・ n.2 サン・フランチェスコ聖堂 ・ アッシジ

アッシジのサン・フランチェスコ聖堂のご案内2回目の今日は、
上の聖堂内、身廊の中段両脇を囲む28面の壁画、ジョット作といわれる
「サン・フランチェスコの生涯・Le Storie di San Francesco」
のご案内を。

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上の聖堂内に限っても、内陣奥と両翼部分、そして今日ご案内の壁画の
上部にもたくさんの画家による壁画があるのですが、
到底全部は無理ですので、一番有名な壁画に絞る、という事で
よろしくお願いいたします。
   

    
写真は、上の聖堂の入り口部分から。
床の美しい大理石模様が良く見えるのが見つかりましたので、どうぞ。
      
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今日ご案内の壁画は、下から2段目に描かれている物で、
一番下は壁に布が掛けられた様子の柄。



「サン・フランチェスコの生涯」の28画面ですが、この位置図をどうぞ。
下が入り口部分、奥のピンクが内陣で、周囲を囲むブルーの色、
右奥の65から始まり手前の77、そして入り口扉の両脇に78、79、
左に移り手前の80から92までの28面で、

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今回この図を拝借したのはウィキぺディアのイタリア版からで、
左奥の90~92番の色が紫になっていますね。

下の色分け凡例によると、ブルーは「ジョット?とその工房」
紫は「マエストロ・デッラ・サンタ・チェチーリア(ローマの」とあり、
既に「ジョット?」という疑問形が用いられ、最後の3枚は別の作家と
している事が分ります。

実はこの上の聖堂の「ジョット作」と長年言われてきた作品に、随分前から
色々と疑問が呈されていたのは知っておりました。
が近年とみに議論が活発になり、別の画家の名が挙がっている事などなど、
シニョレッリさんがコメントに書いて下さった事がきっかけで改めてあれこれ読み、
知る事が出来ましたので、それらもご案内いたしますね。



が、まずはどんな画面で何を現しているのか、・・聖堂内で見るのとは
まるで趣が違いますが、現地ではなかなか詳細まで見る事が難しいのも事実で、
サン・フランチェスコの生涯の逸話の理解も含めて、ご覧下さいね。

頭の数字は上の図の番号にしたがいますが、作品シリーズとしては1番からで、
画面の大きさは230x270cm 入り口両脇のが270x200cm。

65.質朴な男からの献呈
   いまだ宗教生活に入る前のフランチェスコが歩む前に、彼の将来を
   見抜いた一見質朴な男が布を広げたというもの。
   
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66.フランチェスコが自分のマントを貧者に与える
   騎士(貴族)に出会ったとき、落ちぶれて衣服も貧しいのを見て、
   哀れみを覚え自分のマントを差し出す。

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馬と端の円柱が黒く見えるのは、当時使っていた白の粉絵具が鉛白であった為、
長年の湿気に対し化学変化を起こし黒くなったものと。

下の聖堂のチマーブエの磔刑図でも、まるで写真の陰画のように黒く変化を
起こしているのもあり、それがまた素晴らしい効果に見えるのも・・。



67.武器の夢
   夢の中で、素晴らしい邸宅に男達が甲冑や十字のついた紋章を
   運びこむのを見たフランチェスコに天からの声。
   誰に仕えたいのか、仕える男達にか、それとも主にか?

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68.サン・ダミアーノ教会での祈り
   サン・ダミアーノ教会の十字架の前で祈っていたフランチェスコに、
   十字架から繰り返し3度の声。
   フランチェスコ、廃墟になりつつある私の家を修復しなさい。
          
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69.フランチェスコ、地上での富を放棄
   公衆の見守る中で、すべての衣服を脱ぎ父親に戻し、
   我が父は天にいる我らの父、と決別を告げ、清貧の生活に。
  
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画面は2分割され、左は俗世、右はこれより後のフランチェスコが属する世界で、
彼は天の神の手に応え。



70.インノチェンツォ3世の夢
   夢の中で教皇インノチェンツォ3世は、貧しく身分の卑しいフランチェスコが、
   ラテラーノ聖堂(当時教皇庁のあった)を自分の肩で支える夢を。

