・ n.2 ルネッサンスの都に、中世を探して ・ 塔の家あれこれ

今日は先回に続き「ルネッサンスの都に、中世を探して」を続けますが、
まずお断りを。
というのも、このテーマを最初は考えておらずで、写真も撮らずでした。

が、調べているうちに中世当時のフィレンツェの町がいかにカオスに満ち、
喧騒と乱闘騒ぎに明け暮れ、塔の家が満ちていたかを知り、
大変興味深く面白くて、それをご紹介したくなったのです。
という事で、写真もあちこちから拝借してで、よろしくお付き合い願います!

地図に番号を打ちましたので、読みながらお確かめ下さいね。

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◆ジャンフィリアッツィ邸 地図番号-1
これはジャンフィリアッツィ邸・Gianfigliazziといい、サンタ・トリーニタ橋を
北に渡って繋がるトルナブオーニ通り・Tornabuoniにあり、
塔の造りではありますが豪華なもの。

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最初ここに教皇派・グエルファの一族ルッジェリーニ・Ruggeriniの建物があったのが、
1260年の両派の戦いの後追放、建物はほぼ完全に破壊されたのを、
14世紀末に再建、ジャンフィリアッツィ家が買取り、18世紀の一族の消滅まで所有。
で、現在は高級ホテル。

ジャンフィリアッツィ家は最初は単なる平民であったのが、13世紀から14世紀にかけ、
貸付銀行と商売で急速に成長繁栄。
それもフィエゾレの大浪費の司教に貸付、破産した膨大な富を吸収、
それを南フランスで上手く投資活用。 貸付利子が平常であったフィレンツェに比し、
南フランスでは当時266,66%まで行ったのだとか!

こういった厚顔無比な強欲ぶりは、当然ダンテの神曲の中でも批判され、
地獄の灼熱に焼かれる様で登場しているとの事。

◆ 追記です 
これを書いた時には、なぜ南仏でそんな高利の投資が出来たのか疑問でしたが、
アヴィニョンへの教皇庁移転造営工事について知り、漸くに、そうか!と納得を。

大学生相手の金貸し、という言葉もあったのですが、既にあった大学に新しく
法学部も設立されたというので、ヨーロッパ中から優秀な学生も集まっていたのでしょう。
       
アヴィニョンの教皇庁宮殿については
      

cucciolaさんが、こちらに大学生相手の金貸しについて
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/765054.html



◆アミデイの塔  地図-2
シニョリーア広場から西に、すぐ出会う道を左折するとヴェッキオ橋に向かいますが、
この道がポル・サンタ・マリーア通り・via Por S.Mariaで、中ほどにこの塔が。

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アミデイの塔・Torre dei Amideiと言い、素晴らしい2つのライオンの顔に
魅かれて写しましたが、顔の一つ(左?)は、エトルスクの物との説もあるそうで、
ライオンの塔・Torre dei Leoniと呼ばれるとも。



アミデイの塔は全体を撮っていませんので、サイトからこれを。

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塔の家の高さは、平均60mほどもあったそうで!
この塔も実際はもっと高かったのが、13世紀の終わりに50ブラッチャ・
約29m以上にしてはならないという規制ができ、上辺を刈り取られたのだそう!
     


ライオンの写真と共にこの石碑も写し、ここに見える紋章のAMIDEIという名から、
今回の興味の追跡にで、はは、少し大袈裟ですが!            

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貸付業のアミデイ家はギベッリーニ・Ghibellini・皇帝派に属し、
フィレンツェのみならずイタリア全土を、何世紀にも渡っての血まみれ騒乱の渦に
巻き込んだ、グエルフィ・教皇派と ギベッリーニ・皇帝派の闘争の
最初のきっかけの殺人事件の主人公なのでした。

ギベッリーニ・皇帝派というのは、神聖ローマ帝国皇帝派、
グエルフィ・教皇派は、ローマ教皇派を現しますが、
元々は、司教や修道院長の収益問題が絡む叙任権争いから始まり、
どちらを支持するかで、都市間、町中の争いに発展した様子。
       
事件の経緯の詳細は略しますが、ある宴会の喧嘩に始まり、その収拾のため、
アミデイの娘とボンデルモンティ・Bondelmonti・グエルフィ・Guerfi・教皇派の
婚姻約束が交わされ、反故になった場合は高額の賠償金を、という契約。

所がここに、ドナーティ家・Donati・教皇派の奥方グアルドゥローバ・Gualdroba
が乗り出し、違反金を払って上げるから自分の娘と結婚を、の申し出!
アミデイの娘は美人でないのに比べ、ドナーティの娘は評判の美人、おまけに
賠償金もとの事で、ボンデルモンティは結婚式を放棄。

収まらないのはアミデイ家とその党派で復讐計画を練り、棒で殴る、顔を傷つける、
など言いあう席で、モスカ・デイ・ランベルティ・Mosca dei Lambertiが
激烈な方が後を引かない、と発言し決定。

ボンデルモンティはドナーティの娘との結婚式に向かう1216年復活祭の日に、
このアミデイの塔の前で棒で殴られ落馬した所をナイフで殺害され、
これが町中を巻き込む大騒ぎに発展、教皇派と皇帝派に分かれての
争いが始まる元となった、と言うのでした。

読んでいて、まさに火事と喧嘩は大きいほど・・!! で笑えましたが、
歴史の大事件もホンの些細な事が発端ですねぇ。
家の紋章の下に見えるダンテの神曲は、この事件に触れているのでした。



◆ダンテの家博物館  地図-3
が、ダンテ・アリギエーリ・Dante Alighieriの実の生家ではなく、
20世紀初頭に中世の面影の強く残るこの地域に、そして唯一の記録から
近くに生家があったと認められるこの地に再建されたものなのですと。

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19世紀末にたったの5年間でしたが、フィレンツェに新生イタリアの首都が
置かれた事があり、当時ダンテの生誕600年に当る事からの着想だったそう。

実の生家はダンテが町を追放された後破壊されており、右に見える塔も
近くにあったジュオッキ家・Giuochi、1300年前後に消滅した家の2つの塔の
一つを移した物で、

ダンテの生家は貴族ではあっても小貴族で、塔を所有した事はなかったそう。
とはいえ、なかなか雰囲気のある中世の家なので覗きに行ったという次第です。



向かいの壁にあった石碑で、ダンテの詩
・・私は、美しいアルノ河の傍の素晴らしい家で生まれ育った。 

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現在の家博物館の前。 広場があり、井戸も。

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塔部分、博物館入り口もこちらに。

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11月から3月末 火曜~金曜 10時から17時 土、日曜 10時から18時
月曜休館
4月から10月は、毎日10時から18時 開館



博物館内部。 中世や、ダンテの神曲について様々な説明展示。
       
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当時の貴族階級の花嫁衣装の再現で、大変豪華な物ですが、
当時衣類は財産でもあり、遺産相続にも含まれました。

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公証人の毛皮付きの衣類もあリましたが、ピンボケで。 



◆ダンテの肖像 地図-4
ヴェッキオ宮の東の道・via del Proconsoloをドゥオーモに向かう途中
見つけた垂れ幕、「ダンテの実の顔・一番古い実証的な肖像」

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まだ若く、厳しい面影はありませんね。




プロコンソロ通りの「判事と公証人の組合の館」で、内部にフレスコ画が残っていると。
     
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「判事と公証人の職業組合」というのは、13世紀初頭に既に記録に登場、
フィレンツェにあった7つの大組合、16の小組合の筆頭に位置する、
力と威信を持った組合で、他の展示もあり興味深そうです。



ダンテが生きた時代のフィレンツェの町。
市壁に囲まれ、ドゥオーモの丸屋根もなく、見える大きな家はすべて塔の家。

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塔の家・Le Case-Torri(複)という言葉に、ダンテ博物館で始めて出会いました。



「塔の家」の内部図。 この手の絵が大好きで、大いに興味を持ちまたあれこれと。

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フィレンツェの町の歴史はローマ期からですが、千年前後になると市壁に囲まれた
内側の土地の余裕がなくなり、どんどん上に延びる様になったのだとか。

最初は防御目的、つまり勢力争いに備え、塔の1階には出入り口もなく、
2階部分に取り外し出来る梯子をかけたり、近所の同じ党派を組む家から
出入りしたり!

