・ n.2 サレルノの街、ちょっぴり旧市街とドゥオーモ

引き続き、サレルノの街のその2をご覧下さいね。

サレルノの街はナポリから南東に約55Kの位置にあり、電車で約40分程の距離。
その心算はなかったものの、半日程の街訪問で済んでしまい、
これを書く為に改めて読んでみると、見所は他にもたくさんあり、少し残念。

ですが、ドゥオーモ内には素晴らしいモザイクがあり、回廊も美しく、
ゆっくりと見て回り楽しみました。

まずはドゥオーモの中庭回廊からどうぞ。 入り口扉から見る鐘楼。

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回廊の奥正面に聖堂建物。

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サレルノの聖堂は建設が1084年で、アラブ・ノルマン方式と呼ばれますが、
アマルフィ沿岸各地で見られる物で、

この辺りの歴史に疎いshinkaiは、到底上手くご説明できませんが、
サレルノは1076年、ロベルト・イル・グイスカルド・Roberto il Guiscaldoという
ノルマン出身の傭兵一家の一人に征服され、聖堂はこの時期に建設された物。
     
彼は既に南イタリア一帯、プーリアからカラーブリアにかけての公爵領を異母兄の死後
受け継いでおり、イル・グイスカルドというあだ名も、狡猾なという意味、を持つ男。

彼らはノルマンディを、たった5人の騎士を抱える家来1人と、30人程の徒歩の傭兵を
連れ出発、イタリアに来て放浪の山賊の頭首となり、で、次第に大物の傭兵隊長となり、
ついには一族で南イタリアからシチリアを治める程に成り上がったもので、
彼らの様子もいつかじっくり読んでみたいと、好奇心をちょっぴり刺激された男の物語。

南イタリアの人々はご存知の様に黒髪で浅黒い肌ですが、そんな中に金髪で青い目の
南イタリア人もおり、こういったノルマン征服の歴史を語ります。



四角な回廊中庭は、ご覧の様に素晴らしい物で、周囲を囲む回廊は2層式、
石の嵌め込み柄のアーチがリズムを刻み、中央に泉があります。

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回廊にはご覧の様に、ローマ期からの素晴らしい石棺が数多く展示されており、

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こちらは回廊の南側部分と、鐘楼上部。

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聖堂は「サレルノの天国」と称されている様ですが、こうして千年に及ぶ歴史を持ち、
その長い変遷の中で、街の繁栄を背景に次々と装飾が加えられて行った様子。



聖堂への正面入り口、青銅の扉と、

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取り囲む大理石枠の、素晴らしい彫り。

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そしてその扉脇の、ははは、これは見逃せないライオン君達。

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内部の素晴らしいモザイク群をどうぞ。

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どれがどの礼拝堂の物か、すみません、モザイクの柄にのみ気を取られ覚えておらず、
あれこれ探して、漸くに後陣部の物とだけ分かりました。

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が、印象が古いビザンティンのモザイクにしては小奇麗過ぎる感じで調べましたら、
やはり近年に作り直されたものだそう。



こちらは説教壇ですが、なんとも美しく、これを見た後は何も考えられず、
満足し出てしまい、ロココ調とはいえ美しいクリプタも見逃したのでしたぁ。

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説教壇は2つあり、こちらの大きな方が1195年作のD'Ajello、発音が分かりませんが
作者の名前だろうと。 細部をどうぞ。

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こちらが小さい説教壇、1180年作のGuarna・グアルナの説教壇と呼ばれる物。

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アマルフィの聖堂でも見たこのモザイク形式がコズマ式と知り、そうご紹介しました。
コズマ式、というのはローマのコズマ家が得意としたビザンティン様式の抽象柄の装飾で、
彼らが活躍したのは12~14世紀という事でした。

所が今回出会った言葉はインタルシオ・intarsio、嵌め込み細工。
筆者によって選ぶ言葉が違うのか、と思いつつ読んでいて、上記した後陣部分の
再建年代の辺りで気が付きました。
       
この2つある説教壇は、聖堂が建設された1084年に近い1180年と1195年の作で、
ビザンティン様式そのもので、後にコズマ家一族が踏襲したという流れなのですね。

アマルフィの聖堂は13世紀頃の建設等なので、コズマ式という言葉で良いでしょうが、
どの時代の物か、どういう風にビザンティン様式が伝わったのか、
今回これを知った事はshinkaiにはちょっと目から鱗でございました。

インタルシオ・嵌め込み細工、タルシエ・嵌め木細工という言葉には、
・・ご案内がまだですが、はは、と笑いでごまかし、
カプリから出かけたソッレント・Sorrentoの街で出会いました。

まさに嵌め木細工で、木の色の違いを利用した様々な細工物、それも大変に
細かい細工で驚いた物で、ビザンティン美術の影響の大きさを思います。
       

それにしても、本当に素晴らしく美しく残っていて感激。
白の余白が良く効いて、南国の空気も感じさせる素晴らしさ!

今思い出すと本当に後は何も見ず、これらのモザイクの美しさを見れた事で満足し
聖堂を出て、他には何も覚えていないのですよ、ははは。

アマルフィ・大聖堂の煌めきを  その1と2



もう一度回廊を見まわしながら、 ほら、この聖母さま、目が素敵でしょう?!

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聖堂の扉の方から回廊入り口の、つまり、外界との繋がりの扉方面を。

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この聖堂が「サレルノの天国」ならば、この扉の向こうには、鬼がいる?! ははは。

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ドゥオーモのサイトはこちらに。 http://www.cattedraledisalerno.it/ 
      

ドゥオーモのすぐ近くの建物の奥に古本屋があり、アマルフィ沿岸沿いの女山賊、
というか女海賊というか、についての研究レポート、薄いので求めたのですが、
と中世の土地の経済活動についての本を買い、大通りの近代的な大きな本屋さんで
土地の歴史についての本を探して購入。

こういう本は一般の本屋やオンラインでは見つからず、地方の本屋さんでないと。
とはいえ、買って戻っても、必要な部分だけちょこっと読んだりで、なかなか
きちんと読めず積読のままで・・! 自分を騙す才能は大いにあるshinkai。



良さげなレストランは無いかと、ちょこちょこと通りに入り覗いたりしりつつ
この広場に。 なんとなしに雰囲気に惹かれ・・、

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暗い店の内部を撮りたく、外は色が飛びましたが、一軒の小さな野菜果物店。

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そして、その先に見えたこんな門。

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何かありそうですが空腹とトイレが差し迫り、撮ったまま先を急いだのですが、

今回どこだったのかと、地図と首っ引きであれこれのサイトを探しまわり、
・・これだけ真面目に、昔勉強していたらねぇ!! ははは。

で、見当を付けたのが、通称ロトンダと呼ばれるフラヴィオ・ジョイア広場・
Piazza Flavio Gioiaと、かっては町の城壁の門であったロンゴバルダ門、
修復されてネオ・クラシック様式という門ではないかと。
この門を入り先を右折すると、先回見て頂いたポルタノーヴァ広場に出ると。
     


という事で、サレルノ駅前ヴィットリオ・ヴェネト広場・Piazza Vittorio Veneto
まで戻り、・・なんとねぇ、ヴェネトのお隣の町の名がこんな所に!
の中心にある記念碑、戦没者記念かな?

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という様な、忙しないサレルノのご案内でしたが、お楽しみ頂けました様に!


***

明日28日の早朝から、トスカーナに出かけて来ます。 コネリアーノの成人教室の
グループ旅行で、ボーマルツォ、タルクイニア等などの、エトルスク見学。
最初は余りその気でなかったのですが、修道院に宿泊と聞いて
一度経験した見たかったもので決めました。

で、即どこの修道院かと検索をかけましたら、トラピスト会の女子修道院と分かり、
女子修道院だって、残念! とジュリアーナにメールしましたら、
いつもはメールしたよ、と電話しないとダメな彼女が間髪を入れずに返信をくれ、
どうしたかった?! 修道僧と逃げたかったのか?! って。 がはは!!

修道院に出かけて見る、会う修道僧は、研究者のような風貌でなかなか良い、
失礼! なのですが、
時に病院で働く修道女に素晴らしい人を見かけるにせよ、一般にスーパーで
見かける修道女は、仲間と口げんかしたりeccで、余り素敵には見えないのですね。

車の免許試験の前、落ちたらと心配する私に、夫の介護アシスタトで来ていた1人が、
落ちないよ、修道女でも通るんだから、と。 ははは、私が言ったのではありません!

さて、どんな修道院体験になりますか、報告をお楽しみに!
       
ではでは、行って参ります!!       

