・ サン・レオの城塞 と カリオストゥロ伯爵・conte di Cagliostroなる男 

今日のご案内は、サン・レオ・San Leoの断崖絶壁の上の要塞と、
内部にあった監獄の様子、そして、ここにかって収監された有名人物
カリオストゥロ伯爵・Conte di Cagliostroなる男について、です。

サン・マリーノ共和国から眺めたサン・レオの様子で、道程は20k足らずですから、
直線距離はもっと近いですね。 断崖の上の要塞が良く見えます。

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サン・レオにはヴィザンティン・モザイクで有名なラヴェンナから行きましたが、
トムトムで大変な九十九折りの道が出て、考える方向とはまるで逆方向に走ったりで、
今どっちを向いてる? と何度も友人に訊ね、彼女は携帯の羅針盤で見てくれ!
まぁ漸くに町の入り口、断崖を見上げる位置に到着しましたが、
       
余りの凄さに何度も歓声を上げつつ、断崖を見上げつつ坂道を上り、写真mkちゃん。

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漸くに町の入り口の門に到着。  

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宿に荷を置き、夕暮れ迫る町を探訪、 広場から見上げる要塞。

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灯りが点いているので、夜も見物できるのかと、近くにいた婦人警官に訊ねましたら、
今日は町のお祭りで、要塞内で写真展が開催中の為と。

現在要塞内には、展示会場と武器の博物館もあり、夜はライトアップされた姿が美しく、
また町の夜景と共にご覧頂きますね。



翌朝要塞への道を辿りますが、なんとも凄い! 町自体の海抜は589mですが、
断崖から生え出たかのようなこの要塞は639mの高さ。


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要塞の入り口を入ると広場があり、 ぐるっと回ってもう一つ上の広場に続き、
この写真に見える階段を上がり内庭にでて、

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要塞内への入り口は、内庭側から。

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見取り図をどうぞ。 下側横向き部分が町から見上げる部分で、
上辺と右側部分は絶壁上にあり、町への写真でご覧頂いたのは、上辺部の断崖。

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要塞自体の歴史は大変古く、6世紀以前に溯るとの事ですが、
当時の面影はまるで残っておらず、現在見るこの姿はルネッサンス期の物。

14~15世紀にかけ、この天然要塞の地を巡る争いが激しかったそうですが、最終的に
1441年ウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロ・Federico da Montefeltro
の元に下り、彼がこの要塞の価値を認め大改修をしたわけですが、

後、教皇領に近辺一帯が含まれると要塞の意義が無くなり、監獄として使われ、
時代が下りイタリア王国となってのちも、1906年まで監獄として使用されたと。

図の前面に丸い塔が2つ見えますが、かっては4つあったのだそうで、

赤丸をつけた場所、上の写真の階段部分に張り出した下側の窓、
あの場所がポッツェット・Pozzetto・小井戸と呼ばれる、
18世紀のイタリアのみならず、ヨーロッパ中を騒がせた稀代のペテン師と言うか、
山師というか、自称カリオストゥロ伯爵が収監され、獄死した牢で、

左に見える矢印の付いた場所、こちらはフェリーチェ・オルシーニ・Felice Orsiniという
ナポレオン3世の暗殺を企て捕えられ処刑された男が、それ以前の活動で捕えられ収監
されていた牢で、イタリア統一運動に携わった他の運動家たちも収監された、とあります。



こちらが中庭部分、と書いていますが、いわば断崖上に張り出したテラス。

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南東、海側に向け開き、素晴らしい眺望で、こんな風に、団体の観光客も。

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素晴らしい眺めをどうぞ!
今日の一番最初にご覧頂いたのはサン・マリーノ共和国からの眺めでしたが、

この1枚目の一番右端奥に見えるこんもりとした山、
あれが、サン・レオから見えるサン・マリーノ共和国で、

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続いて、アップを。 山の頂上に、第一の塔がひときわ高く。

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海がこんな風に見え、その間にある小山の一つ一つの頂上に、小さな村が
存在しているのが見えます。 他の小山も、すべてこんな感じなのですよ。

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丸い大きな一つの塔の中には、武器が展示されているのですが、実際の内部は
もっともっと暗く、おまけに入り口に騎士の鎧兜姿が立っているので、
一瞬ぎょっとして、そろそろと内部に。

