引き続き、有難うございます! 「イタリアで一番美しい村々」にも
選ばれているブリジゲッラ・Brisighella.
エミリア・ロマーニャ州のファエンツァ・faenzaから12Kほど南に位置する、
歴史ある美しい小さな町のご案内を続けます。
要塞の上空を、ブゥイ~ンと小さな可愛いプロペラ機が。
要塞から時計塔には、要塞の裏側からぐるっと谷を回り、こちらの谷の先っちょに。
逆光に、要塞の位置する岩場が良く分かります。
こちらも逆光に浮かぶ時計塔の岩場。
この時計塔は13世紀に、町で一番古い防御の砦として造られ、16世紀に再建の後も
破壊修復が繰り返され、現在見る形は19世紀の物と。
こうして見ると確かに下の土台壁は古いですが、塔の壁は新しいですね。
そしてこの岩肌を、ご注目おき願います!
時計塔は町に迫った岩場のすぐ上にあり、景観の迫力は要塞に勝ります!
ね、凄いでしょう?!
時計塔は建物内には入れませんが、敷地内には自由に入れ、景観を楽しめます。
要塞の位置よりも東になるので、中心広場、教会もこういう角度、ほぼ裏側に。
余りにも町が近く、自分を覗き趣味者にも感じるほどで・・!
町の歴史は古いものの建物が小綺麗で、ウンブリアの小さな古い町の雰囲気とは違い、
朽ちていない、とでも表現出来ましょうか。
先ほどご覧いただいた岩肌も、どこもかしこもこんな様子。
薄く脆そうな小片の重なりのようにも見え、薄いグレイ色でピカピカ光るのです。
太古の化石なのかなぁ? と科学はまるでトンチンカン、それでも1枚写しました。
一旦急傾斜の石段を町に下りますが、鄙びた感じもあり、悪くありません。
ティーリ・tigliと呼ぶシナの木が公園を埋め、黄色の葉が落ちかけで大変美しく。
町の地図。 下側赤丸の位置に公園があり、左上に要塞、右上に時計塔、
その下の色の濃い建物群、ここに後ほどご案内を。
地図の公園のすぐ前にあるこのトラットリーア、ラ・カゼッタ・La Casettaが
タクシー運転手殿のお勧めで、
その通りに美味しく、値段もお高くなく。 私は、カジキマグロのグリルを頂きましたが、
外側を炙って中は半生の鰹のたたき風、生トマトのソースがかかり、
ああ、日本の味みたいでしたぁ!
再び、先ほどの時計塔の下の建物群に。
朝、あの先に「アージノの通り・ロバの通り」があるんだよと運転手君が教えてくれ、
何かも知らぬままインフォメーションでパンフレットを貰おうとこの通りにやって来たのですね。
時計塔から下る石段は、今見えるオレンジの建物の手前、白い細い建物の1階の
アーチに出て来るのですが、お腹を空かせ後も見ずに、町の下に行ったと言う訳で・・!
今この右側に見える建物、テントは・・
この様で、右側にバールがあり、その左にドアが見えますね。 そのドアに・・
この標識。 ナルディ邸 (15世紀)
ここで有名な傭兵隊長
ディオニージオ・ディ・ナルド・Dionisio di Naldo が生まれる。
父親はジョヴァンニ・ディ・ナルド・Giovenni di Naldo
1400年代半ばに、一家がこの家に居を定めたものである。
(公証人Ser Antonio Rondinini の1504年の書類による)
早とちりの私は、一瞬ナルドとナルニ(かのガッタメラータ)がごっちゃに・・ ??!!
