6月初旬にヴェネツィアに行った時、帰宅予定日の夕方に大雨となり、
少し遅くなった事も重なって、荷を持ちヴァポレットに乗り、それから雨の高速を
走るのが億劫となり、宿がOKだったのを幸いにもう一夜延泊したのでしたが、
翌朝早く、サン・マルコ広場の西にある郵便局に。 ええ、宿の払いを現金でと言われ、
それで。 朝の8時頃でしたが、いつもは満員御礼のサン・マルコ広場も
まだ閑散としていて、見慣れた広場の眺めとは違いました。
前夜の大雨の様子の残る曇り空で、モノクロでの、いつもとは一味違う様子をどうぞ!
お馴染、スキアヴォーニ河岸から見るサン・ジョルジョ島。
若い女性が一人だけ歩いている、スキアヴォーニ河岸。
向かいに見えるクレーンが本当に邪魔なのですけど、一体いつまで?!
両側を青色のパネルで覆われている溜息橋も、モノクロだと余り・・、
いや、やはり邪魔ですねぇ!
ゴンドラの黒い船体に写る水の反射、モノクロだと氷の様に見えません?
いつもの眺めながら・・、
ここからは色のある写真で、
ドゥカーレ宮の西側、アーチの続くポルティコの眺め。
突き当たりに見える柄の壁はサン・マルコ聖堂ですが、いつもこの通路は
観光客でいっぱいで、こうして見通せるのは本当に珍しい。
ドゥカーレ宮の西側、小広場から。 ご覧の様にまだ観光客はまばらで、
殆どが通勤の方々。
で、真ん中に見えるバルコニーですが、
美しいテラスと窓があり、一番上に裁きの女神、
その下に翼を持つライオン君と跪くドージェが見えますね。
アップすると、こんな様子。 ヴェネツィア共和国のシンボル、聖マルコを現わす
有翼のライオンと、ではこの跪くドージェは誰? と疑問がわき調べました。
サン・マルコ聖堂横にあるカルタ門の上にある、同様の有翼のライオンと跪くドージェ像は
よくサイトの写真でも見るのですが、このドージェは65代のフランチェスコ・フォスカリ・
Francesco Foscari 任期は1423~57と今回序に調べ知りましたので!
次回のチャンスに改めてご紹介しますね。
で、小広場に向いたこのバルコニーは、いつも見るだけで疑問も湧かなかったのが、
やっと、これ誰?!と。
所がなかなか見つからず、見つからないと尚の事ムキになり、はは、かなりサイトや
ガイドブックを調べ、はい、やっと見つけました。
どこのサイトかと言うと、これがなんとイタリア法務省ヴェネツィア区、と、
・・こういう呼び方が正しいのかどうか、すんまへん、無知丸出しで。
で、この方は77代目のドージェで、アンドレア・グリッティ・Andrea Gritti
1455生まれ、1523~38の任 ティツィーノ描く所の肖像画が残っております。
ですがこれは、どうやら彼の没後1540年の作品で、こうして厳めしい老人の顔に
描かれているのですが、「Claudio Rendina著 I Dogi」には大変愉快な
人物像がありましたので、ご紹介しますね。
裕福な貴族の家系の生まれで、若くして父親が亡くなり、外交官の祖父の元で育ち、
英国、スペイン、フランスを周りながら外交官技術も身に付け、何カ国語にも堪能に、
つまりラテン語、ギリシャ語、英語、フランス語、そしてトルコ語まで。
こうして30歳にして祖父の元を離れ、コスタンティノープル・現イスタンブールに赴き、
穀類の取引を引き継ぎつつ、関税や現物納入の請負業をし、大変な富を得ます。
トルコと母国ヴェネツィアとは常に戦争危機を孕んでいたものの、彼は大変自由な
生き方で、つまり何人かの現地の愛人を持ち、4人もの私生児も生まれていて、
そのうちの1人にギリシャ人の母を持ち、トルコの大富豪の商人となり、
最後にはスルタンを裏切りハンガリアと組み、刑死したアルヴィーゼ・Alviseがいます。
ご本人のアンドレアは、コスタンティノープルでの商売を通して得る情報を母国に
流していた様で、遂にスパイ容疑で逮捕投獄、串刺しの刑になる可能性もあったのが、
トルコ政府高官との友情繋がりのお陰、ヴェネツィアとの平和維持の為にもで放免され、
数年後無事本国に戻って来ます。
が、この投獄の期間、彼に惚れた何人かの女達が、一日中牢獄の門の前を
うろつき赦免を訴えたと、ははは。
こうして母国ヴェネツィアで、トルコ間との平和維持にも働くようになりましたが、
妻も長男も亡くしており、女性に慰めを求め、尼僧との間に女児をもうける、
というエピソードもあります、はい。
スペイン、フランス、ドイツ神聖ローマ帝国、教皇領国を相手に戦って破れた
18年間も続いたカンブライ同盟戦争、これについては未だよく知らずで、これしか
書けませんが、その戦争末期に活躍し、これがドージェにも選ばれる道となります。
庶民にはその貴族的イメージが好かれていなかった様子で、ドージェ就任の
お祝いとして400ドゥカーティもの金貨と銀貨を広場の群衆に撒いたものの、
あまり効果は無かったと!
