今日はカスティリオーネ・ドルチャ・Castiglione d'Orciaのご案内を。
町は海抜540mの丘の上にあり、写真右に要塞が見えますが、
要塞側はロッカ・ディ・オルチャ・Rocca di Orciaとなり
違うコムーネなのですが、今回は同じにご案内です。
要塞側はロッカ・ディ・オルチャ・Rocca di Orciaとなり
違うコムーネなのですが、今回は同じにご案内です。

中ほどの右端に見える、糸杉の並ぶ曲がりくねった道を行きます。
こちらはオルチャの谷訪問の宿とした、ピエンツァの東に位置する
モンティッキエッロ・Monticchielloからの夜景。
モンティッキエッロ・Monticchielloからの夜景。

地図上で計算すると、直線距離で55K、ン?! 驚き。
いくら望遠で撮ったにしろ、写真をカットしたとはいえ、
如何に空気が澄んでいるか!
肉眼でも見えたから写したので、ああ、オルチャの谷!!
オルチャの谷の地図をどうぞ。
カスティリオーネ・ドルチャは真ん中下に見え、
カスティリオーネ・ドルチャは真ん中下に見え、

その西の数字1は、次回ご紹介予定の
サンタンティモ修道院・abbazia di Sant'Antimo
北西に、モンタルチーノ・Montalcino
サン・クイリコから東に ピエンツァ・Pienza
さらに東に モンテプルチャーノ・Montepulciano
そのちょうど中間の2は、今回の最後にご案内予定の
モンティッキエッロ・Monticchiello
モンティッキエッロ・Monticchiello
この地図よりももっと南、オルチャの谷の端に
ラディコーファニ・Radicofani
ラディコーファニ・Radicofani
地図の真ん中をほぼ東西に流れるのがオルチャ川で、南西に行き
オンブローニ川に合流し、さらに西に。
グロッセート・Grossetoの町でティレーニア海に注ぎますが、
残念、こちら側はまだ行った事がありません!
これが55Kの距離からも見えた要塞で、確かにこの一帯を
移動していてもいつも目印になります。
移動していてもいつも目印になります。

なぜこんな頑丈な要塞が、というのは地図をご覧になると
すぐお分かりの通り、オルチャの谷を通る中世からのカッシア街道と
ヴィア・フランチージェナと呼ぶローマへの巡礼道が交わり、
西の海岸側への街道との交差要所だったのですね。
で、テンテンナノ・Tentennano要塞と、またはティンティンナノ・
Tintinnano と大変に響きの良い名を持っています。
Tintinnano と大変に響きの良い名を持っています。
オルチャの谷の南を見張リ続けたラディコーファニの要塞同様、
12~13世紀に造られたようですが、
歴史のさまざまな変遷を経て、町は16世紀にフィレンツェの下に。
と同時に要塞の価値を失います。
12~13世紀に造られたようですが、
歴史のさまざまな変遷を経て、町は16世紀にフィレンツェの下に。
と同時に要塞の価値を失います。
写真でご覧のように、上に人影が見える通り公園でもあり、
上れるのですね。
何とかの高上がりのshinkaiですが、さすがこの時は暑さにめげ・・。
上れるのですね。
何とかの高上がりのshinkaiですが、さすがこの時は暑さにめげ・・。
ヴィア・フランチージェナについては
細く伸びる町の、細長い広場、ピアッツァ・ウニタ・イタリアーナ・
イタリア統一広場。
そうなのです、町の北にテンテンナノ要塞があり、
そして南端に別の古い城跡があるのです!
イタリア統一広場。
そうなのです、町の北にテンテンナノ要塞があり、
そして南端に別の古い城跡があるのです!

