・ n.2 アヴィニョンの教皇庁宮殿 

引き続き有難うございます!
アヴィニョン教皇宮殿 その2 のご案内を続けます。

もう一度、教皇宮殿の図をどうぞ。
こちらn.2のご案内は、図の番号7以降のご案内です。

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旧宮殿の東翼の2階部分に行きますが、
ここの階段が狭めで、かなり傾斜がきつかった覚えが。

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と、見上げる2階部分。

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祝宴大広間(図の7) 祭日、とりわけ枢機卿任命と教皇戴冠の祝宴が
ここで催されたのだそう。
  
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広間に入った途端、わあ!と声が上がる程の広さで、
長さ48mx幅10,25m  人物の大きさから様子をご想像下さいね。
   

教皇は、暖炉とは反対の壁際の高座に、天蓋を戴く背もたれの
高い席で1人で食事、会食者達は壁際の木製の腰掛に座り、
枢機卿は東側その他の客は西側と決められており、
四脚台のテーブルがU字型に並べられたのだそう。

言葉少なに黙々と食べる姿を想像させられますが、
お祝いの宴会ですものねぇ、どう思われます?

ここの天井は1970年に復元されたものですが、14世紀の面影を
偲ばせるものではないそう。
というのも、豪奢を好んだクレメンス6世が、天空を現わす金を散りばめた
青布を天井に張らせたそうで、壁の宗教画と共に1413年の火災で焼失と。

教皇の毎日の食事は小食堂で供されたというのですが、ガイドブックでは
場所を見つけられず。 が、多分教皇塔(図の9,10)の辺りだろうと。
       


この大きな暖炉は部屋を暖めるのではなく、配膳室として、皿などを暖めて
盛りつける部分にあり、広間との間は仕切り壁によって区切られ、
その壁の切れ目が残っていました。

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cucciolaさんが、アヴィニョンの教皇庁におけるドンチャン騒ぎについて
教えて下さったので、さっそくリンクを!
http://d.hatena.ne.jp/cucciola/20100107/1262815857

やっぱりねぇ、おとなしく貧しい食物に感謝して食べてはいないだろう、
とは思っていましたが、あはは、凄い量ですよぉ!



で、暖炉の横奥にある上の厨房、最初は下の階にあったそうで、
クレメンス6世の時代に新しく厨房塔が造られ、
下の階には、食料貯蔵庫や果物が貯蔵された部屋があったと。

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四角な部屋で、天井部分が高さ18に及ぶ八角形の排気フードとなっており、
壁のこちらとあちらにある四角い穴に鉄串を通し、
床に設けられた炉で肉を調理した、大グリルという訳!

中世におけるご馳走の最たるものは多量の肉。
現在の様に野菜や穀類に関しての意識は、貧民の食物なので食べず、
とにかく多量の肉を食べる事が晩餐のご馳走、美食だった訳で、
この為に痛風に苦しむ事が大変多かった様ですね。

下の階にはパン焼き場、そして多分地下に大きなワイン蔵
毎日300人分の食事が用意され、貧民800人にパンとワインが供給されたと。


上級の役職、聖職者の構成については次に書くとし、
その他の雑多職務についてここに。

近衛兵と儀仗兵は教皇移動に随行し、宮殿では護衛と警護に当たり、
位も騎士、貴族から門衛に至り、100人から200人、
そして調理役、パン焼き役、葡萄酒調達役、蹄鉄役、そして最後に
宮殿と庭園の維持に当たる雑役人夫がいました。

こうして数えると食事300人分では不足しそうですが、
枢機卿達はこの宮殿には住まず、各城館で豪勢な生活をしていたそうで、
礼拝堂付き司祭、執事、侍従、従僕と、構成する家中は
50人に達する事もあったと!



教皇侍従長旧居室(図の9)

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この部屋の上に教皇居室があり、階段で繋がっていたという事でも分かりますが、
教皇侍従長というのは、教会制度において教皇に次ぐ高官で、
教皇庁会議の責任者、いわば一種の総理大臣役であり、
教皇が全幅の信頼を寄せる人物という訳ですね。



床下には8個の煉瓦製の箱が隠され、貴重品や文書が保管され、
部屋も大変美しく装飾されていたと聞きましたが、
壁には何度か改装された跡も残ります。

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部屋の片隅に置かれていた鞄、印から教皇の持ち物と思いますが、

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大変暗い場所で色も分からないまま露出を上げて写し、
戻って見ると、どうやら革製の衣装箱ですね。


上に続けて教皇庁の構成について書きますと、
教皇庁の宮廷付属吏はすべて聖職者で、その位階により
行政、外交、家政などを司っていたそう。

教皇の取り巻きは、近親者、礼拝堂付き司祭、医者、侍従、
そして教皇侍従長を最高責任者とする枢機卿会・サクレ・コレージュ、
次に、ローマ教会の中央行政府。

この行政府は4つの機関から成立、
教皇財務院・キリスト教圏全域で徴収される税金の受理を行う
尚書院・教皇書簡の送付、教会利益の分配管理
司法機関・訴訟を取り扱う控訴院など、種々の法廷を擁する
赦院・教皇の名に於いての宗教法廷、という構成。

これら全てが神聖人格としての教皇に集中し、
生活全体は典礼に則り進行、全員が1日に数回ミサに出席という、
考えて見ると、規模も彩りももっとぐっと大きくして
絶大な世俗権力を加えた修道院生活、という様子でしょうか?



教皇の寝室(図の10 ですが教皇侍従長の居室の隣で、大体この辺りと)
この部屋近辺は狭く、おまけに管理人が見張っていて写真が撮れずで、
上の2枚はガイドブックから。

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壁の色が良く出ていませんが、大変優雅なイメージを受ける
グレイがかった青色の地に、植物の葉と小鳥が描かれた物で、



窓際には立体的に見える鳥籠が描かれていて、

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床のタイルも、書斎に残っていたという図柄と色無地タイルで復元されたもの。
 
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移動仕切りで分けられたこの部屋で、教皇は侍従達と一緒に
寝起きしていたとの事。

最後から2人目の教皇の時代にこの寝室に備え付けられていたのは、
深紅色のビロードとエメラルド色のタフタの帳付き寝台だったそう。

ガイドブックの写真に見える壁際の木製の箱は宮殿の物ではなく、
当時こういう箱に肌着などを閉っていたと。



鹿の間(図の11) 今回一番気に入った部屋。 写真はすべてガイドブック。

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旧宮殿と新宮殿の境にあり、この衣装塔と呼ばれる塔には
4つの衣装室があり、1階には教皇の蒸し風呂があったそう。

後に軍人がこの宮殿を使った時にこの部屋に塗装をした為、
フレスコ画が奇跡的に残り、後世の修復の際に発見。
部屋は豪奢を好んだクレメンス6世の書斎で、ここに寝台と書庫も。

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鹿狩りや鷹狩、養殖場で魚を採る数人、花や果実をつけた木々、
木に上って実を採る子供(オリーヴ)

他の部屋に比べ大変独創的な、いかにもイタリアの画風を感じさせる
フレスコ画ですが、描写法が違う事から、多分数人の画家が協力した作品と。



大聴聞室(図の12) 実際に見た時は半分向こう側が街のお祭り用の
着替え室に仕切られており、天井のリヴの様子など、まるで分からず。

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が、新宮殿に於ける長さ52m 幅16.8m 高さ11mの大きな空間で、
教皇庁の控訴院が、確定審判を下す常設司法機関が置かれていた場所と。

政治と教会が合致していた事をお考え下さい。
キリスト教圏全域に於いての聖職者の任官を行い、何百件もの訴訟を
審議していたのですね。
年間8000通の書簡と1万通の嘆願を処理する能力を持っていたそうです。
       


壁画などは全て損傷されているのですが、一番奥の天井部に1区のみ、
マッテーオ・ジョヴァネッティ・Matteo Giovanettiの描いた
予言者18人のフレスコ画が残ります。

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彼はヴィテルヴォ出身ですが、シエナ派の伝統を継ぎ、クレメンス6世時代の
1346年からの支払記録があるそうで、
先にご紹介した聖ヨハネ礼拝堂、その上階の聖マルシアル礼拝堂の壁画も描き、
宮廷装飾に携わった数多くの画家のうち、マエストロの称号を与えられた
3人のうちの1人の画家でした。

この奥の一区画の天井画が奇しくも残ったのは、後年ここは倉庫として
使われていたので、一番奥に物が積み上げられたかして助かったのではないか、
とはガイドの言葉。
フランス革命の際の損傷が、本当に大きかったのが良く分かります。



上の図は18世紀後半に描かれた教皇特使の行列の様子、

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そして、スイス傭兵の衣服。

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1378年にグレゴリウス11世がローマに戻った後も、40年間対立教皇の
存在で混乱が続きますが、漸くに治まった15世紀に、
アヴィニョンの街とコンタ・ヴネッサンの行政は教皇特使に任せられます。

