・ 落ち穂拾い3題 ・ キルト・巻き煙草・講演会 

イタリアの小さな町や村のご紹介がメインのこのブログなのですが、
それから漏れる小さな話題、でも埋もれさすには少し残念な話題や写真が
時にあります、・・と自分勝手に思うわけで、・・はい。

で、今日はその3つを集めてご覧頂きますね。 
題して、キルト・巻き煙草・講演会。 さて何が出ますか、どうぞ!

◆ ボスナ・キルト  
ボスナ・キルト・Bosna Quilt をご存知ですか?

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キルト展がバッサーノ・デル・グラッパであるから見に行こう、と誘われて
出かけたのはちょうど2年前の事。
メインの方は、例によりパターンの展開によるキルトでしたが、同時に
このボスナ・キルト展も開催されていて、こちらが大変興味あるものだったのです。

上の写真は、買った絵葉書のパックの物で、
抽象画的な色構成、色糸を使っての縫い をご覧下さい。



絵葉書の方は色の出が悪いので、手振れ加減ながら
まだしも色が掴める私の写真でご覧頂きますね。

「ボスナ・キルト」という名前から想像される通り、
ユーゴスラヴィアの分裂戦争でボスニアから逃げ出した女性たちが
仮の避難所で作り始めたのが起こりなのです。

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1993年にルチーア・フェイニグ・Lucia Feinig、少し発音が違うかも、
この方は画家だそう、が避難していた場所で他の女性達と共に
絶望と闘うために始めたのが最初。 で、それが生活の糧ともなり、
Bosnia Quilt Werkstatt ・ボスニア・キルト・ワークショップ? 
と名乗り現在に至っているとの事。

ご覧の通り、抽象的な平面構成の柄で、一幅の絵画にも似ています。
以前キルトに少し凝った挙句、同じパターン、既成の布柄を使うのに飽きて
刺し子に移った私めには、大変新鮮なイメージで、素晴らしいと思ったのです。

大手振れで申し訳ないですが、多色使いの作品、
これなどもちょっとアーミッシュ・キルト風の素朴ながらも新鮮なイメージ。

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赤い布のキルトは、絹布使い。
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下の写真に隣の部屋のパターン・キルトがちらっと見えますが、
イメージの違いが良く分かると思います。


2年ぶりにこれらのキルトの写真を見ながら、なんと日本の色遣いにも似て、
簡素で、広がりを持つものよ、と改めて見とれました。

色構成、布選びはLuciaが行い、縫い取りは各女性たち12名が
思い思いにするそうで、
色糸も太く、縫い目もかなり大きめで不揃い。
ですが、色糸、そして太い糸が単純な柄に良く映え、そう選んだのは正解と。

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パッチワークに限らず、こちらイタリアの女性達の手仕事をあれこれ見て思うのは、
もう断然日本女性が優れているなぁと。
手仕事の優秀さ、研究熱心さ、熱中度 など。
この展覧会場でも、日本のキルトの本や布が売られていましたが、なんとお高い!

趣味とはいえ、それ相応な作品を作るには、数をこなし手が動かないとダメですね。
が、普通一般のイタリア女性は、経済的にもまだ十分に手仕事を楽しめる
生活ではないのだろうと思いますし、
日常生活の中に入り込むには、手作り作品の値段は高いのですね。

このボスナ・キルトのお値段は今はっきり覚えていませんが、
イタリア内では高価で売れにくいだろう と思う値段でした。
つまり、作品の質を見分ける程の土壌、手仕事を見極める目が育っていないと。

サイトはこちらに。
作者や作品のあれこれがご覧になれますし、
色とか大きさの希望を伝え、作って貰う事も可能の様子。
http://www.bosnaquilt.at/ 



◆ その2の話題、 巻き煙草
暫く前、セルジョが自分で巻いたという煙草を吸っているのを見たのですが、
今回パオロの家で、夜彼が実際に巻き始めたのを見て、
待て待て、写真を撮るから、と取材協力をさせ、はは。

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戦後、喫煙者は煙草が手に入らず、拾った吸い殻をほぐし良い部分を集め、
英語辞書の紙で巻いて吸った、というのを昔読んだのが
頭のどこかに残っていたと見えます。 ははは。



こんな煙草巻き器を売っていて、セルジョが2人分調達したそうですが、
これは細巻き煙草用ですから、太巻き用もありそうですね。

で、まずフィルターを置き、

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煙草を乗せ、ちょいちょいと押さえ込みます。 使っているのは巻き紙の箱。

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クルクルッと回して調整し、

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紙を挟みこみ、

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ちょろっと舐めて紙を湿らせ、

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ああ、どことなく卑猥な写真で失礼をば!



また、クルクルッと回して、はい出来上がり!
てな調子で、翌日分を用意するのですね。

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という所で、これで道具一揃え。

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煙草 アメリカ・ヴァージニア州のプエブロ・PUEBLO、 4,7エウロ
   30g入り、これで60本巻けるそう。
紙  20枚入り、 0.5エウロ
フィルター  1エウロ  幾つ入っているのか聞き忘れましたが
       手前右のRIZLA の箱ですから、かなり入っていそう。
巻き器 5エウロ   (値段はいずれも2010年当時)

プエブロの味は、40種程ある煙草のうち、味の強さでは中間だろうと言い、
手巻きのどこが利点なのか聞きましたら、

まず市販のパック煙草より安く上がる事、そして美味しいのだと。
煙草の純粋な味が楽しめ、満足感があるので、吸う回数が大きく減るそう。
この巻き紙は一枚が1g、売っている煙草の紙は厚くて4gあり、
これが体に悪いのだ、とは彼の主張。

先回ご覧頂いたドーロの、水車小屋のカフェの隣の席で、
たまたまシニョーレが煙草を手で巻き始め、眺めていましたら、
手巻きはなかなか修練が要りそうで少し時間が掛かりました。
が、こんな玩具みたいなのがあると、夜一人遊び出来そうです。

ドーロの骨董市 ・ リヴィエーラ・デル・ブレンタの町で
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467380802.html

◆おまけ
上に少しばかり卑猥なパオロを載せましたので、実際は可愛い男なのを見て頂こうと。
奥方のジューリアに言わすと、卑猥どころか
近頃はまったく インノークオ・innocuo・人畜無害なんだとか、きゃはは。

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写真は皆で魚を食べに行ったドーロのレストランで、これで3人前だったか、
山盛りの魚のグリル。
魚が良く見えず残念ですが、手前真ん中の20cm以上あったチヌ、
片身をパオロとジューリアに分け、後は1人で食べましたが、旨かったぁ!!
前菜も各種魚貝の大盛り合わせ、パスタはポルチーニのタリアテッレ、
ワインも飲み、それで1人前が22エウロ程。

こういう美味しくて安く、しかも住宅街にあるのは観光客には探し出せませんが、
チャンスには是非お試しを!  という事で、一応住所を。
Trattoria-Pizzeria Denis
Dolo(VE) via S.Giovanni Bosco 24
tel 041.411928 火曜休み


◆ 講演会  
今月12日夜、プロセッコで有名なヴァルドッビアーデネに
作家マウロ・コローナ・Mauro Coronaの講演を聞きに。

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以前から彼のご紹介をしたいと思いつつ、なかなかチャンスが
掴めませんでしたが、今回やっと本人の写真と共にここに。
      


講演とはいえ、フリウリの歌手ルイージ・マイエロン・Luigi Maieron も一緒の
公演会で、3日ほど前にこの会を賛助のビゾール・Bisol昨年訪問した
プロセッコのワイナリーのビゾールの、宣伝担当から案内が届いたのですね。

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夜道を1人でヴァルドッビアーデネ迄はなぁ、とイタリア語の先生
アンナリーザに話すと、では一緒にとなり、
予てより実物を見たいと思っていたマウロ・コローナを見に行った、
というのが実情で。

会場は体育館に椅子を置いたもので、席を取って頂き随分近くで楽しめました。
サイトを見ると、この期間あちこちで講演会が予定されており、
もっと近くでも行われたのですが、歌の公演も付いたこの日を選んだという。

当日は、夕方から雷、稲光付きの大雨となりましたが、運転の上手い
アンナリーザの車で安心して、
マウロの実物にも、話し振りにも、歌にも大いに満足して戻りました。

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マウロ・コローナという人は、単に作家というのみならず、
登山家、木彫作家でもあり、その作品は何冊も大ベストセラーになっている、
こちらイタリアでは、とりわけ北イタリアでは有名人物なのですね。

なぜ彼を見たかったか、話を聞いてみたかったと言いますと、
彼の作品を2,3冊読んで興味を持ち、1年半ほど前の冬には
イタリア語の勉強を兼ね、自分なりに50話程も訳した事があったのです。

短編の積み重ねで、ぶっきら棒ながらも実直なその心情が良く伝わり、
彼の住むエルト、そしてフリウリの山の民の生活ぶり、
伝承の掘り起こしなどが大変面白く興味深いのです。