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・ n.1 サレルノの街、ちょっぴり旧市街とドゥオーモ

昨年春に行ったナポリ、ポンペイ、アマルフィ方面を遅ればせながら
少しづつご案内していますが、今日はサレルノの街・Salernoの旧市街と
ドゥオーモをご覧頂こうと思います。

タイトルに書いた様にほんのちょっぴりだけとはいえ、歴史ある古い街と聖堂で
写真が多くなり、2回に分ける事にしますので宜しくお願い致します。

ナポリ中央駅から電車を使うと、約40分程で到着ですが、私はアマルフィに
宿を取っていましたので、バスで往復。

上の写真は、サレルノ到着直前の海岸沿い。

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街の地図をどうぞ。
人口14万人程の大きな街で、全体はもっと広いのですが、ここは街の南部に当たる
海沿いの地域。

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赤線で囲んだ部分、東端がサレルノの駅で、駅前広場にインフォメーションがあり、
真っ直ぐ西に延びる大通り、ヴィットリオ・エマヌエレ大通り・Corso Vitt, Emanuele
これが素晴らしい事に歩行者天国!

この道の先に細くなって続くのが旧市街の道、メルカンティ通り・Via dei Mercanti、
かっての一番の商業通りだった様で、
少し見難いですが、Mercantiの文字の頭の位置に赤点を付けている位置にご留意を。

その先で交差の通りがドゥオーモ通り・Via Duomoで、北の赤線で囲った所がドゥオーモ。

私はこの日まさに海岸沿いに見えるバスの印、でバスを降り、駅前のインフォメーションで
地図を貰い、印をつけて貰った通りにヴィットリオ・エマヌエレ通りをつっ切り旧市街に、
       
中世のサレルノ医学校の博物館を見学、ドゥオーモを見て、近くの古書店で本を買い、
街中の素晴らしい本屋でもまた本を探して買い、
       
ちょうど良さそうなレストランを目で探しつつ、上手く見つけられず、トイレも探しつつ、
そうこうしながらまた駅まで戻ってしまい、
駅ではパニーノしか見つからず、shinkaiの頭には、パンは代用食という、ははは、
幼少時よりの拭いきれない固定観念がありますがぁ、空腹には耐えられず
サンドイッチを買ってまたバスに・・、
という、ほぼ一直線の往復で済んでしまったサレルノの街!

それでもまぁ、・・見てやっておくんなせえ!

ヴィットリオ・エマヌエレ大通りを行きます。 両側にはモダンなビルが立ち並び、
車が通らず、バールのテラス席もあり、なかなかモダンな通り。



途中、道脇の工事現場の覆いには、こんな写真が一枚づつ。

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余りにも素晴らしい装飾なので、どこの?と思いつつ全部写して歩き・・、
後にドゥオーモに行って、ああ、ここのだった、と。



歩道の敷石。

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ヴィットリオ・エマヌエレ大通りの最後に、このポルタノーヴァ広場・Piazza Portanova.
通りが細くなり、今見えている真ん中を奥にメルカンティ通りと名が変わり、旧市街に。

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逆の言い方をすると、この広場がかっての旧市街を取り囲んでいた市壁の門外、で、
ここで犯罪者の斬首刑が行われていたとか!



ヴィットリオ・エマヌエレ大通りもそうでしたが、道を進みつつ通りが交差する毎、
左側に海が見え、

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建物の感じも、なんとなしに年代物の雰囲気となり・・、

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ですが、古びてはいるもののどっしりとした建物が多く、かっての繁栄が偲べます。
様々な店が続きますが、受けた印象は、貴金属の店が多いなぁ、と。

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写真では如何にもすっきりの印象ですが、実際はかなりごちゃごちゃとした雰囲気で、
あちこちとカメラを向けるのが少し憚られる感じも受け・・、が、正直な感想で、
その意味でも、ナポリの感じと同じ。

メルカンティ通りのメルカンティは商人を指し、通りの名は実際に何商人に由来か、
何を主に扱っていたのか、そんな興味もわき調べましたが特別には何もでず。

が、メルカンティ通りと呼ばれる以前はドゥラッぺリーア通り・Via Drapperiaと
呼ばれていたそうで、この言葉は服地、織物、その製造、店も指す様なので、
手仕事職人の小さな店が未だに数多く残る一帯、という説明も納得です。



サレルノの土地に定住者が入ったのは紀元前6世紀頃から、紀元前2世紀に
ローマの下に、7世紀にはロンゴバルドの元に下りますが、

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この辺り一帯は当時からの影響を色濃く残し、細い迷路が入り組み、
また名のある邸宅も幾つかある様子。
       


中世が残る町によく見られる、建物同士の支えのアーチ、この写真では一つしか
見えませんが、幾つも続いている通りの写真もサイトで見かけました。

細い通りですが、日常生活に必要な店があちこちに、という様な、
なかなか素敵な通りに見えますね。
  
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サレルノは、中世の医学学校で大変有名なのですが、メルカンティ通りを行きながら、
思いがけずこんな博物館があるのを目にし、おお! と喜んだものの・・、

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場所は、地図のメルカンティ通りに赤点を打った場所で、ご覧の通り、千年頃に
建設されたというサン・グレゴーリオ教会の建物を修復して使用。

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で、Museo Virutualeと見える様に展示は全てヴァーチャル、つまりたくさんの
ディスプレイが壁に並んでいて、自分で好きなように選んで、見れる形式。

勿論古い図柄等もたくさん見れ、薬草なども分かり易いものの、立ったまま次々と
画面が変わるのを見るのは外国人にとっては、やはり書いた展示物が欲しい所で、
それならいつもしている様に写真を撮り、家でゆっくり読めるという物で。

カタログ等も揃っておらず、係のシニョーレに訊ねても何もなし、エマヌエレ通りに
大きな本屋がありますから、そこで、と言われ、帰りに寄りました。


中世のヨーロッパ各地にその名を馳せたサレルノの医学学校。
その始まりは9世紀頃、大嵐を避けて水道橋の下に偶然に集まったギリシャ人、
ローマ人、ユダヤ人、アラブ人の4人が、怪我人の世話をするお互いを見て、
学校の創立を、という伝説的な逸話が語られますが、

11~13世紀にかけ医学修得の人材が各地から集まり、名医に掛かりたい病人達も、
医薬の取引でもと、その最高の繁栄を誇りますが、
14世紀以降、ナポリに商業交易の覇権が移るようになると次第に衰退の道を辿り。

このサレルノの医学学校と、最初の有名な女医についてcucciolaさんがこちらに詳細に。
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/765086.html



メルカンティ通りから少し広いドゥオーモ通りに出て右折、緩やかな坂道の
すぐ右手に鐘楼が見え、この一帯のアラブ・ノルマン様式の飾りですぐ分かります。

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ドゥオーモ前の広場、普通はドゥオーモ広場と呼ばれますが、ここサレルノでは
アルファーノ広場・Piazza Alfanoで、かっての著名な司教様の名の様。



ご覧頂きたいのはこの周辺の建物の様子で、ナポリの感じによく似ているなぁ、と。

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窓飾りは豪華なのですが、少し寂れたというか、のんびり感があり、バールの席も
いたって簡素、というより、単に店の前にテーブルと椅子があるだけで、
バールではないのかも・・。

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こちらがドゥオーモ前の石段。 では、ご一緒に。

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扉の前、左右のライオン君はスペース省略の為か厚みを削られており、ははは。

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入り口扉の上部、豪華な彫り。

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上部右側アップ、

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そして左側。 ははは、でかいなぁ!

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で、入り口扉をくぐると、なんとそこは聖堂内部入り口ではなく、
美しい別世界の中庭回廊が広がっておりました!

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という所で、内部のご案内は次回のお楽しみに!


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・ スコミーゴ村、 葡萄畑のある眺め 

3日前でしたか、良いお天気に誘われカメラ片手にスコミーゴ村のお散歩に。
かなり広い村で丘の上を上ったり下ったり、随分と眺めの様子も違いますが、
あれこれ撮って来た中から、今日は葡萄畑が写っているものを纏めました。

まずこれは、東方面の農家と葡萄畑。

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コネリアーノから北西にかけての一帯は、「白ワインの道」と呼ばれ、
プロセッコの畑が広がり、しかもそれが毎年どんどん広がって行きます。

イタリアも世界情勢と同じく不況が著しいのですが、
ワイン、食品、衣類、靴など、つまりメイド・イン・イタリ―の製品は不況知らず!

発泡性の白ワイン、しかもこの辺り一帯の辛口の白ワイン、プロセッコは、
フランスのシャンペンを抜いて世界一とかで、
そんな事情から、どんどん葡萄畑が広がっている様子。

で、歩いたのは、家から北東に向かって坂を下り、またハァハァと坂を戻り
西のオリアーノ村に、という事で、春先の葡萄畑をお楽しみ下さい!