最後の退任拒否をしたボニファティウス13世への包囲戦、
1413年の大火の修復などもその任務であったわけですが、

当時の一番有名な教皇特使としては、
後にユリウス2世として即位、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を
描かせたり、ラファエッロの庇護者でもあった事でも知られる
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレがいます。
彼は宮殿ではなく、大聖堂の北にあった大司教館のプティ・パレを壮麗な住居
として改築、住みました。 現在、美術館となっている建物ですね。

17世紀に入り、教皇の甥が特使となり、国務庁長官の職務でローマに
住むようになると、特使補佐がこの街に赴任して来ます。

彼らは全てイタリア人で、街の行政面をイタリア人の聖職者の手に握られ
民衆の大暴動も起こり、特使補佐の一行が住むのは宮殿内のほんの一部で、
次第に宮殿の荒廃が進み、フランス革命時に一層の損傷を受けた事は上記。

現在は年間50万人が訪れるという教皇宮殿ですが、見学できる場所は
全体の約3分の1だそうで、見ていない場所の内には、聖具室や衣装部屋、
宝物室、礼拝堂等などたくさんあります。

当時の装飾も殆ど残っていないものの、その存在感はやはり圧倒的で、
長い歴史の中、僅か1世紀にすぎないのに、
キリスト教社会における教皇庁の力の凄さを改めて感じた事でした。

最初に書いた「アヴィニョン捕囚」なる言葉から想像していた厳しい監禁生活
どころか、ははは、実際は物凄い宮殿における教皇様の生活だった訳で!!

「捕囚」なる言葉を考え出した方は、きっと実際をご覧になった事が、
教皇庁なるものの内実をご存知なかったのだろうと愚考した事でした。

本日は長く、少し重たい記事にお付き合い下さり、
最後までどうも有難うございました! 
       
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・ n.1 アヴィニョンの教皇庁宮殿

先回、中世の14世紀、ローマから南仏のアヴィニョン・Avignonに移転した
元教皇庁の建物が、街の北に今なお威容を示しているのをご覧頂きましたが、
街の中心に続き、今日はいよいよ教皇庁内部のご案内です。

ヨーロッパに於ける最大のゴシック式宮殿という歴史的建造物であるのみならず、
破壊され修復された今なお残る美しいフレスコ画や、当時のキリスト教社会の
絶大な権力の大きさも偲ばせる大宮殿で、
百聞は一見にしかず、どうぞごゆっくりお付き合い下さい!

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内部は写真OKとダメな場所とがありましたので、
買って来たガイドブックからのも含めてご覧頂きますね。

写真の手前左にベネゼ橋が見えますが、
いかに大きく聳えているか、良くお分かりと。(ガイドブック)



まずは広場からの眺めをどうぞ。 余りにも大きくて全体が入らず、2つに分け、

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真ん中上部に細い塔が2つ並ぶ下のアーチ、ここが入り口のシャンポー門・
Champeaux.



正面左側。

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現在見えるこの部分は新宮殿と呼ばれる方で、旧宮殿の方は正面左手奥、
大聖堂の脇に続いてあります。
が、新宮殿とはいえ、街の中心広場の洒落た建物に比べると中世の面影を濃く宿し、
大きさもあり圧倒的な迫力。

城壁上部の矢狭間近くに飛び出す動物は、犬でしょうか? 
雨樋で、ぱっくりと口を開けているのが見えます。



教皇宮殿、建物全体図をどうぞ。
左から、水色部分・ノートル・ダム・デ・ドム大聖堂
茶色部分・旧宮殿 1335年から1342年に建設
オレンジ色・新宮殿 1342年から1351年に建設

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アヴィニョンに教皇庁が存在したのは1309年から1378年までの69年間。
その後も対立教皇の存在で教会分裂の混乱が続き、都合約1世紀間。
高さが50mにも達する塔、巨大な大広間、礼拝堂や居室の見事な
絵画装飾等などと、当時のキリスト教社会の第一君主の住居に相応しい
威光を発揮する宮殿が建設されたのでした。
       
ではなぜアヴィニョンに教皇庁が移ったのか?
13世紀のイタリアに於いて、教皇派のグエルフ党とドイツ皇帝派のギベリン党が
内戦状態にあり、既に教皇とその宮廷はあちこちと居住地を変えていたと。
この居住地変更については、どこに誰がかを勉強不足で知りませんで、
どなたかお教え願います。

14世紀に入るとますます政治事情が複雑になり、フランスのフィリップ4世の
教皇至上権を認めない強硬な介入により、
ボルドー大司教がクレメンス5世としてリヨンで即位、ここにフランス人教皇が
誕生すると、ローマに戻らぬままにアヴィニョンに教皇庁を移す事を宣言。

で、なぜアヴィニョンが選ばれたかという事ですが、
この地は、ナポリとシチリアの王でもあるプロヴァンス伯の領土で、
当時アンジュー家のシャルル2世伯でしたが、教皇を支援する立場。
その後1348年には、女伯ジョアンナがクレメンス6世にアヴィニョンの町を売却。

そして隣接のコンタ・ヴネッサンの土地は13世紀末からの教皇領、
つまりローヌ河を挟んでフランス王国のお隣であり、イタリアとスペインに囲まれた
キリスト教圏の中心、という理想的な地理条件にあった街だった訳ですね。

ですがアヴィニョンに教皇庁が移った事により起こった町の大混乱もご想像を。
わずか6000人程の人口の町だったのが、40年後には3万人程にも増大したと。

僧院や修道院のみでは教皇庁付属吏を収容できず、賠償金を払い
市民を家屋から立ち退かせたり、税免除して城壁外への移住を優先したりも。
急ごしらえの混乱した過密状態の不潔な町は、火災や疫病の伝播に理想的な
状態で、数度に渡りペストが猛威をふるい、哀れな形で過剰人口解消も!

最初は教皇自身も一時しのぎの教皇庁移転と考えていたのが、
いよいよ宮殿を建設する事になると、大変な建設ラッシュ、町中が工事現場
となり、大賑わいで沸いた事でしょう。
       
一方、教皇庁の造営、新住民の到来が齎した文化交流の効果も見逃せず、
ガラス細工、金銀細工、織物等などの素晴らしい職人も集まって来る、
北と南の様々な流派が混ざり合い、ここにアヴィニョン派が生まれる元にもなり、
財力を持つ人間が集まり、学者や博学の士も招かれる事で、
一大文化交流発展の地ともなったのですね。

ペトラルカなども教皇庁の大悪口を言いつつも招かれ手厚くもてなされ、
修道女教会で情熱を燃やす羽目になったり、
・・と読むと、これは少し調べてみませんと! むひひ。

既に工芸学部と医学部のあった大学には法学部も設立、
当時において一番活気ある、大繁栄の町となったのでした。
       
余談ながら、フィレンツェの中世の歴史を読んでいると、当時フィレンツェの
金融業者が南仏で投資したり、学生相手に金貸しをして儲けた事が
出て来ますが、今回、そうだったのか! と疑問が解けました。

フィレンツェのジャンフィリアッツィ家 n.2 ルネッサンスの都に、中世を探して
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463022941.html

cucciolaさんが、こちらにウブリアーキ家について詳細に。
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/765054.html       
           
         

では一体どの教皇様がここにいたのか、ですが、
アンリ・セリュールという画家が19世紀に想像で描いたという肖像画をどうぞ。

上段左から  クレメンス5世 (在位期間1305年~1314年)
       ヨハネ22世  (1316年~1334年)
       ボニファティウス12世 (1334年~1342年)

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2段め左から  クレメンス6世  (1342年~1352年)
        インノケンティウス6世 (1352年~1362年)
        ウルバヌス5世  (1362年~1370年)

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3段目左から  グレゴリウス11世 (1370年~1378年)
以上7人がフランス人教皇で、アヴィニョンに居を定めた教皇。

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以下はローマに教皇庁が戻った後も、分裂が続き対立教皇として、
この街に存在した教皇2名  クレメンス7世 と ボニファティウス13世で、

この最後の教皇は退位を拒否、フランス人枢機卿達からも見放され、
アヴィニョンの住民達の反乱、最後はフランス王の傭兵からも襲撃を受けつつ
4年間抵抗、遂に1403年のある夜スペインに逃げ出し、という逸話の持ち主。

1416年になり、漸くにマルティヌス5世が神聖ローマ帝国のコンスタンツにおいて
教皇に選出され、ここに40年間に渡る混乱が終結した、という事なのでした。
       
と、脱線しましたが、この巨大な教皇庁の建物は、3代め4代め教皇の
大奮闘による建設と言う事なのですね。

初代のクレメンス5世は、アヴィニョンのドメニコ会派の修道院や、近郊教皇領の
城館を住居にし、あちこちを転々と。
2代めのヨハネ22世はアヴィニョンの司教であった事からもこの地を良く知っており、
旧宮殿の場所にあった司教館を改築美化、教皇庁税制改革に取り組み、
教皇財産の増大に貢献、
それで3代めのボニファティウス12世から大造営に取り組んだ事になります。

4代めのクレメンス6世は小貴族の出で豪奢を好み、新宮殿を拡張し、
この造営により教皇庁の財源は底をつき、
後継教皇たちは手直し程度の改築しか出来なかったのだとか。
       
1337年5月の記録によると、工事現場で働く労務者数は800人とされ、
石工親方、大工、石切夫、人夫と、現場で働く者のみならず、
膨大な建築材料の運搬をも必要とした訳で、ご想像下さい!
      