張り出したバルコニーや持ち出し部分は勿論上からの攻撃用で、傍らに石やら用意、
階毎に一部屋で、縄梯子や引き上げ梯子で上階に。

この時期の塔の高さは、時に130ブラッチャ、約75mにも!
住居の必要性がいや増した12世紀半ば、町中に林立する塔の家は150~170も!

内部の1階部分は、中庭(土間)窯、薪置き場、家畜小屋など。
そして順次上に、集会用、寝室、火事用心に台所は一番上に。

窓は少し大きくなるものの、防御を兼ねて木か、または蝋塗りの布で覆われ、
光を余り通さず薄暗かったと。
女性達は一日働き詰めで出かける事も殆どなく、大変な生活状態。

道は未だ石畳ではなく、真ん中に溝が掘られ雨水のみならず、家にはトイレ設備が
ない事とて、汚水もごみも垂れ流し!

塔の家から張り出しのバルコニーで陽も射し込み難く、ぬかるみで、
門閥徒党間の争いからも 人々は中庭に集まり過ごす事が多く、
井戸に毒を投げ込まれる事も恐れ、鯉を飼っていたとか!

う~~ん、やはり凄い時代だったんだぁ!!



◆塔の家   地図-5 
これは、栗の塔・Torre della Castagnaと言い、ダンテの家のすぐ近くに。

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塔の歴史は大変古く既に1028年に建設、1282年にフィレンツェでの最初の
行政官の集会が持たれたのだそう。

「栗・カスターニャの塔」の名の由来は、当時投票に栗を使い、栗をフィレンツェでは
バッロッテ・ballotteと言うので、
現在使われているバッロタッジョ・ballotaggio・決選投票、優勝決定戦の
言葉の元ともなったのだそう。
       
先日ヴェネツィアのギリシャ教会で、イコンの展示を見ましたが、
その際、Sì, No と書かれた木製の筒があり、投票用の白い玉、何かを丸めた
形を見つけ訊ねましたら、皮、との事でしたから、土地風習により色々ですね。

現在この塔の下部分は、国家統一運動博物館・Risorgimentoとして
見学可能だそうで、イタリアの広場には必ずおられるガリバルディ将軍の、
座ったクッションなどが見られるそう!



ジオットの鐘楼の中程からの眺め。見える高い塔は、右からヴェッキオ宮の塔、
尖ったのがバディア・フィオレンティーナの鐘楼・Badia Fiorentina、
左がバルジェッロ宮の塔で、

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一番手前真ん中に見えるのが、ヴィズドミーニの塔・Torre dei Visdominiで
この斜め奥、バディア・フィオレンティーナの鐘楼の右に見えるのが、
上でご紹介した栗の塔かと。



◆ヴィズドミーニの塔  地図-6
      
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ヴィズドミーニ家は、ドゥオーモのすぐ傍に元の家があったのが、ドゥオーモの拡張で
ここに移った様で、空席の司教の代理権を持ち、大いに稼いだとか・・、
それもダンテの神曲に書かれているのだそう!



◆パリアッツァの塔 地図-7
ジオットの鐘楼からで、半円形の低い塔が見えますね、
これがパリアッツァの塔・Torre della Paliazza.

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隣に見える高い塔は身元不明、新しいのかも?



パリアッツァの塔。 この珍しい半円の塔は、基礎がローマ期の張り出しテラス・
エセードラ・esedraを利用したビザンティン様式の塔で、フィレンツェでも唯一と。

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しかも最近の発掘で、これが温泉・テルメを取り囲む形の物と分かったそうで、
公衆浴場または私的な物にしろ、街では2番目と。

最初のは、先回ご紹介のテルメ通り、ボンデルモンテの塔のある通りに遺跡が
あるそうで、それでテルメ通りなのでした。

パリアッツァ・藁の寝袋、の名の由来は、13世紀以降監獄、女囚用に使われ、
男の囚人は床に直接寝たのに対し、女囚には藁の袋が与えられた事に由来と。
現在はホテルで、発掘品の陶器の博物館があり、希望すると見れるとの事。



◆ドナーティの塔  地図-8
このドナーティの塔・Torre dei Donatiも古く、写真では分かりませんが、
中庭を囲む形とか。

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ドナーティ家は近くに別の塔も持っていますが、同じ地区に、ライヴァルの
チェルキ家の塔・Torri dei Cerchiがあり、これは同じグエルフィ・皇帝派内の争い、
富裕市民層の白派と 貴族階級の黒派の血みどろの争いに繋がり、
遂に中立地域の小路が設けられ、これは現在もスキャンダル小路・
vicolo dello Scancaloとして残っているそう。

ダンテは小貴族で白派に属し要職にも就いたものの、黒派が勝つと
1301年に追放処分となり、長い20年間の放浪の果てフィレンツェに戻る事無く、
ラヴェンナで亡くなったのでした。



◆ドナーティの塔   地図-9
こちらは同じドナーティ家の塔ですが、2つあり、コルソ・ドナーティ家の塔・
Torri di Corso Donatiと呼ばれます。

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ドナーティ家というのは大貴族で、それに繋がるジェンマ・ドナーティ・
Gemma Donatiがダンテの奥方。

ダンテの神曲も読んだ事がなく、彼への知識もありませんがイタリアの誇る大詩人、
哲学者政治家である位は知っており、
今回改めて、ダンテの奥方の名前や、彼が神曲の中で崇めるベアトリーチェとの
経緯も知りました。

で、あれほどベアトリーチェに詩を捧げ崇めている彼が、妻のジェンマについては
何んにも触れておらずをも知り、いささか憤慨!

大概の事は、それはそれよね、と思う私ですが、許婚であリ、心染まない相手で
あったとはしても、4人の子をもうけ、700年後の今もダンテ家は残っているのですね。
それが妻ジェンマとの生活の断片も、亡くなった年も定かでない、
読んでいて、何とも哀れを覚えました。



◆アルベルティの塔   地図-10
こちらはサンタ・クローチェ教会近くの特徴ある塔なので、ご存知の方も多いと。

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アルベルティの塔・Torre degli Albertiと言い、大一族のアルベルティ家は
グエルファ・教皇派ではあるものの、立ち回りが上手いと言うのか追放されても戻り、
また政治の中枢に食い込むを繰り返し、18世紀まで継続。



最後は、サンタ・クローチェ教会の青空を。
    
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ダンテ・アリギエーリにいささか憤慨し疲れましたが、ははは、
この教会の左手にも、彼の像があるのでした!


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・ n.1 ルネッサンスの都に、中世を探して ・ ダヴァンツァーティ邸

フィレンツェが、イタリアのみならず世界中に「ルネッサンスの都」と
鳴り響いている事は、皆さんも良くご存知の通りで!

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が、いまだあちこちに中世がしっかりと残り、中世大好き人間もうふうふと
満足感に浸れます。

こうして見つけた中世を、2回に分けてご覧頂きますが、今回は
ダヴァンツァーティ邸・palazzo Davanzati・フィレンツェ中世邸宅博物館 
とその近辺をどうぞ!

ダヴァンツァーティ邸はポルタ・ロッサ通り・Porta Rossaに面する大きな邸宅で、
簡単に行けますし、
国鉄駅から南東方面、ドゥオーモに行く道を来ると、

このサンタ・マリーア・マッジョーレ教会・S.M.Maggioreが右手角にあり、
ほら奥にドゥオーモが見えますね。  
ここを右折すると・・、

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道の突き当たりに、どーんと見えるのがそうです。 
写真は日曜の朝ですが、まさに楽勝気分! 後ほど地図も。

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ダヴァンツァーティ邸の前は広場で、その脇にもこんな中世の建物。

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フォレージの塔・Torre dei Foresiといい、左側の塔の右に、
少し低い建物がくっついた形。
同じ造りなのですが、もしもの塔の崩壊に備え間隙が作られているそうで、
建物内に、当時の富の象徴である家の専用井戸と、地下には倉庫があるそう。
       
フォレージ家というのは、13~14世紀に栄えたグエルファ・Gelfa・
教皇派の一族で、16世紀に消滅。

グエルファ・教皇派、ギベッリーノ・皇帝派については、
次回ご紹介予定の「ダンテの家博物館」の際にご説明を。



現在の広場の位置にあったいくつかの建物が19世紀に取り壊され、
この壁面が良く見えるようになったのだそうで、
フィレンツェに残る幾つかの「中世の塔の家」の、良く保存されている一つだそう。

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1階部分にレストランかバールがあり、中世の壁面に取り付けられたこの灯り。

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デザインは確かに中世風ですが、中の電球は省エネタイプの蛍光灯で、
なんなく可笑しく、でも努力は評価です。



広場から見るダヴァンツァーティ邸。
14世紀の住宅建築と言いますが、かくも健在、威容を誇ります!