北イタリア出身の有名な作家には、先年亡くなった、
日本でも「雪の中の軍曹」や「雷鳥の森」等が出版されている
マリーオ・リゴーニ・ステルン・Mario Rigoni Sternがいますが、
ステルンの骨太で哲学的ともいえる重厚な作品に比べ、
マウロのそれは、庶民的で井戸端会議的な趣もあるなぁ、と。

当夜の彼の話しぶり、内容はまさに読んでいた通りのもので、
現代社会への反骨ぶりや、彼独特の人生哲学も可笑しく、
何度もアンナリーザと顔を見合わせて笑いました。

マーリオ・リゴーニ・ステルンの世界 ・ Mario Rigoni Stern
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463097952.html

マウロ・コローナの住むエルト、ロンガローネのダム災害については
ロンガローネの悲劇 ・ ダムの出水に飲み込まれた町
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462861529.html

ロンガローネ、 54年前のダム出水大災害のまとめを
https://www.italiashiho.site/archives/20170727-1.html

歌手ジージ(Luigi の愛称)の歌は、チンプンカンプンのフリウリ弁の歌詞もあり、
内容の説明によると、彼自身のお祖母ちゃんの女の人生の悲しみとか、
貧しくて移民に行ったフリウリ男の人生とか、大いにマウロの作品内容と
重なる部分があり、曲自体はカントリー調のリズム感豊かな楽しい物で、
皆が手をたたきリフレーンを歌わされたり、で盛り上がりました。

大酒飲みで有名なマウロなのですが、演壇に出てきた時点すでに
かなりやっているのが分かりましたし、話しながらも常にビールを飲み、

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後援が土地のプロセッコで有名なビゾールにも拘らず、
エルトの人間は赤ワインしか飲まない、とか、
昼間出かけたらしいビゾールの素晴らしいドゥーカ・ディ・ロッレの土地、
私も昨年案内して頂き、酸化防止剤抜きの美味しいプロセッコを頂いたのでしたが、
そこは天国かと思う程美しかったが、なんとプールがあった! 
と嘆いたりで、会場が何度もどっと沸きました。
いやいや、私もこの点はおおいに同感、なんでプールを、と思ったものですから。

ビゾールのワイナリー、ドゥーカ・ディ・ロッレの素晴らしい葡萄畑は
n.2 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526671.html

n.1 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526381.html


マウロのちょっと心にしみる一編を、拙訳ですがどうぞ。

アルコール患者療養所
何年か前、弟のリケートとお袋を中心としたやかましいせっつきに動かされ、
遂に親父をアルコール中毒患者療養所に連れて行くことに決めた。
そこに入院して2年も経たない内に再生し、水しか飲まないようになった男が
カドーレの穏やかな村の心地よい場所にある、名高いクリニックを勧めたのだ。

翌日質問もせず親父は車に乗り、後のお袋の横に座った。前の席には弟と俺。
弟が運転して9時ごろエルトを出発した。
リケートと俺は単なるお喋りに終始し、この日の目的にはひとつも触れなかった。
親父は時々どこに行くのかと聞いたが、弟は「遠足さ」とくすくす笑いながら答えた。
ロンガローネを過ぎ右手に山並みが現れると、親父はそれに気づき窓から凝視し、
「あの山は何処のだ?」と訊ねた。
「なんだって、分らないのかい? あんた、80年近くもあの山を歩いたじゃないか」
「分らん。覚えてない」真剣に答えた。 
それで、長い間一緒に狩猟に通った俺たちの山である事を説明した。
パラッツァ、ブスカーダ、チッタ、ボルガァ、そしてドゥランノの山々。
国道を走るうちに山の北斜面が見えて来ると親父は漸くに、人を寄せ付けない
険しい山頂でカモシカを追って人生の殆どを過ごした事を思い出した様に言った。
「そうだ、そうだ、今やっと思い出した」

そこで彼に今日の遠足の目的を話すと、頭は上げずに低い声で呟いた。
「家でも、俺は良い具合だったさ。お前達に何か面倒をかけたか? 
それに何で俺だけ治療されなきゃいけない? ひょっとして4人ともだろう?」
俺は親父が正しいと思った。
2軒ほどオステリーアに寄りつつ、アル中患者のためのクリニックに到着した。

紹介がすっかり済むと、失礼にあたらない様に言えば、
俺にはかなり神経質に見える若い医者が俺達を質問攻めにした。
たやすく飲む習慣やご先祖さんたちの健康について、しつこく知りたがったのだ。
病気は何もないが、飲む事については俺と弟は正直に答えた。
「コローナとメニンの両家は呑み助の家系でしたし、今も呑み助一族です」
「そうだと思いましたよ!」
心理学者は満足そうに冷笑した。
そして最後に、俺たちの家族の内に性病(マラッティーア・ヴェレエ)の
ケースはなかったかと尋ねた。
ずっと黙っていた親父が、この時になり文句を言った。
「ヴェネエだと? なにを言う」本当にこう言ったのだ。
煙草が吸いたくなっていたらしく、黙って中庭のベンチに腰を下ろしに行った。
窓から親父が見えた。
長い髭のせいか大変な年寄りに見え、いかにも悲しげで、
煙草を吸いながら山を眺めていた。

一方弟は、捜査人みたいな医者を今にも殴りつけそうだった。
なぜなら、エルトの人間はみんな酔っ払いだと決めつけられたからだが、
俺はもっと冷静にナポレオンに答えた。
「皆じゃないですよ、シニョーレ。でもブオナパルテ(良い部分)はそうです」
この失礼な奴には到底我慢出来なくなり、外に出て親父の傍に腰を下ろした。
親父は俺に煙草を一本勧め、山を見たまま囁いた。
「お前は俺を分っているだろう、ここに置いて行かないでくれ」 
ないのは涙だけだった。
家族を呼び集め、傲慢な大卒に挨拶しクリニックを出た。

俺たちはあの綺麗な湖の傍らの、穏やかな村の素敵なオステリーアに立ち寄り、
かなりの瓶を飲み干した。
長い間かってなかったほどに皆一緒に陽気で、
潤んだ親父の目の中には、何か幸福に似たものが輝いているのが見えた。
そうやって夕方近く、俺たちは歌いながら家に戻って行った。
      ***

彼の作品は、中国語では1冊出版されているのですが、日本語ではまだ。
イタリアはフリウリの山の庶民の生活の中から生まれた
マウロ・コローナの作品が、日本でも読まれるように願っています。


* お知らせ *

モーツァルトの3大オペラと言われる「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、
「コシ・ファン・トゥッテ」の台本作者、ロレンツォ・ダ・ポンテ・
Lorenzo Da Ponteについては、モーツァルト程知られていませんが、

長らく知りたかった彼の生涯について、リンクしております
「イタリア、とりわけヴェネツィア」 のペーシェクルードさんが詳細に。
なんとまぁ!と驚くほどの彼の人生についてはこちらをどうぞ!

彼の生地の   ヴィットリオ・ヴェネト ・ 町と四季と
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463847585.html


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・ ドーロの骨董市 ・ リヴィエーラ・デル・ブレンタの町で

4日間出かけて来た義理の長男の家ですが、近くのあちらこちらに出かけ、
予定していたパドヴァにもヴィチェンツァには行かなかった代わりに、
逆に思いがけない町に行け、充分に楽しんで戻りました。

で、今日はその中の一つの町、ドーロ・Dolo のご案内です。

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ちょうど夏日の始まりかという程のお天気と暑さになり、あちこちの市で
夏物衣料を買い込んだり、山盛りジェラートを食べたり!
ドーロの町では骨董市が開かれていて、大変な賑わいでしたが、

写真は、町の教会(サン・ロッコ?)の鐘楼と、ブレンタ川の流れ。



ドーロはどこにあるか、地図をどうぞ。
緑の太い線は高速で、右にメストゥレ・Mestre(ヴェネツィア本土)
左にDOVAで切れているのが、パドヴァ。

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今回行った長男の家は、真ん中下に見えるカンポノガーラ・Camponogaraにあり、
我がコネリアーノからはヴェネツィアで高速、接続を降り、ラヴェンナ方面に向かう
悪名高いロメア街道を少し下り右折し、1時間程で到着で、
ドーロはカンポノガーラからは、わずか6,5Kの距離に。



町はブレンタ川に沿って細長く続き、上の写真の教会が町のほぼ真ん中に位置し、
そのすぐ前から川越しに、南にこのお屋敷が見え、道路標識の距離が見えます、
ちゃんと写そうと思いつつ移動してしまい・・、このままに!

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ドーロの町は、リヴィエーラ・デル・ブレンタ・Riviera del Brentaと呼ばれる
ブレンタ川沿いのこの辺りの町、パドヴァ寄りのストゥラ・Straから
ヴェネツィア湾に注ぐフジーナ・Fusina迄のいわば中心に。

ブレンタ川は北のトレント辺りに源を発し、バッサーノ・デル・グラッパから
ヴェネトに入り、フジーナでヴェネツィア湾に注ぐ訳ですが、

このパドヴァ・ヴェネツィア間にはヴェネツィア貴族の別荘があちこちにあり、
その見物も含めての船下り(船上り)を楽しむブルキエッロ・Burchielloの
ツァーも有名ですが、

ヴェネツィア共和国の下に入る以前からも、この川を通っての運搬は知られており、
つまり風光明媚と共に、有益な事で有名な川沿いの町なのですね。
       


風光明媚な川沿い、というと素敵な響きで、確かに美しいのですが、
ご覧の様にドーロのこの部分でもこんなカーヴが続き道幅も狭いので、
朝夕の車の混雑は大変なんだそう。

が、日曜のこの日、川の南側では月一の骨董市が開催され、
快晴のお天気、閃く旗の下に大勢の人々!