全体のご案内はこちらから スコミーゴ村の四季  その周辺  
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460835296.html
 
白ワインの道を走る、ヴェネト一周自転車競技
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463525348.html

n.1 白ワインの道 Strada del Vino Bianco
n.2 白ワインの道 ・ サント・ステーファノ付近
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462783931.html



整然と広がる平地の葡萄畑。 ここもまだスコミーゴですが、
奥の家々は東隣のコッレ・ウンベルト村。

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葡萄畑の杭の並びは、等間隔にきちんと・・、

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面白い影を作り、

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緩やかな傾斜地に並ぶ畝。  いずれ、奥にも畝が並ぶ事でしょう。

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一旦家の近くに戻っての、北に向かっての畑で、 奥に見える山の向こうに
べッルーノ・Belluno があり、北国との間の屏風の役目を果たします。

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ベッルーノ再訪 ・ アルプス兵と、古いボルゴと
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463457241.html



冬の間に剪定され、枝がきちんと下向きに結わえられ、

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西のオリアーノ村に向かっての緩やかな傾斜地。

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枝を這わすために渡された針金が逆光に光り・・、

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緩やかに下がり、また上って続く葡萄畑。

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少し高い位置から見た、北の葡萄畑。

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谷越しに見る、スコミーゴ村の教会。

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こちらは、お馴染の隣のオリアーノ村の教会。

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手前は、赤ちゃんの葡萄畑。 細い緑色の棒が見えますか?

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新しく植えられた葡萄の苗木から、こんな小さな芽!
他には見当たらず、この子が一番でした。

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ここからは古い写真で、葡萄畑の四季をご覧下さいね。
冬の霧にかすむ葡萄畑。

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春、芽吹き始めた葡萄の木、

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そして、緑に埋まるオリアーノの村。

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夏の盛りの葡萄の木、葡萄畑の畝。

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秋、葡萄摘みを目前に、たわわに実る葡萄。

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この辺りは白葡萄が殆どですが、坂の下には一部、赤ワイン用の葡萄も。

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収穫が済み、剪定を待つ晩秋の畑。

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信州生まれの私ですが、町の中で育ち、その後はずっと街の中で、
自然とは余り縁のない生活をして来ましたが、
ここイタリアの田舎に住むようになって初めて四季を目の当たりに感じ、
愉しめるようになりました。 これは本当に有難く嬉しい事!

とりわけ、このスコミーゴ村に生きれる事、これはもう、何事にも代えがたいと。
はい、私には自慢の村、自慢のこの一帯なのです!

新しいご案内の
スコミーゴ村、夏の緑 ・ 葡萄畑、果実の色  n.1
http://www.italiashiho.site/archives/20170703-1.html

スコミーゴ村、夏の緑 ・ 葡萄畑、果実の色  n.2
http://www.italiashiho.site/archives/20170706-1.html



番外編で、  家に戻りつつ、我が家のあるコンドミニオ。
階段状の奥から2棟め、1階に茶と白の縞のテントが見える、あそこが我が家。

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右はかなり広い庭なので、窓の外は全て緑です。



家の近くに張り出されていた広告で、グイア・Guia とコル・サン・マルティーノ・
Col San Martinoで行われる、この3月末から4月にかけての白ワイン祭り。

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白ワインのお祭りは春にあり、目を凝らして見て下さいね、どちらにも
VALDOBBIADENE D.O.C.G・ヴァルドッビアーデネD.O.C.D
という、最高級辛口白ワインの名!
       
この二つの町みならず、春にはこの一帯次々に白ワイン祭りが開催され、
試飲は勿論、様々な催しも食べ物もありますです。 お出かけ下さ~い!!

n.1 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526381.html

n.2 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526671.html


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・ n.2 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 ・ DVDから 

では、「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」 n.2を。

こうして約30年程をフィレンツェで過ごしたレオナルドは、
居をミラノに移します。

霧の深いロンバルディアの風景は、彼に安らかさを感じさせ、
彼の絵に所謂空気遠近法と呼ばれる「ぼかし」を与え、

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運河の流れる街の風景も心地良く、

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女性もしっとりと優美で・・、と場面が続きます。

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が、女性はともかく、ここに使われている街、運河風景は、
我がヴェネト、トゥレヴィーゾの街であります、はい!

昔見た記憶の中では、古いフィレンツェの街として
トゥレヴィーゾが使われていたという記憶があったのでしたが、
かって運河が通っていたミラノの街の場面に登場なのでした。

n.1 トゥレヴィーゾ ・ Treviso
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462521537.html

n.2 トゥレヴィーゾ ・ Treviso
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462522259.html



こうして「岩窟の聖母子」の作品で有名になった彼は
ミラノ公イル・モーロの宮廷にもお出入りがかない、
チェチーリアの肖像を描いたり、

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宮廷内で大がかりな仕掛けを使った素晴らしい公演を指揮したリ。
この場面は大変大掛かりな素晴らしいもので、是非DVDの画面で
ご覧頂きたいものですが・・!!



さてこの間にも鳥の飛翔研究を重ね、遂に実験にまで行くものの
もろくも失敗、のエピソードがあり、

そしてフィレンツェに戻り、ヴェッキオ宮の大壁画を請け負います。

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片面にはレオナルドの「アンギアーリの戦い」で、もう片面には
ミケランジェロの「カッシーナの戦い」と知り、
レオナルドは60年前に実際に戦った年寄りから話を聞いたり、
様々なデッサンを重ね研究し、取り掛かります。
       
「アンギアーリの戦い」始末記と、その周辺もろもろ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461130197.html


1503年6月6日の金曜日、下図を描いた紙を壁に写し始めた日の
午後1時頃突然の大嵐となり、下図も吹き飛ばすほどに。

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レオナルド自身が書きのこしたこの日の様子ですが、
仕事始めとしては、幸先が良くありませんでした。

この大壁画については先回書いた様に、現在フィレンツェの
ヴェッキオ宮に置いて、上に描かれたヴァザーリの壁画に
穴を開けて調査中。
◆追記◆  結局ヴァザーリの絵の下には何もない、という結果に。      


この映画の中では、こんな様子で描かれております。

レオナルドは、古代ローマでも用いられていたエンカウスト描法、
ギリシャが起源の艶のある描法を、油絵具で描き急速に乾かす、
という方法で行いたかった、というのですね。

フレスコ画は1日に描ける量の下塗りをしつつ描き繋いで行くもので、
仕上がりは油絵の様に艶がでませんから、レオナルドはそれが
好きではなかったのでしょうね。
ミラノの「最後の晩餐」にも油絵描法が使われていると言いますしね。

エンカウスト描法は、「ポンペイの秘儀荘の壁画」の中でご説明を。
n.6 ポンペイ遺跡 最終回 ・ 秘儀荘 その2
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465223960.html

レオナルドがエンカウスト描法を狙ったかどうかについては
当時のフィレンツェ政府に対して、

663リーブリの石膏、
89(リーブリ)のギリシャ蝋
223Lの亜麻油 
 
を請求している記録があり、そこからの推察の様子。



壁に実際にその描法で描き、大火鉢に起こした火で急激に乾かす
小実験では成功した物の、

いざ実際の画面に取り掛かると、壁の面積が大きすぎ、
上部は乾かず、 絵具が流れだす、という結果となり、

28-hi4.JPG

この場面は、様々な記録をもとに組み立てた場面でしょうし、
実際にどうであったか、と分かるには、今少しの時間が必要な様で。



こうして様々な作品を生みながら、様々なアイディアを抱えつつ
あちこちとスポンサーを探しての旅から旅への彼の人生ですが、
最後はフランス国王に迎えられ、落ち着いた晩年を。

この映画の中で流れるタイトル・ソングは、オルネッラ・ヴァノーニが
歌っていますが、場面の中で彼自身が歌い、最後まで
付き添い彼の手稿を受け継いだフランチェスコ・メルツィ・
Francesco Melzi に聞かせる場面を。

29-gra.JPG

歌詞に、拙訳を添えます。
  Muoversi L'amante per la cosa amata
  Se la cosa amata è vile,
  l'amante si fa vile
  Quando l'amante è giunto all'amato
  Là si riposa
  Quando il peso è posato
  Qui si posa

人は、愛するものに向かって進む
もし、その対象が価値の小さなものであるなら
それを愛する者も、価値の小さな存在になる
人は、愛するものにたどり着いた時、休息する
重荷が取れた時、休む事が出来る

これはレオナルドが書き残した言葉にメロディーを付けたものだそうで、
こちらでこの場面が見れます。
http://www.youtube.com/watch?v=3Y2G-XKkspM&feature=related     
  
     
今回はもうRAIの回し物、宣伝係みたいなのですけど、ははは、
ドキュメンタリー後40年間に様々なレオナルドの研究も進みましたが、

それでもなお、このTV映画は一見の価値があると思います。
どうぞ、チャンスを得て、ゆっくりお時間を取って是非!!