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正面壁真ん中には・・



ダヴァンツァーティ家の紋章が。     ガイドブックより
後足立ちのライオン・青地に金の紋章で、   
紋章学的には、軍指揮官・condottieroを現すそう。
     
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建物は14世紀半ばに裕福な商人のダヴィッツィ家・Davizziにより建設、
後16世紀後半にダヴァンツァーティ家・Davanzatiに。
買い取ったベルナルドは、裕福な銀行家であると共に文学者であり、
彼がこの紋章をつけ、中世の塔の家の典型である最上階の凹凸の
レース飾りを取り去り、ロッジャ式のテラスを作ったのだそう。



上の建物全面写真でご覧の様に、隣の建物との間に隙間があり、こんな感じ。
広場のフォレージ家の塔にも、建物の並びに間隙があったといいますが、
いかにも中世風の支えです。

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こちらが、現在の邸宅博物館入り口。

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19世紀前半までダヴァンツァーティ家の住居として、内部調度も整えられ、
大変美しかったと言いますが、一族の最後が自殺して後住居は区分けされ
内部もあれこれ変更されたと。

20世紀に入り骨董商が買い、調度を中世風に整え、私的な邸宅博物館として
公開、大いに人気を得たそうですが、この骨董商自身がその後ニューヨークで
ここの家具を競売、アメリカでの新ルネッサンス様式調度の口火となったと。

再度の変遷の後、戦後最終的に国が買取り、他の博物館から調度を買い
寄付を受けたりで、博物館として開館したものの修復の為に長い閉館があり、
今年6月に再開されたばかりと言う、訪問チャンスでした。



入り口を入るとロビー空間があり、アーチを潜るとこの中庭。

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吹き抜けの中庭の素晴らしさに驚き! この見上げる高さに居住空間が広がります。
これは、中庭奥から入り口側を。左側の壁沿いに、家専用の井戸。

実はこの邸宅には2度行きました。 最初は、サンタ・トリーニタ橋から
シニョリーア広場に抜ける途中に通り、あ、ここだ!と見学。
その時に、今からでも上階を見る予約が出来ます、と親切に教えて貰い、
予約して出直したという訳です。



これは、入り口側から中庭の奥に向かい。

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建物は真四角ではなく、正面側は広く、奥(南部分)が斜め。
それが、部屋にも面白い不思議な印象を与えます。



写真はやはり禁止でしたが、写さずにはおれない素晴らしいもので・・!!
中庭1階部分のフレスコ画。

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中庭から上階に上がる階段。 奥に、地階への階段も見えます。
本来の中庭は屋根がなく、雨も降り込んだでしょうが、
現在は電動で開閉の覆いが。

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このダヴァンツァーティ邸は、1階中庭部分と2階が無料で見学でき、
開館 月曜から金曜 8時15分~14時  土、日曜 13時15分~19時
閉館 第2 第4の日曜、第1、3、5の月曜と、元旦、5月1日、12月25日
お出かけ前にサイトでお確かめくださいね。
http://www.bargellomusei.beniculturali.it/musei/4/davanzati/



2階への階段から。

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右側の壁の扉が開いている部分、あの壁の厚みの中に滑車があり、
下の井戸に通じています。
       
井戸の水がどの階でも、という贅沢。 中世の一般庶民は公共の井戸を
利用していたのを考えると、大変な富を持っていた事が分かりますね。



こんな感じに、中庭を囲み各部屋に続きますが、
部屋の外側の壁に、かなりの落書きが見えるのですね。
はや、もう既に?! と思いましたら、これは由緒ある落書き、との説明。

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かって部屋が事務所として使われていた時、外で待っている人たちが
計算用紙代わりに、はたまた詩を書いたり、の落書きで、消さずにあるのだそう。



2階の右側の大きな部屋。 ここが1階入り口ロビー上に当る部屋。サイトより

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高い窓の鎧戸をご覧下さい。幾つにも分かれ、用途に従い開閉できる仕掛け。
       


2階のパッパガッリ・オウムの広間・Sala dei Pappagalli. ガイドブックから。
食事用の部屋で、名前の由来は、綴れ織りで部屋が覆われた風の
フレスコ画装飾の絵柄からで、

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見えますか? 四角い柄の白い縁取り部分のオウムが。

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各部屋に監視カメラがあり、カメラに写らぬ位置から、はは、まるで泥棒猫!
おまけに、監視の女性がちょいちょい回って来るのですぅ!!
       
サイトで写真を探しましたが、皆さん私同様内緒で大急ぎか、殆どピンボケ!



こちらは奥の素晴らしい寝室、孔雀の間・Sala dei Pavoniとも呼ばれ、
上側の装飾、三角のアーチ部分に紋章と孔雀が。

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紋章は、縁組みをしたフィレンツェの各名家のもので80にも及ぶそう。

部屋の右側はまだ広いのですがねぇ、テレビカメラがねぇ。



少しピン甘ですが、同じ部屋の天井部分を。 格子天井の装飾が大変美しく、
感じだけでもね。
全体に装飾のフレスコ画には赤色が多く使われ、大変豪奢で密な印象に。

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これは狭い通路状の部屋で、布を織るための道具類とか、
素晴らしいレース類の展示とかあり、写真が撮れずに大変残念。

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11月にはガイドブックが、との話で、ウッフィーツィ美術館のブックショップに
関連本が1冊あると聞き、訊ねては見たものの修復関連の記事が多く、
重たくお高く断念。



はい、例によりトイレ関連を!

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2階の部屋の片隅に。 おマルを入れる位置がないのが・・、むむ!
建物の床は、すべてこれに見える焼き煉瓦。


      
この薄い盥は、水浴用でしょうね。  ピンボケご容赦。

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感心したのは、14世紀の建物というのに各部屋の隅を利用して、きちんと
設えられていた事。 裕福な商人の邸宅とは言え、当時にあって大変な贅沢と!
あのヴェッキオ宮にもトイレなるものは、私には3つしか見つからなかったのですもの!




これは、3階部分のトイレ兼お風呂。   サイトより
3階は予約しての見学で、10人程も一緒で写真がまったく撮れず心残りでしたぁ!!

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3階にこの大きな台所。   ガイドブックより
家の上階に台所があるのは、家中に煙や湯気が回らぬよう、
また火事を考慮してとの事。

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奥中ほどの扉の手前に、ハンドルのついた物が取り付けられていますが、
穀物挽きだそう。 粉挽きというと即水車を思いますが、
そうですよね、家庭でも手軽に挽いたのでしょう。

他にもふいごや天秤秤、糸の整形機とか手仕事の道具類が展示されており、
当時の日常生活を髣髴とさせるこの台所を見ると、時の隔たりを一挙に越え、
親近感を覚えます。



3階のいとも豪華なる寝室。  ガイドブックより
天井部分の愛の物語のフレスコ画に、唯一オリジナルが残っているのだそう。
フレスコ画が語るお話は中世フランスの伝承物語で・・

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城主夫人が、夫の騎士が戦いに出かけた留守中に、逗留した若い騎士に
横恋慕、迫りますが断られ、夫に逆恨みの嘘の告げ口を。

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若い騎士には別に愛する女性がおるものの内緒なので、名を出して
自分の正当性を主張できず・・。
部屋をぐるりと一回りして続く、愛の物語。 最後は皆死ぬのですと!


       
地図をどうぞ。

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ダヴァンツァーティ邸は、予約しての3階見学も、2階までの一般公開も無料です。
4階部分はまだ修復が済んでおらず、非公開ですが、大変素晴らしい!
との予告で、はい、お待ちいたします。

14世紀の中世の塔の家から、ルネッサンス期の邸宅建築への移行期に当る、
とにかく素晴らしい、一見の価値ある博物館。
中心部にも近く、大いにお勧めです!