      

全部を見た訳でなく、一般には公開されていない場所もあり、
今回写真でご案内できる場所に印をつけました。
まず、新宮殿の西側(図では下)の入り口から入り、
入り口脇の番号1,2を通り、新宮殿の中庭3に。
       
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そして、旧宮殿の礼拝塔の2階の5を見て、6が内庭。
これ以降は「n.2のご案内」になりますので、その時にご説明を。



こちらは、入り口シャンポー門部分のアーチ上部。
どうやらかっては彩色もされていたらしい様子で、左側の窪みから考え、
元は手前に堀があり跳ね橋があったのだろうと思われます。

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入り口部分の天井で、入り口脇に衛兵の間、図の1、があり、

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図の2.小聴聞室、法廷が置かれていた部屋で、嘆願、請願の取り扱いが
されていましたが、17世紀の教皇特使補佐時代になり、工廠に改造され、
現在見られる白黒グリザイユの戦具が描かれたとの事。

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まず目に留まったのは、アーチを支えるりヴが、萼(ガク)形装飾と言う
建築様式で、この様に壁面上部で切られている事。

中世風の面影を持つ動物や人物像が彫り込まれたこの受ける形が、
新宮殿のいたる所に見られるのですね。
これはアーチを壁面下まで伸ばさずに、これらの装飾を施された石材が
この部分で壁に横位置で嵌め込まれているのだそう。

これはイタリアでは見た事が無い気がするのですがどうなのでしょうか? 
ご存知の方、お教え願います。
ちなみにイタリア語では、ペドゥッチョ・peduccioというそうで、
言葉があるという事は、使われた様式なのかな?



中庭(図の3)に出て、入り口のシャンポー門を内側から。
ここにも萼形装飾があり、

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また見慣れない建築の形で「垂れ要石の穹隆」と呼び、ここ1ヶ所のみと。
私の頭では、こういう形の重力の掛かり方、さばき方が分かりまへん!

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門全体の古い写真がガイドブックに。

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中庭には毎年7月に行われる街のフェスティヴァルの桟敷席がいっぱいに組まれ、
1364年に掘られたという井戸も何も見えず、奈落の底の様な桟敷の足場の
間を抜け、旧宮殿に向かいます。

大きな窓は、新宮殿の南西角にある美しいもの。

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こちら2枚の写真は中庭の北東角、旧宮殿が南に延びている部分。

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ガイドブックを眺めつつ、見学した様子を思い出しつつ考え、
どうやら旧宮殿が、新宮殿よりも高い土地にある事、
つまり宮殿の北にある大聖堂がドム岩壁にある、という事からも
間違いないと思うのですが、その傾斜を利用しての差と、

宮殿内でも天井の高い広間部分は2階分の高さで、私的な部屋などは
3階部分に、時に4階部分に、あっただろう事に思い至りました。

そう考えると、旧宮殿の内庭が一瞬テラスの上の庭かと思った事や、
見学するのに階段を上がり降りした事が、納得出来たのでした。
  
       
       
こちらは、聖ヨハネ礼拝堂(図の5)で、旧宮殿の東に張り出す形の
小さな塔にあり、教会高官用の礼拝堂に使用されたそう。

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宮殿内の写真がダメなのは、フレスコ画が描かれた場所との事だったのですが、
何せ大勢の見学者でどさくさにまぎれ、管理人がいない所はせめてもの抵抗を!

が、礼拝堂などは入り口から覗き込むだけで入れず、鑑賞するには程遠く。
上の2階部分には聖マルシアル礼拝堂があるそうですが、見ておりません。



室内は展示室となっており、こんな装飾タイル類があれこれ。
床面に、褐色または緑色の単色のタイルと交互にこうした柄タイルが
嵌め込まれているのが、3階の教皇の書斎で発見されたそうですが、
人物柄タイルは1つだけで、他のタイル張りの床は1969年に修復されたものと。

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蹲った形の人物像、上に誰かが跨っていたようですが、これがアーチのリヴを
支える萼形装飾・ペドゥッチョの原型だろうと。

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教皇宮殿は、1403年に抵抗していた対立教皇のボニファティウス13世が
夜逃げした後、包囲戦による損害、そして厨房からの出火により全焼した
東側の建物、などの修復は教皇特使に委ねられますが、

時代が下るにつれ、特使補佐がアヴィニョンに駐在する事になり、
すべての建物を使用した訳ではなく、徐々に荒廃して行きます。

そしてフランス革命の際に、最後の特使補佐は革命派の圧力に屈し放棄逃亡、
建物は牢獄にも使われ、崩壊と略奪に。

19世紀初頭には軍の使用になり、致命的な損傷が加えられたものの、
1906年に至り、漸くに修復工事に取り掛かったという変遷。

フレスコ画等も損傷を受け、また剥がして売られたりで、
いわばこの宮殿は丸裸にされて残った訳ですが、
       


素晴らしいシモーネ・マルティーニ・Simone Martiniのフレスコ画「聖母子」が。

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これはお隣の大聖堂のポーチにあったのを、ここに展示で、
キリスト像もありましたが、残念、顔が損傷を受けておりました。

フィレンツェはウッフィツィ美術館の素晴らしい黄金背景の「受胎告知」で有名な
シモーネ・マルティーニ(1284年頃-1344年)は、シエナ派の大家ですが、
1340年頃招かれてアヴィニョンに行き、こうした優れた作品を残したとの事。
優美そのものの聖母の顔に、暫し見とれました。



旧宮殿の内庭(図の6)を東側から眺めて。
右に見えるのが鐘楼で、左側が小鐘楼。 ここの銀製の鐘が、食事や、
控訴院の開廷、枢機卿会議の開始を告げたそう。

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という所で、「アヴィニョンの教皇宮殿 その2」に続きます。


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・ アヴィニョン ・ 街の中心をほんの少し

プロヴァンスの旅が決まった早春、偶然に本屋さんで1冊の旅行雑誌
「全ページ、プロヴァンス」というのを見つけました。
勿論我々の予定にない場所もたくさん載っていたのですが、
このアヴィニョンの写真を見た時は本当に嬉しかったのです。

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南仏アヴィニョン・Avignonに、中世期にはローマから教皇庁が移され、
「アヴィニョン捕囚」とか良く出会う言葉でも、実態はまるで知らずだったのが、
写真の中、右に見える大きな建物が教皇庁だったと知った時、
それを見る事が旅の大きな目的になりました。

ですが余りにも相手は大きく、例によりご説明できる程に自分の中に
落ち着くのを待つのに時間がかかりました。

今日は漸くに街の中心部を、教皇庁の前広場までをご案内!
肝心の建物内は、また次回に見て頂きますね。

現在も子供程度の単純素朴な私の頭の中で「アヴィニョン捕囚」 
という言葉がどういう姿だったかと、余り明らかにしたくはないですが、へへ、
法王がアヴィニョンに囚われ、監禁され、ローマに戻れない、という・・。
 
この辺りで笑わないで下さいね、そこのあなた、
子供の頃には「中世の暗黒時代 = 停電の暗闇」を想像していた
むち無知のshinkaiなのですものぉ、ははは。



所が今回ガイドの説明で、アヴィニョンに教皇庁があった期間は70年にも及び、
教皇もどうやら何度もローマ~アヴィニョンを往復していたらしい、と知り、
ローマ~アヴィニョンの経路図で距離を図りました。

陸路だと975K で、海路を通ると927K.
いずれもこれは現在の高速道路や海路の距離で、当時とは違いましょうね。
まぁ船の方が楽で、安全であった事は間違いないですが、
いずれにしても、1000kの距離、昔の方々は本当にお元気でしたねぇ!

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という訳で、アヴィニョンの街に。 後ほど街の地図もご覧頂きますが、
見事に周囲を城壁で取り囲まれているのですね。
すべてが昔のまま残っている訳ではなく、復元されている所も多い様ですが、
こうしてぐるっと街の周囲を回りながら駐車場に。

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岩壁がそのまま自然の要塞となっている部分、写真が反射して見難いですが、
これは「ドム岩壁」と呼ばれ、ローマ期から既に防壁に利用され、
4世紀頃には司教館、現在のドゥオーモが造られた、という
街の歴史に関わる物、と今回知りましたのでご覧下さい。
       
実際、街の中心から城壁外に抜ける小道は、この岩壁をくり抜いた、
と思われる細道なのでした。



最後はおまけ。 素晴らしくすらっと伸びたアンヨで見とれましたので。

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右手に持っているのが何か分からないのですが、左手にはバゲットを持ち、
この後彼女はパクッと一口齧りましたっけ。



バスの駐車場は街の北西のローヌ河沿い、べネゼ橋に近く、ゆるゆると
幾つもカーヴを切りつつ近づき、だんだん城壁、塔の先が見えて来てワクワク。
  
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そして、あの橋も遂に!

