引き続き有難うございます!
サッビオネータ n.2 をご覧頂きます。
サッビオネータ n.2 をご覧頂きます。
町の中心広場の西を占めるドゥカーレ宮・Palazzo Ducale、
意外に小じんまりと小さく見えますが、中はびっしりと濃密な装飾が施された、
驚きの建物でした!
意外に小じんまりと小さく見えますが、中はびっしりと濃密な装飾が施された、
驚きの建物でした!


まずは2階のこの部屋、ヴェスパジアーノを始め、その父親、親族の
騎馬像の部屋に。
手前がヴェスパジアーノ・ゴンザーガ・Vespasiano Gonzagaで、
騎馬像の部屋に。
手前がヴェスパジアーノ・ゴンザーガ・Vespasiano Gonzagaで、

写真の右が、彼の父親ルイージ・ゴンザーガ・Luigi Gonzaga、
彼はまたロドモンテ・Rodomonteという名で知られている男。

ここで、まず彼の父親ルイージについて少しご説明を。
ゴンザーガという姓が示すように、マントヴァのゴンザーガ家の傍系に当たり、
ポー河とオーリオ河に挟まれる一帯を領土とする家の出身。
ロドモンテというニックネームは、大男で強く勇気のある事から、ボイアルド・
Boiardo やアリオスト・Ariostoの書いた「恋するオルランド」
「狂乱のオルランド」に登場する人物にあやかってとの事ですが、
両作品の間には少しこの人物に対する視線の違いがあるそう。
Boiardo やアリオスト・Ariostoの書いた「恋するオルランド」
「狂乱のオルランド」に登場する人物にあやかってとの事ですが、
両作品の間には少しこの人物に対する視線の違いがあるそう。
それはともかく、こういうニックネームを持つ傭兵隊長である事、にもかかわらず
文人たちとの交流、自らも詩を書く教養人であった事、
この血、素質が息子のヴェスパジアーノにも流れていたようですね。
文人たちとの交流、自らも詩を書く教養人であった事、
この血、素質が息子のヴェスパジアーノにも流れていたようですね。
ルイージは神聖ローマ帝国皇帝カルロ5世の下で働きながら、
1527年のローマ略奪に参加しますが、ここで2重の働きを。
つまりカルロ5世の教皇逮捕の指示に従わず、逆に教皇クレメンテ7世の
カステル・サンタンジェロからの逃亡を援け、オルヴィエート迄送り届ける事をしてのけ、
この救助への教皇からの感謝の現れが一家にとって大きな幸運を齎します。
1527年のローマ略奪に参加しますが、ここで2重の働きを。
つまりカルロ5世の教皇逮捕の指示に従わず、逆に教皇クレメンテ7世の
カステル・サンタンジェロからの逃亡を援け、オルヴィエート迄送り届ける事をしてのけ、
この救助への教皇からの感謝の現れが一家にとって大きな幸運を齎します。
叔父ピッロ・Pirroは枢機卿に任ぜられ、彼にもコロンナ家のイザベッラ・Isabella
との大きな結婚を取り持ち、
この妻の持参金で彼はトゥライエット・Traiettoの公爵、