1-1-610.jpg

レオナルド・ダ・ヴィンチの発明になる、ヴェネツィア式製材所の見学
http://www.italiashiho.site/archives/20180921-1.html

「レオナルド・ダ・ヴィンチ 万能の人」展 ・ ヴェネツィア
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474839192.html

レオナルド・ダ・ヴィンチの発明した物、考案したもの
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461685811.html
       
彼はまたトルコのスルタンにまで話を持ちかけておりまして、
ガラタ橋は、釣り人天国 ・ イスタンブル
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461093420.html


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・ n.1 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 ・ DVDから 

昨年の暮の事、友人とのメールのやり取りの中で、
「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」のDVDの話が出て、

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多分アンギアーリの博物館で、あの戦いの場面を、フィレンツェの
ヴェッキオ宮に描いて失敗する場面のみを見た、とブログに
書いた事が発端だったと思うのですが、
日本で何年か前にDVDが発売されている、と知りました。

何十年も前になりますが、イタリア国営放送RAIで撮影されたのが
日本のNHKでも放映され、大変に素晴らしい作品で、
メモを取りつつ見た事をよく覚えています。
     
その後イタリアに来て後、再放送されたのを見ましたが、
DVDが発売されている事を考えた事も無く、
時に思い出すだけで、お蔵入りになった作品と思っていました。

が、日本で売られていると知り、ひょっとしてと検索をかけると、
22エウロ位だったか、それもクリスマス期間なので送料無料、
DVD3枚組ですし、この値段ならと購入しました。

試しに日本のアマゾンの値段を見ましたら、2万円以上!
わぉ、何この値段?! 10倍近い差があるではないの?! 
と呆れましたが、その時にヨーロッパと日本のみで発売と知り、
へぇ、さすが日本!とも驚いたのでした。

昨年辺りから、最新の科学捜査により、レオナルドの真作であると
確認された作品が何点か現れ、そして現在、フィレンツェの
ヴェッキオ宮では、500人広間のヴァザーリのフレスコ画の下に、
幻の彼の作品「アンギアーリの戦い」があるかどうかの調査進行中。

なにやかやと今も世界に名を轟かす万能の天才レオナルドですが、
2年半前になりますが、彼の生家と呼ばれる家を見に行き、
そこから派生し、彼の実の母は? 父親はどんな男性だった? 
等など読んだ事からも関心がありますので、

今日は少々画面が小さくなりますが、RAIのこの作品を
YouTubeから拝借し、彼の生い立ち辺りを中心に、
アンギアーリの幻の作品を描いた様子等をご紹介致しますね。

日本語ヴィデオは「ニコニコ動画(原宿)」で
ご覧になれますが、ちょっと省略もあるようで・・。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11517993



さて映画は、レオナルド75歳での臨終場面から始まり、
フランス国王フランソワ1世に抱かれて亡くなる場面。

1-2-1.JPG



手前のスーツ姿の男性、彼が要所要所に登場し、その場面や、
当時の状況も含め説明解説する、という仕立てで、
今手に持っている本が、

2-ari.JPG

ダ・ヴィンチが国王に抱かれ、と書いたジョルジョ・ヴァザーリ・
Giorgio Vasariの「当世著名建築家画家彫刻家」
ですが、このレオナルド没後50年目にして書かれた
ヴァザーリのこの説は既に伝説で、そうあれかしという嘘なのだと、
このスーツ姿は説明します。

今や時の人の感もあるヴァザーリですが、そうですね、
講釈師、見て来たような嘘を言い、もあれこれある様子!



こうしてタイトルの始まりです。

3-olo.JPG



可愛い子供のレオナルド。
そう、泣く子も黙らせる大天才も、子供の可愛い時もあった訳で!

4-ino.JPG



家の前で1人で遊んでいる場面。

5-nto.JPG


すっきりの細みで、ぴちっと決めたスーツ姿で番組進行を
務めるこの男性は、ジューリオ・ボゼッティ・Giulio Bosetti
という、俳優、監督、舞台興業もした方だそうで、
残念、2009年に亡くなっております。
       
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そうなのですね、このTV映画が作られたのは1972年で、
監督のレナート・カステッラーニ・Renato Castellaniも
1985年に亡くなっていて、
レオナルド役を務めたフランスのフィリップ・ルロイ・Philippe Leroy
はまだお元気の様子。

今回制作後40年のTV映画をつくづく眺めた訳ですが、
TVドラマにありがちの間が抜けた古い感じは1つもなく、
ドキュメンタリー手法を取ったこの作品の素晴らしさを
改めて感じました。



レオナルド(リオナルド)が生まれた、と祖父アントニオが
公証人記録簿の最後のページに記していたのを、
ドイツの研究者が見つけたのが1936年の事。

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1452年、私の孫 我が息子セール(敬称)ピエロの息子、
が生まれた。 4月15日土曜夜の3時。
名前をリオナルド・Lionardとつけ、ヴィンチの
バルトロメーオ教会のピエロ神父が洗礼。

8-le2.JPG



教会の洗礼場面。 祖父アントニオが克明に洗礼式に
参加した人の名を記しているのですが、母親の参加は無く、
単にカテリーナ・Caterinaと出てくるのですね。

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映画の中では、清楚なすらっとした美人で、
レオナルドも美男であったと思われますから、
お母さんが美人であったのは確かかもですね。

洗礼式に参加させて貰えず、遠くからそっと我が子を
見守る実母カテリーナ。

映画の中では、出生が謎の女性として登場していますが、
最近の調査で出てきた事実も含め、
こちらに書いておりますので、どうぞ。
       
レオナルド・ダ・ヴィンチの生家と、その周辺
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017233.html

レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463017660.html



レオナルドを生んだ後、多分半ば強制的に村の男と結婚させられた
のであろうカテリーナですが、映画の中では同じヴィンチ村に
住んでいた事になっていて、

こうして育っていく我が子を見つめ、時に人の目を盗み抱きしめます。

10-na3.JPG

が、レオナルドは彼女が誰かを知らず、あんた、誰?!

後には勿論彼も事情を知り、ミラノに住むようになった時に
彼女を呼び寄せ一緒に住み、彼女は彼の家で亡くなりますが、
レオナルドは一度も母親とは呼ばず、書かず、
常に「カテリーナ」で、
ただ、カテリーナの葬式費用、幾ら幾ら、と記します。 



こちらが祖父アントニオ・Antonioと祖母。
祖父はやり手の公証人ながら口うるさく、

11-nni.JPG



地面に座り込んで遊ぶレオナルドに、タイツが擦り切れるじゃないか、
革ではないんだぞ、木に生えるわけではないんだ、
・・という業突くジジイ!

12-nno.JPG



一方父親のピエーロも、負けず劣らず金銭欲の強い、
おまけに生涯に4度も結婚した程の好き者で、食いしん坊で、と。

これはヴァザーリが書いている逸話だそうですが、
近郷の農民がイチヂクの太い枝を輪切りにし、既に近くで評判の
レオナルドに絵を描いて貰おうと持って来て父親に預けた所が、

13-nto.JPG

レオナルドが様々な動物をモデルに奇怪な絵を描き、
この絵は既に無く、残念、
この凄腕の父親は市でそれらしき絵を買い、農民に与えた後、




レオナルドの作品は、フィレンツェのその筋に
100スクーディで売ったというお話。
       
14-ati.JPG

上にリンクした「レオナルドの母親について」を読んだ時に、
父親の公証人としての凄腕、ひょっとして死にかけの顧客の証書を
書き変えたか、はたまた上手く丸めこんで証書にサインさせたか、
という凄腕だった様だ、と知りましたが、
今回これを見て、成程なぁ、と大いに納得した事でした。



こういった祖父、父親とはまるで正反対の性格のレオナルドで、
但し金銭には几帳面で、金銭帳をしっかり付けていた様ですね、

田舎に1人残され成長しますが、幼い彼を愛しあれこれ教えたのは
父親の弟、つまり叔父のフランチェスコでした。

15-zio.JPG



暫くして父親に引き取られフィレンツェに出て、音楽やラテン語を
習い始める物の、祖父アントニオは、庶子は公証人には
なれないのだぞ、何を勿体ない事をする、何か仕事を覚えさせろ、と。

確かに当時のフィレンツェでは、庶子は公証人になれない法律が
ありましたので、祖父の言葉はまったくなのではありますが、
まぁね、その言葉が将来を考えての事なのか、
単に金銭を惜しむかで、聞こえ様が大いに違いますよね?!
聞こえる祖父の言葉に涙ぐむレオナルド。

で、1人であれこれ描いた作品を見た父親は、

16-ega.JPG



当時フィレンツェで有名な工房を持つヴェロッキオ・Verrocchio
の工房に息子を弟子入りさせます。 確か13歳位だったと。

17-hio.JPG

月3リラで引き受ける、というヴェロッキオの言葉。
つまり仕事を覚えさせるのだから、親が幾らか払えという事で、
う~ん、日本の丁稚奉公は給金も出ない代わりに、
親は金を払いませんでしたよね?!

