・ チェコ ・ プラハ ・ Praga 

今日は月1度のゲスト、オルゴリオーザさんの素晴らしい写真で、
チェコのプラハにご案内いたします。
  
イタリアを離れての場所で、秋にふさわしい場所、
自分ならどこに行って見たい?と考え、
「プラハの写真は?」と尋ねると「ありますよ」と!!
という事で、私も興味のあるプラハをご案内して頂きます。ではどうぞ!

***
 
チェコへは、ミラノ・マルペンサ空港からアリタリア航空で2時間ほど。
プラハは歴史の嵐に翻弄された街ですが、奇跡的に、街が戦火に
さらされた事はなく、中世以降の様々な建築物が美しい姿を競っています。

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街はヴルタヴァ河(ドイツ語ではモルダウ)が中央を南北に流れ、
その西側に王宮などのあるマラーストラナ地区、
東側は旧市街広場などが点在する旧市街地区、と分かれますが、
両地区を結ぶカレル橋は、チェコ最古の石橋だという事です。

プラハに着いて、夕方にケーブルカーを使って丘の上に登りました。
写真はそこから見たプラハ城の夜景。 
19世紀まではハプスブルグ家の支配下にあったところです。



王宮内にあるヴラジスラフ・ホール。 柱のない巨大な天井を
力学的に支えるリブが、花びらのような美しい模様となって、
シャンデリアの光とともに人を魅了します。
今でもここで、大統領選挙の開票が行われるそうです。

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カレル橋。 橋の上には30体もの聖人の彫像が建ち並び、
野外美術館のような美しさを誇っています。  

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ローマの、サンタンジェロ城前の橋を連想させますね。  
ここにはフランシスコ・ザビエルの像もあります。



橋では音楽の演奏があり、絵を売る人がいたり、終日賑わいます。  
夕方、橋からみたヴルタヴァ川の光景です。

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スメタナの作曲した交響詩「わが祖国」の第2楽章に、
「ヴルタヴァ」という曲がありますね。 あのメロディが聞こえる様でした。



橋を渡って東側の地区に入ると、すぐに旧市街広場があります。
ここは市民の憩いの場所。 時計塔に登って広場を見下ろすと、
こんな感じで、街並が美しい。

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旧市街広場の中央にある「ヤン・フスの像」
プラハ大学総長で、中世の腐敗したキリスト教改革ののろしを上げ、
改革半ばで火刑に処せられた英雄です。
マルチン・ルターの宗教改革より100年も前のことです。 
 
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同広場の夜。 ここも柔らかい光に包まれて幻想的なムード。  

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モーツアルトはプラハに4回も滞在しており、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」は
ここで書き上げたといいます。 映画「アマデウス」は、
実際にはウイーンではなく、プラハでロケが行われました。



同広場にあるティーン教会は重厚な塔を持ち、夜景にも映えていました。  
夜になっても人で一杯です。

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同広場を通り越して行くと、市民会館があります。
市民会館といっても、どこの市にもあるような画一的なものではなく、
この中にはミュシャ(現地ではムハ)の絵や、
プラハの春音楽祭が行われる、スメタナホールなどがあります。

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その北側の通りで、カフカは生まれました。 
今その建物はありませんが、新しい建物がカフカ記念館になっており、
カフカの顔が、壁に貼ってあります。
  
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この旅の前に街の様子を知ろうと、彼の著作「変身」を読みましたが、
この本は、虫に変身した男が部屋の中をうごめいているだけで、
全く街の描写などは出てきませんでした。 選択の失敗でした。



少し南に下ると、こんなキュビズムの建物もあります。
一瞬、飛行機でも落っこちて壊れたのかと思わせます。

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一方で、こんな優雅なドゥオモのような空間もあり、
これは、プラハ中央駅の3階にあるカフェです。  

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「プラハは百塔の街」と言われますが、建築物の競演の地でもあると。



最後に、近代史の現場ともいうべきヴァーツラフ広場のご紹介を。
広場の中央にある騎馬像は、チェコの守護聖人・ヴァーツラフ。

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1918年、チェコのハプスブルグ家からの独立宣言が
この像の前で読み上げられました。  
その後ナチス軍の占領を経て、旧ソ連の事実上の
支配下に置かれました。