ではこれより、ダヴァンツァーティ邸の南西域に向かいますね。

テルメ通り。 ダヴァンツァーティ邸から東に向かい次の角を曲がると、
その南に、こんな広場が。

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入って行くと何やら不思議な中世の空間で、建物前の標識に
左が、元のサンタ・マリーア・ソプラ・ポルタ教会・S.M.sopra Porta
右が、カナッチ・ジャンドナーティ邸・Canacci-Giandonati

突き当たりに見えるのが、グエルファ側隊長の館・パラージョ・デイ(・カピターニ・ディ)
・パルテ・グエルファ・Palagio dei Capitani di Parte Guelfa
とあり、??!!
       
一瞬にして、中世の真っ只中に迷い込んだ印象。
調べて分かったのは、ソプラ・ポルタ教会は11世紀に遡り、門の上教会という名は
古い市壁の南門の傍らにあった由来からで、

最初はこの教会でグエルフィ・教皇派が会合を持ち、13世紀に隣に集会所
として館ができ、この周辺一帯が教皇派の中心であった様子です。

カナッチ・ジャンドナーティ邸は、裕福な商人のカナッチ家が15世紀後半に建設、
写真に見える手前側のジャンドナーティ邸と併合した事などなど。

グエルファ側の館と、カナッチ・ジャンドナーティ邸の間に薄暗い狭い小路があり、
そこを辿ります。



と、狭いテルメ小路の向こうに細い塔の家。 地面から最上階まで、
フレームに入りません!

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ボンデルモンティの塔・Buondelmontiという13世紀の塔で、
同名の一族は、この近辺にたくさんの塔を持っていたと。

13世紀のフィレンツェに於ける他の塔と同様、上辺が真っ直ぐで、1階の中程迄は
切り石積みが見えますね。切石積みがフィレンツェで最初に見られる例の一つだそう。
       


ご覧の通り、ちゃんと1階部分はお店になっていて、少人数のグループが
ガイドの説明を拝聴していて、ここがテルメ通り・via delle Terme.

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もう1本細い小路を南に抜けると、ボルゴ・サンティ・アポストリ通り・
Borgo Santi Apostli.

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塔上部が光り、見難くご容赦ですが、この古い塔もボンデルモンティの塔・
Buondelmontiで左隣に建物が続き・・



アッチャイウォーリ邸・Acciaiuoli といい、隣接の塔も、元ボンデルモンティの塔
と呼ばれ、フィレンツェの大名門アッチャイウォーリ家の持ち物だったそう。

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アッチャイウォーリ家というのは、ナポリ王国の執事を務めていたそうで、
塔は13世紀末の、館は14世紀とフィレンツェでも最も古い建物のうちに入るそう。
現在ここはホテルになっていますから、皆さん、お泊り可能で~す。
   


この辺り一帯いまだ中世の雰囲気濃厚ですが、可愛い野菜果物店も。

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道を辿るとすぐにアルノ河沿いで、狭い薄暗い中世の小路を抜け、ホッと深呼吸。

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快晴の日曜、フィレンツェ滞在最後の日。 ヴェッキオ橋も撮り収めです。

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◆*◆

フィレンツェについては一通りの知識のみで、今回も歩きながら見て感じ、驚き、
戻って調べる、という経過でしたが、中世好きには発見の地区でした。

知るとまた知らない事が増え、でも大いに楽しんでいます。
上手くお伝えできていると良いのですが!
ではまた次回、よろしくお願いいたしま~す!

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・ フィレンツェ ・ 黄昏から夜に 

今日は「フィレンツェ・黄昏から夜に」と題し、暮ゆくアルノ河の眺めと、
灯りの点いた街のほんの中心をご覧頂きますね。
少し甘く感じる、夕暮れの空気をどうぞ!

アルノ河・Arnoにかかる橋で一番有名なのがヴェッキオ橋・Ponte Vecchio.
ヴェッキオ・古い、という名の示す通り、街で一番古い中世からの橋で、
橋の両側に貴金属品店が並んでいるのはご存知の通り。

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中空に月が見えますが、少し欠けているでしょう? 夕暮れから夜に
かけての写真は2回試み、これは最初の夕暮れ。



これはヴェッキオ橋から一つ上流の橋、アッレ・グラーツィエ橋・alle Grazie.
左中ほどに張り出し、灯りが点いているのがウッフィーツィ美術館・
Galleria degli Uffizi.

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街にもボチボチと灯が点り、人恋しくなる時間。 ちょうどお腹も減って来る頃。
ホラ、月が上の写真よりも丸いでしょう?



位置が少し飛びますが、夕暮れ時間の、洗礼堂、ドゥオーモ、鐘楼を。
白い大理石も、黄昏の陽にほんのりピンクに。

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レプッブリカ(共和国)広場・Piazza della Repubblicaには
メリーゴーランドが回り、今灯がついて。

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今年10月初旬のフィレンツェは日中暑い程で、夕暮れ時もまだ、
皆さんご覧の通りの軽装。



観光客でいっぱいのヴェッキオ橋の中ほど、店が途切れた部分からの眺め。
下流には、サンタ・トリーニタ橋・Santa Trinita. 少し空が染まり始め。

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たくさんのカヌー、ボートが練習を。 

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ヴェッキオ橋の上流アッレ・グラツィエ橋の上側と、サンタ・トリーニタ橋の
一つ下のカッライア橋・alla Carraia の先には堰があるので、
この4つの橋の間を往復しての練習風景。

街を流れる河には、風情がありますね。



2階建ての周遊観光バスが、トリーニタ橋を渡って行きます。
多分これが私も乗った最終バス。

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フィレンツェの周遊バス観光については
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461594577.html



写真ではかなり明るく見えますが、既に暗くなった水面をミズスマシみたいに。

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女性が艫の舵取りで、両手にロープを引き、大の男4人を従え・・!
カッコいいなぁ。

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水面に出来る波紋。



こちらは、カッライア橋。  最後の照り返し。

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ヴェッキオ橋から上流を。
街燈も明るさを増し、右奥の丘の中腹の明かりはミケランジェロ広場。

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サンタ・トリーニタ橋。 いい色になりました。

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ヴェッキオ橋に並ぶ貴金属店の店先。

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ショウウインドウの覆いは、下に見える木の上げ蓋式で、いまだ中世が残ります。



ヴェッキオ橋の上も人で溢れていますが、橋の向こうも、こんなに混雑。

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サンタ・トリーニタ橋に移動し、一つ下流のカッライア橋、既に夜の帳が降りはじめ。

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サンタ・トリーニタ橋は幅も広く車の交通量が多く、橋の上の移動にも要注意。
ヴェッキオ橋を望み。 肉眼にはこんなに明るくなく、ヴァザーリの回廊もいやに白く。



サンタ・トリーニタ橋の入り口の彫像。 橋の上もアルノ河沿いも、
交通量が激しく、ここに立つのがお気の毒なような・・!

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もう一度、ヴェッキオ橋。 空の色が一段と濃くなり、月が冴えます。

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ライトアップされた、ヴェッキオ宮の塔。

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ヴェッキオ宮・Palazzo Vecchio、ロッジャ・loggia等のある、
シニョリーア広場・Piazza della Signoriaまで戻ってきた所。

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広場の周囲をレストランやカフェが取り囲み、ヴェッキオ宮もロッジャもライトアップ
されていますから そう暗くはないとはいえ、自分の写真の明るさに驚き!




広場の端から、街の一番の目抜き通りのカルツァイウォーリ通り・
via dei Calzaiuoliを。

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まだまだ人通りは多いものの、夕食時間にかかり、少しずつ減って行きます。



カルツァイウォーリ通り中程にある、オルサンミケーレ教会・Orsammichele.

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かっては穀物倉庫だったと言うこの教会、周囲にはたくさんの壁龕があり、
守護聖人像やらマリア様。 面白い建物なので、また改めてご紹介を。

この手前角の道を東に入っていくと、ダンテの家(偽の)博物館があります。
街の地図は最後にご覧頂きますね。

オルサンミケーレ教会についてはこちらに
http://www.italiashiho.site/archives/20171007-1.html



この凄い石壁は、レプッブリカ広場の西のストロッツィ邸・Palazzo Strozzi.