後ろに見える赤い木枠の球形は、サンタ・マリーア・デッラ・
サルーテ聖堂のクーポラの上に輝く金色の球で、
この工房で作ったのだと。

ヴェロッキオは後のエピソードに出て来ますが、
ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場にある
傭兵隊長コッレオーニ将軍騎馬像も作っており、
       
今回見ていて気がついたのは、レオナルドの父、祖父、
工房の皆が所謂フィレンツェ弁、トスカーナ訛りで喋っており、
ヴェネツィアからの騎馬像依頼者達がヴェネト訛りで喋るのを、
工房の連中が真似して大笑いしたりの場面もあり、
       
また当時のヴェロッキオの工房には、ぺルジーノ、ボッティッチェリ、
ロレンツォ・クレーディ等がおり、
ぺルジーノは甘い作風からは想像もつかない若者で、ははは。



ヴェロッキオの工房で過ごす何年かの間に、フィレンツェでは
パッツィ家の反乱があり、ロレンツォ・イル・マニーフィコの弟
ジュリアーノが殺害され、

その殺害者の1人ベルナルドがトルコで捕まり、
フィレンツェに連れ戻され、バルジェッロ宮で吊るされる場面。

18-ld1.JPG

なぜこの場面を選んだかと言いますと、このベルナルド・バンディーニ・
Bernardo Bandiniという男は、
レオナルドの父親が家をだまし取った顧客の妻の縁続きに当たるそう。

最近の研究発表では、レオナルドの実母カテリーナは、この顧客の
家の奴隷であった、という事実が古文書から分かっており、
その処刑場面をレオナルドスケッチするという不思議な縁に繋がります。



処刑が済み、街の人々が去った後もスケッチをし、
着ているトルコ風衣装についても記すレオナルド。

19-ld5.JPG

ここは実際のバルジェッロ宮の中庭ですが、現在は修復され、
壁の汚れが綺麗になり、
バルジェッロ博物館として素晴らしい充実ぶりです。

長くなりましたので、「レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯」 n.2に。


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・ 動物たち ・ この愛しくて素晴らしい生き物!

先日ハワイに住む友人経由で、愛らしい動物たちの写真が
また届きましたので、皆さんにもお裾分けを。

私を置いて、先に行って!

1-001.jpe

でも、置いていかないでぇ! に見えません?
写真を見る者の精神状態がモロに出そうなコメントですねぇ、うふうふ。



今や我々は、2人で1人(前)

2-002.jpe

それにしても、判じ物みたいな英語のコメント付きで、
翻訳ソフトを使うにも、頭をひねりましたぁ!



侵入警報! 侵入警報!

3-007.jpe

曲者でござる! おのおの方、お出会い召されい!
・・とは、言わんじゃろうなぁ?!



ここで会おうって、彼女は言ったんだけどなぁ。

4-008.jpe



この子は悪い夢を見ているの、私が面倒を見てやらなくっちゃ。

5-009.jpe



みんな、下がって!  これはボクが取るからね!

6-011.jpe



ははは、これはコメント要らず、ですねぇ。

8-013.jpe



U とは読みにくいし・・、 U の字は、普通の猫には難しいのかも。
で、良いのかな? 人間だったら、筋違えくらいで済まない様なポーズの
猫ちゃんに、これは失礼なコメントですよねぇ! ははは。

9-014.jpe

と書きましたら、コメントを下さったMariさんがここの意味を教えて下さり、
それによると、
ここでのUは、YOUとUをかけてるんですね。で、意味合いとしては、
”説明書を読まなかったのか、それとも、君って、簡単な猫も
組み立てられないんだね” ってな感じです。
なんですって!
ははは、ヨガをしている猫ちゃんをからかう、という設定なのでね。
       
Mariさん、有難うございました!
次回にも、よろしくよろしくお願いいたしま~す!



はは、このワンちゃんは、ただ走ってくれるだけで、笑いをくれますね。

10-015.jpe



リラックスタイム。

11-018.jpe



ワンちゃんに最適なベッド。

12-021.jpe



ファミリーの素敵な記念撮影。

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みんな一緒に、ハグ!  あ~あ、尻尾まで使ってる・・。

14-1-012.jpe



これは、私の大切なカワウソです。

14-2-016.jpe

うん、わかる、分かる。 抱きしめる腕と目で語っているもんね。

この子達に、幸あれ!


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・ ヴェネツィアの街を見下ろして

今日ご覧頂くのは、ヴェネツィアの街。
それも高い高いクルーズ船から見下ろすヴェネツィアの街!

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我が大蔵省はウンとは言いませんので、はは、今日の写真は、アメリカはシカゴの
病院で、呼吸器系統のテラピストとして働いておいでのみーな丸さんから拝借の物。

彼女が昨秋、ヴェネツィア出入港のアドリア海クルーズにお出かけと知り、
では、とちゃっかりお願いしていましたのがつい先日届きました。 が、お仕事関係の
試験でお忙しい最中でご本人のブログにもまだアップされていないという・・!
はい、本邦、いや世界初公開のヴェネツィアの街、高みからの眺め、をお楽しみ下さいね。

何度か、サン・マルコ広場前をしずしずと出港して行くクルーズ船を眺めては、
あの高さから見るサン・マルコ広場はどんな?と想像しておりましたが、
まさにまさに、鳥たちの眺望と同じ高さで、

「アドリア海の真珠」と呼ばれる美しいヴェネツィア、一味違う美しさをどうぞ!

上の写真は、昨秋10月初旬の夕方、街の西の港を出港、ジューデッカ運河を
通りつつのザッテレ河岸の眺め。
まるで偶然ながら、みーな丸さんの乗られた船、VOYAGER OF THE SEASの
出港を見た事があり、

そして船が行く ・ ヴェネツィア
http://italiashinkaishi.seesaa.net/archives/20110613-1.html



最初、この写真を見た時の不思議な感じ!
右中程にサン・ジョルジョ島の教会と鐘楼が突き出し、船の背後には、
本島のスキアヴォーニ河岸に大型クルーズ船が停泊。

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夏のレデントーレのお祭り時に、サン・ジョルジョの屋根越しにクルーズ船の上部が
見えるのも経験済みですが、 それにしてもジュウデッカ島の東端と
サン・ジョルジョの間の運河が同時に見える、というのは、さすがの高さですねぇ!



こちらは本島のザッテレ河岸、ジェズアーティ教会。
夕暮れの赤い陽に映えるヴェネツィアも、美しいですねぇ。

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サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会の丸屋根と小鐘楼。 この高さの
S.M.デッラ・サルーテ教会の丸屋根は初めてで、しかも薔薇色!
サン・マルコの鐘楼と並ぶ高さに見えますねぇ。

4-589.jpg

と今回少々驚きましたのは、と言うと大変失礼なのですが・・!
みーな丸さんの写真のセンスと、画面の中の水平垂直がきちんと定まっている事。
       
私自身、ディスプレイを覗いた時に縦横の升目が見える様に設定しているにも拘らず、
写真整理の時に訂正する事がよくあり、でないと、こうしてアップした時に
気になるからなのですが、みーな丸さんの今回の写真は殆ど訂正なし。
これは凄い、おみそれ致しました、失礼をば、でございました!



夕暮れが迫り、そろそろ陽の灯りだしたサンマルコ広場周辺。

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間の海を挟み本土が見え、なんとヴェネト平野奥の山まで見える高さ!
つまりです、我が家の北に聳える山々で、60km以上離れている山なのですね。
       


しずしずとサン・マルコ広場の中央に差し掛かり・・、

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ああ、なんと! あの辺りの蟻ん子の一人としてshinkaiも、
見上げていたのですねぇ、ははは。

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スキアヴォーニ河岸を東に、右端の教会がA.ヴィヴァルディ所縁のピエタ教会で、
左の小運河に突出す斜めの鐘楼は、サン・ジョルジョ・グレーチ教会。
う~ん、カモメ君も同じ高さに飛んで見せてるね。

8-616.jpg

A.ヴィヴァルディが洗礼を受けた教会と、その周辺を
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463740577.html

男性ソプラノ歌手による、・ ピエタ教会のコンサート
http://italiashinkaishi.seesaa.net/archives/20110611-1.html


この「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」アドリア海のクルーズは8日間で、
ヴェネツィア、コーペル(スロヴェニア)、ラヴェンナ、バーリ、ドブロヴニク
(クロアチア)と回り、ヴェネツィアに朝の7時過ぎに戻って来るのだそう。

みーな丸さんは、帰港の際にヴェネツィアの街が良く見える様、船の左側の部屋を
予約しました、と言っておられましたが、

はい、ここから、美しい早朝のヴェネツィアをどうぞ!

秋10月の朝の7時頃と言うと、既に街は動き始めていますが、
まだ明け切らぬ、灯りの美しい街。

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ピエタ教会の前辺り、人の姿はまだ見えず・・。

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サン・マルコの小広場にも、まだ人の姿はまばら。 灯りが美しいですねぇ。

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この小広場の距離感!  本島越しに、本土側の灯りまで見えます!!


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サン・マルコ広場からジュウデッカ運河に入り、ザッテレ河岸に来る僅かな時間に、
もうこんなに東の空の色が変わって来ていて・・!