1968年、時のドブチェク大統領らが、ソ連の従属から
民主化路線への脱却を図った「プラハの春」では、
この広場が公開討論の場になりました。
しかし、ソ連軍(ワルシャワ機構軍)がこの広場を戦車で蹂躙します。

20数年の時を経て1989年、共産主義体制崩壊の流れに乗って、
チェコでは非暴力により遂行された「ビロード革命」が達成され、
ハヴェル大統領は、数万人の市民で埋め尽くされたこの広場で、
高らかにチェコの解放を宣言したのです。

歴史の現場は、私の行った日は燦燦と降り注ぐ陽光に照らされて、
華やかな輝きに包まれていました。
解放宣言をした大統領の傍らには、東京五輪の体操で
金メダルを獲得した、あのチャスラフスカも同席していました。
  
彼女は体操を引退後、政治的弾圧に屈せず
反体制運動に参加しており、このあとチェコの医療福祉担当の、
大統領顧問も勤めました。

実は彼女の「今」も知りたいと思い、現地の人に聞いたのですが、
「病気で療養中」とのことでした。
しかしその後、後藤正治のノンフィクションが発刊され、
それによると「息子が元夫を殺す、という殺人事件の影響で
心の病にかかり、療養生活を送っており、
人と会うことを一切拒んでいる」ということです。

激動の歴史と、その渦中で懸命に生きた彼女の半生。
時代の過酷さと、不条理な運命のいたずらに、
胸が熱くなる思いがします。

**
  
如何でしたか、プラハのご案内は?  
こうして、かいつまんで歴史も書いていただくと、
尚の事興味深いですね。
  
ハヴェル氏が大統領になった時、「プラハの春」のドプチェク氏が、
家のベランダから身を乗り出し、集まった人々を抱擁の仕草をした事、
数年前のヨーロッパ中を巻き込んだ大洪水で、
「アマデスス」の撮影に使われたあの素晴らしい劇場が、
すっかり水に浸かり、再起不能かもというニュースが
流れましたが、その後どうなっているのでしょうか?

チェコ・スロヴァキア共和国が2つに、チェコと、スロヴァキアに分離した時も
他の共産圏支配の下にあった国の様な、流血の惨事はなく済みました。
ハヴェル氏も、大統領を2期勤めて引退され、
あの穏やかな顔と姿を、もうTVのニュースで見る事もなくなりました。

長い激動の歴史を経てきたこの美しい国、
1度は是非訪ねて見たいものです。


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・ ロンガローネの悲劇 ・ ダムの出水に飲み込まれた町 

先日43回目の悲しい記念日を迎えたばかりの町、1963年10月9日の夜
山崩れによるダムの出水に飲み込まれた、ロンガローネ・Longarone
をご案内致します。

我が町コネリアーノから、北に約50キロほどの位置にあり、
今は逆に「ヴァイヨンの悲劇」で観光客が集まるロンガローネの町です。 

1963年10月9日  時刻22時39分 
銅板には、悲劇の起こった日付と時刻が刻まれています。

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ロンガローネの町から東を望むと、正面中央に細く山に挟まれたダムが
あるのがお分かりでしょう。
ENEL という、イタリアの電力会社(ほぼ国営)が造ったダムです。

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ヴァイヨン・Vaiontの渓谷を流れ下るヴァイヨン川を利用しての、
世界一高いダム、と呼ばれるものです。
       
このダムからこちら町に向かって下った所に、ピァーヴェ河が流れていますが、       
ダムの溜まった水の中に右側の山が崩れ落ち、その勢いで跳ね上がった水は
谷を下りピァーヴェ河を越え、こちら側のロンガローネの町と、
ダムの左にあった村々を、飲み込んだのです。



これが、ダムに崩れ落ちたモンテ・トックの今の様子で、写真はガイドブック
からですが、実際に私の写した写真も同様で、

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下に見える丘の様なのが、崩れ落ちてダムを埋めた土砂です。
今はこの様に、土砂にはかなりの木が生えて育っています。



