今日から3回に分けて、「中世の宝石箱の一つ」と呼ばれる
トスカーナの古い小さな町、アンギアーリ・Anghiariにご案内を。
20年ぶりに昨年の秋に再訪、以前と余り変わらない姿ながら、
ほんの少し整備され、観光誘致にも力を入れているのが感じられ・・。
とはいえ、町の中の坂道、古い石壁、素晴らしい城壁などなど、
千年を超す歴史を持つ町の姿は急激には変わる筈もなく、
懐かしく嬉しく見て回り、写真もたくさん撮りました。
最近大きな話題を呼んでいる、フィレンツェのヴェッキオ宮の
大広間のヴァザーリの壁画、その下に見つかるかもしれないという
レオナルド・ダ・ヴィンチの幻の傑作「アンギアーリの戦い」図、
その戦闘の舞台となったこのアンギアーリの町。
昨年の秋にはその話題もまだ無かったですが、町の中には
あの戦いを主とした土地の歴史博物館が出来ておりました。
今回見て頂く為に纏めようとすると、
あの戦いはなんの為だった?と、まるで知らない事に気が付き、
例によってあれこれと泥縄付け刃で読んでいるうちに、
町の中心広場に名を冠されている傭兵隊長やら、
あの戦闘の指揮を執った両軍の傭兵隊長の事まで芋づる式に、
おまけに我がコネリアーノの町名まで出てくる有様で・・!
当時の人間模様も面白く、そんなのもご紹介しようとすると、
プラス、アンギアーリの戦い、という事で3回分となり、
どうぞ、よろしくお付き合い願いますです!
上の写真は、空からの町の眺め、ガイドブックからで、
上の楕円に突き出しているのが旧市街で、
手前側が新しい部分、と言ってもこちらも古いのですが。
左下に駐車場が見えますね、その近くに丸く飛び出している塔
が分かりますか?
今あの駐車場からトンネルに入り込むとエレベーターがあり、
丸い塔の左の方、城壁上の細長い駐車場脇に
上がって出て来れるようになっています。
ウルビーノの駐車場にもやはりエレベーターが付いていましたが、
お金を取り、0.5エウロ、ははは、こちらは無料です。
写真右端中程に広場が見えるのが、町の入り口広場で、
左の町中に辿って見て下さい、
丸く突き出した塔の左上辺りに三角の広場があり、あそこが中心広場で、
両脇に博物館が2つあります。
その左上の方、も一つ広場が見えますが、この辺りがかっての町の
一番古い核の部分で、城壁があったのだそう。
と言われてみると、建物の並びが丸く取り囲む形なのが良く分かり、
その周囲に広がっている現在の町の形も、楕円に順々に取り囲み
広がっていますね。
この辺りが一番高い台地の部分、つまり中世の町の立地条件、
城壁で囲む町の安全、に叶っている部分だった事が良く分かります。
アンギアーリ・Anghiari の町はどこにあるか、地図をどうぞ。
トスカーナ州の東南、右角のグレイの点線はウンブリアとの境で、
フィレンツェから電車で約1時間の距離にあるアレッツォ・Arezzo
から東に約35キロ、車だと35分の位置。
35kと書きましたが、山越えの位置にあり道は迂回しますので、
直線距離だともっと近く、
アンギアーリと東のサンセポルクロ・Sansepolcroは一直線で
8.5kの近さです。
私が一番最初にこの町を見たのはバスの窓からで、
やはりアレッツォからサンセポルクロの美術館にある
ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品を見に行く途中で驚嘆!
バスは町中を抜けずに一番の高台である西の端から、カーヴを幾つも
行きつ戻りつして坂を下り、町の下に出ますが、
それでも垣間見る町の迫力ある姿に驚き、本当に!
次のチャンスにはサンセポルクロに3泊程して、
バスでアンギアーリの町に2度通ったのでした。
そんな懐かしく大切な思い出のある町を今こうしてご紹介出来るのは
とても嬉しく、しっかりご紹介したいと思いますので、
ごゆっくり、お楽しみ下さいますように!
イタリア中部紀行 2010年秋 その4
ウルバーニア、サン・タンジェロ・イン・ヴァード、アンギアーリ
こちらが町の一番の高台部分、正面はクローチェ教会修道院・
Ciesa e Convento della Croce で、
バスはあの前を通りすぎ町の北側のカーヴを下りますが、
今、見える真っ直ぐの下り坂が、
町の入り口広場横を通り、こんな風に本当に真っ直ぐに東に続き
サンセポルクロに行きます。 素晴らしい道でしょう?!
町を通り抜ける車やバスは、坂を下った所の信号に出て来ますが、
逆にサンセポルクロから来る時は、
この道が真正面にグンと上に続くのが見え、これも大迫力!