美味しく食べれそうなレストランを求め、あの坂道を辿ります。
野良猫ちゃんの気持ちが良く分かる・・shinkai、ははは。
暑かったぁ!!
この広場がお目当てで、この町に来たのですね。
イル・ヴェッキエッタ広場・婆ちゃん広場。

この町生まれでシエナで活躍した、15世紀の画家、彫刻家、
金細工師、建築家のロレンツォ・ディ・ピエトロ・Lorenzo di Pietro
(1412~1480)勿論男性で、そのニックネームが「婆ちゃん」。
なぜそう呼ばれたのか、探しましたが空振り。
悪口ではなく親しみが感じられますから、多分、彼の容姿から?
まぁ、イタリア人はこの手の事は軽く言いますしね・・、はい。
それにしても周囲の家、広場の舗装、
すべて石、石、石で、おまけに大変な傾斜地!
すべて石、石、石で、おまけに大変な傾斜地!
◆ 追記を ◆
ロレンツォ・ディ・ピエトロがなぜ「婆ちゃん」というニックネームだったか、
が漸くに分かりました。
ロレンツォ・ディ・ピエトロがなぜ「婆ちゃん」というニックネームだったか、
が漸くに分かりました。
http://www.italiashiho.site/article/454594533.html
に記載しましたが、彼が描いた絵から注文主の枢機卿が大変喜び、
聖人や枢機卿の顔の頬に入れた深い皺から「まるでお婆さんの様だ」
という事から、その名が付いた様子。
に記載しましたが、彼が描いた絵から注文主の枢機卿が大変喜び、
聖人や枢機卿の顔の頬に入れた深い皺から「まるでお婆さんの様だ」
という事から、その名が付いた様子。
と、もう一点。
このカスティリオーネ・ドルチャが彼の生地であるという点についてですが、
1970年にカルロ・デル・ブラーボ・Carlo del Bravoという歴史家が、
ロレンツォ・ディ・ピエトロが1412年にシエナ生まれという
記録を見つけたそうで、上記した様にこの町が生地ではありません。
この発見をされたカルロ・デル・ブラーボという方は、フィレンツェ大の教授、
美術の歴史家で、2017年8月3日に亡くなられたそう。
このカスティリオーネ・ドルチャが彼の生地であるという点についてですが、
1970年にカルロ・デル・ブラーボ・Carlo del Bravoという歴史家が、
ロレンツォ・ディ・ピエトロが1412年にシエナ生まれという
記録を見つけたそうで、上記した様にこの町が生地ではありません。
この発見をされたカルロ・デル・ブラーボという方は、フィレンツェ大の教授、
美術の歴史家で、2017年8月3日に亡くなられたそう。
広場の中央にある井戸には、1618年の年号が。

さぞや深い井戸でしょうが、これが出来る迄の水の確保はどのように?
女性たちの苦労が偲ばれますね。
あの洗濯物が気になるのですが、町の高さを見て頂こうと、
家の隙間から平野の見えるのを。
家の隙間から平野の見えるのを。

家が低く、まさにこの一帯は古いままで、
トスカーナというよりもウンブリアの奥のイメージですね。
広場の南を占める現在の市役所。
かっての教会だったそうで小さな鐘楼つき。 それにしても大変な傾斜!
かっての教会だったそうで小さな鐘楼つき。 それにしても大変な傾斜!

壁に3枚の石碑が見えますね。
これが大変歴史ある興味深いもので・・、
1881年3月7日 の日付
この町で生まれた、ロレンツォ・ディ・ピエトロ
婆ちゃん と呼ばれた
金細工師、画家、彫刻家、軍の建築家 を記念して
この町で生まれた、ロレンツォ・ディ・ピエトロ
婆ちゃん と呼ばれた
金細工師、画家、彫刻家、軍の建築家 を記念して
という1枚目。

シエナの現在は博物館の元病院のサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ、
そしてドゥオーモにも一連のフレスコ画が残り、ドナテッロ風の
ドラマティックな彫刻、ドゥオーモの大聖遺物入れも、彼の作品と。
そしてドゥオーモにも一連のフレスコ画が残り、ドナテッロ風の
ドラマティックな彫刻、ドゥオーモの大聖遺物入れも、彼の作品と。
こういったいわば大作家の名も、この町に行く事で知ります。
皆さんにあちこちご紹介していますが、私自身がたくさん知ります。
まさにブログは、他人のためならず! ははは。
皆さんにあちこちご紹介していますが、私自身がたくさん知ります。
まさにブログは、他人のためならず! ははは。
1860年3月15日 午後11時55分
(詳細は省きますが) フィレンツェの破毀院に於て
イタリア王国建設に賛成か否かの住民投票の結果
圧倒的多数で賛成を決定した
(詳細は省きますが) フィレンツェの破毀院に於て
イタリア王国建設に賛成か否かの住民投票の結果
圧倒的多数で賛成を決定した