見える四角な川沿いの建物は、スクエーロ・squeroと呼ばれる船のドック。
余りの快晴で紫外線が強く暗くなり、ご容赦を。

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一応向こう岸の並び順で見て頂き、

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最後に見えるモリーノ・デマニアーレ・MOLINO DEMANIALEと書かれたのは
かっての水車小屋で、現在はカフェとエノテカ。 後ほど中もご案内致しますね。



教会の屋根の瓦の色違い、分かりますか?
修復で追加した新しい瓦の赤色で、模様が描かれていて、

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ゆったりと流れるブレンタ川、既に夏の気配。
いつもながら、水のある風景には大いに心が寛ぎます。

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暑くて暑くて、長~~い舌を出していたワン君がやっと、川水を飲ませて貰い。

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道と川岸の差を利用した倉庫でしょうか。

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ベランダに翻るインテルの旗。 何せこの前夜にチャンピオンになったばかり!

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向こう岸に渡る橋の中間にこの水車小屋、モリーノ・デマニアーレがあり、
小屋というより、1551年にヴェネツィア共和国の造った、
かっては16もの水車が回っていたという由緒あるもの。

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ブレンタ川のこの位置がちょうど深く急流なのを利用したもので、
ヴェネツィアからこの一帯の人口増加に伴う小麦粉の需要に添って稼働を続け、
セレニッシマの崩壊後も技術革新を加えつつ、最後の粉ひき職人が
1989年に引退するまで、残った一つの水車で仕事が続いたそう。

後1996年に現在のカフェ、エノテカ、リストランテとなり、この姿を保っていて。
サイトでは、かっての姿が見れます。
http://www.molinidolo.com/index.php?id=1



という所で「骨董市」ですが、骨董というよりは、古物市と呼んだ方が正解かも!
とはいえ、ちょっとご覧にいれますね。

イタリア軍のヘルメット、第1次大戦のかな

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帯状の物はピストル入れで、上に見える輪の付いたのは、壁に打ち込む家畜繋ぎ

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銅製品

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大きなはさみ、やっとこ類。左に見えるのは、かってのスケートですが、怖い刃。

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木製の物は、これ全て鉋。
 
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川の向こう岸を、クラクションを鳴らしながら、クラシック・カーの一隊が
走りぬけて行きます。

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かなりの数があったのですが、木や旗や人々で、なんとかクラッシックカーと
分かるのは、この2枚のみ。



そしてイタリアの日曜に付きものの、自転車で行くグループ。

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ごった返す中を通り抜け、裏道を通り戻る途中で見た車のリアウインドウで、
睨みを利かすデブ猫ちゃん。

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裏道の隙間から見える、市の様子、川向こうの教会と鐘楼と。

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そして、水車小屋のある橋の眺め。 真ん中左が水車小屋。

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ちょうど橋の真ん中にあった錆さびの古自転車、ハンドルの握りが木製。

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かっての水車小屋、現在のヴィンカフェ・Vincaffe`、ワインとカフェね。
20年ほど前までは現役の水車だったので、今も博物館式に色々な仕掛けが残され、

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すり減った床、木の階段、梁の天井、なかなかの趣。



そしてエノテカと名乗るだけあって、かなりのワイン瓶も。

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店の中はかなりの賑わいで。

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細長い建物を通り抜け、奥の部分には、道との連絡通路があり、

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水音が響き風が吹き抜け、唯一残った水車は回り続け。



ドアに張られた1964年の店の開店時間の取り決めやら、すり減った床の木目の
素晴らしさを眺めつつ、夏の先取り休暇だなぁ、という気分で、アぺリティーヴォを!

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白い花越しに回る水車、

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記念撮影中のカップルの男性。
  
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美味しいアぺリティーヴォを楽しみ、お昼を食べに家に戻ったという様子でした。



で突然に猫ちゃんの登場ですが、これはジボ・Giboという名の長男の家の猫。

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暫く前から猫がいるのは聞いていたのですが、今回初対面して驚き、
というのもこのジボ、私のかってのケン君にそっくりなのです!
体の柄は少し違うのですが、なんとまぁ、鼻のホクロぽっちりで。

4人のうち、ケンのみがイタリアに来れなかったのですが・・。
ジボは夜、私のベッドに来てゴロゴロとのけぞり、何年振りかに猫殺しshinkaiの
本領を発揮でき、・・ああ、とても幸せでしたぁ!!

***

わずか4日間でしたが、猫あり、PCなしの脱日常の毎日、テレヴィも眺め早寝の毎日、
そのくせ起きるのは遅く、食事の支度無しで、なんとなしに家が恋しくなった貧乏性!
2年半洗った事のない車も洗いに行き、ははは、最新の様々な家の設備類にも驚き、
昨夕戻り、再びPCの前に。

時に出かけ、新しい場所を知るのも嬉し、そして家に戻るのもまた嬉し。
   
よっしゃ、あと3週間経ったら、また出かけるぞぅ!

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・ n.2 サッビオネータ ・ ルネッサンス期の理想の町、世界遺産登録

引き続き有難うございます!
サッビオネータ n.2 をご覧頂きます。

町の中心広場の西を占めるドゥカーレ宮・Palazzo Ducale、
意外に小じんまりと小さく見えますが、中はびっしりと濃密な装飾が施された、
驚きの建物でした!

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まずは2階のこの部屋、ヴェスパジアーノを始め、その父親、親族の
騎馬像の部屋に。
手前がヴェスパジアーノ・ゴンザーガ・Vespasiano Gonzagaで、

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写真の右が、彼の父親ルイージ・ゴンザーガ・Luigi Gonzaga、
彼はまたロドモンテ・Rodomonteという名で知られている男。

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ここで、まず彼の父親ルイージについて少しご説明を。
ゴンザーガという姓が示すように、マントヴァのゴンザーガ家の傍系に当たり、
ポー河とオーリオ河に挟まれる一帯を領土とする家の出身。

ロドモンテというニックネームは、大男で強く勇気のある事から、ボイアルド・
Boiardo やアリオスト・Ariostoの書いた「恋するオルランド」
「狂乱のオルランド」に登場する人物にあやかってとの事ですが、
両作品の間には少しこの人物に対する視線の違いがあるそう。

それはともかく、こういうニックネームを持つ傭兵隊長である事、にもかかわらず
文人たちとの交流、自らも詩を書く教養人であった事、
この血、素質が息子のヴェスパジアーノにも流れていたようですね。

ルイージは神聖ローマ帝国皇帝カルロ5世の下で働きながら、
1527年のローマ略奪に参加しますが、ここで2重の働きを。
つまりカルロ5世の教皇逮捕の指示に従わず、逆に教皇クレメンテ7世の
カステル・サンタンジェロからの逃亡を援け、オルヴィエート迄送り届ける事をしてのけ、
この救助への教皇からの感謝の現れが一家にとって大きな幸運を齎します。

叔父ピッロ・Pirroは枢機卿に任ぜられ、彼にもコロンナ家のイザベッラ・Isabella
との大きな結婚を取り持ち、
この妻の持参金で彼はトゥライエット・Traiettoの公爵、
フォンディ・Fondi(いずれもラツィオ州)の伯爵位を得ます。

この結婚でフォンディの城にて、1531年今回の主人公ヴェスパジアーノが誕生、
彼が、ヴェスパジアーノ・ゴンザーガ・コロンナと名乗る所以ですが、
父親ルイージは翌年戦時中に32歳の若さで死亡。

母親イザベッラは大変性格の強い女性だったようで、夫の亡き後
息子ヴェスパジアーノを伴い夫の家に来たものの、舅や夫の兄弟と折り合わず、
息子を連れナポリに戻りじきに再婚、
ヴェスパジアーノは叔母のジューリア・ゴンザーガ・Giulia Gonzagaの下で
養育され、14歳の時に教育の仕上げにスペインの宮廷に送られ、
カルロ5世の世継ぎフェリペ2世の良き友となり、培われたこの友情が
終生彼を援助する事となります。

ジューリア・ゴンザーガは世に聞こえた絶世の美女で、彼の叔母ですが、
ジューリアが13歳で結婚したヴェスパジアーノ・コロンナ、今回の我らが主人公と
同名ですが別人、33歳も年上の、しかも進行性麻痺の症状が進み、
顔面も脚も腕も不自由な男、おまけに年の違わない先妻の子イザベッラがおり、
後にイザベッラはジューリアの兄と結婚、つまり継子、継母、義理の姉妹という関係に!
       