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こちらは、イタリア統一運動に関わり、捕えられて収監された愛国者たちの牢で、
たくさんの肖像画が壁にありました。

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1858年パリのオペラ座前で、ナポレオン三世ご夫妻の馬車に爆発物を投げ込み
暗殺を謀った、というフェリーチェ・オルシーニ(1819~1858)について、
この時代の事は何も知らず、彼の名も知らずでしたが、今回初めて少し読みました。

オルシーニと言うローマの名門貴族と同じ姓の為か、日本のサイトには貴族とありますが、
どうやらフォルリ・Forlì近くの町生まれの商人階級出身、絹布の生産と販売に
携わる叔父の元で育ちます。

17歳で愛情問題から家のコックを殺害、後弁護士をしながら、イタリア統一運動に関わり、
遂にはナポレオン3世の暗殺を企て、実行するものの果たせず、獄中で逆に考えを改め、
皇帝に対し、イタリアの独立を頼めるのはあなただけ、との書簡を送り、
この手紙に打たれた皇帝を始め多くから助命嘆願されるものの、本人は恩赦を乞わず、
ギロチンの下に消えた、という愛国者。

革命家と言うか、愛国者と言うのか、昔ならばそのカッコ良さにしびれたのでしょうが、
今頃は少々鈍って来たのでしょう、 ・・そういう生き方をした人がいる、と言う事で・・。



こちらが、アレッサンドロ・カリオストゥロ伯爵・Alessandro conte di Cagliostro
と名乗った、本名ジュゼッペ・バルサモ・Giuseppe Balsamo(1743~1795).

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シチーリアのパレルモ生まれ、父親は布売りで彼の幼いうちに亡くなり、孤児院に預けられ、
後ローマの修道院の学校に。 乱暴者で何度も逃げ出しますが、庭園の薬草には
興味を示したそう。 逃げ出したのか、止めたのかパレルモに戻りますが、
すぐに鍛冶屋を騙し損害を与えた事からメッシーナに逃亡。

といった調子で、長々と彼のぺテンと山師の人生が始まるのですが、
いちいち書き出せない程の変遷を辿ります。
     
25歳ローマで、ロレンツァ・セラフィーナ・フェリチャーニ・Lorenza Serafina Feliciani
17歳の美少女と結婚しますが、この時の結婚証明書には、彼の実名が書かれていると。

自称貴族と名乗る悪仲間と付き合い、書類偽造をしたりで危なくなるとフランスに逃げ、
スペインに行き、ヨーロッパのあちこちに・・。

結婚したロレンツァが美人だった、と書きましたが、彼は彼女をそそのかし金持ちを誑かさせては、
その後脅して大金をせしめるとか、はたまた上流階級の男と知り合う為に彼女が働く、
が常套手段。

後に嫌気がさしてジュゼッペと別れようと、こうして知り合った弁護士と共に、売春強制で
訴えたりもするのですが、正式に結婚している為に逆に婚姻放棄で彼に訴えられ監獄に。
出獄したい為にまた元の鞘に収まり、再度の放浪生活に、と哀れです。

子供の頃興味を持った薬草から手製の高貴薬を作り、偽薬効果で患者が治る事もあり、
有名医者として持て囃されたり、ヨーロッパをあちこちする内に貴族階級との接触も多くなり、

遂に自らが女房と一緒にフリーメースンのエジプト派を創設、どういう言葉が正確なのか、
よく分かりませんが、半文盲だったと言う彼自身もよく分かっていなかったでしょう。
妻のロレンツァも文盲だったと言います。

こうしてフランスで、有名なマリー・アントワネットの首飾り詐欺事件に巻き込まれますが、
これは関わりの無かった事が分かったものの、国外退去命令に。
こうして、じわじわと彼の運が傾き始めます。

この時期に、イタリアに滞在中のゲーテが好奇心に駆られ、ナポリからパレルモに赴き、
ジュゼッペの母親と姉に、ロンドンから来たイギリス人で、家族の様子を
カリオストゥロに伝える為にと偽り、面会します。

彼を、チンピラで詐欺師、とゲーテは書いているようですが、
母親と姉との面会の様子の描写は、少し胸に詰まるものがあります。

貧しい小さな家ながらきちんと掃除され、かって彼が行った詐欺の償いに家具類を
質に入れた事、母親は彼の事を片時も忘れず、毎日神に祈っている、
祭りの日に戻ってきたら、よく見えるように公園に一緒に行こう、と。
       