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メディチ・リッカルディ宮の石壁にも似て頑丈そのもの! 15世紀末の建設で、
ストロッツィ家は銀行家だったそうで、メディチ家の建物と似ているのも無理ないか。

それにしても、いわゆる馬つなぎの金具は余りにも大きく、馬どころか
戦車も繋げそうですけど、一体、何を繋いだんだろ?
 


レプッブリカ広場まで戻り。 広場の西には、19世紀に造られた凱旋門が
ありますが、これはそのアーチの下。(いささか曖昧)

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日本の明かる~~い明るさとは違います。



メリーゴーランドの灯りが一段と華やかになり、人出も賑やかに。

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と言うのも・・



諸国物産展が開かれていました。 この手の催しは本当に多く、たくさんの
人も集まります。 やはり、イタリアは食の国!

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なかなか上手く写せません。 人が集まると屋台が見えなくなるし・・。



ドゥオーモ広場まで戻り。 サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂・
Santa Maria del Fioreが夜空に浮かびます。
 
28-018_GF.jpg      

昼の美しさとはまた違い、少し荘厳なイメージ。



まだ明るい灯の点るカルツァイウォーリ通りからこの広場に入ると、
一瞬その薄暗さに驚くほど。

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そう、確かにライトアップはされているのですが、ほんのりと、なのですね。
このセンスが大変心地よく。



洗礼堂、ドゥオーモ、鐘楼と、目一杯に欲張って!

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晩御飯を食べに行こう、と広場北側の道に出て振り返えると、この月。
おお、ほぼ満月!
       
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最後は、特等席からの眺めを。 

フィレンツェ滞在中は、宿近くの中華料理に日参。 いえ、お昼は出かけた場所で
食べましたが、夜はずっと同じ中華料理店。 ははは。

この夜、日本人ご夫妻と同じテーブルになり、ハイネッケン大瓶1本の私を
ご覧になったお二人が、もう少し飲みましょうか? と
近くのご自宅に誘って下さり、ご馳走になりました!

それが何とも素晴らしい、古いお家を修復されたご自宅で、しかも最上階の
窓からは、お二人が仰るメディチ家礼拝堂、ドゥオーモ、ジオットの鐘楼 と
「豪華3点セット」が見えるのです!
という事で、お許しを頂き、皆さんにもご覧頂きますね。
    
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ご馳走は、白ワイン、千枚漬け、海苔のおかき、 そして長いイタリア経験からの
話題と素晴らしい眺め。
楽しい良き思い出に、感謝です!



地図をどうぞ。 街の地図はあちこちでご覧になれるので、
大体の位置が分かる程度のものを。

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◆*◆*◆

ブログご訪問、有難うございます!
来伊していた友人達も無事日本に戻ったとのメールが届き、私も日常生活に
戻り、プールにもきちんと通い、晩秋の素晴らしい色の道を行き来しています。
       
先日の朝は既に低い畑に霜が降り、たっぷり野菜のスープが一際美味しい毎日。
今日プールの予約延長をしましたら、なんとクリスマス休暇をはさみ、
来年1月初旬までの日付!
いよいよ、カレンダーを準備する時期になりました。
皆さんも、体調にお気をつけて、風邪など引かれませぬよう!
       
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・ ヴェネツィア ・ ゴルドーニの家博物館、サン・トマ広場周辺

今日はヴェネツィアのサン・トマ・S.Tomà広場近くにあるカルロ・ゴルドーニ・
Carlo Goldoniの家博物館と、広場にある「中世からの靴職人学校・
Scoletta dei Calegheri」についてのご案内を。

地図をどうぞ。 サン・トマと呼び習わしていますが、聖トンマーゾ・S.Tommaso
の事で、カンポ・サン・トマはリアルト橋の北詰を西に、カンポ・サン・ポーロ・
S.Poloを抜け橋を2つ渡り、突き当たりを右折すると出る広場で、

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2つ目の橋の手前、地図の41番がカルロ・ゴルドーニの家博物館。
ちなみに、ヴェネツィアでは広場をカンポ・campo、またはコルテ・corteと呼び、
普通使うピアッツァ・piazzaを名乗るのは、サン・マルコ広場のみです。

昔一度閉館時間に訪れた事があり、中庭の印象をしっかり覚えていましたから、
簡単に辿り着く筈が、サン・トマ広場まで行き、あれ?!



近くで訊ねるとやはり行き過ぎで、橋まで戻ります。
ちゃんと緑の幕も出ているのですが、逆行きだと分かりませんよね。

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これが通りから見える中庭で、かってはここから直接上に上がる様になっていたのが、
現在ここは鉄柵で閉じられ、少し先にあるガラス扉が入り口。
おまけに閉館日で見過ごしたのでした。

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サイトはこちらに  http://carlogoldoni.visitmuve.it/     
開館 10時~16時  閉館 水曜



で、近くのサン・トマの渡しを見に行きましたが、ご存知の通り、大運河に架かる橋は
現在4本で、その間を埋める大型ゴンドラの渡しが7ヶ所あります。

時にマイクロソフトは素晴らしい発想の変換をしてくれますが、「サン・トマの渡し」と
書きたいshinkaiに「サン・外間の私」とお応えに! トンマでなくて幸い! がはは。

大運河への狭い小路脇に、こんな立派な建物。

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折りしも渡しのゴンドラが着いた所で、待ち構えていた人々が乗り込み、
すぐに折り返して行きます。

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大運河の向こうのサン・タンジェロから戻って来る所。

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渡しは、まさに地元の人々ご用達の様子で、男性は皆立ったまま。



渡し場の横の建物の壁のライオン君。 入り口の両脇にあり、お護りの意かも。

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でもね、これはきっと元々は教会の前にあったものと思います。 というのも、
ほら、前足の所に別の動物が抱え込まれた格好でしょう? なので、どこかの教会の
建て替えの時にお払い箱になったのを持ってきたのかも。



振り返る位置に、見える小さな橋。 橋の向こうに見えるのが・・、

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カルロ・ゴルドーニの家博物館。

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翌日出直して、これは中庭。

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右のガラス扉内が、博物館の切符売り場で、鉤の手形の中庭に一旦出て、
最初にご覧頂いた階段を上ります。

この中庭が大変美しい雰囲気。 運河側からも見えた家の舟着場があり、
上に中2階式というか、納屋があり、まさに現代の車庫ですね。



上の切符売り場から中庭に出る正面の壁にこの写真。
・・私の生涯は、まさに喜劇でして・・  カルロ・ゴルドーニ
       
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18世紀のヴェネツィア生まれ、イタリア喜劇の大作家である彼について、
私の知識はほんの少々。

リアルト橋南詰めのバルトロメオ広場にある彼の銅像はこちらでご覧頂きましたが、
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462200568.html 
     



中庭の舟着場の上に張り出した天井部分。 こういう細かい装飾が大好き。

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鉤の手になった中庭を、舟着き場の位置から。 美しいでしょう?!!

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中庭の井戸。
    
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この家で、1707年2月25日に生まれた事を彼自身が記しているそうですが、

この家は借家で、大家はリッツォ家・Rizzoで、井戸にriccioと彫られているそう。
建物は16世紀の半ば迄ツェンターニ家・Zentaniが借り受けており、そこから
ツェンターニ(チェンターニ)邸と呼ばれていると。



鉤の手に中庭が曲がり、ここに入り口に続く階段。

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水の都であるヴェネツィアでは、運河からの入り口が正面玄関で美しく、
こちら小路からは、少し狭い感じですね。



階段手すりのライオン君。 小さいながらもきっちり彫られ、手の込んだ作りで、
借家というのが驚きです。 

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見上げると、建物の入り口。

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14世紀から15世紀初頭にかけての、ヴェネツィア・ゴシック様式の典型的な建物で、
そう大きくはない、というものの土地の狭いヴェネツィアにあって、かなり上等住宅と。

ゴルドーニ家はモーデナ出身の中産階級で、父方の祖父母からヴェネツィアに移住し、
17世紀の終わり頃から一家はこの家に。 が、祖父カルロの浪費で経済状態が
良くなく、父親のジューリオ・Giulioは妻と息子を残しローマに。

医者として働きながら息子を呼び寄せ、カルロは哲学の勉強をリミニで始めるものの、
母親恋しさか、はたまたキオッジャの喜劇に刺激を受けたか勉強を放棄、
父親についてあちこち移りながら、次第に喜劇作家としてのキャリアを積んでいきます。



建物の2階の入り口から入ったサロンでは、ヴィデオで彼の生涯の紹介が見られ、
そしてその横に2部屋あり、一つがこの部屋。

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ご覧の通り、マリオネットが展示され、小さな舞台も設えられています。
どの部屋も大変明るく、修復されたとはいえ美しい作りの建物、部屋。



可愛いマリオネットの人形。 衣装も、女性の胸の膨らみもなかなか!