が、2年もたたずに夫は死亡、彼女はその後再婚せず、殆どの人生を修道院で
終えます。 死亡は1566年53歳、その財産すべてをヴェスパジアーノに
遺したようですが、彼女自身の墓も石碑も記録も残らず、最近の推定では
有名だったその人生に比し、無名墓地に葬られ人知れずに朽ちたらしいと。



という所でちょっと一息、理想の町づくりを夢見た男の顔のアップをどうぞ!

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ジューリア・ゴンザーガの詳細、ヴェスパジアーノの事などcucciolaさんの記事で。
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/764986.html       



部屋の天井、そして装飾のフレスコ画をどうぞ。

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天井の小さな格子はびっしりと装飾されているのですが、マントヴァからこの一帯、
大変に湿度が高く霧の深い事でも有名な所。
夏は気温が40度以上にもなり、冬は凍える寒さの劣悪のこの環境では、
美しい天井の装飾も救いようがないとの事。

サッビオネータという土地の名も、サッビア・砂質の土地を現わします。



隣の丸天井の太陽は、保存状態はまだましですね。

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各部屋の素晴らしい装飾をどうぞ。

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これは天井の装飾。 小さな小部屋ですが、木彫金泥塗りのこの重厚さ。

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臨終が迫った時、ヴェスパジアーノは自分をこの部屋に運ばせたそう。
薄暗い部屋で、この天井を眺める男の胸中は如何に。

ヴェスパジアーノが、町を完全に自分の想いのままに手をつけ始めたのは1554年、
父方の祖父が4年前に亡くなり、その全財産が完全に自分の物となった23歳の時、
そして1591年に迎える自身の死迄の35年間を、この町に注ぎこみます。

前記したように、1566年には叔母ジューリアの財産が、
1570年には、母親のイザベッラの死によるその財産も彼に!

城壁も当時の軍事から見て文句の無い造りで、小さくとも、武人文人としての
彼の理想の町造りだった訳ですね。
千人の住民の移殖、その内の100人だったかはユダヤ人を迎え、商業の発展も望み、
その名残が立派なシナゴーガに。



普通見るお城とか宮殿と比べ、部屋が小さめですが、それもあってか、
とにかく造りがこれでもか! と迫ります。

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天井画の立派さに比べ壁に何もないのは、多分壁には綴れ織りが掛けられて
いたのでしょう。 冬の寒さを防ぐには、欠かせなかったようですし。

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最後は、天井の飾りで木彫の家紋入り、見やすいように縦方向に。
     
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ドゥカーレ宮からの広場の眺めと、

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ポルティコの下のバールで憩う男性達。 アぺリティーヴォのオレンジ色が光ります。
 
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そして最初に町に到着した場所、公園に戻りますが、
計画された町造りなので、通りはこんな風に真っ直ぐで、整然としていると言えば
そうなのですが、逆に味気ない、という感じも否めません。

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とりわけイタリアの町は雑然としているのが特徴で、それがまた一種の味わい、
良さになっている事を思うと、この町はその意味でも特殊です。

写真の右端に写り込んでいるのが、ガッレリーア・デッリ・アンティーキ・
Galleria degli Antichiで・・。



ガッレリーアの眺めと、その先にある白い建物はジャルディーノ宮・
Palazzo Giardino. 1588年完成のこちらが、ヴェスパジアーノの私邸とでも。
こちらの1階に現在インフォメーションが。

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軒蛇腹が、木製の大変に手の込んだ彫り。

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こちらもなんともはや手の込んだ装飾の部屋が続き、
  
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この壁画はローマのチルコ・マッシモで、ベン・ハー並みに戦車競走の図。
       


この写真の天井画の赤色が大変素晴らしかったですが、
部屋の角に写っている貝柄の形、どの部屋にもあり、どうやら、灯りをつけた場所と。

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現代生活、しかも照明が施された状態の我々は、つい近年まで電気が無かった事を
忘れていて、聞いて漸くに、ああ、そうか、と気がつく退化振り!


余りの大宴会のご馳走に気分が疲れた感じで、気に入ったのは、この素朴で
繊細な植物柄の部屋、そして、勝手に覗きこんだ階段周り。

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こちらはどの装飾の部屋だったか覚えていないのですが、

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ご寝所と聞いた部屋があり、壁の奥の両側に入り込む部分があり、ひょっとして、
と喜んで覗きに行きましたが、ほんの細長い小部屋が両奥にあるのみで、
トイレ設備はなし。やはりお丸使用だったのでしょうね。


ちょっと怖い話も含め、ヴェスパジアーノの結婚話をご披露です。
彼は3度結婚、最初の相手はディアーナ・カルドーナ・Diana Cardona.
彼女とは一目ぼれで燃え上がり逃亡、そして結婚という成り行き。

世継ぎは生まれなかったものの幸せな結婚生活、 所が傭兵隊長としての仕事に
出かけ戻って来た所で、彼女がアンニバーレ・ラニエーリ・Annibale Ranieri・何者?
との不貞を働いているとの匿名のお手紙。
彼は殺害、彼女は死体と毒の入ったコップと共に、壁の中に埋め込みに!
凄いでしょう?! これは時を経て18世紀になって分かった事だそうです。

2度目の妻はスペイン王フェリペ2世の従妹のアンナ・ダラゴーナ・Anna d’Aragona、
世継ぎのルイージも含め、何人かの子が生まれます。
が、またもや彼女の不貞が発覚、修道院に逃亡しますが、やがて毒が届いたと。

この生まれた世継ぎのルイージは、武人として相応しくないと父親から蹴られ、
それがもとで死亡と言われていましたが、
最近の骨の研究から、父親の梅毒を受け自然死に近いとの推測発表。

そうなのですね、どうやら彼は梅毒を患っていた様子で、おまけに寡黙で気難しい
性格だったといい、財産にも己の才にも恵まれたものの、女運は微笑まなかったよう。
       
マルゲリータ・ゴンザーガ・ディ・グアスタッラ・Margherita Gonzaga di Guastalla
が3番目の妻で、生まれた唯一の男子は早世。

ヴェスパジアーノは、遂に男子の世継ぎを得る事無く、2度目の結婚で生まれた
イザベッラのみが残り、亡くなる前日ナポリの貴族ルイージ・カラーファ・Luisi Carafa
と結婚していた彼女にすべての財産を遺す旨の遺言を。

1531年12月6日生まれ、1591年2月26日没、60年の生涯でした。

こうして一代で築きあげたルネッサンスの夢の町ですが、彼一代で沈黙の中に沈み、
のち栄える事なく、男の夢の跡の、町のみが今も残るという次第。



最後に案内されたのが、ガッレリーア・デッリ・アンティーキ、
いわば所蔵美術品を並べる、長い画廊とでも。

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長さは96mで、両方の突き当たりの壁には騙し絵の円柱が描かれ、
なお長く見せるようになっており、



壁にはすべて女性の寓意画がフレスコ画手法で描かれていますが、
現在はご覧の様に容器のみ残り、納まっていた像はありません。

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画廊の窓から見下ろす庭園。

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見学を終え、何やらほっとして野草の花に埋まる城壁や、

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小川の様な掘の水で遊ぶカモ達を眺めます。

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と、遠くから轟くエンジン音。 見るとバイク仲間の集会でもあるのか、休憩なのか、
何台ものバイクがやって来るわ、やって来る! 大型、小型、サイド・カー付き等など、
色々さまざまで、少し湿った気持ちも吹っ飛びました!

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という所で、再び城壁の外の道を辿り、マントヴァに向け引き返しました。

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サッビオネータへの行き方ですが、マントヴァからだけでなく、パルマからも
バスがある様ですが、マントヴァには世界遺産の町2つを組んでの割引切符がある様子。

こちらのサイトに、バス便などの説明もありますのでご覧下さい。
http://www.japanitalytravel.com/sekaiisan/mantova_sabbioneta.html

長い説明にお付き合い下さり、有難うございました!
なんとか消化でき、上手くお伝えできましたように願っています。

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・ n.1 サッビオネータ ・ ルネッサンス期の理想の町、世界遺産登録

今日はルネッサンス期16世紀に、自分の理想とする町づくりに励み、
町は出来たものの後継ぎに恵まれず、結局一代限りに終わった男の夢の跡、
マントヴァと共に世界遺産指定の町 サッビオネータにご案内です。

バスから写した、往きのヴェネト平野の朝も大変美しかったので、ちょっとご覧を。
コネリアーノから高速に入りトゥレヴィーゾに向かう霧の景色。

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6時出発、日の出があったばかりで、肉眼ではもっと明るく、
太陽も丸く見えたのですが・・。



観光バスの車窓が高いのと運転の心配が無いので、霧の風景が大いに楽しめ、
コネリアーノから一路南に。 昨年よりヴェネツィアを迂回し、ミラノ方面への
高速と直接に接続しましたので大幅に時間短縮、パドヴァの手前に。

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この辺りになると霧が薄れ、日が射しはじめ・・、



後ろに見える特徴ある山は、ダンテと並ぶイタリアの大詩人ペトラルカが晩年に住み、
現在は博物館として家が残る、アルカ・ペトラルカ・Arqua Petrarcaの近く。