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71.インノチェンツォ3世、フランチェスコ派の会則を認める
   自分の元に集った仲間とローマに赴き、教皇から宗派の会則を承認され、
   神の言葉を広める宗教活動のため、
   剃髪(頭の頂上の剃髪)をする事も認められる。

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72.火の馬車に乗ったフランチェスコ 
   アッシジの町の郊外(リヴォトルト・Rivotorto)の納屋で、
   仲間と一緒に過ごしていた夜、フランチェスコ一人が火の馬車に乗り
   野原を駆け回っている姿を見て、驚き恐怖に駆られる仲間達。 

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73.玉座の幻
   空色の幻を見た修道士。 それにはたくさんの天国の椅子があり、
   一つは素晴らしいもので、聞こえた声によると、
   この椅子は慎ましいフランチェスコの為に用意されていると。

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74.アレッツォの街から悪魔を追い払う
   アレッツォの街の上で羽目を外して暴れまわる悪魔を見たフランチェスコは、
   弟子の一人に「行って悪魔を追い払いなさい、主ご自身に命令された様に」
   こうして街の門から大声で叫ぶと、悪魔達は即座に逃げだし街に平和が。

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75.エジプトのスルタン、アル=カーミル・al-Malik al-Kāmil前での火の試練 
   スルタンからの高価な贈り物を断り、燃え盛る火の中を無事で通りすぎ、
   神の保護を受けた身である事を示そうとするも、
   会見の場に現れたスルタン側の大勢が驚愕に陥ったと。

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で結果、本当に火の試練を受けたのか否や、書いてあるのが見付かりませんで。
フランチェスコはオリエントにまで神の教えを説きに!
エジプトのスルタンではありますが、会見の場はバビロニアだった様子。    



76.フランチェスコの法悦
   熱狂的に祈るフランチェスコの姿は、弟子達から見ると、
   光り輝く雲に取り囲まれ、腕を差し伸べ全身が地面から浮き・・。

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77.グレッチョでのプレゼーペ
   グレッチョ・Greccioで、キリストの生誕を人形で表現する
   現在のプレゼーペ・Presereを、初めてフランチェスコが行った。

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貧しい文盲の人々に聖書が語る物語を如何に知らせるかが問題で、
教会の壁画は「絵解き」になっているわけですが、

キリスト降誕のお話をフランチェスコは、藁を敷き、牛やロバもつれて来て祈り、
兵士の一人は本当に子供のキリストを見たと。

グレッチョでという事になっていますが、画面の中ではアッシジの下の聖堂を
想わせる環境になっている様子。



78.湧き水の奇跡
   フランチェスコが病み、貧しい男のロバの背に乗り山道を上っていた時、
   この男が喉の渇きに飢えているのを見て祈ると、
   岩の隙間から湧き水が迸り出た。その前にも後にも湧き水は無かった。
         
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79.小鳥達への説教
   フランチェスコがべヴァーニャ・Bevagnaに行く道筋でたくさんの小鳥達に
   お説教をしたが、小鳥達は皆嬉しそうに首を伸ばし、はばたき、嘴を開き、
   中にはフランチェスコの衣服をついばむものまで。
         
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80.騎士チェラーノ・Celanoの死
   フランチェスコが魂の救済を得た頃、騎士チェラーノがささやかな献呈の為、
   昼食にフランチェスコ達を招いた。 騎士は懺悔をし身の回りの整理をした後、
   皆が食べ始めた時に突然亡くなった。
          
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この項の意味づけが不信人者のshinkaiには良く分らないのですが、
フランチェスコから魂の救済を得て、騎士は安堵して亡くなった、
という事で良いのでしょうね?