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マリオネットは、父親が息子の愉しみに実現させた様で、彼自身がその思い出を
懐かしみ、思い出に繋がるこの家についても書いているとか。



マリオネット人形があれこれ展示されていましたが、この背景の絵の写真にドキッ。

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絵は、ヴェネツィア・アッカデミアにある(まだ未見)ピエトゥロ・ロンギ・Pietro Longhi 
の「小演奏会・Concertino」で、描かれているのは、アントニオ・ヴィヴァルディと。

この絵については、一度ご紹介をしており、
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461262801.html       
 
ヴィヴァルディについてあれこれ読み、この絵には少し違う感想を持ち始めていたのですが、
ゴルドーニとヴィヴァルディはヴェネツィアで同時期に生き、オペラ上演での交渉もあった様で、
この絵がこの博物館で使われているのは、やはりこの人物がヴィヴァルディと見なされている、
という事なのでしょうか。

この家博物館の切符売り場横にブックショップがあり、
「ヴェネツィアのヴィヴァルディ・VIVALDI A VENEZIA」Virgilio Boccardi著 
CANOVA出版  を見つけて購入、現在読んでいます。
       
小説仕立てで読みやすいものの、人物、出来事、年代など等、すべて事実に
即しているとの事。
一度彼のちゃんとした伝記を読みたいと思っていたので、毎晩白ワインをお供に、
ゆっくりと読んでいます。



マリオネット人形の仕組み、の展示。 まさに、文楽の人形と同じだなぁ、と。

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人形を撮った所で管理の女性がお出ましで、シニョーラ、部屋の全体は良いですが
細部は駄目です、との仰せで、はい、有難く!まだ写していなかった全体を写し、へへ。
写真の表示にXが付いてはいたのですが、フラッシュが駄目?という事なのかと・・。



もう一つの部屋には、彼の作品の本の展示がありましたが、私の興味は
部屋の真ん中の模型に。
当時のヴェネツィアの劇場と、ゴルドーニの住んだ家を示す大きな木の模型で、
一つずつ駒をはめて場所を確認出来る仕掛けでしたが、これは小冊子から。

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劇場の位置 (緑に白地)
1. トロン・ア・サン・カッサン・Tron a San Cassan
2. ヴェンドゥラミン・ア・サン・ルーカ・Vendramin a San Luca
3. グリマーニ・ア・サン・サムエレ・Grimani a San Samuele
4. サンタンジェロ・Sant'Angelo
5. グリマーニ・ア・サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ・
   Grimani a San Giovanni Grisostomo
6. サン・モイゼ・San Moise`
7. サン・ベネット・San Benet

ゴルドーニは、ヴェネツィアだけでも9ヶ所に移り住んだそうで、赤い印がその位置を示し、
薄緑で囲ったのが、現在の生家博物館。

最初に見たヴィデオでも、彼の移り住みが映りましたが、目まぐるしい程あちこちに!
最後はパリで、1793年2月6日に没しています。

模型には、確か11箇所ほども劇場があり、この地図の北にもあった様子。

当時のヴェネツィアはローマと並び一番劇場の数が多く、イタリアのみならず、ヨーロッパでも
群を抜いてオペラ、コンメーディアが上演され、活気に満ち繁栄していた事が良く分かります。
ゲーテの「イタリア紀行」にも、ヴェネツィアでの劇場通いの様子が描かれていますね。
       


カタログより、サン・ベネット劇場のディナー舞踏会、フランチェスコ・グアルディ、
1782年頃。 当時の華やかな劇場の様子をどうぞ!

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17~8世紀のイタリアの劇場の様子、一世を風靡したカストラート歌手については、
「カストラートの歴史」 パトリック・バルビエ 野村正人訳 ちくま学芸文庫 に詳細に。



こちらは、渡しとは別の位置から大運河を。

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ヴェネツィアの大目抜き通りとでも言う大運河には、右にも左にも素晴らしい邸宅が
目白押しですが、大運河を往復して写しましたので、またご紹介を。



近くの塀から覗く木々に秋の色が。 庭の少ないヴェネツィアでは珍しい光景。

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ゴルドーニの生家の先の橋を渡り、暫く行くと突き当たりの壁で、こんな風にマリア像。

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そこを右に折れサン・トマ広場に。



井戸があり、広場の北端にこの美しい建物。

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右奥に見える鐘楼は、デイ・フラーリ教会・S.M.dei Frariのものですが、
この正面がサン・トマ教会と、shinkaiめは長~~い年月思い込んで来たのです!

ゴルドーニの家博物館が閉館だった日のお昼を広場のレストランで食べながら、
(ニース風サラダ、アンコウの尻尾のグリル。旨かったぁ!)

予てより美しいと思っていた正面壁のマリア像を見つつ、レストランのカメリエーレに
サン・トマは、靴職人の守護聖人ですか? と質問を。



というのも、正面壁のマリア像の下、入り口上の半円に聖人らしき人物と、
蹲る人が見えますね? その部分をアップすると・・

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人物像の下に靴の形が3つ、真ん中の一つは女物のサンダルらしき形ですが、
これに見覚えがあったのです。

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昔ヴェネツィアの靴職人のギルドとして紹介されていた写真を見ていたのですね。
で、サン・トマが守護聖人かと尋ねたのですがぁぁ、

靴職人の守護聖人は聖アニアーノ・Anianoで、これは教会ではなく、広場の南にある
大きなバロック式、突き当たった高い壁がサン・トマ教会、と知ったという訳! きゃいん。
 
名を控えた紙が紛れ、もう一度家で調べ直し! ですが結果として、大変興味深い事も。
半円の人物、立っている方は聖マルコで、靴職人アニアーノを治した場面との事で・・、



入り口の扉にこんな表示。 Scoletta dei Calegheri・スコレッタ・デイ・カレゲーリ。

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カレゲーリとは、ヴェネツィア訛りで靴職人の事で、その学校だというのです。??!!
お昼を食べている間に、学校、図書館が閉館。 が、サイトで調べ疑問解消。



ヴェネツィアに於ける靴職人の仕事は古く、13世紀に靴職人とスリッパ職人の職業組合が
出来ると共に、職人学校も作られたのですね。
この仕事は長い下積み修行がいるのだそうで、最初はサン・サムエレ・San Samueleに。

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面白いのは、靴職人・calegheriは使い古しの皮で靴やブーツを作る事は許されず、
一方スリッパ職人・zavateri・ツァヴァテーリはスリッパやツッカケに、新しい皮を
使ってはならない、と決められていたそうで、なめし皮の供給は行政官の仕事だったと。
       
14世紀には近くに靴職人の信者会も出来、現在もその紋章が見られ、皮の広場・
certe della pelleと呼ばれる、なめし皮倉庫のあった広場もあるとか。

現在のサン・トマ広場に移ったのは15世紀半ばで、この職業は大変に繁栄し、
18世紀の終わりにはヴェネツィアに340の工房、1172人もが働いていたと。

残念ながら、現在は手作りの靴工房は殆ど無くなり、サン・トマの学校の近くに1軒、
サン・マルコ区にもう1軒残るのみだそう。

偶然の事から知った興味深い、職業の歴史でした。


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・ ヴェネツィア ・ ムラーノ島、サン・ミケーレ島

今日はヴェネツィアのムラーノ島とサン・ミケーレ島のご案内を。

既に良くご存知のように、ムラーノ島・Murano はガラス製品製造の島、
サン・ミケーレ島・S.Michele はヴェネツィア市民の墓地の島として有名ですが、
ここには明治の日本人も眠っています。
      
ムラーノ島、サン・ミケーレ島の位置を地図でどうぞ。

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2つの島、レース編みのブラーノ島には、赤い印をつけたフォンダメンタ・ヌオーヴェ迄行き
水上バスに乗るか、または乗り換えますが、今回サン・マルコ広場の東にある
サン・ザッカリーア・S.Zaccaria から、ムラーノ島直行便がある事を知りそれに。



この便だと、魚の尻尾のようなヴェネツィア本島の東の先をぐるっと回り、ムラーノの
運河に入り込んだ停留所ナヴァジェーロ・Navageroまで一挙に。

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フォンダメンタからブラーノ行きに乗ると、ムラーノには島の取っ付きのコロンナ・Colonna 
またはファーロ・Faroに停まるので、暑い時など島の奥まで行って戻るのが大変で、
挫折しっぱなしの私は、奥の美しい教会にまで辿り着いた事がありませんでした、はぁ。
が今回は、奥から順番に見ながら片道の行程でOKという事で、皆さんにもお勧め!