が、これがまた大変興味深い傭兵隊長である事を知りました。
ディオニージオ・ディ・ナルド(1464-1510) リジゲッラの町のあるラモーネの谷一帯は
運頼みの傭兵達の出身地、その勇気と残忍さで知られ、その頭とみなされるのが、
このディオニージオ。
Dionisio と記したり、Dionigiとあったり、Naldo Naldiと様々に記載されますが、
女傑の名を欲しいままにしたカテリーナ・スフォルツァの下、彼は石弓隊の隊長として
チェーザレ・ボルジャの侵攻の際にイーモラの砦の守備に当りますが(1499)
フォルリの城も落ち、カテリーナがチェーザレに捕らわれた後は、チェーザレに仕えます。
どうやらこの後、このラモーネの谷に幾つもある砦を支配する領主的存在でもあった様子。
後1501年、ファエンツァのアストルジョ3世はチェーザレに陥落の後、ローマに同伴の後殺害。
後、弟のアストルジョ4世(アストルジョ3世の父ガレオット・Galeottoと愛人の
カッサンドラ・パヴォーニ・Cassandra Pavoniの子)がファエンツァの領主に
法王より選ばれた際、ディオニージオも土地の民もそれが気に入らず、
この地をヴェネツィア共和国に差し出すという仕様も。
セレニッシマに仕えるようになると、その働きぶりの見事さに45才で病死すると、
「祖国の父」という称号の元、ヴェネツィアのパンテオンともいう
SS.ジョヴァンニ・エ・パオロ教会に葬られた人物なのですと。
カテリーナ・スフォルツァのイーモラの町も、略奪を恐れた住民達が先に町の門を
開いたそうで、この様な逸話は、カテリーナが住民に愛されていなかった証拠ですが、
ディオニージオは、自分自身をつぎ込む様に最後まで彼女に忠誠を、
チェーザレにも最後まで忠実に仕えたそう。
単に「金で働く傭兵隊長」という言葉では表せない、主に対する服従、軍中での役割を
わきまえた上での十分な働きで、知るうちに、大変男気に満ちた素晴らしい男であると。
マッキャヴェッリにも、歴史家のグイッチャルディーニにも彼は評価されているとの事。
ナルド一族の他の男達も、それぞれにその働きで歴史に名が残ります。
ボツボツと分かって来たマンフレディ家の諸々の事柄も、人間臭い、でも傍からには
興味深いもので、そんなこんな、この一帯の歴史はリミニのマラテスタ家も含め、
興味深い事がたくさん埋もれている様子。
ファエンツアについても、も少し分かって後ご紹介を。
縦割りに色とりどりに塗られた建物、2階部分には同じように半月のアーチが続き、
手前の白い建物のアーチ、時計塔にも続く石段の始まりでもありますが、
入り口に「古いロバの通り、村」と矢印があり・・
アーチを入ると、更にこの矢印が右の階段を指し示し、
「村の道、またはロバの道」
狭い土地に防御の堡塁、住居の集落、高架の道を可能にする様、
多分14世紀に造られたもの。 結果として、この堡塁でブリジゲッラの有名な傭兵達は
1467年に侵攻してきたウルビーノ公爵フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロ・
Federico da Montefeltroの軍を防ぐ事に成功した。
「ロバの通り」と言う名の由来は、村の上にあるジェッソ・石膏の採掘場から、
ロバの背に乗せてここに運び込んだ事による。
この小さな村の標識に、ウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロの名を見出し、
しかも、傭兵達が防御に成功した?! おお!! 血が沸くではないですかぁ?!
ウルビーノ公は自領の統治のみならず、教皇側の傭兵隊長で、1462年にピオ2世の
依頼でリミニのマラテスタ家と戦って勝ち、リミニの代理職を与えられていますが、
1467年の戦闘は、それに付随したものだったのでしょう。
こういう具合に階段を上がると、半月アーチの階に続き、
訪問グループがガイドの説明を聞いています。
こちらの土地のガイドの説明は大変詳細で、ウンブリアの美術館などで、
一緒に聞いても良いですか?と加えてもらった事もあるのですが、
ここはちょっと場所も狭く遠慮し・・
床の波打つ様子が面白いものの、後でまた来ようと退散。
建物の様子をどうぞ。
上でご覧頂いたのは S の部分で、要塞から見えたジェッソの採掘場から
ロバの背に荷を乗せ、時計塔の岩の坂道 X のヴォルタリーナ通リを下って来て、
W の建物の東端に直接繋がる架け橋を渡り、この S のロバの通りに入って来ます。
そしてこの部分は、防御の堡塁でもありました。
で、扉の中がロバたちの家畜小屋 R
奥の階段を上がると Q の住居部分、台所と居間で、
最上階 P は寝室で、家畜小屋からの暖かい空気を上げ蓋により通していたそう。
住人は採掘場で働く荷馬車挽きなどとありますが、
非常時には兵士としても働く荒くれ男だったのでしょう。
1階部分 T, U は、馬小屋、物置、干し草置き場
地下 Z は、ワイン貯蔵庫や物置。
ホラ、建物の中を通る通りといっても長いのですよ。 建物の継ぎ目に当るのか、
結構波打ちカーヴし、肉眼ではこんなに明るくないのです。
写真右側の扉内が、かってのロバ君たちの小屋でしたが、今は物置に利用され、
前の道から見る上階の窓の様子では上の階はやはり住居になっている様子。
ここが建物の一番東端。
現在はロバ用の架け橋はなく、
この様に人間用の狭い石段のみで、時計塔がこの様に聳えます。
そうですね、あの急坂はロバ君でないと。
建物群の前がマルコーニ広場・Piazza Marconi.