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が、ザッテレの西は、まだ未明の空の色を引きずり、

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小運河を入った左にサン・トゥロヴァーゾのスクエーロ、ヴェネツィアに残る
数少ないゴンドラ製作所が見えます。

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この建物は15世紀だったかの古い木製のままで、かってRAIがマルコ・ポーロの
TV映画を製作した時、マルコ・ポーロが船出して行く様子を撮影したのだとか。
       
薔薇色の空が広がって行きますが、



最後にもう一度、 夜明けを迎えるサン・マルコ小広場周辺をどうぞ!

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みーな丸さん、今回は貴重な写真を、本当に有難うございました!
またのチャンスにもよろしくお願いいたします。
     
彼女のブログ「みーな丸の足跡」はこちらに。
http://rrt-chicago.at.webry.info/

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・ アマルフィから、サレルノまで ・ バスの旅

1年前の春にナポリ、ポンペイ、カプリ、ソレント、そしてアマルフィを基地に
ラヴェッロ、ポジターノ、サレルノに出かけましたが、

名にし負う素晴らしい眺めが展開されるアマルフィ沿岸を、
今日はバスの窓からの写真で、どうぞお楽しみ下さい!

少し靄があったのですが、その辺はご容赦願いまして、
上はアマルフィを出発し、町の東外れの突き出しを曲がる所からの眺め。

1-679_GF.jpg



地図をどうぞ。 アマルフィ・Amalfiからサレルノ・Salernoまで25km、
グーグルの検索では34分の行程と出ましたが、

2-rno_GF.jpg

いえいえ、この青い線の出たり入ったりをご覧下されば、そんな短時間で
行けるわけがない事が良くお分かりでしょう?! とにかく凄い道でしたが、
今日は皆さんもバスに乗られたつもりで、どうぞ!



さてアマルフィの東端を曲がるとこんな感じで、教会の丸屋根、茶と白の鐘楼が
見えて来ますが、ここはアトゥラーニ・Atraniの町。

3-680_GF.jpg

現在は別の町になっているものの、かってはアマルフィの下にあり、
こちら側に貴族たちの住居があった様子。



見える教会はサン・サルヴァトーレ・デビレート・S.Salvatore de'Biretoといい、
かってのアマルフィ共和国のドージェ達の教会で、この教会にドージェの
シンボルである帽子が収められて、ここで統治をし、最後はこの教会に葬られたと。

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アマルフィのドゥオーモのご紹介をした時に、コスタンティノープルで鋳造された
素晴らしい青銅の扉を見て頂きましたが、この教会の分と2枚作られ、今もここに。

アマルフィ・大聖堂の煌めきを  その1と2

アマルフィの町に、夕暮れが迫る頃
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/468055985.html



町に近寄った所で振り返り、左奥に見える要塞の塔が、アマルフィの町東にある塔。

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さてこうして、アトゥラーニの町を過ぎまして、

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ラヴェッロ・Ravelloの町への分岐点。

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n.1 ラヴェッロには、ワーグナーの旋律が良く似合う
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464232541.html

n.2 ラヴェッロには、ワーグナーの旋律が良く似合う
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464232691.html



見えて来た町は、ミノーリ・Minori

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谷が海に切れ込むその狭間狭間の小さな土地に町があり、道は崖の谷を回り込み
下り坂を町に入って迂回し、また抜けていく、という・・!



急にアッと気がついても、距離が無いと上手くは撮れずで、これは帰り道に、
あそこにあったぞ、と心の準備をしておいて、ははは、撮った塔。

9-891_GF.jpg


       
ミノーリの町の浜。

10-702_GF.jpg



漁船と海水浴用の浜が、半分っこ、かな。

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奥に見える山の頂上、突出す濃い色の所から左にちょうど真ん中辺の松並木の
左に見える屋敷がラヴェッロでご案内の、ワーグナー所縁のヴィッラ・ルーフォロと。



こちらはもひとつ東になるマイオーリ・Maiori。 ミノーリよりもっと大きな
リゾート地で、浜に近く立ち並ぶ建物群は殆どが貸し別荘、貸し部屋で、
春に見た時はまだ窓が閉っておりました。

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マイオーリの浜の散歩道。

14-889_GF.jpg



このアマルフィ沿岸の突き出す岩場ごとにある要塞。 これらは全てイスラム圏からの
海賊船対策で、そのうちでもこの大きなマイオーリのが目立ちます。

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ノルマンの塔・Torre Normannaと呼ばれますが、これは単に現在の呼び分けの様で、
18世紀の末までは単純に大きな塔・Torrioneと。



上の写真は朝サレルノに行く時の物で、これは戻りに見た時、
ほら、屋上に人が見えますね。

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俄然面白くなり、何してる?と見つめるshinkai、はは、どうやら何かの撮影の様。



道の様子をご想像下さいね。 こんな風に岬のとっぱしを回り、谷の奥を巡り、
そしてまた、という具合で・・、

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見える黒や緑のネットが掛けられている段々畑は、はい、レモン畑で、
このネットで天候による被害を防いだり、出荷調整をするのだそう。



バスの窓から見下ろすとすぐ真下に海で、ひょっとして転げ落ちたら、
と考える程の崖も!

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一つ一つの崖の向こうの海の色が違い、光る海もあり、

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こんな狭いエメラルド色もあり、

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時に余りにも道のカーヴが急で、だってヘアピンみたいなのがしょっちゅうなのですよ、
おまけに道幅が狭い時には、運転手さんはクラクションを鳴らし、
すると、カーヴの向こうで車が進入を待っているという・・、

そんなカーヴが幾つも幾つもでしたが、サイクリングをする心臓の丈夫な方々も多く・・!

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ほら、また一つ要塞跡。 ラーマ・デル・カーネ・Torre Lama del Cane、
という名の塔と思いますが、廃墟のまま。

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そしてまた一つ。 こちらはしっかり修復され住居になっているそうで、
エルキーエの塔・Torre di Erchie.

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要塞の塔は、見張り、攻撃、防御の為にリアス式の長い2000km以上に及ぶ海岸線に、
なんと400程もあるのだそうで、
塔の果たした役割とか、イスラム圏の海賊について、奴隷売買について、
ナポリを治めていたスペインの取った方策等など、
       
買って戻ったガイドブックを読むのに、なんとも難しく書いてある本で、歯が立たず、
ジュリアーナに助けを求め、一緒に読んで貰いました。
が、内容は大変に面白く、彼女も喜んでくれ、チャンスを見つけてご紹介したいと。
今のイタリア、ナポリと余り違いはない点をも、改めて2人で納得いたしましたです。



見えて来た町は、チェターラ・Cetaraで、ほら、海に少し突き出した所に
半円の塔が見えますか?

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遠くにぼんやり見える大きな街が、目的地サレルノ。



この町も谷に挟まれた小さな土地で、ここがアマルフィ共和国の東の国境だったそう。
見える教会はサン・ピエトロ、18世紀に建て替えの物で、鐘楼は中世の古いままと。

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右側に突き立っているのが、浜辺に見えた要塞の塔で、チェターラの塔。
上部は多分後世の建て増しでしょうね。



町中の狭い広場には、野菜トラックの出店も来ていて、

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町を出はずれた東側にも、また小さな浜が見えましたが、この狭い石段が導く家々。
まさに崖に張り付いて・・。

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こんな崖もあり・・! どこまでが崖なのか、どこが後に造ったものなのか・・!

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サレルノ寄りの最後の大きな街ヴィエトゥリ・Vietri、既にサレルノ湾に面しており、

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バスは街中を通らず、後ろを迂回、ガイドブックにある広い浜辺もホテル群も見えず、

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こうして高架道をぐるっと回りつつ、サレルノの街に近づき、

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大小様々な船やヨットのもやう波止場を抜けて行き、

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はい、サレルノだよ、と降ろされ、そこから駅前までかなり歩きました。
バスの停留所は駅前にあるのに、ね。 ご親切に少し離れた場所に皆が降ろされ
歩くのですよ。 まぁ、インフォメーションを見つけたので良かったですが・・。

という訳で、こちらがサレルノの街予告編の1枚。 街が細長く東西に延び、
駅は東に、旧市街は西に。 ここに素晴らしいドゥオーモや、中世の医学学校を
記念しての申し訳の様な博物館があり、はは、

一本真っ直ぐ通る大通りは歩行者天国で、この辺りはモダンな大ビル街で。

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という所で、アマルフィ沿岸の風景をお楽しみ頂けました様に!
そしてまたのサレルノのご案内もお楽しみに!


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・ テアトロ・オリンピコ ・ ヴィチェンツァ

2月29日うるう年記念に、冗談、関係ないで~す、ははは、
グループで出かけて来たヴィチェンツァ・Vicenza.

