今日はお隣のヴィットリオ・ヴェネト・Vittorio Venetoの町のご案内を、
昨年秋に手に入れました写真集からです。
昨年秋に手に入れました写真集からです。
予てから訪問したかった町の博物館見学で、内部が大変素晴らしく、
ガイドブックはと訊ねましたら、これは? とドンと厚い大版を取り出し、
アブルッツォの地震災害基金用に、最低10エウロからお分けしています、と。
ではと20エウロを払いましたら、修復出来たばかりの礼拝堂の見学もOKに。
ガイドブックはと訊ねましたら、これは? とドンと厚い大版を取り出し、
アブルッツォの地震災害基金用に、最低10エウロからお分けしています、と。
ではと20エウロを払いましたら、修復出来たばかりの礼拝堂の見学もOKに。
肝心の博物館内の写真は無いのが残念ですが、歴史ある町の様子と、
町周辺の四季の様子をどうぞ!
町周辺の四季の様子をどうぞ!
Vittorio Veneto ・ Le ragioni di un antico orgoglio.
ヴィットリオ・ヴェネト・古い誇りの多くの理由 という写真集のタイトル。
こちらは町のパンフレットからで、フラミーニオ広場・piazza Flaminioで、
チェーネダ博物館・Museo del Cenedeseは、正面右端3連アーチの建物で、
ご覧のようにすぐ後に険しい岩肌の山が迫ります。
チェーネダ博物館・Museo del Cenedeseは、正面右端3連アーチの建物で、
ご覧のようにすぐ後に険しい岩肌の山が迫ります。

ヴィットリオ・ヴェネトの町は、地図は最後にご覧頂きますが、2つの隣り合った町、
南のチェーネダ・Cenedaと北のセッラヴァッレ・Serravalleが1866年に合併し、
時の国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世の名を頂き、ヴィットリオとして発足。
南のチェーネダ・Cenedaと北のセッラヴァッレ・Serravalleが1866年に合併し、
時の国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世の名を頂き、ヴィットリオとして発足。
後にヴェネトと付いたのは1923年の第1次大戦後、「大戦争」と今も呼ばれる
オーストリアからの独立を勝ち取り、新しくコムーネとなってからの事。
オーストリアからの独立を勝ち取り、新しくコムーネとなってからの事。
第1次大戦では北イタリア一帯が大激戦地帯となりましたが、
このヴィットリオ・ヴェネトの町の中心のポポロ広場にも戦没者の慰霊碑があり、
この写真では現ナポリターノ大統領が慰霊のローリエの輪を奉納中です。

最初の写真に見える、チェーネダ博物館、15世紀。

チェーネダとセッラヴァッレは、隣同士とは言え趣がずいぶん違い、この博物館も
いわばセッラヴァッレに含まれる大変美しいフラミーニオ広場に面し、
建物はコムニタ邸・Palazzo della Comunità、ヴェネツィア共和国時代には
執政長官の本拠でした。
ご覧のように大変に美しいフレスコ画と窓、テラス。 真ん中一番上には・・、
ご覧の通り、サン・マルコのライオン君で、浮き彫りに彩色されていた様子。

数年前修復が済み美しい姿ですが、内部2階の大きな政治集会の部屋は
まだ修復中で閉じていましたが、20エウロの寄付と好奇心に満ちた顔の前に
鍵を開けて見せてくれ、素晴らしかった!
天井の高い、紋章がずらりと描かれた大部屋で、修復が済んでの一般公開が
待たれます。
待たれます。
内部の博物館には絵画館も併設で、チェーネダ出身のロレンツォ・ダ・ポンテ・
Lorenzo Da Ponte、モーツァルトの3大オペラ、「フィガロの結婚」、
「ドン・ジョヴァンニ」、「コシ・ファン・トゥッテ」の作者の肖像画も。
Lorenzo Da Ponte、モーツァルトの3大オペラ、「フィガロの結婚」、
「ドン・ジョヴァンニ」、「コシ・ファン・トゥッテ」の作者の肖像画も。
彼はチェーネダのユダヤ人コムーネ出身で、父親のカトリックの婦人との再婚に伴い
一家が転宗、洗礼を施した当時の司教ダ・ポンテの姓を贈られ、彼はロレンツォ
という司教の名も受けます。
一家が転宗、洗礼を施した当時の司教ダ・ポンテの姓を贈られ、彼はロレンツォ
という司教の名も受けます。
この司教は、チェーネダの準公爵の勢力を持つ最後の司教で、彼の没後は
ヴェネツィア共和国の直接の統治を。
パラッツォ・コムニタに隣接する、市の塔の時計部分。