81.教皇オノーリオ3世の前での説教
   枢機卿達、そして教皇オノーリオ3世の前で行ったフランチェスコの説教は、
   まさに密度の高い効果的なもので、その言葉も単なる人間の賢さからでなく、
   神から直接にインスピレーションを受けたと思われる物であった。

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82.フランチェスコ、アルル(南仏)のアントーニオの前に
   (聖)アントーニオがアルルの会議室で説教をしていた時、そこにいない筈の
    フランチェスコが腕を広げて現れ、皆に祝福を与えたので、
    修道士達は皆喜び、大いなる慰安を得た。

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後の聖アントーニオ・ディ・パドヴァ・Sant'Antonio di padovaと呼ばれる方は、
ポルトガルのリスボン生まれ、アゴスティーノ会派の僧でしたが後にフランチェスコ会派
に入られた方、1220年。 この逸話はフランチェスコのかなり晩年の物と。



83.フランチェスコ、聖痕を受ける
   ヴェルナ山の麓で祈っていたフランチェスコは、キリストが十字架上の
   熾天使の姿で現れた幻を見る。そしてキリストが処刑の際受けたと同じ場所、
   両手、両足、そして右肋骨に聖痕・stigumate・スティグマーテを受ける。

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これに付いて学者達は、フランチェスコが亡くなる2年前の1224年9月14日
の事であったろうとしています。

40日間の断食の後の事で、手と足の傷は釘などでの負傷の後起こる様に
肉の隆起が見られ、右脇の傷は槍の一撃による傷の様で、しばしば出血。
いずれにしてもフランチェスコは死に至るまで、これらの傷を隠そうとしていたと。
              
                    
                        
84.フランチェスコの死
   フランチェスコはとりわけ晩年様々な病に、視力の他に肝臓障害にも
   苦しみ、時に医者にも頼ったようですが良くならず、
   1226年6月コルトーナ・Cortonaで一夜苦しんだ後「遺言」を。
   この中で、会派が最初の精神から遠ざからぬ事を勧告していると。

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そしてノチェーラ・ウンブラ・Nocera Umbra近くの湧き水から、
「聖なる場所、ポルツィウンコラ・Porzuincola」に戻って死にたいと希望し果たし、
10月3日の夜、死が訪れます。
 
44歳の短くも長い生涯、父親と俗世との決別は24歳の時でしたから、
20年間に渡る厳しく激しい宗教生活だったわけです。



85.修道士アゴスティーノとアッシジの司教の死
   フランチェスコが亡くなったと同時に、修道士アゴスティーノは
   「待って下さい、一緒に行きます」と叫び、瞬時に亡くなり、
   一方アッシジの司教グイド・Guidoはフランチェスコの幻を見て、
   「私は天に行きます」と、まさに同じ時間に死を迎えたと。
          
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アッシジの司教グイドという方は、そう、フランチェスコが父親に着ていたすべての
衣類を渡し決別した時、彼をかばった司教でした。



86.貴族のジローラモ、フランチェスコの聖痕を確認する
   ポルツィウンコラで亡くなったフランチェスコの遺骸を、著名な医者文学者でも
   ある貴族のジローラモ・Girolamoが、
   自分の手で、フランチェスコの手と足と脇の聖痕を検める。

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近年列聖されたイタリアで有名なピオ・Pio神父という方がおられます。
この方も両手に聖痕を受けたとされ、様々な医学的な検証もあったのですが、
亡くなられた後には、傷は消えていたと言います。
  


87.フランチェスコにキアーラ・Chiaraが最後の挨拶を
   フランチェスコの遺骸は、大勢の人と木の枝とたくさんの灯された蝋燭に
   囲まれアッシジの町に向かい、キアーラと修道女達の最後の挨拶を受ける。

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この画面を見た時、葬列はどの道筋を通ったのだろうと考えましたが、
初期の宗教生活では一緒の仲間で、後に別々に活動していたキアーラに
最後のフランチェスコを会わせる為、キアーラのいた現在のサン・ダミアーノ修道院
まで遺骸を運んだのだそう。

後、現在のサンタ・キアーラ聖堂、当時はサン・グレゴーリオ教会だった、に、
フランチェスコは葬られます。
       


88.教皇グレゴーリオ9世によるフランチェスコの列聖
   1228年サン・グレゴーリオ教会の前において、教皇自身の列席のもと、
   様々な奇跡について念入りな討議の後、列聖される。