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アヴィニョンの橋で踊ろよ踊ろ、という有名な唱歌は一体いつ頃の?
古い事は間違いないですね。
というのも、何度もローヌ河の氾濫で流され、遂に17世紀に修復を断念、
という事なのでした。

橋の名はサン・べネゼ橋・Pont St Bénézeと言い、12世紀初頭に、
ベネゼと言う羊飼いが橋を架けるようにとのお告げを聞き町に行き、
大岩を持ち上げて見せ、橋を架ける様に町の人々を説得、成功、という逸話。

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が、どうやら当時の橋はローマ人の造った古代橋の橋脚上に、木製の枠を
取りつけた様で、長さ900m、22のアーチを持つ石橋が完成したのは1226年。
長い年月の間にローヌ河の水害で何度も流され、修復費用の圧迫で
遂に1663年に放棄、現在は4つの橋脚が残る姿で保存されています。

この橋はローヌ河にかかる橋の中で地中海に一番近い位置にあり、
北方諸国と地中海沿岸を結ぶ通商の要衝地として、
中世には大いにこの町の発展に貢献したのでした。



橋の上に聖ベネゼを祀る祠がありますが、聖人と呼ばれるのは民衆伝説により、
教会の列福ではないとか。

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アヴィニョンに行った日の午前中、ラヴェンダー畑で有名なセナンク修道院に
行きましたが、この春の天候不順でラヴェンダーの開花が遅れていて、皆がっかり。

が、平野のこのアヴィニョンの駐車場脇にラヴェンダーの植え込みが広がっていて、
花も咲き香りもたち、みな大喜びだったのでした。



駐車場にバスが停まり、城壁の中に。 城壁の外と、内側をどうぞ。

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はい、内側は兵士が走り回れるように、どの街の城壁も、
こんな風に道が巡っていますね。

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街の地図をどうぞ。 菱形の街を取り囲む城壁の様子が良く分かります。

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アヴィニョンに行った、と言いましても、見たのは街のほんの一部、
北西に突出したサン・べネゼ橋、その下のPの脇に赤い四角を付けた門から入り、
その南東の大きなオレンジの四角が教皇庁の建物。

その北にドゥオーモがあり、教皇庁の南に付けた赤い四角辺りの
車の通らない広い広場、ここでお昼を食べた、と言うだけで・・。

人口が約9万人の大きな街で、見所もたくさんあり、とりわけ毎年7月に
行われる街を挙げてのフェスティヴァルはフランスのみならず有名だそう。



街の中心広場に向かい。 道は緩やかな坂道、塔の先の金色のマリーアが
高く聳え、中世を偲ばせる細い道、少し厳めしい建物など。

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が、窓の大きさ、鎧戸の幅などがイタリアよりもずっと大きく広く、
何よりも中間色の彩、バルコニーの鋳鉄のデザインの細やかさ、
そんな美しさに目が留まりました。



道脇の鉢植えにあった赤い茎の植物、ルバーブと、少し珍しく。

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窓の鎧戸の色と、建物の色の取り合わせの美しさ、広がる鎧戸の幅、
鋳鉄デザイン。

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イタリアの美とはやはり違う細やかさに魅かれ、たくさん写しましたので、
またご覧頂きますね。



中心広場・Place de l'Horlogeは、歩行者天国式にカフェや
レストランのテラス席が張り出し、メリー・ゴーランドも陽気な気分を醸して回り、
プラタナスの大樹の下の涼しい席で、思い思いのお昼を。

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サンドウィッチを頼んだら、やはりバゲットのパンだったり、
美味しいキッシュやリンゴのタルトをお相伴したり。



市役所にたくさんの三色旗がたなびくのを見上げ、
緑と青とに色が違うだけで、何やら知的に見えるなぁと思い、ははは。

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素晴らしいテアトロの正面を見つめ、

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時計塔の上に鐘つき人物像がここにもいるのを知り、

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丸い広告塔を見つけ、娘さんがパリに住んでいるルイーザに、
「ねぇ、パリってこんな感じ?」と聞くと、
「うんにゃ、パリは、この10倍も美しい!」とあっさり片付けられ、

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この問答は半ば冗談の種となり旅行中何度か繰り返し、
そんなこんなで、大いにおのぼりさんの気分を楽しみました。       



そして、元教皇庁の建物。 余りにも大きくカメラに収まりません!
が詳細は次回に。
     
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真ん中の塔の下のアーチが入り口、シャンポー門で、金色のマリア像の
見えるのが、大聖堂ノートル・ダム・デ・ドム。すぐ隣なのに見ませんでしたが、
教皇庁を見た後は何やら満腹感で不満も出ず・・。



そしてこの左手奥にプチ・パレ・小宮殿と呼ばれる建物があり、15世紀末に
チェーザレ・ボルジャも滞在したとか。
公式の司教館であったり、数々の賓客を迎えたり、神学校にもなったりの
変遷を経て現在は中世博物館で、ボッティチェッリの聖母子なども収蔵と。
 
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教皇庁の前広場の向かいにはこの建物。 ちょっと異質な正面壁を持つ
17世紀の建物で、枢機卿シピオーネ(カファレッリ?)・ボルゲーゼ、
教皇特使だった、の館でした。

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一番上部に有翼のドラゴンと鷲(ボルゲーゼ家の紋章に因み)、
そして翼を持つ小天使が紋章を支え、

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果物と野菜の飾り帯、ここにもドラゴンと鷲がいて、をライオンが咥える、という、
バロック様式とあるのですが、こういう形は初めて見ました。
優雅でもあり、なにやら強面でもあり・・。

現在モネー館・Monneiesと呼ばれるのは、ここに造幣局が置かれていたそうで、
現在は市立音楽学校。



教皇庁の建物に圧倒され、やれやれと河べりの駐車場に戻り、
暫しラヴェンダーの香りを楽しみました。

ここもまだ少し早目でしたが、蜂や小昆虫が集まり、

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暑い程のお天気も、ローヌ河の満々たる流れも気持ち良く、

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またベネゼ橋をバスの窓から眺めつつ、ホテルに戻ります。
       
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という事で次回までに、必死に教皇庁を纏めますです!
・・出来んかったら? うん、その時は夜逃げしよう!
      
    
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・ n.2 エクサン・プロヴァンス ・ セザンヌと学術都市の香り

引き続き有難うございます!      
エクサン・プロヴァンスの街のご案内を続けます。

時計塔の脇を通りすぎると市役所広場があり、西側に17世紀建設の
市役所・Hotel de Villeがあり、2階には蔵書30万冊以上の図書館が。

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広場には結婚式の飾りつけの車が停まっており、これは電気自動車かも、
その関係の方々がちょうど中に入っていく所。

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ニースでも結婚式2つに遭遇しましたが、いずれもイタリアよりも車の飾りも
質素というか、イタリアはこういう場合、どっしりとした花飾りを
クラッシック・カーのボンネットに置き、もっと派手ですね。

イタリアの結婚式  湖畔の結婚式 ・ ガルダ湖マルチェジーネにて
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465493418.html

アーゾロ ・ 中世の要塞と、花嫁と
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463456986.html

ポルトブッフォレ ・ Portobuffolè 再訪

フィエーゾレ(フィレンツェ) の 結婚式
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460889647.html



で、市役所の北西角に先程の16世紀建設の時計塔。こちらが表側で、
塔の上に鐘が見えますが、かっては市の鐘の塔だったのだそう。

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写真整理していて気がついたのが、真ん中部分の窓が開き、何やら
人物像らしきものが見えますね。



どうやらこれは、季節毎にその象徴の像が置かれるという、その女性像の
様ですが、アップにしても金網でよく分からず。

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南側に現在郵便局に使われている、これも重々しい建物ですが、
こちらはかっては古い穀物取引所の建物だそうで、
  
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上に見える像は、ローヌ河とドュランス河の象徴なんだそう。



街の地図をもう一度どうぞ。

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31.サン・ソヴァール大聖堂・St Sauveur.
30.大学法学部
A. 元の大司教館
25.市役所、北西角に時計塔
B. 郵便局
C. アルベルタ広場・Palace d'Albertas
2. セザンヌの父親がしていた帽子店
3. キャフェ・デ・ドゥ・ギャルソン
d. 4頭のイルカの噴水
15. 旧ブルボン中学校



多分上の地図のB.の現郵便局南の広場と思うのですが、大きな賑やかな市が
開かれていて、ちょうどお昼前で活気に満ち、見るだけでウキウキ。

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野菜果物、香辛料、蜂蜜、ラヴェンダーやオリーヴ油の石鹸、新鮮な魚介類も!
こういう市は、いつも嬉しく魅せられます。



こちらは地図C.のアルベルタ広場・Palace d'Albertas.
丸石舗装の18世紀後半に作られた小さめの個人の広場で、
周囲を個性的な建物が取り囲み、良い雰囲気が満ちています。

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広場真ん中の泉は20世紀初頭のもの。



広場北側を占める素晴らしい1707年建設のアルベルタ邸で、
南仏特有の広い薄いグレーの鎧戸が何とも素敵ですが、
この広場では夏にコンサートも行われるとか。

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個人で広場を持つ程のこのアルベルタという人物、
お金持ちの商人だったと聞いた気がしますが、何商だったっけ?
       