この時のドージェの選挙には他に3人候補者がいたのですが、その一人の名に
ジョルジョ・コルネール・Giorgio Cornerの名が見えます。
これはキプロス王と結婚し、後にキプロスをヴェネツィアに差し出した
カテリーナ・コルナーロ(コルネール)の弟のジョルジョと思いますが、まだ確認できず。
彼の15年間に及ぶドージェ在任中にはトルコとの危機もあり、既に当時から
起こっていた高潮問題等など、政治的には余り目覚ましい働きはなかった様ですが、
私財を投じて祖国ヴェネツィアを美しく飾るのに貢献。
パラッツォ・ドゥカーレのこの美しいバルコニーもその時の物で、実際晩年には
並みの財産家程度にまで落ちていたそう。
ですが、彼の家にはピエトロ・アルティーノを始め当時の文化人、これまた一流の
娼婦が集まっていたそうで、ヴェネツィアの文化爛熟にも貢献した人物だった様子。
死亡原因もこれまたイタリア的で、クリスマスのご馳走で、
鰻の串焼きかインゲン豆スープの食べ過ぎであろうと!
少し長くなりましたが、肖像画に似合わぬ面白いエピソードで、
お楽しみいただけましたように!
さて、朝のサン・マルコ広場の様子に戻りまして、こちらは広場の南側を占める
新政庁の建物のポルティコ。
こんなにすっきり奥まで見通せるこの通りをご覧になった事、皆さんありますぅ?!
右に茶の小テーブルが見える辺りにあるのが・・、
はい、有名なカッフェ・フロリアーン。 朝最初に通った時はまだこうして戸締りが
されておりましたが、戸締りの板に全部番号が打たれているのが何か可笑しい。
1720年創業のイタリアで一番古いカッフェで、創業者フロリアーノ・フランチェスコーニ・
Floriano Francesconiの名前はヴェネツィア訛りではフロリアン・Floriànとなり、
カッフェ・フローリアンではなく、カッフェ・フロリアーンが正しいとの事で。
こちらは戻りにちらと見えた内部。 開店準備で少し明け放たれており、
流石の調度で。 でもまだお茶に入った事はありません!
郵便局での用を済ませ、戻りに見上げる政庁の建物。
現在、この角から右手にあるコッレール博物館外が修復中ですが、
こういう汚れを見ると、いずれこちらの修復も始まる事でしょう。
まだかなりの曇り空で、人の姿も少ないサン・マルコ広場。 サン・マルコ聖堂の
上左側も、時計塔の並びも、鐘楼の足元も、新政庁のはずれも、
あっちにもこっちにも修復の覆い。
お天気が良いと煌めく金色の飾りも、少し寂しく・・、
さて、無事に宿の支払いも済ませ、戻りのヴァポレットに乗り、
いよいよヴェネツィアを去ります!
ええ、我が家から電車で1時間弱で来れるヴェネツィアですが、それもあって、
逆になかなか泊まるチャンスがありません。
こうして去るとなると、未練がましく、はは、サン・マルコ広場を通り過ぎつつ何枚か。
少し薄日が差し始め、既に広場にはかなりの観光客。
ドガーナの突き当たりには、蛙を足からぶら下げた少年像が見え、
動物愛護団体からは突き上げがないのかな?!
金の球の上の風見の像も、いつもの通り。
でね・・、
こうして泣く泣く、ははは、ヴェネツィアを去ったのでした。
*****
ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!
*****
コメントの書き込みについてのお願い。
ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
非公開コメントをご希望の場合は、非公開で、と書いて頂くと、
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。