ゲーテは2度と会う事はありませんでしたが、自分の懐から借財の、金14オンスを
届けさせたといい、後に「Der GrossKophta」の作中にカリオストゥロを描いているそう。

こうしてイタリアに1789年の春に戻ってきた彼はローマに行きますが、
教皇庁のスパイに、フリーメイスンに入会したいと持ちかけられ、これは教皇領では死罪に
当たるのを知らずに承知、行事に参加させ、彼らは加入金を払う前に逃亡。

一方再度、妻のロレンツァとその父親、スパイの方からも上訴され、
カリオストゥロは1789年12月27日に逮捕され、カステル・サンタンジェロに収監。

逮捕に至る経過は、教皇以下枢機卿も参加の最高レベル会議で決定されたとの事で、
告訴の内容は、フリーメースンに所属、魔術、神を始めとして全てカトリック教に対する冒涜、
売春斡旋罪、詐欺、中傷等々もし罪が明確になれば死罪となる重大な物で、

弁護士は妻の訴訟内容は信用できない物として反駁、そしてカリオストゥロは教会教義も
よく知らない程の無知である事などを訴え、彼自身も許しを乞う手紙を法皇に送りますが、
1791年4月に、異端の罪は免れないものの特別な慈悲を持ち、要塞監獄に終身収監、
恩赦の望みは無し、との判決が下され、このサン・レオの城塞監獄に連行されたという、
長い長い彼の経歴、お疲れ様でした!



で、これから彼の収監された牢を見て頂きますが、
これは、壁の穴から牢内を監視する穴、

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こちらは、ここから彼が牢内に入れられた上げ蓋、そして一日2回の食事が
差し入れられた場所なのです。

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現在、この入り口から、我々は牢内に入り、

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今は内側にこんな感じの扉があり、片隅に木のベッド、

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そして、上の写真で見て頂いた監視用の穴と、上げ蓋のある天井の四角い穴。

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最初の見取り図でこの牢は、ポッツェット・小井戸と呼ばれる、と書きましたが、
井戸、まさにその通りで、現在の入り口である扉部分の壁は石で塞がれ、

多分4月の終身監禁の判決の後工事が行われ、
9月に穴底の様な10m平方の牢に、彼は上から吊り降ろされたのですね。



厚い壁にある唯一の窓から、サン・レオの村の鐘楼が見えます。

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最初は祈りを捧げる毎日があり、そして絶望から来る痴呆状態、
そして無気力、幻覚症状となり・・、
この井戸の中で、彼は4年間生きます。

そして1795年8月23日に卒中を起こしているのを発見され、3日後に死亡、52歳。
村の西側の平地に、棺なし、場所の記録も記しもなく、葬られたという事。

付け加えますと、妻のロレンツァも同時に逮捕されたものの無罪に。
但し修道院に入れられ、15年間出る事を許されず、後、門番として勤め、
1810年に卒中で亡くなったとの事。

サン・レオの断崖上の要塞の写真を見た時、見に行こうと思い、ガイドブックで
彼の事を知りましたが、単なるペテン師が収監された位に考えていました。
が、実際に牢を見て、今回これを書く為にもう一度読み直し、きちんと書かずには
おれなくなり、長くなりました。 最後まで読んで下さり、有難うございました!



要塞の上階の窓から眺めるサン・レオの村、

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そして北側に見えるクレーター、実際はこれが上下2段になっているのですよ。

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要塞から村に降りて来た所にある井戸。 カリオストゥロの井戸、と呼ばれますが、
彼の遺骸を要塞から運びおろした時、この井戸の所で、一休みしたのだとか。

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村から見上げる要塞の威容。 
真ん中の飛び出し部分の下の窓が、彼の窓でした。

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ブログご訪問、有難うございます!
ブログを書く事により、旅行の写真もちゃんと整理し、いろいろ読んだりするのですが、
時に思いがけずに深入りする時があります。

その場所の持つ歴史とか、関係する人物になのですが、
今回は、昨日読み始めたら止まらなくなり、大変気持ちが重くなりました。
単純にペテン師とかたずけて書く事も出来ず、かといって、勿論持ち上げる気も
ないのですが、人間の哀れさ、と言うのか、それに触れた想いです。

と言う事で、次回は何か軽い物を・・、と伏線を! ははは。

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