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教会カレンダーによるフランチェスコの日は、10月4日。          
       


89.グレゴーリオ9世の夢に現れるフランチェスコ
   フランチェスコの脇の傷についていささか疑いを持っていた教皇グレゴーリオの
   夢に現れたフランチェスコ。
   「空のガラス瓶を」と受け取り、脇から溢れる血で満たします。

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いささか不謹慎かもですが、この場面の説明には思わず笑いました。
教皇の疑いの念に、夢枕でガラス瓶を血で満たしてみせるフランチェスコ!
ほらね、だから聖痕だと言うのは本当なんですってば! とでも?! うぷっ。



これからの3場面は、最初の位置図で既にローマの作家の作品と見なされており、
図も小さいのが掲載で、逸話もフランチェスコの死後あちこちで奇跡を起こした、
という事ですので、ここでも簡単に。

90.スペインのジョヴァンニ・ディ・イェルダ・Giovanni di Ylerda
   のもとに現れ、ジョヴァンニは回復する。

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91.亡くなった女を生き返らせ、懺悔させるフランチェスコ。
   唯一の罪、懺悔をせずに亡くなった女は、懺悔を済ませ再び死ぬ。

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92.フランチェスコ現れ、異端の罪に問われていた
   ピエトロ・ダリーフェ・Pietro d'Alifeを自由の身に。

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という一連のサン・フランチェスコの生涯の逸話の画面でしたが、

さて、これらは今までずっと、というよりも現在も、
1295年から1299年にかけてのジョットの作品というのが通説。

ジョット・ディ・ボンドーネ・Giotto di Bondone、(1267年頃ー1337年)
画家、建築家であり、ビザンチン美術の硬さから抜け、空間表現の自然さ、
人物の自然さ、感情を描き「イタリア絵画の父」と呼ばれる画家です。

でいつからこの上の聖堂のこの一連の作品がジョットの物であるとなり、
誰が言い出したのかですが、
ジョルジョ・ヴァザーリ・Giorgio Vasari「ルネッサンスの著名な画家彫刻家列伝」
の初刊1550年には、ジョットが下の聖堂の殆どを描いた、とあるのが、
確かにジョットは1309年にはアッシジに滞在し、下の聖堂の2つの礼拝堂の壁画、
天井、右翼を描いています。

が同著の1568年刊には、「上の聖堂の、通廊の窓を越しての教会の両脇、
サン・フランチェスコの生涯の32場面、つまりファッチャータの16場面、を描き、
素晴らしい名声を得た」
・・正直言いまして、どなたかの通訳説明が欲しい程で・・!
つまりこれ以降、ジョットが描いた、というのが公式になったのだそう。
       
      
ですが20世紀の初頭からとりわけドイツやイギリスの研究者たちの間から、
ジョットの作品ではない、という声が上がり始めたと。
が既に1796年、イタリア自国のデッラ・ヴァッレ神父が、ジョット作に
疑いを表明していたのだそうです。

この疑問についての議論が活発になったのは、1997年修復家の
ブルーノ・ザナルディ・Bruno Zanardiが
「アッシジの作業場で・Il cantierre di Assisi」という本を出版、

長年フレスコ画の修復に当ってきた立場から、反ジョットを明確に打ち出し、
今までの学者達の「ジョットのスタイル論」ではなく、
画家の技術や色使いなどからの反論なんだそう。

この本の前書きをしているのがフェデリコ・ゼーリ・Federico Zeriで、
彼は反ジョットの最大の評論家なのだそう。


上の聖堂にあるジョットの描いた物で、上の位置図の緑色の部分の中の物と。

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こちらは上の聖堂の86の中の顔と、ローマのサンタ・チェチーリア・イン・
トラステーヴェレにある壁画の画家ピエトロ・カヴァッリーニの顔。

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よく似ている、というよりも、まさに同一画家の作品でしょうね。
      
      

このピエトロ・カヴァッリーニという13世紀後半の画家の作品は、今まで余り
知られていなかった、というのも存在する作品が少なかったからなのですが、 
ちょっと見難いですが、このローマの地図をどうぞ。

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1のSancta Santorumの修復が1995年に行われ、そして2の
S.Maria in Aracoeliでは、2000年に「バイロンの礼拝堂」と呼ばれる
壁画の一部が見つかり、これは大変アッシジの壁画に良く似ているのだそうで、