サン・ザッカリーアから出発、ヴィエンナーレ会場前を通り抜け、本島の先っちょをぐるり、
かってのヴェネツィアのドゥオーモであったサン・ピエトロ教会の鐘楼などを眺め、ぐんぐんと。
なにせ直行便なので、大運河のヴァポレットとは段違いのスピード。

まだヴィエンナーレが開催中の事とて、途中のラグーナには、こんな象さんの姿も。

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ムラーノ島に近づいて。 見える鐘楼は、マリーア・エ・ドナート聖堂・
Basilica dei Santi Maria e Donatoで、ここが見たかった教会。

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ムラーノ島はガラス製品製造の島とのみ思い込み、その歴史を読む事もなかったですが、
今回いろいろ興味深い事も知りました。
       
ヴェネツィア同様に小さな7つの島から成り立ち、橋で繋がっている事、
ヴェネツィアは177の島、400にも及ぶ橋から成り立ちます。

ヴェネツィアの前身アルティーノから、トルチェッロ島と同様に、蛮族の侵入でここに
移住して来た事、ヴェネツィアに編入される12世紀までは自治権をもち、
独自の貨幣鋳造も行っていた事、

13世紀に本島から、ガラス製造工場がこの島に移された事など、など。

現在の島の人口は5500人程で、大小多数のガラス製品の工場、店が軒並みです!

       

運河沿いに並ぶ家、建物はご覧のようにヴェネツィアそのものですが、
なんとなくのんびり田舎風、と感じるのは気のせい? それとも空気のせい?

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島の中を抜ける幅広い運河沿いの道を、のんびりと行きます。
こんな水飲み場もあり、快晴の空の下、ゆったり感を満喫。

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ヴェネツィアと少し違う感じはこの島のポルティコで、道の上に建物が張り出し、
ポルティコが出来ているのですが、この形は、本島では殆ど見かけませんね。

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大きな建物の、大きな木の扉。 きっちりと小さな格子に組み、鉄の鋲が打たれ、
かっては緑色だった様で。

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興味深く見たのですが、上の地図のトゥレヴィザン邸・Trevisan だろうと。
どんな屋敷か調べましたが、残念。



島内には大小のガラス工場直営の店が軒並みで、実際に作っているのも見れます。
以前2度ほど見ましたが、炉の中から鉄の棒の先についた塊を取り出し、
吹いたり、くるくる回しながら、チョイチョイと引っ張ったり切ったり、あっという間に出来上がり!
まさに見事な職人芸。        写真はガイドブックより

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1295年にヴェネツィアのガラス工場は法令によりムラーノ島に移されましたが、
これは当時の建物は木造が多く、度重なる大火事の原因になったのと、
島に集める事により、ガラス職人の技術が外に漏れぬ様、管理しやすかったからと。

マストゥロ・mastro と呼ばれた師匠クラスは、特別な許可がないと島外に出かけられず、
逆に、様々な特権も受け、平民階級のうちこのマストゥロのみが貴族の娘と結婚できたと。
とはいえ厳しい監視の目を潜り、たくさんの腕自慢のマストゥロ達が、外国に逃げていったと。



橋の向こうに、ず~っと見たかった教会が!

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デイ・サンティ・マリーア・エ・ドナート聖堂。 オリジナルは多分7世紀に建設され、
次第に修復拡張されたビザンティン様式。

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といった言葉よりも、この美しい後陣部分をご覧下さい。

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後陣部分は、12世紀に再建された物だそうですが、何とも美しい!



煉瓦の色が大変複雑で、組み方も面白く。 上の三角形の部分には、
それぞれに浮き彫りの大理石がはめ込まれ。

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逆光になりますが、後陣全体はこんな感じ。
勿論、上の回廊部分には上がれませんが、この優雅さが何とも言えません。

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教会正面は後陣に比べ変哲がありませんが、内部にはラベンナ様式の黄金モザイクの
マリア像があり、床には12世紀の、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂と同時期と
思われるモザイク柄も。



周囲はかなり広い広場になっていて、アコーディオン弾きの年配のシニョーレが
シャンソンを弾き、後陣の下に休む人、パニーノを食べる親子・・、
まさに鄙びたヴェネツィア!
       
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ムラーノには素晴らしいガラス博物館もあるのですが、今回もパス、次回のチャンスに。

このカモメ君は、お昼を食べたレストランのすぐ横の運河の杭に停まり、
まるで猫ちゃんみたいにニャァ、ニャァと大声で催促!

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小路の奥に見える水飲み場。 もったいない感じが、無きにしも非ず。

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運河の向こうに、サン・ピエトロ・マールティレ教会・S.Pietro Martireの鐘楼。

今回はこの教会のジョヴァンニ・ベッリーニの絵を見るのも目的の一つで、
写真右端に見える鉄の橋を渡りますが、

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この辺り迄来ると、ムラーノ島もかなりの賑やかさとなり、建物も大きく晴れやかに。
これは上の写真の右側にあり、ヴェネツィア・ゴシックそのものの、
ダ・ムーラ邸・Da Mula という名の様。

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この運河の幅がかなりあり、奥に、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ・
S.Maria degli Angeli教会が見えます。
12世紀に創設の由緒ある教会の様で、20世紀初頭には病院になったりの歴史も。
 
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この辺りの野菜売りの舟でサクランボを買い、ぷっ、ぷっと種を運河に吹き散しながら
歩いた思い出が。 紙包みがすぐ赤紫色に染まる程に良く熟れた、美味しい初夏でした。



橋の上から。 ドイツ女性のような。

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サン・ピエトロ・マールティレ教会内部。14世紀創設のものは火事で全焼、
現在残るものは16世紀に再建された物と。

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お目当てのベッリーニの絵はこの右側の壁に。



ジョヴァンニ・ベッリーニ・Giovanni Belliniの
「聖母子、聖マルコ、A.バルバリーゴ元首、聖アゴスティーノ」
なのですが、教会内が薄暗く、大きな絵がかなり高い位置にあり、光も反射し・・!