かっての馬小屋、道具置き場等は、現在は手仕事職人の工房や、土地の産物店に。
その1軒に興味深い店を 。昔ながらの、布に手作業で柄印刷をする店で、
店の前でこのシニョーラがして見せています。
手に持っている木型(梨の木だそう)に、赤茶・鉄さび色や、ブルーの自然色を塗り、
布に伏せ、上から手前に見える槌で叩き、染め付けます。
布は羊毛と綿との混紡で、染めた後に色止めをする、その媒染材の違いで、
ブルーの方が少しお高く、といっても、50センチ四方の布で15エウロ位だったと。
伝統の素朴な柄が楽しくて、赤錆色とブルーを求めました。
店の前にあった写真ですが、そうなのですね、上から染めの木型を叩く槌は、
大きな頭を上にして叩くのです。バランスを取る為だそう。
店はこのブリジゲッラにありますが、工房は近くの村だそうで、
本職の職人達は、土日に来て実演を見せてくれるそう。
町のインフォメーションは建物の一番奥にあり、町のパンフレットをと言うと、どかっと!
この綺麗な町の繁栄の元は何?と訊ねましたら、ジェッソですよ、との答え。
そうなのですね、今までご説明した全てが、この日の最後の総括で分かった事なのでした。
あのピカピカ光る岩肌はジェッソの元で、精製、という言葉が正しいのかどうか、
あのグレイの岩が、細かい白い粉のジェッソとなるのだそう。
黒板に書くチョークや石膏像もそうですが、建物内の彫り装飾はすべてジェッソですね。
なるほど! と思った事でした。
勿論現在はオリーヴ油、ワイン、サラーメ類など美味でも有名のようですが、
村の繁栄はジェッソから、と。
写真一番手前がインフォメーションで、向こうで先程のグループが土地のワインを味見中。
奥に見える建物は現市役所ですが、この田舎にしたら立派でしょう?!
晩秋の日暮れは早く、夕日に山上の要塞が聳えます。
最後にこの可愛い「ロバに注意」札を。
大変美しい、歴史のある、美味しい、小さな町でした。
どうぞお出かけを、お勧めです!!
◆*◆*◆
ブログご訪問、有難うございます!
とうとう今年の最後となりました。
我が村も雪に埋もれ、零下5度から10度に冷え込み、
コンドミニオの上階は、水道管が凍結したそう!
週2のプールに行くのも億劫でしたが、凍結の坂道をそろそろと下り、
まぁ一般道に出ると、砂も撒かれ交通量もあり大丈夫。
で、プールに行ったら、水の中のほうが暖かだったのです! あはは。
4日間ほど真っ白でしたが、アフリカからのシロッコが入り込み、
一昨夜からこの辺りは大雨となり、雪が全部消えましたが、
北に見える山々は真っ白となりました。
先日心づくしの日本食やヒートテックの下着も届き、
ぬくぬくと、美味しく、年が越せそうです。
今年1年、本当に有難うございました!!
来年もよろしくお願いいたします!
皆様も、どうぞ良いお年をお迎え下さい!!
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