2のサンタ・マリーア・イン・アラコエリ教会の建設は1285年、
設計はアルノルフォ・ディ・カンビオ・Alnorfi di Cambioで、
内部装飾はピエトロ・カヴァッリーニ。

近年新しく見つかったこれらの壁画から、カヴァッリーニの作品が改めて見直され、
つまりアッシジのジョットの壁画についても見直しが。

ローマの1250年から1300年にかけては、たくさんの建設がされており、
ボニファーチョ8世が音頭を取った最初の聖年1300年の影響もあり、

ローマの4つの聖堂のすべて、そして最も重要な教会のすべての装飾が新しくされ、
トスカーナからの画家建築家もたくさんやって来て、
ローマ派の有名な画家達と一緒に働いていただろう事は易く想像できますが、
当時のフレスコ画はその後の世代毎の再装飾で、殆ど残らず。

ただ古代よりの新しい流れをローマ流にこなし、その名残が明確に残るローマ。
そしてそれを吸収しては新しい物を生み出し、生み出させたローマですから、
新しいイタリア風を生み出したのも、やはりローマ派の画家であったろう、

そしてアッシジのカヴァッリーノの作品を見たジョットがもっと大きく発展させ、
後のパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂壁画に、遺憾なく傑作を結実させたであろう、
というのが自然に読み取れる流れ、という事で、現在の不足は記録なんだそう。
       
スクロヴェーニ礼拝堂 ・ パドヴァ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463179334.html    
   
今回アッシジの壁画をこうしてじっくり眺めたのち、改めてスクロヴェーニの作品を見直し、
驚きました。 いくらこちらが後年の作とはいえ、アッシジ聖堂のとは作風の違いが
明らかなのがよくお分かりと思います。



用意していた写真は他にもあるのですが、今回も説明が多くなり、
省略せざるを得ず・・、

下の聖堂の祭壇部分と、

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下聖堂にあるshinkaiが大好きな、ピエトロ・ロレンツェッティの「夕陽の聖母子」
       
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で閉めさせて頂きます。
お付き合いくださり、有難うございました!!


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・ n.1 サン・フランチェスコ聖堂  ・ アッシジ 

アッシジの春のお祭りカレンディマッジョを見て頂いてますが、ちょっと休憩、
サン・フランチェスコ聖堂・Basilica di San Francescoと、
大変有名なジョット・Giottoの壁画作品について、纏めてご案内を。

何度も聖堂の写真を見て頂きながら、中のご案内はしていなかった事に気がつき、
ジョットのかの有名な壁画についても最近あれこれ知りましたので、
そんなこんなを纏め、2回に分けてご案内を致します。

まず聖堂の写真。 坂道を上って来て、最初に目に入る姿。

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正式には、下の聖堂広場・Piazza Inferiore di San Francesco.
今正面に見えるのが下の聖堂・Basilica Inferioreの入り口で、
右上に見えるのが上の聖堂・Basilica Superiore.
つまり2層に聖堂が重なっているのですね。
       
30年前頃、この広場はまだ敷石されていなかった記憶が。



広場を囲むポルティチ、これは南側。

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町の地図をどうぞ。
町の西端に、サン・フランチェスコ聖堂・Basilica di San Francesco
その右下に、サン・ピエトロ修道院・Abazia di San Pietro
町の真ん中に、コムーネ広場・Piazza del Comune
右下町の東端に、サンタ・キアーラ聖堂・Baslica di Santa Chiare

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町から1.5kmほど離れて、サン・ダミアーノ教会・San Damiano
右上に、サン・ルフィーノ聖堂・Cattedrale di San Rufino
町の上に、ロッカ・マッジョーレ・大要塞・Rocca Maggiore
町を西と東から挟む形で、サン・フランチェスコ聖堂とサンタ・キアーラ聖堂が
向かい合っている、という形でしょうか。




聖堂に朝日が当る前と、徐々に陽が射しこむ様子をどうぞ。
5時55分から、6時半頃。

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いつ見ても、どの時間帯も、どっしりと美しく典雅な姿!!