昨秋にウルビーノからアペニン山脈を越えて東から町に来た時、
この道に入って私は嬉しくてドキドキ、
となりの我が友人mkちゃんは、驚いて逆にドキドキした様子、ははは。
ここが町の入り口広場より、上の真っ直ぐの道に沿って少し下って
来た場所にある小広場の泉・Fonte della Piazettaで、
上に見えるテラスが、上の広場の一番角、という訳。
この写真の中だけでも、3つも見える水槽のある泉というのは、
今こうして見て、ひょっとして共同洗濯場ではなかっただろうか、
と思うのですが、ちゃんと見ていないのです、残念。
こちらが上の泉の広場から少し坂を上り、町の入り口の広場、
バルダッチョ広場・Piazza Baldaccio.
この名前は、このアンギアーリ出身の15世紀の傭兵隊長
バルダッチョ・ブルーニ、またはバルダッチョ・ダンギアーり・
Baldaccio Bruni(d'Anghiari)に由来しますが、
彼についてはまた後の回で。
イタリアの広場には必ずおられる、イタリア統一の父とも言える
ガリバルディの像があり、背中から見ておりますが、
正面からだとこうなりまして、
大体が騎馬像のガリバルディですが、ここのは少し変わっています。
下に、O ROMA, O MORTE! ローマか、死か!とあり、
この向きだと顔、視線はローマを向き、指は北西を指しており、
言葉からすると指は逆を指している気がするのですが・・?!
余談を一つ、ナポリのガリバルディ像もこの様に立像ですが、
ガイド曰く「ナポリ人が馬を盗んだ、と言われている」と、ははは。
バルダッチョ広場を旧い町の方に来た所からの眺めで、
ガリバルディ像の道の向こう側に見える大きなアーチは、
ガッレリーア・マージ・Galleria Magi.
像の向かい側に見えるアーチ2つのロッジャは、
コロンネ・ディ・ボルゴ・Le colonne del Borgo・
村の円柱、と呼ばれる、元々は15世紀の物と。
では、町の古い部分に参りましょうか。
かっての古い町への入り口門は3つあり、このポルタ・ヌオーヴァ、
またはフィオレンティーナ門・Porta Nuova o Fiorentina と、
もひとつ中側にあるポルタ・ヴェッキア(サン・マルティーノ)・
Porta Vecchia o San Martino、
そして、町の東南側にあるポルタ・サンタンジェロ・Porta Sant'Angelo.
今正面に見える店は食料品店で、ここの店主は昔35年程も前に
日本に行ったのだそう。 何か技師の仕事の招待だったようで、
神戸牛は世界で一番旨い肉だったとか、赤坂のミカドに行ったとか・・!
アンギアーリの様な古い小さな町で、店主の口から
アカサカとか、ミカドとか聞くと大変可笑しな感じで、
あんたの奥さんは知っているの?
いいや、彼女は知らないよ。
ああ! 言ってやろ!
ダメ、ダメ!
この店で買った食料品での食事はこちらに。
アンギアーリで食べた、旨い物!
こうして、古い町の中程に進んで行く訳ですが、
実際に中世の時代に入り込む感じも受けられません?!
町歩きには地図は必要ないと思いますが、ご説明の為に。
1.水槽のあった、小広場の泉
2.ガリバルディ像、そしてバルダッチョ広場
3.コロンネ・ディ・ボルゴ・村の円柱
4.ガッレリーア・マージ(マージのアーケード)
5.ポルタ・ヌオーヴァ(フィオレンティーナ)
6.マメーリ広場・Piazza Mameli
7.タリエスキ邸博物館・Museo di Palazzo Taglieschi
8.マルゾッコ邸博物館・Museo diPalazzo Marzocco
9.鐘楼・Campanone
10.プレトーリオ邸・Palazzo Pretorio
11.バディーア教会・Chiesa della Badia
12.バスティオーネ・Bastione・要塞
緑の点は、我らの宿
まずは町一番の中心、現在博物館が2つ向き合っている広場、
マメーリ広場、地図の6にどうぞ。
細長い三角形の広場を挟み、古い建物の壁が取り囲み、
坂道が奥に続きます。
そしてこの石段が緩やかにカーヴしつつ奥に続き、
建物との間に支え壁が見えますね、
どうやら通路か、テラス式に活用されている様子。
ほら、左手に草花の鉢が並び、猫ちゃんがいます。
お家の前はこんな風に花が咲き乱れ、猫ちゃんはゴロンゴロンと。
誰か近所のシニョーラが通ると、にゃ~んと寄って行き・・、
先程の坂道をずっと上って行くと、ほら、9の鐘楼に行きつきます。
元々は14世紀初頭に造られたのだそうですが、破壊されて後
現在のは17世紀の物で、時計はもっと後の時代と。
また今の坂道をゆっくりと戻りますが、
こんな風に手仕事作品の店とか、フィレンツェの出店とか、
かなり店が出来たなぁ、という印象。
が、この辺りちょっと入り込むと、こんな古い壁やアーチがあり、
如何にも中世、が至る所に。
アンギアーリの町は「イタリアの一番美しい村々」にも選ばれていますが、
歴史が重みを加え、どちらを向いても絵になる、
まさに「中世の一つの宝石箱」という呼び名がぴったり。
大きな街にありがちの、汚れ、ごみ屑が見当たりませんでしょ。
古い町をしっかり手入れして美しく保つ、という意識ですね。
マメーリ広場を上から眺めていましたら、やって来る若いカップル。
可笑しいでしょう? 2人とも同じ様に腕組みをして、はは、
片側づつ眺めて歩いて来るのでした!