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n.1 アルカ・ペトラルカ再訪 ・ 中世詩人の穏やかな地、家、骨董市

n.2 アルカ・ペトラルカ再訪 ・ 中世詩人の穏やかな地、家、骨董市




ヴィチェンツァからヴェローナ辺り。 パドヴァより南に広がるコッリ・エウガネイ・
Colli Euganeiの丘が望め、高速からの眺めも大変美しい地域。
耕された畑の畝も鮮やかに。

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ヴェローナで左折し、今度は高速を南に。
そう、ヴェローナから16K程でしょうか、ここでロンバルディア・Lonbardia州に入り、
マントヴァ・Mantovaは東に延びた州の端っこ当たります。
あちこちに広がる菜の花畑。

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マントヴァ到着。 ミンチョ河が湖となって広がる、町の北からの眺めを。
見難い写真で失礼しますが、観光バスの高さでこそ見れるこの景観、
降りると、この高さの位置からは写せませんのでご容赦を。

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城と塔と鐘楼との重なりが何とも見事で、町への入り口の美しさとしては、
最高の内の一つではないかと。

お昼にまたこの城の前を歩いて通り、その時の写真は既にミンチョ下りで
見て頂きましたが、午後は逆光になりますので、
この位置からのお城の写真を色良く撮りたい方、
是非朝の内にお出かけ下さいませませ!

ミンチョ河下り ・ 新緑のみどり、緑の中を
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464090098.html

n.1 マントヴァ・Mantovaと、サン・ベネデット・ポー・San Benedetto Po
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464089512.html

n.2 マントヴァ・Mantovaと、サン・ベネデット・ポー・San Benedetto Po
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464090033.html


地図をどうぞ。 今日ご案内の、マントヴァと共に世界遺産に指定されている
サッビオネータ・Sabbionetaはどこにあるかですが、
マントヴァの南西33K、パルマ・Parmaからは30Kの位置に。

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紫の点線が州境で、南のパルマやフェッラーラ・Ferrareは
エミーリア・ロマーニャ州・Emilia Romagnaになるのですね。

サッビオネータの町を作ったヴェスパジアーノ・ゴンザーガ・コロンナ・
Vespasiano Gonzaga Colonnaは、マントヴァのゴンザーガ家の傍系で、
同じく公爵位。

ですが夢儚く彼一代で消えたわけで、それもあってかガイドの女性は
マントヴァに対してのライヴァル意識むき出しに、
我らが町の祖ヴェスパジアーノ公、と熱く熱く語ってくれたのでした。

彼ヴェスパジアーノについては後ほどまたお話いたしますが、
このサッビオネータの土地は、当時ロンバルディアをを領有していた
スペインの第一線の要塞地でもあり、
単にルネッサンスの夢の町 とは言えない複雑な趣もあるのです。
   
パルマの街 10の 見るべきもの、すべきもの
http://www.italiashiho.site/archives/20181125-1.html

    

マントヴァを過ぎ田舎道をゆるゆるとバスは進み、
大きな教会が見えると、! と期待するのですがなかなか・・。
  
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とはいえ、約3時間程で着いた時は、やはり独特の城壁に囲まれているので
すぐに分かりました。
  
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町の東の白い門は インぺリアーレ門・Porta Imperiale、町地図1

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もう一つの町の門 ヴィットーリア門・Porta Vittoria、町地図2
こちらは見ませんでしたので、パンフレットからの写真で。
  
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町の地図をどうぞ。 全体は6角形の星型とでも言えましょうか、
北からの道がぐるっと東南の角を曲がり、南側のPに赤い四角をつけた道から入り、
3.の横で我々は降車。
かっての町の入り口は、上の写真の東西2つの門だけだったのですね。

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今日の見学順に地図の番号を。
6.テアトロ・アッルアンティーカ・Teatro all'Antica
9.サンタ・マリーア・アッスンタ教会・Chiesa Santa Maria Assunta
7.ドゥカーレ宮・Palazzo Ducale
3.ジャルディーノ宮・Palazzo Giardino
4.ガッレリーア・デッリ・アンティーキ・Galleria degli Antichi

以上の他 
11.シナゴーガ・Sinagoga(ユダヤ教会)
8. インコロナータ教会・Chiesa dell'Incoronata 等
U. 旅行案内所。



南からの道を入った所。 多分この壁は修復された物と思うのですが、
右に続く白い壁は3.のジャルディーノ宮ですから、城壁内の防御壁だったと。

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正面の建物、

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右側にはガッレリーアが続きますが、

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庭園の鉢植えのツツジが色鮮やか。

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ガッレリーアの前に庭園に、アテネの守護女神パラスの像のある円柱。

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町が「小さなアテネ」と呼ばれる所以でもあるのですが、武人のヴェスパジアーノが
如何に学問にも精通し、ローマと共に古代文化に憧れをもっていたかが伝わります。



ガッレリーアのアーチの並びの向こうに見える、小さなオステリーア。
マントヴァと共にやはりこの地も、美味しいカボチャの産地。

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まずは、テアトロ・アッルアンティーカに。

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こちらが入り口ですが、建物の裏側にも刻んである言葉は、
ROMA QVANTA FVIT IPSA RVINA DCET・
ローマがいかに偉大であったか、その遺跡が伝える、と。
 
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真ん中に見える入り口から入り、正面を見ながらこの楕円形の席に座り、
中央にいるガイドさんの説明を。
 
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この劇場は既存の建物を利用したものではなく、ヴィチェンツァの
テアトロ・オリンピコを造ったヴィンチェンツォ・スカモッツィ・
Vincenzo Scamozzi が1588-1590に建設。

楕円形の席は、当時は舞台下からずっと繋がっていたそうで、
舞台上の装置は1700年に喪失していたのを、近年復興した物と。

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後部の円形に囲む円柱の上の像は、オリンポスの神々の像で、
格子天井も本来は素晴らしいものだったとか。

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この劇場の造りが素晴らしいだけでなく、16世紀の当時にあって劇場専属の
俳優陣は月給で雇用された斬新な待遇だったと言いますが、
ヴェスパジアーノ自身が1591年に亡くなったので、音響効果の素晴らしい
この劇場での公演は、唯の2回のみだったと。

ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコはまだ見ていませんが
もうひとつ、ガイドの説明で名の上がったパルマ王宮のファルネーゼ劇場、
これは見た事があり、大きさももっと大きく、木造りの大変素晴らしいものでした。
       
パルマ王宮のファルネーゼ劇場。絵葉書でこちらにご案内を。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461919104.html



舞台と客席のちょうど中間左右にある騙し絵のフレスコ画は、
ローマのカステル・サンタンジェロ、そしてカンピドーリオ広場。

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そして周囲の壁や天井下に描かれた、舞台を覗きこむ人々の姿。
  
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ヴェスパジアーノは、ラツィオ州のフォンディ・Fondiの城、
母親のイザベッラ・コロンナ・Isabella Colonnaの実家で生まれ、
叔母のジューリア・ゴンザーガ・Giulia Gonagaの養育の下ナポリで、
そしてスペインのカルロ5世の宮廷で教育の仕上げを。

後ほどもう少し詳しく書きますが、そういった彼の経歴からも、
ローマへの傾倒ぶりが分かります。

後年この地にもナポレオン軍が侵入し、あれこれと破壊、持ち去ったり、
落書きを残しているそうですが、良くぞこれだけ残った物との感慨が。



劇場を出て、中央広場に向かいますが、何枚も鐘楼の写真があるのを見て
思い出したのは、
ちょうど鐘が鳴り始め、鐘楼の壁の外に鐘が降り出されたものの、
ちゃんと金網がついているのを見て安心し、写したイチビリshinkai。

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サンタ・マリア・アッスンタ教会・S.M.Assuntaの内部と、
ビビエーナの礼拝堂・Cappella Bibiena.

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教会は1582年に完成の一廊式で、
礼拝堂は1700年建設の透かしの天井が独特な物。

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写真禁止の札があるものの、ガイドさんと一緒でフラッシュ無しだとOkなので、
つい教会内でも写しましたら、右端に見える警備の女性に、
シニョーラ、ここはダメですよ、と。
      


町の中心広場は細長い四角形で、西にドゥカーレ宮があり、

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そして東側の眺め。

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真ん中の円柱の上には豚の像があり、謂れを聞きましたが・・!



広場を囲むポルティチの下の、骨董店の店先。

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という所で、n.2にお進みを願います!

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・ ミンチョ河下り ・ 新緑のみどり、緑の中を 

季節を逃さぬうちにと、今日のご案内はミンチョ河下りを。

4月25日に行ったサッビオネータ・Sabbionetaと、サン・ベネデット・ポー・
San Benedetto Poの訪問の合間に、
お昼を頂きながらマントヴァ・Mantovaからミンチョ河の船下りをしましたので、
その様子を見て頂こうという訳です。

マントヴァに到着しすぐに目に入った、緑滴る岸辺で憩う人々の姿。

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そう、この日は日曜日でしたが国の祭日、第2次大戦の解放記念日、
そしてヴェネツィアは、サン・マルコの祭日の日であり、
そしてそして、大快晴に恵まれた一日だったのです。

皆さんもどうぞごゆっくり、船下りをお楽しみくださ~い!