洒落た素敵な色どりの店が並び、人通りも多い道を辿り、
街一番の目抜き通りミラボー通り・Cours Mirabeauに。
  
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17世紀に古い要塞の壁を崩し、馬車が走れる通りを造ったもので、
ご覧の様に素晴らしいプラタナスの並木がトンネルを作る幅広い洒落た大通り。

東西に走る通りの西外れに、先回最初にご覧頂いた素晴らしい泉があり、
北側にはキャフェや本屋、大型店が並び、
南側には瀟洒な邸宅ホテルなどで、大変な活気。



そして通りの東端には、この街の最初の繁栄を築いたアンジュー家の
善良王ルネ(1409~1480)の像。

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彼はプロヴァンスの王でありましたが、ブルゴーニュからフランドル、
そしてナポリ・シチリアの王でもあったのですね。
・・と書きつつ、まだよく意味が飲み込めていませんが!

商業農業に力を入れ、臣下の健康にも気を配り、絵も描く、文章も書く、
法学、数学家でもあるという天才ぶり。
イザベッラ・ディ・ロレーナ(イタリア語表記で)と死別後、44歳にして
21歳のジョヴァンナ・ディ・ラヴァルと結婚。
彼女は年老いた夫と同等の人気を得た様ですが、息子や孫を失くし、
王の晩年は寂しかったと。
この辺りの事情はどなたかが詳細して下さる事を期待して!

この善王ルネの後フランスに併合され、1501年にこの街に国会が置かれ、
17世紀の再繁栄を迎えます。
判事、弁護士達が競って優雅な館に住み、召使たちの数も多く、
ミラボー通りの南に現在マザリン地区と呼ばれる新地区が造られ、
この時期に、この広い馬車道ミラボー通りも造られたのですね。

マザリンというのは大司教ミケーレ(ミッシェル?)・マザリンの事で、
有名なパリの枢機卿の弟に当たり、大変な権力を握っていた様子。

フランス革命の後、マルセイユに水をあけられた物の戦後再度盛り返し、
現在の活気ある街になったのは前述した通り。
       
    

地図2.の、通りの角にあるこの建物、最初のアルファベットが切れましたが、
CHARPELLERIE DU COURRS MIRABEAU

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ポール・セザンヌの父親が銀行を始める前にしていた帽子店で、
パリで帽子作りを学んだ後エクスに戻り、後に結婚したアン・エリザべット・
オーベールと出会い、セザンヌも生後この家に住んだのでした。



そして道の向こう角に、キャフェ・デ・ドゥ・ギャルソン。
ここは当時芸術家たちの溜まり場だったと。

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エクサン・プロヴァンスの街には100もの泉があると言われますが、
       
ミラボー通りにある34度の温泉の出る泉、

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市の広場近くで見かけた、小さなローマ期からの泉、

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有名な4頭のイルカの泉 地図D.

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地図15.のセザンヌが通った旧ブルボン中学・現ミニュ中学校。

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彼はここでエミール・ゾラと出会い深い友情を持ちましたが、
後に彼の作品により、苦い思いを受けたと。



色の美しい店先と、

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有名なお菓子の店。

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カリッソン・Calissonsという、菱形の小さな入れ物に入っているお菓子で、
アーモンドの粉と砂糖漬けメロンのペーストを混ぜ固め、
それに砂糖と卵白の衣をかけたという、聞くだけで甘~いお菓子!

善王ルネと結婚したジョヴァンナは、人前では決して微笑む事がなかったのが、
このお菓子を食べて、初めてにっこりしたのだとか!

美味しそうなお菓子屋さんのウインドウを覗き、仲間に釣られ入り込んだものの
甘い物には惹かれず、結局買わずで、今となると少し心残りは、いつもの事。



お昼を食べ、また市も覗きに行き、のんびりと、木漏れ日の美しい
ミラボー通りを集合場所の最初の大噴水に向かいます。

エディーコラの大きな雑誌の宣伝に、疲れた様なサルコジ大統領の顔。
なんと書いてあるのか訊ねると、「彼は価値が無いのか?」と。 

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6月半ばのエクスの街でしたが、現在は再度隠し献金とかなんとかで、
さぞお疲れの顔でしょうって!



すっきりの美しい大噴水を、美しいエクサン・プロヴァンスの街のご案内の最後に。

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・ n.1 エクサン・プロヴァンス ・ セザンヌと学術都市の香り

さて今日は、エクサン・プロヴァンスに向かいます。
学術・文芸、法律の権威の街、セザンヌのアトリエと足跡の街、
プラタナスの並木の大通り、貴族の館、100もの泉 eccecc、

爽やかな朝の空気の中、ニーム近くのホテルから南東に向かいます。

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突然ですが、高速に入る料金所です。
いや、入る時は払いませんから、切符取り場というのでしょうか、
今回何度かあちこちで出会ったのですが、大変広くて驚いたもので!

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はい、これが片側だけで、我々のこちらにもまだ何口かあるのです。
イタリアの何倍もの入り口数で、夏などはこの入り口が必要な程の
南仏の海に向かう通行量があるという事なのでしょうか?!
で、何度か通過した所に警察官が待機しているのも見かけましたが、
恒例なのでしょうか?



地図をどうぞ。 ニームの街が左上に見え、エクサン・プロヴァンスは南東に。
こうして見ると、かなり距離がありそうですが、1時間半程で到着したと。

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今回これを書く為に地図を見て、街の北世から入り、中心部の南から
東をぐるっと回り、北の通りでバスから降りた事を確認。

一旦街の大聖堂サン・ソヴァールを見て後、セザンヌのアトリエに行きましたが、
既にご案内済みですから、今日は街の中の様子をご覧頂きますね。

まずは最初に迎えてくれた素晴らしい噴水、ラ・ロトンデュ・La Rotonde.
エクサン・プロヴァンスのエクスは、元はラテン語の「水」に由来するそうで、
まさにその名に恥じない大噴水。

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セザンヌのアトリエ ・ エクサン・プロヴァンス
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461110244.html
      


大きなプラタナスの並木道が続き、如何にも爽やかな街という印象を受けます。
並木の間に細々と作られた駐車場、皆さん器用に停めますねぇ!

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エクサン・プロヴァンスの街は人口が14万人程の大学都市で学芸の香り高く、
15世紀のアンジュー家の善王ルネの時代と、17世紀後半に再度の
輝かしい繁栄期を持ち、革命後はマルセイユに水をあけられた物の、
戦後に各種工業の発展、観光、温泉治療、学術等で価値ある都市の姿に。
       


建物入り口の洒落た張り出し、通りかかる女性もどこかイタリアとは違う雰囲気。

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この通りは、今右に見える建物の前で街到着時に大急ぎで降車し、
セザンヌのアトリエに行く時に再度渡った信号。

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街の地図をどうぞ。 ちょうどよいのが見つからず、セザンヌの足跡の地図に、
緑の四角をつけ、黒字でアルファベットを。

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上の写真の信号から下って来た所に
31.サン・ソヴァール大聖堂・St Sauveur. サン・ソヴールと記したのもあり
30.大学法学部
A. 元の大司教館
25.市役所、北西角に時計塔
B. 郵便局
C. アルベルタ広場・Palace d'Albertas
2. セザンヌの父親がしていた帽子店
3. キャフェ・デ・ドゥ・ギャルソン
d. 4頭のイルカの噴水
15. 旧ブルボン中学校



サン・ソヴァール大聖堂の正面部分。  
       
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建設起源は13世紀に始まり、ご覧の様にロマネスク様式にゴシック様式の
装飾が加えられた物ですが、残念な事に正面扉上の半円部分の彫像が破壊されていて。

フランス革命時に、権力者に繋がる像やフレスコ画がたくさん破壊されたそうで、
話には聞いていたものの全く驚く程にたくさんで、とても残念。



入り口にある聖母子像、聖母の下瞼の膨れ具合、横顔の鼻、顎の線など、
持つ雰囲気がやはりイタリアの聖母と違うのが興味深く。

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サン・ソヴァール大聖堂内部は5世紀から17世紀までの様々な様式が
入り混じり、建築学的には評判が悪い様ですが、内部もちょっと複雑に変形を。