この時計は15世紀末の物で、イタリアで最も古い時計の一つ、勿論現役。
ゴシック様式にアラブ数字で、24時間表示!
フラミーニオ広場を、博物館側から。

周囲をゴシック様式の建物が取り囲み、左手前がチェザーナ邸・Cesana、
かってはフレスコ画で装飾されていたそう。
右後にはドゥオーモ・Santa Maria Novaと鐘楼。
一見質素に見えますが、内部には・・
一見質素に見えますが、内部には・・
ティツィアーノの祭壇画、栄光の聖母子像、1452年。

はい、この小さなセッラヴァッレの町はかっては商工業の中心地で大いに栄え、
大きな邸宅が目白押しに並びます。
北国からの街道が、谷間の括れ道を抜けるとこのセッラヴァッレで、
金属産業、とりわけ武器製造が盛んで、16世紀には1つの工場だけで、
1年間に各12000本の剣と火縄銃の生産が出来たとか。
その経済力で芸術家の滞在をもてなし、一見小さな町に多くの著名画家の作品、
ルーヴェンスなどもあるのだそう。
金属産業、とりわけ武器製造が盛んで、16世紀には1つの工場だけで、
1年間に各12000本の剣と火縄銃の生産が出来たとか。
その経済力で芸術家の滞在をもてなし、一見小さな町に多くの著名画家の作品、
ルーヴェンスなどもあるのだそう。
水の流れ水量も豊富なので、羊毛紡織業も盛んで、現在も工場が活動中。

これはフラミーニア広場の北東の端にある特徴あるガンディーニの家・
Casa Gandiniと呼ばれるセッラヴァッレの一番古い住居の一つだそう。
傾いだ感じが、趣深く。
お祭りの花火。 セッラヴァッレに因む聖女サンタ・アウグスタのお祭りの様。

この礼拝堂を見せて頂けたのです。 フラミーニオ広場から少し南に行くと
時計塔の付いた市門があり、長らく修復中だったのですが、その下に
このサン・ロレンツォ教会、礼拝堂があり、こちらも修復され、
写真よりもっと色鮮やかな美しいフレスコ画に蘇っていて!

内部全面フレスコ画で覆われ、15世紀、教会の名に因み、サン・ロレンツォの
逸話があれこれと。 何人かの画家の手になる様ですが、なかなかの出来。
逸話があれこれと。 何人かの画家の手になる様ですが、なかなかの出来。
セッラヴァッレの町に入る場所ですが、目抜き通りの裏側が見える場所。

手前を流れるのがドゥオーモ前からのメスキオ川で、この一帯いかにも中世の趣で、
ここの眺めが大好きです。
上の写真の手前を右に入り込んで行くとこの通りで、重々しいゴシック様式の
建物が並びます。 突き当りを直角に折れ、ドゥオーモの横に出ます。
建物が並びます。 突き当りを直角に折れ、ドゥオーモの横に出ます。

一番上の写真の、正面に博物館の見える右手前で道が2本合流していて、
北からの街道が市門を通って来るのと、坂道を上り、セラヴァッレの古い城に
続く道とが合流します。
北からの街道が市門を通って来るのと、坂道を上り、セラヴァッレの古い城に
続く道とが合流します。
坂道を上っていくと、この写真のように古い建物、小路、そして、かってのゲットーも。
ローマ期からの移殖に始まる町ですが、古くから要塞化され、12~14世紀には
ダ・カミーノ・Da Camino一族の支配下に。
ローマ期からの移殖に始まる町ですが、古くから要塞化され、12~14世紀には
ダ・カミーノ・Da Camino一族の支配下に。

ダ・カミーノ家は幾つもの家系があり、一時は広大な領土も治めた様ですが、
まだよく飲み込めておらず、ご説明は次回のチャンスに。
まだよく飲み込めておらず、ご説明は次回のチャンスに。
これはセッラヴァッレの上の町にあるサンタ・ジュスティアーナ教会・Santa Giustiana
のダ・カミーノ家最後の当主リッツァルド6世・Rizzardo VIの記念墓碑。
男子の跡継ぎを残さずに死去で、ここにダ・カミーノ家は途絶えます。
のダ・カミーノ家最後の当主リッツァルド6世・Rizzardo VIの記念墓碑。
男子の跡継ぎを残さずに死去で、ここにダ・カミーノ家は途絶えます。

ヴィットリオ・ヴェネトの町は、トゥレヴィーゾ県内でも一番広範囲だそうで、
平野から山にかけて広がる眺め、風物がずいぶん違う様子で、
鄙びた田舎家の井戸の池もあり・・

先日の雪ではこんな景色の再現も、と納得の眺め。 少し山側に入り込むと、
こんな古い家が幾つも。

ヴィットリオ・ヴェネトの狭い山間を抜け、谷の道を辿り峠を越すとベッルーノで、
その谷間を、高速道路がうねりながら抜けて行きます。

再度坂下に戻り、南にある現在の町の中心に向かいます。
フラミーノ広場からの目抜き通りには、かっての繁栄を示す大きな名のある
建物が並びますが、これは夏の夜祭の様子。

石畳の狭い道が続きますが、並ぶ建物の窓やテラスはご覧の通り。

夏の夜祭で見て頂いた右の建物が、ミヌッチ・デ・カルロ邸・
Palazzo Minucci De Carloで、博物館。 膨大なコレクションがあり、
一度見ましたが、呆れるほどの世界中からのコレクションで!