というもので、翌年、イタリア王国が建国の運びとなります。
が、この住民投票もイタリア中部のみで、ローマは未だ教皇領、
北イタリアはオーストリアの下、という状態でしたが、
さながら実況中継のような、票数も明示の、
まさにイタリア王国建設にかける熱狂ぶりが伝わる記念碑です。
ちょうど我が国日本も、1868年明治に改元
1860年には、勝海舟が咸臨丸でアメリカに、という年代で、
1860年には、勝海舟が咸臨丸でアメリカに、という年代で、
洋の東西を問わず、時代の大きなうねりは一致すると言いますが、
まさに、熱い熱い年代だったのですねぇ。
まさに、熱い熱い年代だったのですねぇ。
こちらが3枚目。
2004年に、オルチャの谷がユネスコの世界遺産に認定された
記念碑ですが、
2004年に、オルチャの谷がユネスコの世界遺産に認定された
記念碑ですが、

一番若い記念碑が、既に読みにくいような薄い彫りで、
古い方がしっかり読める、という
土地の人の熱気の違いかなぁ?! ははは。
最初の広場の写真で、広場の右奥に見える家の窓の下に
黒い標識がありますが、見えるかな? Trattoria → で
角を曲がった所にこのトラットリア。
黒い標識がありますが、見えるかな? Trattoria → で
角を曲がった所にこのトラットリア。

通常レストランのご紹介はしませんが、ここは簡素ながら美味しく、
ご主人のアイディアも素晴らしかったので。
Il Cassero ・イル・カッゼーロ
Tel 0577-888950 火曜日お休み
あの辺りにお出かけの時は、どうぞ。
奥さんは文化省のお手伝いで日本に行かれたとか。
料理を待つ間に見せてくれた写真集で、
訪ねたかったヴィタレータの礼拝堂の位置も、見当が付き。
料理を待つ間に見せてくれた写真集で、
訪ねたかったヴィタレータの礼拝堂の位置も、見当が付き。
ヴィタレータの礼拝堂
この一帯の旧い家並みの続く坂道を行ったり来たり。
素朴な石造り、軒が低く、煙突が多く、冬は寒いのでしょうねぇ。
素朴な石造り、軒が低く、煙突が多く、冬は寒いのでしょうねぇ。

素敵な一郭でしょう?階段周りも素晴らしいですが、
入り口が2つあり下にも入り口で、家の番号札は3枚、つまり3軒分。
入り口が2つあり下にも入り口で、家の番号札は3枚、つまり3軒分。

はい、家が狭いのは何も日本だけではないのです!
ウンブリアの、ヴァッロ・ディ・ネーラもどうぞ!
細い小路を抜けて行き、殆ど南端の城跡の下、
可愛い2軒のお家の入り口。
可愛い2軒のお家の入り口。

小さな古い家並みの向こう、オルチャの谷が広がります。

町の南はずれに、小さな古い聖ステーファノと聖デーニャ教会・
piave dei Santi Stefano e Degna
度重なる修復で、正面入り口の上のみに中世の面影が。
piave dei Santi Stefano e Degna
度重なる修復で、正面入り口の上のみに中世の面影が。

内部にあった、「婆ちゃん」の作品や、ロレンツェッティ、
シモーネ・マルティーニなど、モンタルチーノや近くの美術館に
収蔵との事でしたが、時間が合わず・・。
上でご覧頂いた、イタリア統一広場の端にある泉。
とにかく暑い日で、のそのそと上った道をゆっくりと下り・・。
とにかく暑い日で、のそのそと上った道をゆっくりと下り・・。

町の一番東はずれにある、素朴なロマネスク様式の教会
サンタ マリーア・マッダレーナ・Santa Maria Maddalena
小さい、アーチ式鐘楼があり。
サンタ マリーア・マッダレーナ・Santa Maria Maddalena
小さい、アーチ式鐘楼があり。

今こうしてみると教会の扉が開いていますが、中は・・。 ああ!
夏は、もう駄目! この夏はひっそりとプールのみで過ごしますぅ!!
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