ガルダ湖から流れ出すミンチョ河は、マントヴァの街近くで大きな3つの湖となり、
街の眺めと共に素晴らしい景観を繰り広げます。

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この日はお天気に、祭日につられ、河岸は大変な人出。
ちょうどお昼に到着しましたので、ピクニック・テーブルの人々、釣り人達は
荷物を纏め帰る時間、と大賑わい。

そしてその釣り人の多さと、プロ仕様の荷物の大きさに驚き!
かなりの大物がたくさん釣れるのでしょうね。



河岸の道脇でバスを降り、お城を眺めながら前を通り過ぎ、
橋の向こうの船着き場まで、ビッコを引き引き歩きます。
はい、ヴェネツィアの造船所前での転倒の翌日で、まだまだ痛かったぁ!

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高速に繋がるこの橋の向こうからの素晴らしい眺め、
そして、マントヴァのご案内は、



ミンチョ河の船遊びの係留所は2か所、お城の前から真っ直ぐに北に続く橋の
両脇にあり、これは下手側。

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まさに湖と呼ぶにふさわしい大河。



地図をどうぞ。 上のマントヴァ・Mantovaの赤い点が我々の船着き場で、
ゆるゆると蛇行しながら下り、下側を流れる太い河ポーに合流、右折して溯り、
赤い点のサン・ベネデット・ポー・San Benedetto Po の停留所まで、
2時間半程の船旅。

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ミンチョ河はガルダ湖から流れ出しポー河に注ぐ全長73Kの、ポー河に左岸から
注ぎこむ最後の河で、現在では唯一の船運行可能な河なのだとか。

2年前にマントヴァに行った時、この船下りの案内を見つけ、ガイドブックにもあり、
今回ちょうど良い機会と思ったのですが、
ミンチョ河下りのみならず、自然保護公園巡りもある様子で、
サイトはこちら  http://www.naviandes.com/

ボルゲット ・ ミンチョ河畔の、桃源郷
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463417373.html



この辺りはまだマントヴァの街の下の湖で、休日を楽しむ人々の姿、白鳥、
そしてカーヴを切って、お城と塔の最後の眺めを。

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船客は、ちょうど観光バス2台分の100人で満員。
乗船と同時に食事のサーヴィスが始まるわ、この辺りの自然保護について、
ミンチョ下りの案内は始まるわ、テーブルでのお喋りも勿論で、・・もうてんやわんや!

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余り自由に動きも取れず、席からは視界が低すぎガラスも反射、お腹もすいて
ガス欠寸前、・・てな事で、少し落ち着くまでの写真が余りないのです、ははは。

出されたメニューは、
サルシッチャ(ソーセージの種)入りのリゾット、 カボチャ入りトルテッリ
ハム類盛り合わせ、 肉の煮込みとポレンタ、 サラダ
ワインは白と赤、 デザートはティラミス

サルシッチャ入りリゾット、並びにカボチャのトルテッリはマントヴァの大名物で、
もう3,4回お目にかかっていますが、今回は肉の代わりにチーズ各種を貰い、
しっかり満腹。

両岸は近づきそして離れ、林の様子も刻々変化していくのですが・・
       



蓮の群生域がある場所と聞きましたが、季節がまだ早くこの程度。
この蓮は、日本から持ち込んだものとか。

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ミンチョ河沿いはロンバルディアの州の自然公園に指定、自然保護地域に含まれ、
木のみならず鳥の種類も多いとの事。

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林の向こう、意外に近く道があったりも見えるのですが、お天気も良く、
のんびりとゆっくりと船は下って行きます。 黄色い花は、菜の花。



一度上りの船に出会いましたが、川幅が狭いので、前も後ろもちょん切れ・・!

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奥に見えるのは農家でしょうか、長閑な眺めでしょう?



林の奥に土手が見えますね、こういう河に近い場所に車を止め、
皆さん魚を釣ったり、祭日のバーベキューを楽しんだり。

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船に手を振ったり、叫んだり・・、サーヴィス精神旺盛な馬鹿が、くるっとお尻も
見せてくれ、船からは間髪いれず罵声が飛ぶわ、その賑やかな事! ははは。



ポー河との合流点近くに水門があり、この時には既に食事も済みデザート待ちで、
上の観覧席に移動し、見物を。

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ナイル河のエズナの水門に比べれば小規模ですが、水門に変わりはなく、
こちらは昼で良く見えます。



左に浮かんでいる白い物は魚で、1m半位はあった様な!

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水門内に入り、後ろの扉が閉まります。

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ふと見ると、土手の上に見物人2名、大型バイクで通りかかった親子の様でした。

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中の水が引くにつれ、後ろの扉の隙間から流れ込む水。
錆の見える鉄扉の色が、なかなかです。

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水がどんどん引いて行く15分程でしたが、気がつくと、脇の土手に山羊さん達。

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船にも水門にも関心なく、せっせと食べつつ移動して行きます。

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こうして前方の扉が、こちらは引き戸式が開き、景色が望め、ゆるゆると通過を。

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最後の写真の、真ん中のへっこみ部が水門の扉の厚みで、80cm位だったか、
現在のこの水門は1925年に造られたものだそうで、
ヴィンチャーナ式と呼ばれるこの方式の源発明者は、かのレオナルド・ダ・ヴィンチ様。

ポー河下流のデルタ地域にも、ヴィンチャーナ式と呼ばれる、フェッラーラの
エステ家が造った美しい水門、こちらは干拓地用でしたが2つありました。

デルタ・デル・ポー ・ ポー河が海に出あう所
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463259026.html



水門の中を振り返った写真で、引いた水の高さが見えますが、
ポー河とは大体3m~5m程の違いがあるそうで、この日は3mだったそう。

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通り抜けて見ると、引き戸式の扉の裏が見えますが、桟を渡した扉なのですね、
それも下側がやはり水圧対策で桟が密、成程!

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水門の仕掛けの、動く図解のサイトはこちらに。
https://www.motonaviandes.it/la-conca-di-navigazione/



水門のある場所はゴヴェルノーロ・Governoloと言い、奥に見えるのが
村の教会で、ポー河とミンチョの分岐点に当たるので、船溜まりもかなり大きく。

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そして、合流点。
左側から突き出している先っちょを今回り込んだ所。
水の色が違うのが見えますか?

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船の案内によると、ミンチョの色は濃い緑で、ポーは濃い青というのですが、
さて、この日の色違いは・・??



これから船はポー河を上流に向かい、溯ります。

かってガルダ湖西岸に、14世紀初めより36のコムーネが集まり
「素晴らしき祖国・Magnifica Patria」と名乗った共同体がありました。
歴史の中で変遷を経つつ、15世紀前半に大きな自治権の下に
ヴェネツィア共和国に忠誠を誓います。

そして1570年対トルコ戦に於いて、ここの忠実な男達100人は実戦に参加すべく、
武装した船に乗り込みガルダ湖からミンチョ、ポー河を下りセレニッシマの艦隊に加わり、
レパントの海戦で戦った、という逸話が残ります。

ミンチョ河を下りながら、そんな歴史の一駒をも思い出し・・。
日頃は・・余り・・思わないのですが、時に「男って良いなぁ! カッコいいなぁ!」と、
熱い想いに浸るのは、こういうお話の時。

ガルダ湖にまつわる、セレニッシマの男達の熱き戦いには、
ガレー船を含む一艦隊を、雄牛と男達の力で山越えさせ勝利した話もあり、
同じ山道を越えに行ったshinkaiなのでしたぁぁぁ。

ガルダ湖 北端 ・ トルボレ、 リーヴァ・デル・ガルダ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463416779.html



ポー河の流れ、まさにイタリア一の長江の貫録、フランス国境に近い2000mを越える
高山に源を発し、悠々と西から東に、652kmを流れアドリア海に。

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2002年でしたか、スイス国境近くの大雨が流入し、トリノ辺りで既に8mも
水位が上がる状況となり、あの時はアドリア海に注ぐまでの1週間、
毎日TVニュースで今どこそこを通っていて、状況は、と報告がありましたし、

逆に水不足だと、農作物への影響が即現れたり、
やはり人間生活への河の影響、恩恵は大きいですね。

上の写真は、アドリア海に向かう東の眺めで、下は、西に遡る様子。



ミンチョ河とは川幅が断然違い、観覧席からの眺めが雄大。
白と赤の菱形の印は、航行する船への注意札とか。

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モーターボートも突っ走って行き、一方、干潟には水鳥の姿も。

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上で見て頂いた地図にある国道の橋が見えて来て、橋の左下向こうに
見えるのが、停留所。       

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サン・ベネデット・ポー辺りは、地図でお分かりの様にポー河が大きく蛇行しており、
大変危険な場所の様子で、護岸工事も新しくなされた感じを受けました。



通いの船でもあるのでしょうか? なんとなしに、バス停のイメージでしょ?