右奥に見える赤い敷物の上のライオンのいる建物が、
8.マルゾッコ邸博物館・Museo diPalazzo Marzocco
「アンギアーリの戦い」を主としている博物館、
突き当たりの壁の壁龕にデッラ・ロッビア(風?)の聖母像
が見えますが、20年前にはなかったもので、
ミゼリコルディア・慈悲の聖母というご自身のマントの中に人々を
包み込む形ですが、壁龕の中一杯になる大きさと、派手な色で。
広場からの様子はこんな感じ。
右の博物館の入り口ライオン像も布も新しすぎて、
昔は、この壁龕と小さな入り口階段の印象が良く、
スケッチをしたのでしたが・・。
黒く見えるアーチの中はぐっと下りの通り抜け道で、途中で右に曲がり
城壁の脇に出ますが、この道も舗装されておりました。
ええ、20年以上経っての再訪で、いささか
センティメンタル・ジャーニーな思い出も次々出ますが、ご容赦を。
で、広場の左側には
7.タリエスキ邸博物館・Museo di Palazzo Taglieschi
があり、この建物は地図でもお分かりのように大変大きく、
正面左側にはこんな入り口、扉、そして聖母のフレスコ画があり、
扉の上の盾形の紋章は4等分され、波と笏に巻き付く布・Taglia・
ターリアから成り立ちますが、
このS字にも見える図柄と波は、リミニの狼と呼ばれた
シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ・Sigismondo Pandolfo Malatesta
の戦勝図の中にも見られるのだそうで、
SにIを加えたイニシャルは、シジスモンドが花押に使っていて、
とりわけ3度目の妻となったイゾッタ・デッリ・アッティ・Isotta degli Atti
との関係が始まった時分から見られるのだそう。
このタリエスキ家出身の傭兵隊長アニョーロ・Agnolo d'Anghiari
またはターリア・Taglia と呼ばれるシニョーレは、
「アンギアーリの戦い」でも300頭の馬を持ち(騎士も?)参加、
目覚ましい働きを見せたそうで、
この戦闘の少し後にシジスモンドの元で華々しく働くようになり、
とりわけかのモンテフェルトゥロとの戦いで戦果をあげ、
シジスモンドから領土や家、城も報償に貰ったという逸話があり、
つまり、紋章の相似もそういった関係からだろうと。
こちらが現在のタリエスキ邸国立博物館入り口で、
邸宅内部もかっての古い豪奢を伝える大変素晴らしい物ですが、
この博物館の目玉の一つがこれ、
ヤーコポ・デッラ・クエルチャ・Jacopo della Querciaの聖母子像。
以前見たのかどうかも記憶になく、ただただ、この金髪と、
この目差しに驚きましてございます。
この女性には shinkai は聖母を感じませんで・・、
今回再会出来ました好きな聖母は、こちら右側、作者不明の作品。
以前の博物館は、最初に見て頂いた古い紋のある方が入り口で、
中に入ると船底をイメージした木の古い階段がギシギシと上に導き、
暇だった係のシニョーレが屋敷内の様々な仕掛けを案内してくれ、
訪問客が誰かを覗き見る為の穴とか、人の話を隠れて聴く、
という様な物も見せてくれ、展示物もごたごたいっぱいで、
写真はダメだけどスケッチなら良いよ、とこの聖母を描かせてくれたのでした。
これは向かい側の博物館、ライオン像がいたマルゾッコ邸の角にいる
可愛いライオン君で、ライオンはアンギアーリの町のシンボルと。
11.バディーア教会・Chiesa della Badia
11世紀に溯る、この町で一番古い由緒ある教会だそう。
バディーアというのは修道院を指しますが、地図でご覧の様にかなり大きく、
我々の宿と緑の印を付けた南側の建物も、かっては修道院の物だったと。
まさに時の経過のみが作りだせるこの質感と重さ!
このバディーアの手前に石段があり、
今、奥の広場からの光がこうして石段の下まで届いていますが、
さてこの石段上のプレトーリオ邸は、明日の回に!
よろしくお願いいたします。
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