フォンディ・Fondi(いずれもラツィオ州)の伯爵位を得ます。
との大きな結婚を取り持ち、
この妻の持参金で彼はトゥライエット・Traiettoの公爵、
フォンディ・Fondi(いずれもラツィオ州)の伯爵位を得ます。
この結婚でフォンディの城にて、1531年今回の主人公ヴェスパジアーノが誕生、
彼が、ヴェスパジアーノ・ゴンザーガ・コロンナと名乗る所以ですが、
父親ルイージは翌年戦時中に32歳の若さで死亡。
彼が、ヴェスパジアーノ・ゴンザーガ・コロンナと名乗る所以ですが、
父親ルイージは翌年戦時中に32歳の若さで死亡。
母親イザベッラは大変性格の強い女性だったようで、夫の亡き後
息子ヴェスパジアーノを伴い夫の家に来たものの、舅や夫の兄弟と折り合わず、
息子を連れナポリに戻りじきに再婚、
息子ヴェスパジアーノを伴い夫の家に来たものの、舅や夫の兄弟と折り合わず、
息子を連れナポリに戻りじきに再婚、
ヴェスパジアーノは叔母のジューリア・ゴンザーガ・Giulia Gonzagaの下で
養育され、14歳の時に教育の仕上げにスペインの宮廷に送られ、
カルロ5世の世継ぎフェリペ2世の良き友となり、培われたこの友情が
終生彼を援助する事となります。
養育され、14歳の時に教育の仕上げにスペインの宮廷に送られ、
カルロ5世の世継ぎフェリペ2世の良き友となり、培われたこの友情が
終生彼を援助する事となります。
ジューリア・ゴンザーガは世に聞こえた絶世の美女で、彼の叔母ですが、
ジューリアが13歳で結婚したヴェスパジアーノ・コロンナ、今回の我らが主人公と
同名ですが別人、33歳も年上の、しかも進行性麻痺の症状が進み、
顔面も脚も腕も不自由な男、おまけに年の違わない先妻の子イザベッラがおり、
後にイザベッラはジューリアの兄と結婚、つまり継子、継母、義理の姉妹という関係に!
が、2年もたたずに夫は死亡、彼女はその後再婚せず、殆どの人生を修道院で
終えます。 死亡は1566年53歳、その財産すべてをヴェスパジアーノに
遺したようですが、彼女自身の墓も石碑も記録も残らず、最近の推定では
有名だったその人生に比し、無名墓地に葬られ人知れずに朽ちたらしいと。
ジューリアが13歳で結婚したヴェスパジアーノ・コロンナ、今回の我らが主人公と
同名ですが別人、33歳も年上の、しかも進行性麻痺の症状が進み、
顔面も脚も腕も不自由な男、おまけに年の違わない先妻の子イザベッラがおり、
後にイザベッラはジューリアの兄と結婚、つまり継子、継母、義理の姉妹という関係に!
が、2年もたたずに夫は死亡、彼女はその後再婚せず、殆どの人生を修道院で
終えます。 死亡は1566年53歳、その財産すべてをヴェスパジアーノに
遺したようですが、彼女自身の墓も石碑も記録も残らず、最近の推定では
有名だったその人生に比し、無名墓地に葬られ人知れずに朽ちたらしいと。
という所でちょっと一息、理想の町づくりを夢見た男の顔のアップをどうぞ!