ナポリターノ大統領の慰霊碑参拝の写真の上奥が公園で、ジェラートを
舐めながら憩う市民でいつも賑わい、国鉄の駅も一番奥に。

中心広場周辺に新しい建物が並び、市役所、郵便局、バス駅等。
これは、カーニヴァルの山車。

カーニヴァルの山車の行進には、紙吹雪がばら撒かれ、道はまさにこんな様子に。
チビちゃんは寒さを感じないのかな?

ヴィットリオ・ヴェネトの町では、毎年国際合唱コンクールが行われるそうで、
こんな素敵な後姿の写真も。

ラ・レンガ・La rengaと呼ぶ、カーニヴァル期間中の催しとでも。

レンガと言うのは、アリンガ・ニシンを指し、ニシンとポレンタとポロ葱の、昔の貧しい
食事を偲び、レストランでも、ニシンを主にしたメニューが出るそう。
ニシン、ええ、美味しそう!

子供の頃、長野で生ニシンの焼いたのを食べた覚えが。 昆布巻きの中の
固い身ではなく、柔らかい身の記憶があります。
今年のラ・レンガ、味見に行こうかな?
では、ヴィットリオ・ヴェネトの南部分。チェーネダに。
現在の町の中心広場から南に少し、そして西に坂道を行くと、
このジョヴァンニ・パオロ1世広場・Piazza Giovanni Paolo I に。
このジョヴァンニ・パオロ1世広場・Piazza Giovanni Paolo I に。

先々代の教皇様ジョヴァンニ・パオロ1世は、この聖堂の司教様でしたが、
教皇選出の後、わずか1ヶ月で(謎の)ご逝去を。
山の上に、ロンゴバルド期のサン・マルティーノの城があり、
15世紀にチェーネダの司教伯爵の住居に。
15世紀にチェーネダの司教伯爵の住居に。

チェーネダの歴史もローマ期より変遷を辿りますが、10世紀半ばに司教伯爵
として広大な領土を持ち、14世紀初めにトゥレヴィーゾ領主のダ・カミーノに
一部領土を奪われるものの、ヴェネツィア共和国の下でもそのままの勢力を、
殆どセレニッシマ崩壊直前まで保ちました。
昔一度内部を拝見するチャンスがあり、この美しい部屋は良く覚えています。

正面奥に見える紋章はパドヴァのカッラーラ家ですが、ここにあるというのは、
カミーノ一族の後にパドヴァのカッラーラ家が来たという事だろうと、想像を。
同じくジョヴァンニ・パオロ1世広場にある、ロッジャ・チェネデーゼ・
Loggia Cenedese. 16世紀の物で、現在は第一次大戦の博物館に。
Loggia Cenedese. 16世紀の物で、現在は第一次大戦の博物館に。

1階のロッジャには、16世紀のポンポーニオ・アマルテオのフレスコ画。

こちらは少し離れた位置にある教会サンタ・マリーア・デル・メスキオ・
S.M del Meschioの大変美しい祭壇画。
S.M del Meschioの大変美しい祭壇画。

ベルガモ出身のアンドレア・プレヴィターリ・Andrea Previtaliの
傑作と言われる作品で、1514年作。
美しい四季の写真もありましたので、少しご覧に入れますね。
言わずもがな、春。

夏の葡萄畑。

そして、秋。

もう一枚、美しい秋を!

晩秋から初冬、霧の季節。

雪の山道。 子犬が2匹。

1月5日の夜の、パン・エ・ヴィン。 素朴なパンと、熱い香ばしいヴィンブルレが
振舞われるイタリア版のとんどで、煙の向きで今年の作物予想を。

つい先日行われたばかりで、今は待春の想い!
地図をどうぞ。 少し見難いですが、このヴェネト周辺と、

ヴィットリオ・ヴェネトの町、南がチェーネダ・Cenedaで、真ん中に国鉄駅・
Stazione F.S、公園、市役所があり、北にセッラヴァッレ・Serravalleが。
Stazione F.S、公園、市役所があり、北にセッラヴァッレ・Serravalleが。

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