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内部は薄暗く、内陣奥のステンドグラスも写真で色が飛びましたが、
左に見える部分の青い色が、実際の感じでしょうか。

セザンヌはこの聖堂の毎日曜のミサに熱心に通い、いつもポケットに小銭を用意し、
物乞い達に与えていたとか。彼の葬儀は1906年10月24日にここで。



緑と金色に装飾されたオルガンがあり、その向かいの壁には同じ形の装飾が。
       
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聖堂入り口の右手にある八角形の洗礼堂も、やはり後の時代の手が
加わっていますが、フォロ・ロマーノの跡に4~5世紀に作られたものだそう。

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真ん中には古い形の彫り込まれた浴槽部分があり、当時の洗礼の様式は
すっぽりと水に浸かる事を示していますが、
洗礼前はまだキリスト教徒ではない訳で、夜に洗礼が行われたのだとか。
      


壁に残るフレスコ画の一部。 他は余りにも暗くて大ブレ。

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身廊左側の壁の礼拝堂。 正面にある3体の彫像は、聖女の名前を
忘れましたが、怪獣に食べられたのを、持っていたナイフでお腹を切り開き、
無事脱出に成功したのだとか、はい。

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◆ 追記 
怪獣ドラゴンに食べられたものの、後無事に脱出に成功した聖女の名は、
聖マルゲリータとcuccilaさんに教えて頂きました。
彼女が聖女になった謂れについてはこちらに。
http://d.hatena.ne.jp/cucciola/20100209/1265723074
       


で、その横壁に素晴らしいテンペラの祭壇画。

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実はこの聖堂には「燃える茨の祭壇画」というニコラ・フロマンのテンペラ画の
傑作があるというのに、戻って見たガイドブックの写真とはまるで違い、
大いに焦りましたが、どうやら現在は修復中と判明。
 
見た祭壇画は北の作家の香りが漂う、が名前も知る事が叶いませんで。
実際見る時は、半分ガイドの説明に耳を傾けながら眺め、写真を撮り、
これだけ素晴らしいのは後で探せる、とタカをくくり、アホは質問もしませんで!



大聖堂の広場に面した外壁、古さが窺えます。

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大聖堂の前の広場の向かい側には、大学の法学部。

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セザンヌは大学入学資格試験バカロレアに合格し、ここに1年通ったそうですが、
それ以前からデッサン学校に通い出していて、結局弁護士や司法官免許取得の
道をやめ、父親の銀行を手伝い、3年ほど後にパリに行ったのだそう。



道を少し南に行き、左手奥に見えるのが17世紀の元の大司教館で、
現在はタペストリー・綴れ織り美術館であり、
毎年夏、ここでクラッシックの歌唱コンクールが開催されるとか。
 
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細い緩やかな道を南に下って行きます。
旧市街の中心に当たるこの辺りは、両側ともに店が立ち並び、      
薄紫の下がるポスターは、夏の国際歌唱祭のお知らせ。
      
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色鮮やかな南仏独特の布製品が並び、じっくり見たくてウズウズ。
ですが、やはりこのエクスの街の布の色は、
鮮やかではあってもアルルの派手さとは一味違うのですね。

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色柄に塗り分けられた蝉の大小が見えますが、
プロヴァンスでは蝉は「ポルタ・フォルトゥーナ・幸運を運ぶ」縁起ものと。



道の向こうに、時計塔が見えて来ます。

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という所で、n.2 エクサン・プロヴァンス・セザンヌと学術都市の香り に。


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・ n.2 南仏 カマルグ ・ 野生の大平原と、民衆信仰と

引き続き有難うございます!
南仏カマルグの海辺の町サント・マリー・ド・ラ・メールのご案内を続けます。

毎年5月24~25日に行われるお祭りの様子をガイドブックの写真でどうぞ。
 
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説明によると、ヨーロッパ中からジプシー達が彼らの黒い聖女サーラの
お祭りに集まり、24日はサーラの像が海に浸かるまで行き、
25日には、2人のマリア像もこの様に海に運ばれるのだそう。



サント・マリー・ド・ラ・メール教会正面も、物見の塔のついた要塞風。

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古い教会を見た後、昼食を食べに皆それぞれに仲間と良さそうな所を探します。
       
せいぜい2階建ての低い家並みが、細い迷路式の路地を挟んで立ち並び、
土産物店とレストランで埋まっています。

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写真には殆ど人が写っていませんが、これは大嘘で、実際は観光客がウヨウヨ!
で、そういう場所は見通しが利かず、やむを得ず人のいない場所を撮っている訳で。

イタリアの例えばヴェネツィアのムラーノ、ブラーノ等を想像して頂くと感じが
良く似ていますが、ちょっと香辛料が違う、とお考え下さいませ。
時間があれば、じっくり土産物店も覗きたい所。 買う買わないに関わらず、
これが楽しみですよねぇ。 でもいつも急ぎ足で・・。



見かけた、「ル・ジタン・ジプシー」という馬でのカマルグ・サファリの案内。
う~ん、時間があればねぇ、馬に乗れればねぇ。

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フランスとはいえ、カマルグは大変にジプシー色の濃い地域で、
以前「ジプシー・キング」というグループが流行りましたが、
彼らはこのカマルグ出身だったですよね。
       


で仲間と選んだ場所は、やはりジプシー色の濃いレストランで、
火の見える窯があり、カマルグのハートがついた十字架もあり、

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写真省略しましたが、黒牛の頭部はく製もあり、
年に4回行われるという闘牛のポスターも見え、但しスペインと違い殺傷せず、
角の間の花飾りを取るのだとか。

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期待に、空腹に満ちて待ったお昼は、小イワシの焼いたのに、ペペロナータ・
ラタトゥイユ、ご飯、またはパエーリャの魚介と鶏のミスト、グラス1杯のビール、
これで12エウロぐらいだったと。

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焼きたてのイワシも、ペペロナータもとても美味しかった!
今回のプロヴァンスでの唯一の食べ物写真で、これも、撮って!という希望が
あったからで、いつもは即お口に、という慌ただしさでしたぁ。



サント・マリー・ド・ラ・メールという地名だから、きっと海が見えるに違いない、
shinkai見に行こう! とエレオノーラがバスの時間直前に言いだし、
よっしゃ、と大急ぎで、こちらだろうという方角に狭い道の観光客をかき分け進み、
遂に道の向こうに見て納得。
       
これは戻りのバスの窓からの一瞬に。
例え隙間からの眺めでも、海は、魔力に満ちていません?!

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町の端をぐるっと迂回して来た道を戻りますが、
こんな風に要塞兼教会が聳えているのが望めました。

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古代中世には、聖人聖女たちが海からやって来ましたが、
脅威のイスラム人もやはり海から来たのでしたね。



昼食後には雨もやみ、時に陽も射すお天気となり、
たくさんのピンク・フラミンゴを見る事ができました。

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干潟の広がるカマルグ一帯は国立自然公園でもあり、狩猟や植物収集が
禁止され、塩性植物の宝庫であり、そして約400種の動物が棲息しているそう。
少なくとも323種程の鳥たちがいて、渡り鳥の休憩地としてヨーロッパで最大級。

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シロサギ、アオサギ、コウノトリなどは一般的で、アカサギ、オオシロサギなども。
そして冬には15万羽以上のカモもやって来るそう。
他には、コガモ、ヘラサギ、ダイシャクシギ、オナガカモ、クロガモ、の名が
挙がりますが、やはり主役はピンク・フラミンゴ。



ピンク・フラミンゴは子供の時は白い羽なのが、食料にする干潟の海老のせいで
赤い羽になるのだとか。 

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一時巣を作らない数年間があったとかで、原因研究もされ、新しい土地も
確保され、現在は3万羽以上が、夏に北アフリカからやって来るそう。
夕方、列になって飛ぶ美しい姿は、カマルグならではとの事!



ピンク・フラミンゴと並ぶカマルグのもう一つの名物は、
カマルグ・I Camrguesとズバリその名で呼ばれる白馬。

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白からグレイの毛皮を持つ、少し小柄の耐久力に優れた種で、
黒牛の群れの管理や観光客の遠足に働きます。

最初に飼育したのはジューリオ・チェーザレ(シーザー)と言われ、
ナポレオンは軍隊に徴用、その耐久力と勇気に褒め言葉を惜しまなかったと。



背中にトキが乗馬しているのを、実際に見れて満足ですが、
馬達が平原の中を歩く時に飛び立つ昆虫類を捕捉するのだそう。

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道脇の溝にはまり込んだお車。 狭い道のカーヴで、この2日前に
大被害のあった大雨での事故でしょうか。

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昨年の私めの、免停1ケ月の痛い思いを忘れぬためにも!