この街は16世紀の建築設計家アンドレーア・パッラーディオ・
Andrea Palladioの街として知られ、ユネスコの世界遺産にも指定され、
この日は午前中、パッラーディオが最初に手掛けたヴィッラとして知られる
ヴィッラ・ゴーディ・マリンヴェルニ・Villa Godi Malinverniを見学、

午後は街の中心に移り、パッラーディオが手掛けたテアトロ・オリンピコ・
Teatro Olimpicoを最初に見学した後、
バジリカ・Basilicaから始まる数々の邸宅の並ぶ通り、博物館と回った、
まさにパッラーディオ三昧とでも言う一日でしたが、

それぞれのご案内は、いつもの様にぼちぼちさせて頂く予定で、今日はまず
テアトロ・オリンピコをご覧下さいませ。

マッテオッティ広場に面した劇場の入り口と、

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門の下に見える、劇場の名。

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門の外からもこうして中の建物の様子が分かり、前庭にも入れるのですが、
実際に劇場の中を見たのは、今回が初めてで・・!

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但し、この右側の建物は現在は関係が無いようで、建物裏が借景というか・・。
そして肝心の劇場はどこにあるかと言うと、左側にほんのちょっと角が見える建物、
あの奥にあるのですね。

実は見学に入り口をはいった後、自分がどう歩いたかを考えてみると、
どうもこの見える建物では無かった、 ではどこにあったの?! 
と例により追跡調査! 左側だった筈、とグーグルの人工衛星からの眺めで、
確かにこの左奥にあるのを確かめました、です。
       


で、この前庭がまた、ああた、雰囲気のある素晴らしい前庭でして、
壁フェチshinkai は、涎の垂れる想いで眺め・・、

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それもその筈、パッラーディオの劇場として知られますが、彼の時代16世紀に
新しく建てられたのではなく、中世の城跡、どうやら監獄や弾薬庫に使われた後
放棄されていた、その内に残っていた劇場跡を使ったものなのですね。


こちらが入り口。 1580年となっておりますが、これはパッラーディオの設計により
建設が始まった年で、この同じ年の8月19日に彼は72歳の生涯を閉じており、
この劇場設計が彼の最後の作品となった訳です。

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こちらはガイドブックからで、いわゆる劇場ロビー、この右手に劇場入り口があり、
現在この部屋には売店があり、奥に見える部屋が、第一のロビーとでも。

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壁上部に騙し絵に囲まれた枠が見えますね。 この並びの、左に見える壁の
向い側の手前に、ややこしいですが!
天正の4少年がこの劇場を訪れた様子を描いたフレスコ画があり、最後にご覧を。



これが劇場に入った時、最初に見える舞台の様子。

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高校の美術教科書でお目にかかって驚嘆した以来の初のお目見え! 
やはり感激でしたぁ。



正面全部はレンズに入りきりませんので、こちらはガイドブックから。

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こちらが劇場の平面図で、下側が観客席、上が舞台側。

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赤の部分が既にあった壁で、黄色の部分がパッラーディオの設計した部分。
青が、パッラーディオ亡きあとを引き受けたヴィンチェンツォ・スカモッツィ・
Vincenzo Scamozziの作。

スカモッツィはパッラーディオより40年後の生まれで、パッラーディオの没後、
当時一番の有名実力設計家で、その後を引き受けた訳ですが、

この劇場の一番の見所というか、圧倒的な迫力である中央と、左右斜めに
入り込む騙し絵的遠近感の道、
これはパッラーディオは単に騙し絵を利用する事を考えていた様で、
正面図が残っていただけだった様子。

それをスカモッツィが立体にし、後でご覧頂く照明具で照らし出したという事で、
パッラーディオの意図を明確に、一歩進んで表現した功労者と。

スカモッツィは、マントヴァに近いサッビオネータ・Sabbioneta、
ヴェスパジアーノ・Vespasiano Gonzaga Colonnaが自分の夢をかけて
理想の街づくりを目指した、サッビオネータの劇場をこれ以降に手がけており、

当時にあって常設の屋内劇場としては、このテアトロ・オリンピコと、
サッビオネータのテアトロ・アンティーコ、そしてパルマのファルネーゼ家の城内の劇場、
この3つが挙げられるそうですが、

テアトロ・オリンピコはそれ以前には存在しなかった、夢の、常設の屋内劇場の
初めての実現という事になります。

n.1 サッビオネータ  ルネッサンス期の理想の町、世界遺産登録
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464880831.html

n.2 サッビオネータ  ルネッサンス期の理想の町、世界遺産登録
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464881437.html

パルマ行き  総集、予告編      
http://www.italiashiho.site/archives/201809-1.html

パルマからご挨拶 ・ Saluti da Parma
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461919104.html



観客席はこんな木の椅子席で、これについては、後に少し詳しくご説明を。

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席につくと、劇場の雰囲気を味わう為にと、当時の音楽と、照明によるショウが
行われ、素晴らしかった!
音楽が無いのが残念ですが、皆さま方にもちょっぴり!!



スポットライトを使い、色も鮮やかで当時とは違うでしょうが、
それでもやはり、素晴らしい劇場で味わう至福の一時!

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灯りがつき、素晴らしく優秀なガイドさんが説明してくれる間、
shinkaiめは、シャッター音を落とし写真撮りに余念なく・・!
       
舞台正面左側、

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中央、

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右側、

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平土間席、ここは本来は無かったのかも、と、観客席と背後の様子。

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ここから2枚はガイドブックからで、舞台上の彫像写真をどうぞ。

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お分かりになり難いかと思うのですが、パッラーディオ設計のこの劇場は、
階段席に見えた様に、全て煉瓦と木材で、彫像なども石膏、
時に壁には石膏ボードも使われているという・・。

つまり大理石をまるで使っていないというその徹底した凄さに驚きますが、
有難い事に奇跡的に火事からも戦中の爆撃からも逃れ、現在まで生き残り、
元のままの姿にお目にかかれるわけです。



観客席背後の様子、

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彫像類、

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天井画、ほんのり薔薇色の雲の図、と彫像、

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右下に見える扉が劇場への入り口で、階段席一段ずつがかなり高いのですね。
これはローマ期の野外劇場でもいつも感じさせられる事で、
コンパスの長さをいつも実感させられますです、はい。 劇場の席数は約400席。

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アッカデーミア・オリンピカ・L’Accdademia Olimpicaという、
ヴィチェンツァの人文学者たちが集い、劇場開設が祝されたのは1585年3月。
この会には生前パッラーディオ自身も参加していたそうですが、
最初は暫定的な劇場のつもりだった様子。

材料に用いた煉瓦と木材と石膏などはそれで説明もつきますが、
それ以上に、加工が簡単、材料費が大幅に削減できる、というので、
パッラーディオ自身が施工主に勧め、使用、建設したのだそう。

またご案内をと思っておりますが、街中に残る彼設計の建物など、見た目は
如何にも重厚ですが、表面に塗った大理石粉を使った一種の石膏が剥げ、
中の煉瓦が覗いている部分もあったりで・・。
       
ヴェネト中に広がり残る彼の建築物の多さ、注文の多さも、案外建設費の安さも
一因だったか、と考えたりした事でした。

ヴィッラ・フォスカリ、または、マルコンテンタ


こちらは、サイトで見つけた写真で、劇場オープンの際に用いられ、舞台上の
遠近感溢れる町の通りを照らしたという、スカモッツィ考案のガラス製ランプ。

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これは左側の小路で、

29-1-786_GF.jpg



こちらが中央。 一番奥に見えるアーチの高さ、一体どの位と思われますか?
今、劇場の係の女性が実際に歩いて見せてくれる所で、
ほら、今はそれなりに高いでしょう?

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かなりの傾斜の上り坂で、力を込め、踏みしめて歩いて行き・・、

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ほら、ちょうど女性の背の高さ! この奥行きは12mあるそうですが、
目に感じる遠くは、まさに幻想なので・・!

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この女性にはロビーで、日本の4少年のフレスコはどこに?
とすぐにお聞きしたので、背の高さも覚えておりますが、
大体1m60cmちょっと+ブーツの踵で、ご想像下さい。

そうそう、この遠近の舞台に使われた背景は、ヴィチェンツァの街のテーベ、
7つの小路という設定で、
舞台上に3つ、脇に2つ、階段席上部に開口部が2つで7つ。
       
階段席上部の開口部が舞台の音響効果をも良くしているそうで、
ガイドさんのお話では、
かって仏の美男俳優ジェラール・フィリップが、懐かしい名!朗誦した事があり、
済んだ後、彼は舞台後部に向き直り、舞台に対し敬意を表したそう!
       


こちらが劇場入り口ロビー、上でガイドブックの写真を見て頂きましたが、
あの写真は修復前だったのか、今は上の段の白黒のフレスコ画が良く見え、
左手に続く列のこちら手前に、

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天正の4少年がこの劇場を訪れた様子が描かれています。
多分舞台上で話している一人、伊藤マンショ、であろうと、
前列右の2人目からの3人が彼らと思われますが、彼らの訪問は1585年の事。

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ちょうど春に劇場がオープンした年で、さぞや自慢の劇場で、各地で東洋の
貴公子並みの大歓迎を受けた彼らにも、是非どうぞ、とお見せしたいとの
お声がかかったのでしょう。

こうして今もこちらに残る、栄光溢れる彼らの姿に比し、
祖国日本で彼らを待っていた未来は、なんとも惨い物でした。

ヴァティカン訪問 ・ 天正4少年使節のご縁により
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462596727.html
 
n.2 マントヴァ・Mantovaと、サン・ベネデット・ポー・San Benedetto Po
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464090033.html



という、ヴィチェンツァの街の宝の一つ、テアトロ・オリンピコのご案内でした。

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保存の為に冷房も暖房も入れず、席数も少ないので、春と秋に音楽会と
古典劇が行われるのみだそうですが、まだこうして劇場が使われております。

ヴェネツィアにお出かけの時は、ちょっと足を延ばしてヴィチェンツァにも、
パッラーディオの遺した街並みと劇場を、ご覧にどうぞ! 
    