今回は聖堂の建設について、上の聖堂の外部装飾、大好きな薔薇窓を、
そしてちょっぴり聖フランチェスコと、聖女キアーラについてご案内し、
次回はジョットの壁画についてと考えておりますので、よろしくお願いいたします。


下と上の聖堂が2層になっていると書きましたが、高低の差はこんな様子で、
上下どちらからでも中に入れ、聖堂奥に連絡の階段があります。

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下の聖堂の入り口全体の写真を昼間撮っておらず、へへ、
いつも入り口部分が混んでいて、で、様子をちょっと切り取ってみました。

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下聖堂の入り口上部。

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聖堂建設は1228年に下の聖堂から始まりましたが、これはフランチェスコが
亡くなって僅か2年後の事。

この年7月16日に教皇グレゴーリオ9世により列聖され、その翌日17日に
最初の基石が修道士エーリア・Elia da Cortonaによって置かれましたが、
これらはすべてその1年前に協定済みだったとの事。

この聖堂の位置については、フランチェスコ自身がここに埋葬を、貧しい人々の
為の教会をと希望したという事ですが、かって町の西外れのここは町の下の丘で、
無法者や処刑された者たちの埋葬地だったそう。
       
エーリア(1180頃-1253)という方は、法学の勉強を修めた後にフランチェスコの
元に集った最初からの1人で、対外的な重要な任務を授けられては果たした
重要人物で、それがフランチェスコや他の仲間とも対立をもたらした事もあった程と。
いわゆる大変な切れ者だったのでしょう。

修道会の副長を務めている時に、後の教皇グレゴーリオ9世の好感を得たといい、
フランチェスコの列聖の速さ、聖堂建設の速やかさも納得ですね。

サン・フランチェスコ聖堂の下の広場に至る坂道の名が、フラーテ・エーリア通り
というので、何をした人なんだろうと思っていたのでしたが、図らずも知る事が
出来たという訳です。



聖堂内部には昔2,3度入った事があるものの長らくご無沙汰。
いつも大変な人々の姿でパスしていたのですが、今回はやはり拝観して
置かないととという気持ちになり、朝早く出かけました。

陽射しが目に痛いほど煌く朝で、上の聖堂前に広がる芝の緑が目にしみます。

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もっと早い時間、朝日が当るのを撮りに来た時は、シュッシュッと5,6個の
スプリンクラーが回り、なるほど芝が綺麗な訳だと納得しましたが、
        
昔は生垣も無く、この芝の中に入り込んでペチャッと座り込み、
聖堂のスケッチをした想い出があり、懐かしい場所。



広場の上にある「フランチェスコの帰還」像。
裕福な布商人の息子であった彼が、ペルージャとの戦争に参加、
捕虜生活ののち意気消沈し、アッシジに戻って来た姿。
       
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広場上から見る、上の聖堂入り口。 あっという間に参拝客が増えていき、

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入り口前で、入って行ったマンマを必死に待つワン君。
彼の名を聞いたんだけどなぁ・・。 

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大きくて典雅で、大好きなこの薔薇窓! 

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薔薇窓を囲む形で四隅にいるのは、4人の福音者のシンボル像で、
左上、天使像のマッテオ・Matteo 左下、有翼のライオン像マルコ・Marco
右上、鷲 ジョヴァンニ・Giovanni  右下、雄牛 ルーカ・Luca 



煌く朝日の下で見つめ今回気が付いた事は、ずっと大理石の彫刻のみ、と
思い込んでいたこの薔薇窓が、実は黄金のモザイクで装飾されていた事!

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入り口前から見上げるとキラキラ光り、それで気が付いたのですが、こんな様子。
円形の中心部には、内側から見ると、黄色のガラスが入っており、
それがとても印象的でした。



周囲を囲む小円柱の捩じり部分にも!