ジューリア・ゴンザーガの詳細、ヴェスパジアーノの事などcucciolaさんの記事で。
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/764986.html
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/764986.html
部屋の天井、そして装飾のフレスコ画をどうぞ。


天井の小さな格子はびっしりと装飾されているのですが、マントヴァからこの一帯、
大変に湿度が高く霧の深い事でも有名な所。
夏は気温が40度以上にもなり、冬は凍える寒さの劣悪のこの環境では、
美しい天井の装飾も救いようがないとの事。
大変に湿度が高く霧の深い事でも有名な所。
夏は気温が40度以上にもなり、冬は凍える寒さの劣悪のこの環境では、
美しい天井の装飾も救いようがないとの事。
サッビオネータという土地の名も、サッビア・砂質の土地を現わします。
隣の丸天井の太陽は、保存状態はまだましですね。

各部屋の素晴らしい装飾をどうぞ。



これは天井の装飾。 小さな小部屋ですが、木彫金泥塗りのこの重厚さ。


臨終が迫った時、ヴェスパジアーノは自分をこの部屋に運ばせたそう。
薄暗い部屋で、この天井を眺める男の胸中は如何に。
薄暗い部屋で、この天井を眺める男の胸中は如何に。
ヴェスパジアーノが、町を完全に自分の想いのままに手をつけ始めたのは1554年、
父方の祖父が4年前に亡くなり、その全財産が完全に自分の物となった23歳の時、
そして1591年に迎える自身の死迄の35年間を、この町に注ぎこみます。
父方の祖父が4年前に亡くなり、その全財産が完全に自分の物となった23歳の時、
そして1591年に迎える自身の死迄の35年間を、この町に注ぎこみます。
前記したように、1566年には叔母ジューリアの財産が、
1570年には、母親のイザベッラの死によるその財産も彼に!
1570年には、母親のイザベッラの死によるその財産も彼に!
城壁も当時の軍事から見て文句の無い造りで、小さくとも、武人文人としての
彼の理想の町造りだった訳ですね。
千人の住民の移殖、その内の100人だったかはユダヤ人を迎え、商業の発展も望み、
その名残が立派なシナゴーガに。
彼の理想の町造りだった訳ですね。
千人の住民の移殖、その内の100人だったかはユダヤ人を迎え、商業の発展も望み、
その名残が立派なシナゴーガに。
普通見るお城とか宮殿と比べ、部屋が小さめですが、それもあってか、
とにかく造りがこれでもか! と迫ります。
とにかく造りがこれでもか! と迫ります。

天井画の立派さに比べ壁に何もないのは、多分壁には綴れ織りが掛けられて
いたのでしょう。 冬の寒さを防ぐには、欠かせなかったようですし。
いたのでしょう。 冬の寒さを防ぐには、欠かせなかったようですし。


最後は、天井の飾りで木彫の家紋入り、見やすいように縦方向に。

ドゥカーレ宮からの広場の眺めと、

ポルティコの下のバールで憩う男性達。 アぺリティーヴォのオレンジ色が光ります。

そして最初に町に到着した場所、公園に戻りますが、
計画された町造りなので、通りはこんな風に真っ直ぐで、整然としていると言えば
そうなのですが、逆に味気ない、という感じも否めません。
そうなのですが、逆に味気ない、という感じも否めません。

とりわけイタリアの町は雑然としているのが特徴で、それがまた一種の味わい、
良さになっている事を思うと、この町はその意味でも特殊です。
良さになっている事を思うと、この町はその意味でも特殊です。
写真の右端に写り込んでいるのが、ガッレリーア・デッリ・アンティーキ・
Galleria degli Antichiで・・。
Galleria degli Antichiで・・。
ガッレリーアの眺めと、その先にある白い建物はジャルディーノ宮・
Palazzo Giardino. 1588年完成のこちらが、ヴェスパジアーノの私邸とでも。
こちらの1階に現在インフォメーションが。

軒蛇腹が、木製の大変に手の込んだ彫り。

こちらもなんともはや手の込んだ装飾の部屋が続き、


この壁画はローマのチルコ・マッシモで、ベン・ハー並みに戦車競走の図。
この写真の天井画の赤色が大変素晴らしかったですが、
部屋の角に写っている貝柄の形、どの部屋にもあり、どうやら、灯りをつけた場所と。


現代生活、しかも照明が施された状態の我々は、つい近年まで電気が無かった事を
忘れていて、聞いて漸くに、ああ、そうか、と気がつく退化振り!
忘れていて、聞いて漸くに、ああ、そうか、と気がつく退化振り!
余りの大宴会のご馳走に気分が疲れた感じで、気に入ったのは、この素朴で
繊細な植物柄の部屋、そして、勝手に覗きこんだ階段周り。
繊細な植物柄の部屋、そして、勝手に覗きこんだ階段周り。