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ポー河は意外に危険なので、しっかり係留するまで動かないで、
との注意がありましたが、無事上陸。

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再度バスに乗り、サン・ベネデット・ポーのマティルデ・ディ・カノッサの修道院に
向かいましたが、そのご案内は、いずれまた。
       
2時間半の船旅のお付き合い、お疲れさまでした!

◆*◆*◆

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大変に雨降りの多い今日この頃で、雷もゴロゴロと頻繁に。
コンドミニオの庭の草刈りも先日済んだばかりですが、
こう雨が多いと、即、下から伸びて来ますね。
それでもお天気が良いと窓を開け、名も知らぬ鳥たちが歌い、
お喋りするのを聞きます。
       
先日久し振りに自転車で坂の下まで行き、スコミーゴ村は海抜130mで、
押しつつ戻って来る途中、シェパードのレオと目が合うと、
彼はやおら起き上がり、柵の傍までやって来ました。
       
以前の自転車の時はいつもの通り道だったのですが、車だと大概ぐるっと回るので、
会うのは本当に久し振り。
何やらどっしりと肉がつき、中年男の貫録十分!
柵から手を入れ、撫でたり、ぽんぽん叩くと、しっかり体を押しつけてくれる嬉しさよ!!
レオはなかなかハンサムなのですよ、はは。

若き日の彼の姿はこちらに。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460919346.html
       
レオの向かい側の家には、やはりシェパードのオットーがいて、shinkaiを挟んで
三角関係だったのですが、・・ホントだよ、
暫く前に車で通りかかった時、庭に姿が見え、あ、オットーだ!と上り坂の車の中、
頭を低くして見ましたら、なんと向こうもグイッと頭を下げて、こちらを覗きこみ・・!
あはは、あの時も笑いました。

でも、嬉しいながらもこの手のつき合いばかりが増えると、言語障害のみならず、
人間関係にますます支障をきたしそう!
ええ、やはり、ブログは続けないと・・。 ・・ん、なんだぁ、この結論への至り方は?!
              
では、また次回に。 お元気でどうぞ!

追記: レオは既に亡く、でもオットーは元気な姿を見ます。2019.2.10

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・ 世界一のワイン樽製造所 ・ ガルべロット のご案内を 

今日は先月下旬に見学した、我がコネリアーノにあるワイン樽製造所のご案内を。

この製造所は、世界一と言える素晴らしいワイン樽製造所で、前を通るので、
樽工場があると知りつつその実質を知らず、ワインも毎晩飲みながら、
そのワインを熟成させる樽については考えた事もなかったのですが、
ちょうど良い機会と皆さんにもご紹介を。

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工場の名は ガルべロット・Garbellottoと言い、18世紀から続く伝統技術を
守り発展させ、熟練技能職人集団ともいう、素晴らしい企業なのでした。

外の木材置き場と、出来上がった樽の写真はOKでしたが、
工場内は遠慮してくれとの事で、今回の写真は殆どパンフレットから。
       


工場敷地の全体写真をご覧になってお分かりのように、製造部分よりも、
木材を貯蔵し、自然乾燥させる土地の方が広いのですね。

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で、ワイン樽の歴史について、ほんの少し。
樽や、樽作りの職人技術についてはその起源が分からない程古いと言いますが、
最初は木の幹をくり抜いた形、いわば盥の形があり、それに蓋をする形で、
     
がこれは運送には不便。 液体を入れると重たく、転がすには回転しませんし、
で、真ん中を膨らませた現在の樽形に、という発展。

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この樽・ボッテ・botteは、温度調整、熟成にも効果があり、テッラコッタ容器の
壊れやすさとも関係なく、いざとなると、樽自体をばらして運ぶ事も可能ですから、
この丸い樽の様式が瞬く間にギリシャ・ローマの世界に広がります。

写真は、ローマ期3世紀の、ワイン樽を運ぶ船の様子。

ローマの10番目の州であったヴェネトからフリウリにかけても樽作りが盛んで、
とりわけ大司教座のあったアクイレイア・Aquileiaに多く、
238年にはイゾンツォ河・Isonzoにかき集めた樽を繋いで橋をかけ、
マッシミーノ・Massimino il Trace が軍隊を渡した、という記録も。



アクイレイアの博物館にある、ローマ人の樽作り職人の石碑(葬い碑)で、

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上に小さな樽が見えますが、それから時計周りに
・カーヴしたナイフ、握り部分が万力ボルト  ・上と似たナイフで、カーヴがきつい
・万力ボルト  ・両刃斧 (石碑内の大きな図) ・斧とナイフ

で、これらは、現在も使われている道具との事。



ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂内の、浮彫の細部。
       
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蛮族の侵入で一旦下火になったワイン製造も、キリスト教が栄えるに従い、
ミサに用いられるワインの必要もあり葡萄畑も増え、樽の製造もこの一帯に栄え、
中世より、樽に詰められたワインは北国にまで運ばれて行ったと。

そしてヴェネツィア共和国の下で、船での運搬も大いに繁栄、ヴェネツィアには
今も 樽職人小路・Calle dei Botteriが、 大運河のカ・ドーロの向かい側の
魚市場の西にその名が残ります。



工場見学の日、見学者への説明対応の部屋の横に、こんな家具類も見え、
もともとは木製品一般の手工業からの出発で、ワイン樽のみならず
建具から高級家具迄手掛けていたのだそう。

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現在はワイン樽のみの製造ですが、木材を選ぶ過程において出る、
樽製造には不適な木材は、これが半数以上に当たるそうで、別経営の会社の下、
家具製造会社に売っているとの事で、木の特性からしてお互いに良いのだそう。



この証書は、この春4月ヴェローナで開かれたヴィニイタリー・Vinitalyにも展示された、
ガルべロット製作の世界一大きい樽の証書で、

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大きさ    360cm x 450cm
樽板の厚み  8cm   底板   10cm
入る量   33300L (瓶詰め 44400本分)



corrieredelvenetoのサイトからの写真でどうぞ!

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これはギネスブックに記録された大きさだそうで、
注文はヴェローナのヴァルポリチェッラ・Valpolicellaのあるワイナリー。
200樽ほどの一連の注文の最後に、何か特別な物を、と出来上がったのだそう!

勿論工場内で製作、現地へ運搬ですが、それはもう大変な運搬作業だったそうで、
知っていれば、見に駆けつける所でしたぁ!

最初聞いた時は単にその大きさに驚いたのですが、工場でその制作過程を見学し、
大きな樽製造には、それに見合う技術が必要な事を見せつけられ、
凄いなぁ!と一層感嘆したのでした。



工場奥の木材置き場から、説明を聞きつつ見学。

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ワイン樽製造に一番向いているのは樫の木で、一番質の良いのはフランス中央の
樫林のもの、現産地保証付きの120年から130年生育した木を購入。

なぜイタリア産が無いかというと、単純に樫林が無いからだそうで、
フランス中部の平坦地の林の木が、年輪のでき方が同質で良いそう。

スロベニアの樫も質が良く、イスラムの国でワイン製造がないので量が豊富、
トリエステからわずか170kの距離で近いですから、そちらからも。

但し、バルカン辺りの木は時に弾痕が入り込んでいて、知らずに機械鋸にかけると
歯が飛びますから、金属探知で調べるそうですし、

フランス産の木はダンチに値段が高いので、時にロシア産を誤魔化して
売りつける手もあるとかで、こういう場合は、ガイガー・カウンターで検査する事も
起こりうるとか。 何やらきな臭い話しですね。

樫の木以外にも、桜、アカシア、トネリコ、栗の木など注文に応じ製造するそうで、


購入した木は、こうして丸太のまま自然乾燥させますが、様々に印が付けられ、
割れを防ぐためにカネも打ち込まれています。

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こちらは、板挽きの方法ですが、

4角に割り、それから平行に挽く方法、
これをするには、木が大変太く目詰まりが平均している必要があり、
手間がかかる割には元が取れないそうで、余り使われない方法だと。

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現在、中以上の大きな樽作りに使われている唯一の方法で、
目詰まりが平均していると、どの部分の板も樽作りに適応との事。

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唯一、樫の場合、真ん中中心部分は腐りやすいので、
樽作りのみならず他の製品にも使われないと。



かっての伝統的な、スパッカート・割る と呼ばれる方法で、ケーキを切る様に割り、
そこから板を切り出す方法ですが、大変な無駄が出ます。

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現在の様に木の値段が高価になると勿体なく、この方法が取られるのは、
伐採地が大変不便で丸太のまま運び出せない地でのみ、使われるそう。

かって最後の方法が重要とされたのは、ビールなどの発泡性にも樽が使われたからで、
この方法で得た板で作る樽は、目が平行になり、不浸透性に優れていたからだそう。
現在ではビールや発泡性ワインには、スチールのタンクが使われますし、
樽製造の技術も進み、原価が高くつくこの板は小さい樽のみの様子。
      


丸太のまま保存し、板挽きにした後もこうして積み上げ、自然乾燥されます。

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板の自然乾燥が欠かせぬ訳は、こうする事で気孔が開き、樽になって後も
空気の浸透を可能にする事、
自然乾燥の間に、板自体の欠点や不整形が明らかになり、選別できるからと。