こちらは白い馬と共に有名な、カマルグの黒い牛。

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スペインの闘牛の牛の角が前に向かって生えるのに対し、角が上に向かって
生えるのが特徴とか聞きましたが、スペインの牛よりも攻撃的で、
生後1年経った時に焼き印を押すのだそう。

こうして見る姿は遠くからでも雄々しく、やはり怖そう!
こんなのが前からドドドドッと来たら? 来る前にとっとと逃げますよねぇ。
       
      

広い広い大平原のカマルグ、動物達もいろいろ見れ、満足して戻ります。
フランスはやはり広~~い!!

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・ n.1 南仏カマルグ ・ 野生の大平原と、民衆信仰と

こちらは急に暑くなり、テントを下し鎧戸も殆ど閉め、窓も閉め切り、
薄暗い部屋の中でゴキブリ生活中ですが、・・それでも暑いぃ!!

こんな時 目に心地よいのはすっきりの大平原、しかも野性味満点、
白馬や黒牛、ピンクのフラミンゴがたくさん棲息、南仏プロヴァンスの中でも
とりわけ南に位置するカマルグ・Camargue一帯と、
民衆信仰の色濃い、古い教会のあるサント・マリー・ド・ラ・メール・
Saintes Maries de la Merを今日はご覧頂きますね。

少し写真が多くなりましたので(見せたがりや!)2回に分け、
ごゆっくり楽しんで頂きたいと思います。 ではどうぞ!

カマルグにはニーム・Nîmusから行き、戻りにアルル・Arlesに寄りましたが、
写真は南に下る高速からの眺め。

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地図をどうぞ。

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カマルグ地帯は、ローヌ河の三角州が地中海に押しだされ、一方逆に海が
入り込んでの湿地帯で、約800平方キロメーターの広さ。
一番海側にサント・マリー・ド・ラ・メールの町が見えますが、この町は中世には
海から数キロ離れていたのが現在はこの通り海に接し、
逆に18世紀に河口に建設された灯台が、現在は海岸から5K内とか、
絶えず地形は動いているようです。

蛇足ながら、サント・マリー・ド・ラ・メールから北西に見える線を引いた
エーグ・モルト・Aigues Mortesは訪れませんでしたが、
ここは中世が今に残る素敵な町のようで、城壁に囲まれ有名な古い塔も。
血生臭い話はさて置き、ここの塩田はローマ期から既に有名で「白い金」として流通、
現在なお年に何百万トンもの生産だそうで、私もアルルで見つけ買って戻りました。
はい、「白い金」と聞くと、なお一層美味しい味の塩に感じま~す、はは。



南に向かい、 ほら、水田が広がります。
懐かしい眺めですが、植えが雑というか、すぐ隣には麦秋が見えたりで、
少し不思議なイメージ。

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ラヴェンダーの花も咲きだして。

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道路標識の一番上に見えるアルバロン・Albaronという土地は海抜4,5m.
カマルグ一帯で一番高いのだそう。

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Giraud(発音分かりません)の塩田も、エーグ・モルトと並び有名なのだと。
真ん中に、我々の向うサント・マリー・ド・ラ・メールが。



いよいよカマルグ一帯に入り、白い馬たち、黒い牛、水田を飛び交う鷺も見え、
なんとなしにウキウキ。

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水は塩分を含んでいるものの稲作は可能で、水田面積は2万ヘクタールも。

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大快晴だったのが、雲の動きが激しくなり、空模様が一転ニ転。
遂に町の少し手前から大粒の雨が降リだし、あ~あ!

平原に点在するホテルは、牧場兼なのでしょう、
厩舎が見え、馬での野生動物や平原探訪が売りものらしく、

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部屋の作りも、馬や牛の世話をする牧人たち、ガルディアン・Gardianの住んだ
かっての質素な小屋、平屋で床は叩き土間、を模したもの、または改装したものと。



ハートのついた十字架はカマルグのシンボルだそうで、町入り口のロータリーにも。

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いよいよ町の中心についた所で、昼食に戻るらしいガルディアンたち数人が
馬で行くのに出会いました。

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若い女性も1人混じり、かなりの驟雨の中をパカパカと。
馬のお尻にかなり大きな焼き印!



サント・マリー・ド・ラ・メールの名を冠された教会が町の中心広場に。
       
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6世紀に、当時既にあった崇拝所に建設というこの教会ですが、
中世にイスラムの襲撃に対し要塞化されたもので、とりわけ後陣部分は
まさに城塞を思わせます。
       


外側は壁が白く、修復されたのでしょうが、内部は一転して窓も小さく薄暗く、
煤けてなお黒く、いかにも中世初期の建設を偲ばせます。

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照明器具のお陰で様子も見え、写真は露出を上げ明るめに写っていますが、
かっては殆ど真っ暗だったのに違いなく、いつもの教会内部とは印象が違い。



舟に乗ったマリア像が見えますが、教会の起源の謂れそのものが民間伝承に
よるもので、正式にヴァティカンから認められた物ではないと言います。
 
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お話は紀元40年頃にジェルサレムを追放された人々の内、聖母マリアの姉妹
ヤコブのマリア、使徒ヤコブとヨハネの母マリア、そして彼女達の多分召使の
エジプト人のサーラ・Sara達が櫂も帆も食料もなしの舟でここに辿り着き!
キリスト教を広めつつ、ここで亡くなった、と言い、
    
とりわけサーラはこの地でジプシー達の守護聖人とされ、毎年5月24~25日に
かけて像が海に入るお祭りが行われ、世界中から熱狂的信者のジプシーが
集まるのだそう。



内陣の下にクリプタに降りる入り口が見えますが、

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地下に降りると、まさに民間信仰の大きさが分かります。

黒い肌の厚く衣装を着せられた女性像が、ジプシーの守護聖人のサーラで、
周囲はエクスボート・ex votoと呼ばれる願掛け成就の奉納物で溢れ、
暗い低い狭い地下は、灯される蝋燭の熱で暑いほど。
       
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イタリアでも、聖所とされる教会内でたくさん見かけるエクスボートですが、
この教会は黒い肌のサーラ像といい、如何にも古くからの庶民の信仰が
ぎっしり詰まっている、そんな印象を受けました。
     

という所で、カマルグ n.2にお進み願います。


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・ ポン・デュ・ガール ・ ローマ期の美しい水道橋 

今日は、2000年を経た今も、その美しい姿で我々を魅了する
ポン・デュ・ガール・Pont du Gard をご覧下さい!

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今回プロヴァンスのあちこちでローマ期の遺跡、アレーナ・円形野外劇場
なども見たのですが、ヴェローナのアレーナも、ローマのコロッセオを
見ている目には、ここにもあったか、というだけの誠に不遜な感想で・・。

ですがこの水道橋の美しさ、壮大さには 「凄い!」 とまさに感嘆!!
まだ全部済んでいない写真整理の時間稼ぎにも、ははは、
皆さんにもじっくりご覧頂きたいと思います。 ではどうぞ!


ポン・デュ・ガールはどこにあるか、地図をどうぞ。

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ニーム・Nimesの北東Vers Pont du Gard という町に印を
つけましたが、橋の位置は、南を流れるGard ou Gardon川にかかり、
水道の水源は、橋から北西にちょうど地図が切れる位置のUsesの
町近くのEureの湧き水で、
ここからニームの町に水を運んだ水道橋なのでした。


余談ですが、ちょうど地図に出る位置なのでついでに。
今回の旅のホテルは真ん中下にあるBeaucaire ・ボーケールと発音
でしょうか、この町外れの住宅街にあり、夜の散策の楽しみもなく
部屋も狭く、皆さんからも悪評タラタラでしたが、
食事はまぁまぁでしたので最後にまた少しご披露いたしますね。
      
すぐ東に位置するタラスコン・Tarscon の町では、通りすがりの
バスの窓から大きな中世のお城と教会が見え、残念でした。
イタリアと同じで、田舎の小さな町村を巡ると病みつきになるかも!