これが災害前のロンガローネの村。 一番右下に少し見える白い部分が
ピァーヴェ河の河原で大変広く、村自体はかなりの高台にあります。  
平和な村だった事でしょう。

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災害直後の様子で、上の絵葉書とほぼ同じ場所からなので、
壊滅状態が一目で分ります。
      
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高い位置にあるダムから溢れた水は一気に谷を下り、ピァーヴェ河を越え、
村を飲み込んだのですね。
  
1963年10月9日、夜10時39分、
家々も、教会も、すべて飲み込まれ、押し流され、死者の数は、約2000人。  
一家全滅した数も少なくありません。



かってはこのロンガローネよりも下流にあるベッルーノからも、筏を組み、
このピァーヴェ川を下り、ヴェネツィアにまで木材を運んだ、というのが嘘のような、
水流が細く河原ばかりが広い、現在のピアーヴェです。

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ロンガローネの町からこのピアーヴェを東に渡り、ダム側の村々に行きます。 



ロンガローネの対岸の、ダム足もとの村コディッサーゴ・Codissagoという村。 

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製材所があり、修復された綺麗な家もあるのですが、かっての石造りの壁も
残っていて、写真は3月半ばのものですが、少し寂れた村の感じ。



コディッサーゴの村。 正面の家は災害の後、放置されたままなのでしょう。 
この村はまだ生きていますが、奥の村はもっと悲惨です。

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同じくコディッサーゴの村。  
「1963年10月9日通り」の標識があるこの家は放置されたままですね。

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ダムから溢れた水は対岸のロンガローネを襲っただけでなく、
ダムの足もとの村をも攫って行きましたから、死者も多かったはずです。



村はずれの家の屋根に、立派な風見鶏。 3月半ば、山々にはまだ雪が。

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ダムの建設は1957年に始まり1959年に完成、そして1960年には、
既にかなりの大きさの山崩れが。

工事が始まる前から、一帯の地盤のゆるさが指摘されていたにも拘らず着工、
そして完成後わずか4年、人災ともいえる大災害が起こりました。

この写真は6月頃。 ピァーヴェを渡ってからダムのある場所まで8キロ程あり、
しかもかなりの急坂で、ダムの右側がピァーヴェ河、ロンガローネの方角です。
ダムの上には金網が張られ、見学ができる様になっていました。

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カッソ・Cassoという村。 ダムのすぐ北の山腹、ダムからちょうど200Mの高さに。

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左に路傍のマリア像が見えますが、ダムの水がこの高さまで撥ね上がったそうで、 
山崩れによるダムの水の騒ぎが如何に大きかったかが想像できます。  
       


そしてこのカッソの村は、ダム災害では生き残ったものの、今村の半分は
ゴーストタウン化しています。

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この辺り一帯の地盤がゆるい事は指摘されていた、と書きましたが、
この村はその後の背後の山の地崩れで、半分以上の村の家々が放置され、
歩いていても気味が悪いほどゴーストタウンなのです。

家々の建物は崩壊もしておらず残っているのですが、人が住んでいない村の
うす気味悪さ。 窓の奥に人気のない気味悪さ。

この気味悪さは、ダムからの道をもう少し奥に辿った、エルト・Ertoという村では
もっともっと、酷かった!! 
 
山崩れによる水流を横から受け、家々は残っているものの、
人が住めない状態になったのか、一家全滅したのか、放置されたまま。
所々の家には住人もいるのですが、夜の薄気味悪さを想像しました。
背後の高台に新しい村が出来、新しい家が並んでいるだけに、一層悲惨で。



ロンガローネの町のかっての18世紀の教会があった場所に、
今新しいモダンな教会があり、

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中には、ピァーヴェを何十キロも流され下流で見つかったマリア像や、
崩れた鐘楼の鐘、等が、亡くなった方々の名が刻まれた壁と共にあります。
町は新しく現代的センスで造りかえられ、観光バスが、たくさんやって来ます。



帰りの汽車を待っている時、奥に見える山が夕陽を受けてバラ色になりました。  
地図で確かめると、どうやらモンテ・チッタという2191mの山のよう。 

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重苦しい気分が、少しゆるぎました。


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