こちらはどの装飾の部屋だったか覚えていないのですが、


ご寝所と聞いた部屋があり、壁の奥の両側に入り込む部分があり、ひょっとして、
と喜んで覗きに行きましたが、ほんの細長い小部屋が両奥にあるのみで、
トイレ設備はなし。やはりお丸使用だったのでしょうね。
ちょっと怖い話も含め、ヴェスパジアーノの結婚話をご披露です。
彼は3度結婚、最初の相手はディアーナ・カルドーナ・Diana Cardona.
彼女とは一目ぼれで燃え上がり逃亡、そして結婚という成り行き。
世継ぎは生まれなかったものの幸せな結婚生活、 所が傭兵隊長としての仕事に
出かけ戻って来た所で、彼女がアンニバーレ・ラニエーリ・Annibale Ranieri・何者?
との不貞を働いているとの匿名のお手紙。
彼は殺害、彼女は死体と毒の入ったコップと共に、壁の中に埋め込みに!
凄いでしょう?! これは時を経て18世紀になって分かった事だそうです。
凄いでしょう?! これは時を経て18世紀になって分かった事だそうです。
2度目の妻はスペイン王フェリペ2世の従妹のアンナ・ダラゴーナ・Anna d’Aragona、
世継ぎのルイージも含め、何人かの子が生まれます。
が、またもや彼女の不貞が発覚、修道院に逃亡しますが、やがて毒が届いたと。
世継ぎのルイージも含め、何人かの子が生まれます。
が、またもや彼女の不貞が発覚、修道院に逃亡しますが、やがて毒が届いたと。
この生まれた世継ぎのルイージは、武人として相応しくないと父親から蹴られ、
それがもとで死亡と言われていましたが、
最近の骨の研究から、父親の梅毒を受け自然死に近いとの推測発表。
それがもとで死亡と言われていましたが、
最近の骨の研究から、父親の梅毒を受け自然死に近いとの推測発表。
そうなのですね、どうやら彼は梅毒を患っていた様子で、おまけに寡黙で気難しい
性格だったといい、財産にも己の才にも恵まれたものの、女運は微笑まなかったよう。
性格だったといい、財産にも己の才にも恵まれたものの、女運は微笑まなかったよう。
マルゲリータ・ゴンザーガ・ディ・グアスタッラ・Margherita Gonzaga di Guastalla
が3番目の妻で、生まれた唯一の男子は早世。
ヴェスパジアーノは、遂に男子の世継ぎを得る事無く、2度目の結婚で生まれた
イザベッラのみが残り、亡くなる前日ナポリの貴族ルイージ・カラーファ・Luisi Carafa
と結婚していた彼女にすべての財産を遺す旨の遺言を。
イザベッラのみが残り、亡くなる前日ナポリの貴族ルイージ・カラーファ・Luisi Carafa
と結婚していた彼女にすべての財産を遺す旨の遺言を。
1531年12月6日生まれ、1591年2月26日没、60年の生涯でした。
こうして一代で築きあげたルネッサンスの夢の町ですが、彼一代で沈黙の中に沈み、
のち栄える事なく、男の夢の跡の、町のみが今も残るという次第。
のち栄える事なく、男の夢の跡の、町のみが今も残るという次第。
最後に案内されたのが、ガッレリーア・デッリ・アンティーキ、
いわば所蔵美術品を並べる、長い画廊とでも。



長さは96mで、両方の突き当たりの壁には騙し絵の円柱が描かれ、
なお長く見せるようになっており、
なお長く見せるようになっており、
壁にはすべて女性の寓意画がフレスコ画手法で描かれていますが、
現在はご覧の様に容器のみ残り、納まっていた像はありません。

画廊の窓から見下ろす庭園。

見学を終え、何やらほっとして野草の花に埋まる城壁や、

小川の様な掘の水で遊ぶカモ達を眺めます。

と、遠くから轟くエンジン音。 見るとバイク仲間の集会でもあるのか、休憩なのか、
何台ものバイクがやって来るわ、やって来る! 大型、小型、サイド・カー付き等など、
色々さまざまで、少し湿った気持ちも吹っ飛びました!


という所で、再び城壁の外の道を辿り、マントヴァに向け引き返しました。

サッビオネータへの行き方ですが、マントヴァからだけでなく、パルマからも
バスがある様ですが、マントヴァには世界遺産の町2つを組んでの割引切符がある様子。
長い説明にお付き合い下さり、有難うございました!
なんとか消化でき、上手くお伝えできましたように願っています。
なんとか消化でき、上手くお伝えできましたように願っています。
*****
ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!
*****
コメントの書き込みについてのお願い。
ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
非公開コメントをご希望の場合は、非公開で、と書いて頂くと、
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。