この水道橋に行く最初の予定は、初日のアヴィニョンの戻りでしたが、
われらのホテルの町を過ぎ、もう少しの所で我々のバスが事故。

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何かガンと当たる音がして道端にバスが停まり、
どうやらチェンジギアの故障か何かで、皆道端で待機。
替わりのバスが仕事を終え、迎えに来てくれるまでの1時間程を
のんびり道端で待ったのですが、まずは最初のトライ日の写真を。

馬のいる牧場風景はあれこれ見ましたが、
ロバの放し飼いというのは珍しく、

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この吊り橋式の円柱、こちら側にも円柱が2本のかっての橋は、
ホテルから朝出かけていく時、戻る時に2度程見かけ、

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バスはカステルフランコ・ヴェネトの外国旅行専門バスで、
運転手が人乗り、大型コーヒー・メーカー(自動販売式の)もついた
最新式で、若い運転手の説明が良い、可愛いと、あはは、
大おばさま方の間で大受けだったので、この事故でもだぁれも文句を
言う事なく、良い子して待ったのでした。



待った場所は、橋まで後1K程だという事でしたが、暑い午後でしたし、
誰も徒歩で行こう、とは言いだしもせず、ははは、
葡萄畑の間でせっせとお喋り。

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ヴェネトやトスカーナでも見る葡萄の木よりもずっと背が低く、
畝の脇に立つとほぼ背の高さでしょうか、
プロヴァンスの冬の名物、北西からの強風ミストラルの影響なのか、
もともとそうなのか・・。  ちいさな葡萄の房が出来かかっていました。

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一列に並ぶ、見事なオリーヴの古木。

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幸いな事に、バスが停まった道端の斜め向かいに農家直販の
果物店の小屋があり、

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一人が箱ごとサクランボを買って皆に振舞ってくれ、これが大粒で
大変に甘く美味しく、あっという間に空になりました。

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店を覗くとメロンやアンズ、スイカも売っており、写真のサクランボの値段は
1K3,5エウロです。 水道橋を見に行く観光客はこの道を通りますから、
我々のみだけでなく、商売は大繁盛の様子。

後にエクサン・プロヴァンスの町の果物屋の店頭で見たサクランボの値段は、
K6エウロとなっていましたから、やはりここは安かったですね。



店の周囲にはオリーヴ畑が広がっており、木は大きな木ではなかったですが、
見ると、小さな小さなオリーヴの実があちこちに。

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という訳で、最終日の予定の最後に再度組み込まれ、
ローマ期の水道橋ポン・デュ・ガール見物が実現という次第。

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ここは現在個人所有になっているそうで、広大な土地の中に駐車場や
レストハウス、博物館等があり、まず駐車料金を払わないと
近寄れない仕組みだそう。
バス一台40エウロとか聞きましたが、博物館などはまた別料金と。



レストハウスにあった模型の写真、ちょうど真ん中の継ぎ目が残念ですが、
手前の白い大きなのがレストハウスで、
ぐるっと回り込んで橋に近づく仕掛けです。

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橋の右手に、かなりの長さで橋の遺物が続いているのが分かりますが、
こちらの奥が水源の湧き水にいたり、
橋の左手は殆ど構築物が残っておらず、こちらがニームの街に。

土地勘が無いのと予習なしでこれを見て、どっちからどっちに水が流れた?
と質問すると、皆がてんでんばらばらの答えで、
一見左手の山が高そうでもあり、漸くに、右手から左手に流れたのだ、
と分かった次第。

実際、水源地からニームの街までの高さの差は、驚くほど低く
(覚えておらず、探しても見つからず・・、残念)
完成させたローマ人の建築技術の高さに感嘆です。




橋に向かって歩き、全景が見え始めると、皆が一斉に「おお!」「おお!!」
まさに、それしか出ないのですよ、余りの素晴らしさに驚いて。

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こんなオリーヴの古木は、案外2000年を生き抜いて、
橋の建設からも見ているのかも知れず・・、

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近寄るにつれ、徐々にせり上がるその巨大さ、美しさに、
皆が驚きの声を上げるだけ!

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道を行くと、この様に橋の中段の通りに繋がりますが、
人間の大きさから、アーチの巨大さをご想像あれ!

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橋の上から見る、川の北側の眺め。

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余りの壮大さ、高さ、美しさにあっけに取られ、感想も疑問も何にも
出ず、単純に、橋を渡っている、という感覚のみ!

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この渡れる部分の高さが、水面から22m、6mの幅、長さは142m。
見上げる2層目のアーチの高さは20mで、11のアーチ、
幅が4m、長さ242m、

この上に更に実際に水を通した部分があり、35のアーチ、
3mの幅、長さ275m。



川の南側の眺め。

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川を西から東に渡り、渡りきった角の石がこんな風にすり減っていて、
てこを使っての仕事で、ロープの当たった部分がすり減った様で、
物でも吊りあげたのかなぁ、と。

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ちゃんとガードマンがいて、上に上がろうと試みる不届き者が
いないかどうかを検問していて。



ちょっと息抜きに見上げましたら、美味しそうな果実が。
もう少しすると熟れて食べ頃になる事でしょう。

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渡りきった東からの眺め。
下層部分の太い6つのアーチ。
こうして見ると、橋の中央部分がほんの少し高めなのが
良く分かりますね。

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一番上層のアーチの上を水が流れていたわけで、水が暑くなるのを防ぐ為、
石の薄板で完全に覆われ、所々に開けた穴で空気が通るようにし、
浄化装置部では清掃をするために、時に空にしたり、
修繕も出来るようになっていたそう。

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北の湧き水からニームの街に水を運ぶために、こうして山を越える50kの
長さの水道橋が1世紀に造られ、
一日に2万立方の水を、4世紀まで運び続けたのですね。

その後保全されず放置されるようになると、水の石灰分が積って
完全に穴を塞ぐようにまでなったと。

9世紀頃から使い物にならなくなったこの構築の石材は、
家の建築等にも使われるようになったそうですが
18世紀に通行橋として使われる様になり、現在にまで生き残ったと。

橋の最上段のアーチの上に花火をしかけてのお祭りがあるそうで、
そのポスターも見かけましたが、さぞや素晴らしい事でしょう!
       


橋の西に戻り南に少し先に、水面近くまで降りれる場所があり、
この素晴らしい眺めを堪能し、皆が記念撮影を。

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水面から一番上の高さまでは、49mあるそう。
2000年を経て、この美しい水道橋が見れる喜び!
まさに惚れ惚れと見惚れたのでした。

最初は単に「おお!」「おお!」とのみ口走っていた皆さん、
だんだんに気持ちがほぐれて、恐ろしい事を・・。
いわく、
「こんな素晴らしいものを、ローマ人が造ったなんて・・!」
決して、我々の祖先 とは言いませんでした事を付け加えますね。
すると、間髪をいれずに、
「いや、今のローマ人の先祖が造ったなんて言うのが、信じられん!」

これは、同行の北イタリア人連中が言った事でして・・、
ローマにお住みの、イタリア人御主人を持たれる日本人奥さま方、
ローマ期の水道橋の素晴らしい呪文から、やっと逃れた挙句の戯言と
見逃してやって下さいませ、ませぇ。
私もぷっと吹き出した事は、大目に見てやって下さいませぇ!

       
◆◆◆
       
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プロヴァンスの旅の基地となったニーム近くのホテルが余り良くなかった
事は上に書きましたが、食事について少しここに。

お昼は出先で簡単に済ますので、皆さん夜が楽しみで、
戻りのバスの中で、今夜のメニューなるものが披露されます。
いわく、トーロ・カマルグ地方の黒い雄牛、のビフテキとか、
豚肉の煮込みとか、魚のスープとか、
デザートでは、ラヴェンダーのアイスクリームまでありました!

肉料理は美味しいと、皆さんしっかり食べましたが、
問題は魚のスープで、欲しがらない人も何人か。

魚のスープと言っても、鱈の入ったトマト・スープにイカの切り身、
で、このイカの身というのが厚くて、一体どんな大きさのイカ?!
という感じではありましたが、味は悪くなく私は喜んで!

食べた後、shinkaiちょっと来い!と隣のテーブルからお呼びで、
今のあのスープは魚だと思うか?とのお尋ねで、
日本人が魚食いであるのは、既に周知の様子。
魚というより、イカの味である事は間違いなし、
どんな大きさのイカかは想像できないけど、とお答し、
やはりイカなのか、と皆さん了解した様ですが、

飲んだ挙句に、イカかどうかでかなり盛り上がっていた様子。
イカかどうか分からない、というのが日本人には不思議ですがね、はは。
       
テーブルに並ぶワインは、赤とロゼで味はイマイチ、とりわけロゼは
美味しくない、と一同が決めつけ、余り美味しくない、と言いつつも
赤になじみ、2日目からは、美味しいね、になる有様。

ラヴェンダーのアイスクリームなるものは初めて食べましたが、
色は薄い緑色で、やっぱりラヴェンダーの香り?味?で、
アイスクリームの味でも、なんとなしに石鹸を食べている感じ・・。

お昼に、フランス・パンのパニーノではないものを、と
サンドウィッチを頼むと、やはりバゲットのサンドウィッチだったり!
パンはどれも美味しいので、店先を通りかかると
皆がちょいと買い込んで齧ったり、お相伴にも預かり・・。

で毎日それなりに美味しい物を食べた筈なのですが、
なんとなしにどこか欲求不満気味になり、
トマト・ソースにパルミッジャーノをタップリかけた
スパゲッティが喰いたい!と、旅先で今回初めて感じました。
       
そんなこんなで、戻りのバスの中では
イタリア万歳!の大合唱となったのでした、ははは。


あっという間に7月に突入!
暑くなって、テントを下し鎧戸を殆ど閉め、窓を閉め切っての
薄暗い中でのゴキブリ生活が始まりましたぁ。
プール体操も外のプールで爽快そのもの!
今週中には、真っ黒になる予定です。

皆さんも、お元気でどうぞ!

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