主人公達も、こうした素晴らしいソプラノを
得る事により、より深い味を持てるのでしょうね。


マリーア・カラス・Maria Callasというと、ギリシャの大富豪オナシスとの
関係が有名ですが、

彼と出会う前、彼女がまだ若いほんの駆け出しで、美声の持ち主ながら
大デブちゃんだった時、ヴェローナで出会ったイタリアの富豪実業家・
ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニ・Giovanni Battista Meneghini
と結婚していたのですね。

彼の方が27歳も年上だったのですが、アレーナで歌ったカラスに大変魅かれ、
"半年間の協定"なる物を提案します。 彼女にダイエットをさせ、
こうしてすらりとした美女の、世界的ソプラノ誕生、という訳。

二人は結婚し、彼は自分の仕事を放り出し、世界中どこでも彼女の舞台の
ある所に付いて回り、10年ほど睦まじい関係が続いた後、オナシスの登場。

離婚はしないまま、ガルダ湖畔のシルミオーネの家で彼の失意に沈んだ生活が続き、
カラスが53歳でパリで亡くなると、82歳の彼が、妻の遺産相続を、という事に。
       
85歳で彼が亡くなった後、最後まで誠実に看取った家政婦が遺産相続し、
彼女亡き後はその甥に。

歌に生き、愛に生き、  オペラに生き、恋に生き、

・・みなさ~ん、頑張って生きて参りましょうねぇ!!

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