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美しい図版でご覧になりたい方、cucciolaさんが解説も。
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/764969.html       

絵の中の、ヴェネツィア共和国元首アゴスティーノ・バルバリーゴ・
Agostino Barbarigo について少し調べました。

1486年から1501年までの74代元首(生年は1419年)で、ミラノ、マントヴァと組み、
フランスのシャルル8世の追い出しに成功、対トルコとの戦闘に苦しみながらも、
アドリア海沿岸の拠点も確保、最終的にキプロス島も併合。
国内的には、サン・マルコ広場の整備を始め、時計塔も彼の時代にの、頑張りの元首。

ちなみに千年を越すヴェネツィア共和国の元首が何代まで続いたのかは、
120代のルドヴィーコ・マニン(1797年共和国崩壊)が最後。
彼はかの有名な、アーゾロ近くの美しい別荘ヴィッラ・バールバロ・ディ・マゼールの持ち主。

ヴィッラ・バールバロ・ディ・マゼールのご案内は
       


で、この教会のもう一つの名物は、この美しい、たくさんのシャンデリアなのですね。
こうして見ると、少し細身で華奢に見えますが、大変大きな立派なもの。
       
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ムラーノのガラス製造が危機に落ちたのは15世紀。多分ムラーノのガラス技術を受け
ボヘミアン・グラスが製造され始めた時といいます。
が、シャンデリアがムラーノで作り出され危機を脱出、以来手作りのガラス製品で
世界に名を知られ、健在です。



内陣の、これまた大作の「カナの婚礼」B.Letterini(ヴェネツィア1669-1745)作。
私は単純に、あ、ワンちゃんがいる! と写し、はは、
部分を仔細に眺めていましたら・・、

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ワンちゃんが2匹、猫ちゃん1匹見つかり、おまけにあちこちが誰やら風という絵で・・!
細部に大いに拘り、全体はこれでもかぁと纏めました、とも言えそうなこの絵! ははは。

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宝物美術館も併設の教会ですが、裏の美しい井戸の内庭が閉められており、残念。



この教会を出ると、ムラーノの中央通リの運河が、まっすぐ水上バスの停留所まで。

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ここにも、古い美しいムラーノ風ポルティコ。

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逆向きに、運河の奥を望んで。

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橋の袂に、可愛い聖マルコのワンちゃん、いやライオン君。

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これは気に入り! 危うい場所にまたがる姿といい、珍しく上手いライオンの描写! 

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これは立派なヴェネツィア風建物、と思い眺めていましたら、
私の横のシニョーレが大声で、運河の向こうの建物の友を呼びます。

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そしてホラこの通り、顔が覗き、運河越しのお喋りが始まりました!

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も一つ、美しいムラーノ風ポルティコ。

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という事で、水上バスに乗り、すぐお隣の墓地の島サン・ミケーレに。

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今ミズゴケを掃除している場所に以前は水上バスの停留所がありましたが、
現在は少しヴェネツィア側に移動。
教会の正面は、サン・ザッカリーア教会と同じデザイン。



実はこの墓地に、明治時代に政府派遣の米欧州視察に同行し、そのままヴェネツィアに
残留し、現ヴェネツィア大学前身の高等商業学校で日本語を教え、
ヴェネツィア女性と結婚しながらも、若くして亡くなった緒方惟直のお墓があります。

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ずっと昔に知り、気にかかりつつ訪問のチャンスがありませんでしたが、
リンクしております「イタリア、とりわけヴェネツィア」のペッシェクルードさんが、
ご親切に写真とお墓の地図を送って下さり、今回遂に。

緒方惟直は、幕末の蘭学医で、幕府の西洋医学所頭取でもあった緒方洪庵の
第十子との事。 遥か130年前のヴェネツィアで、日本語教育の先駆けをし、
余りにも若くして亡くなったのでした。

惟直を維直、生年月日の1853年を1855年と間違えているとの事ですが、
この美しい日本字は、次の日本語教師の長沼守敬(彫刻家)が彫った物だそうで、 
多分、横顔もでしょうね。

彼についての記事は、ペッシェクルードさんがこちらに。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-11.html
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-70.html
 


ヴァポレットは、赤い印の辺りに到着、墓地の真ん中を広い道が通っていますし、
区画ごとの名が表記されていますから、この地図で簡単に辿り着けます。

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中央の道を真っ直ぐ奥まで、そして壁に囲まれた第2チェレーザの区画、
赤い印の位置にお墓が。
壁が古く危険なのか、鉄柵で遮ってありましたが、持っていった白薔薇を墓の下に置き、
長い間の念願が叶い何やらホッと。

地図の左下のストラヴィンスキーとディアギレフのお墓の位置もどうぞ。
どちらも行きましたが、今回は写真省略で。



ヴェネツィア本島に戻り、フォンダメンタ・ヌオーヴォより望むサン・ミケーレ島。
そう、本当に近いのですよ。

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・ 旧き良きフィレンツェの面影

今日はフィレンツェで求めて来た白黒写真の絵葉書をご覧頂きますね。

「旧き良きフィレンツェの面影」とはいえ、ルネッサンスの時代からでも
既に500年を経た都ですし、写真は殆どが戦後のものです。
が、まぁ、今とは一味違うフィレンツェをどうぞ!

◆アルノ河 今回一番新しい1989年のものですが、泰西名画風なので。

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◆バルジェッロ宮 1890年頃。 今回の中で一番古い時代のもの。

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バルジェッロ宮の建物は一つも変わりませんが、今のこの広場は
カフェのテラス席、車線の区切りなど等で狭く狭くなっておりました。



◆ザッカリーア  1910年頃。
ザッカリーアのフィアスコ・ワイン店・パッレ・ドーロ・金のタマ(!)

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金のタマは複数形になっていて・・、ウ、ウーム。
絵葉書の住所は、Zaccariaとなっているのですが、この名では見つからず、
Zuccari通り、Zuccari広場は街の南西部に見つかりました。
その他の絵葉書の住所位置は、皆健在です。



◆シニョーリア広場  1950年。

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人々の服装が少し違うだけで、まったく変わらず! ロッジャの中の彫刻が
少し汚れで黒いかな? 手前の男性は、レーガン大統領似ですね。

それにしてもウム、手前の彫像のお尻、この光の当たり様で、肉感的だなぁ!



◆中央市場  1952年。 中央市場は、今の位置とは違っていたかも。

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◆サン・ジョヴァンニ広場  1958年。 洗礼堂前広場ですね。
この男性達の目つき!! 目線!!

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うん、今もイタリア男はこうですよ。 でも綺麗な後姿ですねぇ。



◆ミケランジェロ広場  1959年。 変わったのは、カメラの形だけ!

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◆クローチェ・アル・トゥレッビオ通り  1959年。

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クローチェ・アル・トゥレッビオ通り・via della Croce al Trebbio、
検索で意外と駅に近い場所なのを知りました。
     


◆窓から  1959年。 眺めの良い部屋。

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◆窓から  1962年。 こちらも、眺めのええ部屋(広島弁)

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◆ヴェッキオ橋  1968年。 街燈の足は、今、3本のライオンの足です。

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◆ダヴィデ  1968年。 ケランジェロ広場のダヴィデ像。

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ええ、やはりダヴィデには快晴の空が。



◆サン・ドメニコ  フィエーゾレ 1969年。 こういう場所は、カラーが欲しい。

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◆フィエーゾレ  1970年。 石の手すりの回りこみ加減。

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フィエーゾレには、イタリアには、青空がよく似合う。



◆カリマーラ通り  フェッラゴスト  1974年

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フェッラゴスト・Ferragostoは8月15日。一番の酷暑の日とも見なされ、
聖母被昇天の祭日。
道理で人通りが少ない。昔は皆ヴァカンスに出かけ、街は空になった様子。
今は観光客がどっと押しかけ、夏も街に人が残ります。



◆アルファーニ通り  1975年

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アルファーニ通り・via degli Alfaniのワイン店。 あの小樽瓶にワインを
詰めたら、重たいでしょうねぇ! 自転車の前に積んで、大丈夫なのかしらん?!



◆アルノ河沿い コルシーニ通り  1975年

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サンタ・トゥリーニタ橋から西への通り。 今は2車線並んで走りませんが、
混雑振りは相変わらずですねぇ。



◆フレスコバルディ広場  1975年。 

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フレスコバルディ広場・Frescobaldiの レ・チアーネ・Le cianeが
写真のタイトルで、
言葉を知らず調べましたら、なんとトスカーナ地方の「お喋り女」の意なんですと。
でもこれは、イタリアの日常風景で~す。



◆アルコ・ディ・サン・ピエリーノ  1975年

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サン・ピエリーノ・S.Pierinoの礼拝堂が見つかったので、近所のバールでしょう。
小さな古い、昔ながらのバール。 常連客だけが通うような雰囲気ですが、
でもこれは、今もたくさん存在します。



◆アーリエント通り  1976年

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アーリエント通り・via dell'Arientoのトゥリッパ屋・Trippaioと。
       
トゥリッパ、ご存知ですね? 臓物の煮込みですね。
フィレンツェのビフテキは有名ですが、トゥリッパも名物料理です。



◆藁づとワイン  1952年。 写真タイトルがないので、私めが勝手に。

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冬の寒い夜には、猫肌にお燗したワインをどうぞ!
心の底から温まりますです、はい。
  
     
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