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上部の円形には緑色の詰め物跡も見え、そう、ちょうどオルヴィエート大聖堂の
あのキラキラに似た感じがこの薔薇窓にもあったのですね。

オルヴィエートの大聖堂
       


以前薔薇窓を描きつつ、ん?と思っていた左上のマッテオ像、やはり首が
取り替えられていた、というのか、元々から顔部分の石は別色の石だったのか、
も改めて確認したというか・・。

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左下のサン・マルコ像のライオン君の尻尾が、両脚の間を潜り、
お腹から背中に回っている事も、ははは、



そして薔薇窓の下の2列になっている小さな彫像群!
何かくねくねした形がある、花かな何かな、と思いつつ描きましたが・・、     
 
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なんとこの列に、中世的動物像、人間の顔を持つのも、ひしめいているのを見て、
嬉しくなって笑いました!

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向って右端の鳥の下、一番端には雄牛まで!

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アッシジのこの聖堂には、余り中世的イメージの像が無いと思っていたのですが、
やはり在った! 潜んでいました! 見ていなかっただけ!

そうなんです、今回のアッシジ訪問の目的は、こんなあちこちの細部確認が
自分に欲しかったので、改めての発見がとても嬉しかったのです。



上の聖堂内部に入ったのは8時50分位だったか、
まだ内部には2人ほどの人と、管理の人が行ったり来たりだけ。

なんとも清々しく、細長く高い荘厳な空気に、ああ、来て良かった!
青色の印象がやはり強く目に見えましたが、外とは打って変わった静かな
薄暗い中にフレスコ画がひっそりと。

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内部は写真禁止ですのでサイトから拝借ですが、
どちらの写真もこの向きが、上の入り口から入った時様子。

ジョットの壁画と呼ばれる「フランチェスコの生涯」について、描かれたのは
両壁面に全部で28面、壁に埋め込まれた支え柱で区切られた空間に各3面ずつ。
それぞれの画面については、次回にご案内を。
      

 
上の聖堂のみの図をどうぞ。

30-superiore.jpg

左下の図は1997年の地震により被害を受け落ちた天井部分を示しますが、
入り口部分と奥の祭壇部分が落ちたのでした。 

16万時間におよぶ修復についてのヴィデオを見つけました、イタリア語ですが・・。
https://www.youtube.com/watch?v=OTz7AFp7Z5c



一番奥に連絡階段があり、降りていくと中間のテラス部分に。
下の回廊が見え、テラスの右手にショップがあります。

24-2-228_GF.jpg



テラスから見上げる聖堂の後陣部分はこの高さ!

25-229_GF.jpg


上の聖堂は一廊式の細長い高い身廊に両翼が付いた形のみですが、
一般人は入れないものの実際の建物全体は大変大きな物で、

こちら、上の要塞からの朝の写真と、

26-0765_GF.jpg



下から見上げる威容。      

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聖堂建設は、フランチェスコが聖人に列席された没後2年の1228年に
始まったと言われますが、下の聖堂の完成は多分1230年。

聖フランチェスコの遺骸が荘厳に運ばれ埋葬されますが、
盗まれるのを恐れ隠されます。

現在下の聖堂の地下にお墓、石棺がありますが、これは1818年に
見つかったのを埋葬しなおしたものと。

聖堂建設についての建築師の名は記録に無く、ヴァザーリがヤコポ・テデスコ・
Jacopo Tedescoという名を挙げているそうですが、憶測であろうと。

下の聖堂の大きさは、最初の予定では現在のよりも小さく、
フランチェスコ派教会式の長方形の素朴なものだったのが、
早い時期に変更、大きなものになります。

修道士エリーアが宗派の総長となった1232年には、聖堂をもっと大きく
2層のものとし、宗派の創始である聖フランチェスコの栄光を称える事を決定。

というのも、フランチェスコの没後2年の間に、彼の人間像、業績がキリスト教の
歴史において、最も重要で意義深いものとみなされるようになり、
民間信仰、巡礼の大きな広がりと増加もあり、
これを踏まえての教皇とフランチェスコ会派との強い結びつき等など、
最初のためらいを越え、ここに威容を誇る聖堂が出来上がります。

ゴシック様式への変更は、1241年に総長となったイギリス人のアイモーネ・
Aimone da Faversham(イタリア語読みで)の影響が大きかったろうと
見られるのも、彼がアルプス以北の親方衆を呼んだのだそうで。