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・ とりとめもなく、 フリウリの事を・・ 

先週少人数のグループで、フリウリ・ヴェネツィアジューリア州、と言っても、
我が町コネリアーノからだと東に車で10分も走ればフリウリ州になり、
先回ご紹介のヴェネツィア貴族の広大な館ヴィッラ・マニンと、
もう1ヶ所古い由緒ある教会を訪問したのでしたが、

今日は、とりとめもなく、主題以外の、フリウリ行きの様子をご覧頂こうと思います。

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我が町コネリアーノ、とりわけ我がスコミーゴ村は丘が入り組んだ傾斜地にあり、
緩やかなカーヴの坂道が続き、北に向かうと山の麓の村々ですが、
東に向かうと一転して、広大な平野が開けます。

勿論北にはアルプスの流れの高山が連なっているのですが、
フリウリ平野は、ヴェネト平野よりも畑地の多い平野、とでもいうか、
その眺めの違いをいつも興味を持って見つめます。

ブログを見て下さる方々の反応は、アクイレイアなどは別なのでしょうが、
フリウリ関係には余り関心をお持ちでないようで。
ですがフリウリの地は、ヴェネツィアから北ヨーロッパに抜ける古からの街道筋に当たり、
歴史も古く、見るべきものも多い土地なのでありましてぇ、
ちっとでも、はは、関心を持って頂きたいなぁと・・、はい。

というお題目を垂れる割には、はは、とりとめもない写真ですが、
一時を、とりとめなくお過ごしくださいませませ。
       
上の写真は、冬の畑に見える枯れ木ですが、隣に並ぶ根っこの部分がコブコブに
なっているのは桑の木で、かってイタリアでも養蚕が盛んであった事を物語ります。
この日は午前中が曇り空で、小型バスの窓がスモークで、上手く色が出ずで。



羊の群れ、かなりの大群でしたよ。 
羊の群れを見て喜ぶのは日本人のshinkaiだけではなく!

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こちらに羊の群れの移動と、放牧の姿を。
サン・ボルド峠 ・ 難所の峠越えは
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467388089.html

北のお客人 ・ そして、春の訪れ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462252694.html

n.1 カステルッチョ、 そして、大平原のお花畑
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464308843.html

n.2 カステルッチョ、 そして、大平原のお花畑
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464309182.html



これは古い教会を訪問したセスト・アル・レゲーナの、村の中のベネデット派の
修道院教会の門で、周囲を堀が取り囲む、さぞや広大な修道院であったろうと。

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門にヴェネツィア共和国のシンボルである有翼のライオンが見え、下にグリマーニ家の
紋もあるのを教えて貰いましたが、この素晴らしい修道院のご案内は、また別に。



で、上の修道院の門に至る前に村・町の門があり、日曜という事で全部道脇の
店が閉まっていたのですが、





食品店の出窓にこんなのが置かれていて、左の籠の中には村の伝統のお菓子、
修道院で作っていたらしいビスコッティの袋入りですが、

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右に見える二袋、Rapa alla vinacciaをどうぞ。

蕪の葡萄酒絞りかす漬け、とでも。 食べた事が無いので、グループの人にどんな味、
どうやって食べるのかを訊ねると、
蕪は大きな長い蕪を使っているそうで、このままサラダ風に食べても良し、煮ても良しと。
かなり強い味、という事で、ああ、千枚漬けを思い出し、唾が湧きましたぁぁぁ!



教会の周囲を取り巻く小川、堀の一部が流れ込んでいるのですが、
それに沿っての散歩道がしつらえられていて、ぐるっと一回りを。
陽が射したり、曇ったり、ぱらっと小雨が来たりで・・、

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ぐるっと回って行くと、闖入者用ガードマンが2人、大小が代わり番こに、
うぉ~ん、うぉ~ん。

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小川の向こうの畑の角の囲いの中では、山羊のマンマが大きな声で、母屋に向かい
ごは~ん、ごは~んおくれぇ~、と顔が見えず。 足元のチビちゃんが見えますか?

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お腹をすかせた我らもお昼を食べに。 中庭の向こうがホテルになっている様子。

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アンティパスト。 茄子とトマトとチーズの重ね焼き。 もっとグチュッと、
しっかり焼いて欲しいなぁ!

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プリモ。 カボチャのリゾット。 shinkaiはこれを選びましたが、リゾットのスープに
牛のコンソメを使っているのが分かる味、これはイケン!

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菜食家のジュリアーナは美味しいと平らげましたが?!
shinkaiは漸くに三分の一を食べただけで・・、腹減ったぁ!



こちらは鴨のニョッキ。 美味しかったそう!
お皿に店のマークが付いていますが、Abbazzia Ermannoという店で、
修道院エルマンノとでも言うのか、その関係だった屋敷なのかも。

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既にジュリアーナが半分食べてしまった、はは、リンゴのトルタ、まぁまぁの味、と。

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ミカンとキーウィのトルタ。 これもまぁまぁのお味で、他には森の果物のトルタが。
いつもアグリトゥリズモでの、安くて美味しく量たっぷり、のお昼に慣れているので、
ここも田舎で、たっぷり出ると思って予約したのでしょうね。

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所が意外に洒落た作りのレストランで、少し気取っており、その癖お味は
どれもがまぁまぁで、おまけにリゾットを全部食べれなかった私めは、う.ら.み!



店の棚には、見せ様に各種ワインが並べられており、ワインに詳しいルイーザの
夫レナートが説明を。 ですが手ぶれも多く、お高いのがお見せできずに残念。

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余談ですが、レナートは切手収集をしており、届く日本の切手の美しいのを
切り抜いて置き、暮にプレゼントいたしました。
と、美味しいワイン6本がお返しに!

日本の友人諸氏さま、送って頂いた日本の切手が、ワインに化けました。
有難うございます!
今後もレナートとshinkaiの為に、よろしくよろしく!! きゃはは。 



午後は一転して良いお天気となり、明るいフリウリの平野をバスが走り、

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奥に見えるのは植林畑で、私の大好きな眺め。 

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こんな太い塔も見え、今は周囲を含め公園になっているそう。
どこの村かは、・・忘れましたぁ!

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林の中の、小さな小さな教会も。

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水の枯れ果てたターリアメント川。 時に溢れるほどの川だと言うのに!

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マニアーゴ ・ 刃物の町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463999407.html



バスの走る国道筋はこんな感じ。

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遠くに見える高山は雪を冠り、

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手前には、太陽光発電盤が並ぶフリウリの畑。

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最後はちょっとお澄ましの三毛猫ちゃんで、皆さま、フリウリにおいでや~す!

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・ イタリア男性を ・ この1枚! 

この方は、ファビオ・Fabio.  先日グループで訪問した
セスト・アル・レゲーナ・Sesto al Reghenaの、8世紀からの
由緒ある教会、元々はベネデッティーノ派の修道院ですが、
そのガイドをして下さった方。

考古学専門とはいえ、・・うふうふ、素敵な髪形でしょう?!
この1枚、 ファビオ氏をどうぞ!!

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考古学専門で、1昨年暮に訪れたフリウリの奥、
山中の修復された教会案内で初めてお目にかかり、先月再度。

フリウリ地方の古い街道筋の町にあったと見られる城館跡、
今に残る4世紀の記録には、既に、城は無い、と記されており、
21世紀になっての調査で見つかった、城壁に残る黒焦げの跡。

それらからの推理で、どうやら偽貨幣鋳造が明らかとなり、
襲撃、末梢されたのであろう、という・・。
そんな顛末をいとも明快に詳細に語ってくれ、
なんとも爽快に、古代への興味をかき立ててくれました。
    
このフリウリ山中の城跡は修復されており、偽貨幣鋳造で抹消された
土地の記録は、他の地にもあれこれあるそうで、ははは、
そんなこんなに興味が引かれます。


*****

昨日イタリアの歌手ルーチョ・ダッラ・Lucio Dallaが亡くなりました。
私の大好きな歌手、ご冥福を祈りつつ、皆さんにも彼の詩を聞いて頂きたく。

Attenti Al Lupo・狼に注意
https://www.youtube.com/watch?v=kFfhBX7ET-4


彼の詩はとても明るく、そのくせ切ない。
彼の歌う「カルーゾ」を聞くたびに、胸が締め付けられ、涙する私。


チャオ! そう、彼が消える事はないものね!


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