「ワイン樽」と一口に言ってますが、このワイン樽は、アッフィナメント・Affinamento
と呼ばれるワイン熟成の為に寝かせる樽なので、樽の中のワインに
空気が通る樽でないとならず、

また単に乾燥させた板だと、空気中の湿度やワインも吸い込み膨らみ、
樽自体の変形、内容物にも悪影響を与えるので、この自然乾燥が欠かせない訳。



これは、同じ様に割った板の自然乾燥で見える違いですが、
木の繊維により、板の厚みにより、その時の気候により、産地により様々で、
これを見分けるのが、樽職人の眼力だそうで。

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大体1cmの厚みにつき6か月間、つまり6cmの板だと36か月、3年必要との計算。
8cmだと4年間かかる事になりますね! 木材置き場が広い訳です。

ワイン熟成の為の樽と言いましたが、木目がしっかり詰まっている方が、
ワインの味が柔らかく、育成の早い木目の荒いのは、ワインの味も強くなるとか。
       
で、樽作りの際の板選びは、注文主の求めにもよりますが、
格別な注文でない限りは、ガルべロットの技術任せ、つまり、板の割合を混ぜる
のだそうですが、その率は企業秘密だそう。
      


カタログから、1900年から20年、30年代の写真を。
当時は大きな組み立ては屋外でしていたとあり、働く少年の姿や、
荷車運搬の馬たちも見えます。

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ガルべロットは、最初は家具類なども作っていたのを1920年から樽専門に。

樽作り業界が一番繁栄したのは、1920年から70年にかけてで、
その後一つづつ消滅、遂にこのガルべロットのみが残ったのだと。
技術が優れ、その品質と大きさ、量も他を抜いていたのが理由だそう。



現在の工場の様子。 近代的な道具の揃った屋内で、
木を切ったりは機械ですが、他はすべて手仕事!

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経験を積んだ人間の目が選び、仕事を決め、仕上げていくのですね。



工場内の入り口部分で、運ばれて来た板を一枚一枚、長が印をつけ
選りわけて行きます。

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板の目が、真っ直ぐに通っているのを見て頂こうと思ったのですが、見えるかなぁ?
      
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屋外の板の自然乾燥で既に半分程以上もアウトになったのを、
この両端の白い部分をまた切り落とします。
      
で、写真はここまで、と言われました、はい。



ワイン樽の種類について。

丸樽

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楕円形

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盥形

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盥形の樽

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で、大きさ1000L以上を ボッテ・botte(複ボッティ)と呼び、



5つ並んでいるこの小ぶりの樽は、バリーリ・barili、つまり1000L以下の樽を
区別してこう呼ぶそうで、

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5つ並んだ樽の大きさは、左から750L,550L,350L,250L,100Lで、
いずれも底板は真っ直ぐ。



この楕円形の樽の写真で良くお分かりと思いますが、
大樽の場合は底板が中に凹んだ形で、小樽の場合は真っ直ぐなのですね。

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比べる大きさの樽が横に無くて分かりにくいですが、
上の最初の丸樽は3000Lとありますから、高さが2m以上でしょうか、
注文主の好みにより、口金の形、金具、飾りで値段が違うそうですが、
大体2500Lの樽で、5~6000エウロと聞きました。 (2010年時の値段)
      
楕円形の樽は狭い場所を活用でき、樽の表面積が大きい、つまり
空気に触れる面が大きくなるので良いのだそうですが、樽のカーブが
複雑になり、作るのが難しく、

口の開いた盥形は、発酵作用に最適で、

盥形の樽は、見かけよりずっと作りが難しいのだそう。底板は全重量がかかる為
強くないとダメで、樽板はホンの少しのカーブ、上板は良く締められ少し尖っていると。

この形は、カンティーナの高さを最大限に利用できる利点があるものの、
いささか美的でない点、そして底板にたまるオリに触れる液面、樽上部の
空気に触れる面が大きい、という理由で、余り使われていない形だそう。
       


切った樽板を樽の形、つまりお腹が膨らんだ形に整形する工程には火を使います。

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上の様に小さな樽の場合、既に計算されて切られた板を纏めてまず輪で閉め、
つまり、各樽板のカーヴが其々に組み合う形に切られており、ぴったり合って
円形になる訳ですね。
中で火を焚き、時に水をかけ、板が柔らかくなった所で、下側も閉めるという具合。



大きな樽の中で火を焚いている写真は上側が開いていますが、
私が見学したのは逆でしたから、色々な工程があるのでしょう。

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直接の火の他に、蒸気を与える窯(ボイラー式)もあり、両方の技術が必要なのだと。

底板を嵌める工程は見れませんでしたが、カタログによると、
大きな樽の場合の凹んだ蓋、底のはめ込みには蒸気を使うそうで、
これは大変な経験と技術の賜物の様子です。

ましてカタログにある図を見ると、底板をはめ込む溝穴は、逆に入り込む形なので、
私の頭脳の想像を超えます!



注文主の愛情のこもった樽なので、樽板への意匠も大変に凝った芸術的な物、
高価な物と色々ありそうで、樽の蛇口も、単純な木製からステンレス製の凄いのまで
様々なアクセサリーがカタログに。

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面白いこぼれ話を。 ロシアのガス企業のオーナーがやって来て、
樽のタガ、これは一般に鉄に亜鉛メッキの輪を使うのを、この大金持ちは、
金でやってくれと言ったそうで、警備員をつけての仕事はできない、と断ったとか。



で、出来上がった樽の運び出し。 樽の大きさを想像して頂く為に、
人間の写っている写真を選びました。

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ガルべロットの樽の納まったカンティーナの写真をどうぞ。
少し小ぶりな樽が2段に積まれたもの、この形は良く見かけますね。

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巨大な盥形の樽の並ぶこのカンティーナは、アメリカはカリフォルニアの
GALLO WINERYで、世界で一番大きな熟成蔵だそうで、この列の並びが28列!
全体で120000Lとか。 この樽は、確か現地で組み立てたと聞きました。

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白黒写真は、世界で一番美しいカンティーナというドイツのヴュースブルグにある、
JULIUSSPITAL WEINGUT. 元は司教公爵のお屋敷で、壁画はティエポロ!
ここに現在ガルべロットの樽が納められているのだそうです。

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ガルべロットのサイトは  http://www.garbellotto.com/

こちらのYoutubeで、樽作りの様子も少し見れます。
https://youtu.be/kPk39clUOns



出来上がった樽の内部は、掃除がしやすい様に軽くカンナをかけるだけだそうですが、

外側は綺麗に磨かれ、天然素材のニスが掛けられます。勿論空気の
流通を妨げない様に、単に汚れを防ぐ為とか。

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周囲の赤色はかっては赤ワイン用で、白は緑と区別した様ですが、
現在は伝統を残す赤色のみの様子。

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この部分は板の切り口ですから、しっかりニス掛けで、ガルべロットのマークと、
縁の上部分に番号。



樽全体が写っているのは許可を貰い、
これはピエモンテのバローロ・Baroloのワイナリー行き。

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最後の最後に、外から工場内を!

と、長々とご案内致しましたが、
興味深く見学した様子が、上手くお伝え出来ましたように!


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・ ウェヴで出会う、愉快なワン君、動物君 

そちら日本は、今ゴールデン・ウィークの真最中ですよね?!
そう考えたら一度に力が抜け・・、 私メも足の療養中でもあり・・、

アメリカの友人から届いた動物たちの写真、
ウェブの中で元気に遊ぶ子たちの姿でごまかし・・、ウンニャ、
大いに楽しんで頂きましょう!

トップの猫ちゃんは、いつもお世話になっている我がexblogの、
先日のメンテナンスのご案内場面で、ひっくり返っていた子。

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余り可愛いので保存させて頂きましたが、皆さんにも!
今回は写真の大きさがまちまちですが、ご容赦を。



・ 仲良し。 椅子がわり、歯医者さんごっこ、いろいろありますが
  なかよしである事に変わりなし!

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・ あああ、気持ち良さそうだなぁ!!

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・ やる気かよぉ!  やっつけたろかぃ!

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・ おかぁさ~~ん!!

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・ ひとり。  みんな良いなぁ! 可愛がってもらえてぇ・・。

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・ ひとり。  ひとりで寝っ転んで見ても、

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さて、どうしたら良いのかねぇ・・。

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凄んでみたろか?!

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・ ひとりで遊ぶ方法は・・、ええと・・。

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あっかんべぇ、はどう?!

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飛び上がると、こんな格好になるんだけど、

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こういう芸も出来るんですけどぉ・・、

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まぁ、心静かに連休後半を楽しみましょうね。



◆ お悔やみ

何度かこのブログにも登場してくれた、ハワイの友人の愛犬
「まうい」が先日亡くなったとの知らせが届きました。
Мちゃん共々最後まで頑張り、たくさんの良き思い出を残してくれました。

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在りし日のまういの姿と、浜で遊ぶ2人の姿をここに。
まうい、良い子だったね。 本当にありがとね!! 

       
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