これで上の聖堂の正面壁にロマネスク様式が残り、
内部の骨組みは違うのも納得ですね。

聖堂の完成は1253年とされ、聖別式も執り行われていますが、
やはり資金不足は続いており、内部の様々な完成は後々まで。

とはいえ、下の聖堂のフレスコ画装飾のいくつかは13世紀後半に、
そして上の聖堂の装飾も済んでいたであろうという事ですが、
この詳細については、次回に。



では現在イタリア国の守護聖人とされるサン・フランチェスコは、
どんな人となりで、どんな生涯をおくったのかをちょっぴり。

こちらが下の聖堂に残るチマブーエ・Cimabueが描く姿。
色々な聖人像があるのですが、これが一番良く似ている、といわれるもので、
余り背も高くない方だった様子。

31-cimabue.jpg

聖人賛美風は苦手ですので、簡単シンプルに。

カトリック教会が認めているのは、1182年9月26日生まれ、
父親はピエトロ・ディ・ベルナルドーネ・Pietro di Bernardone
母親はフランス人のジョヴァンナ・ピカGiovanna Pica.

洗礼を受けた時の名はジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ベルナルドーネ・
Giovanniだったのですが、当時としては例外的に、父親は彼の名を
フランチェスコ・Francescoと変えます。
布商人として彼に幸運をもたらしたフランスに対してか、
はたまた妻のピカがフランス女性だったからか・・。

一応の教育を終えたフランチェスコは14歳から父親の仕事を継ぐべく働き
始めますが、彼の青春は裕福な家柄や貴族の息子達との享楽的な物だった様。

それに変化を齎したのがペルージャとの戦争で、1202年の戦争に参加し
捕虜となり、1年後に父親が身代金を払い、アッシジに戻ったものの重病に。
どうやらこの辺りで、彼の心の中に変化が起こり始め、自然の中に孤立して
過ごしたり、貧しい者達への哀れみの心が湧き上がって来た様子。
       
それでも再度1204年頃、南イタリアのレッチェ・Lecceの十字軍に参加すべく出発。
当時のヨーロッパにあって、騎士として十字軍に参加するのは
最高の名誉とみなされていましたし、彼も騎士になりたかったのですね。

所がスポレート・Spoletoに到着した所でまたもや病となり、
初めて深く回心したといわれ、アッシジに戻ります。

一番大きな逸話として語られるのが、1205年サン・ダミアーノ教会で祈っていた時
十字架が3度彼に語ります。
フランチェスコ、見るとおり崩壊している私の家を、修理しなさい、と。

この後父親の店から盗んだ布や馬をフォリーニョ・Forignoの町で売り払い、
その金を司祭に渡したりしますが、
激怒した父親は、罰を受けた息子の対応の変化を願いつつ、司法官に訴え、
       
1206年の1月、アッシジ全部が見守る司教館において父親が話し終わるや否や、
何のためらいも躊躇も無く、すべての衣類を脱ぎ父親に渡し、

「今までこの世においては父親と呼びましたが、これ以降は絶対の確信を持って、
天にいる父が我らの父。 なぜなら彼にすべての私を渡し、私の信頼と希望の
すべてを預けているからです」と別離を。 
フランチェスコ24歳のとき。

こうして極清貧の生活を送りながら、布教に努め、貧しい人々の救済に当ります。



これらが現在残されているフランチェスコの修道服で、下のは最後の物と。
    
32-esco.jpg

33-ultimo saio.jpg   



これはアッシジの下の町、サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ・
Santa Maria degli Angeliの聖堂内にある
フランチェスコが亡くなった小教会ポルツィウンクラ・Porziuncola.

34-371.jpg         


彼の生涯における様々な宗教的逸話は、上の聖堂の壁画に描かれており、
次回にご覧頂きますね。

今回、聖堂の北の林の中の道、散策に適した道が「フランチェスコの森・
Bosco di San Francesco」として、解放されているのを知り、

ヴィデオも見つけましたので、どうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=dR_nx3V7yns



最後はフランチェスコの元に宗教生活に入り、後に女子修道会クララを設立した
聖女キアーラ・Santa Chiara.

下の聖堂にあるシモーネ・マルティーニ・Simone Martiniの作品で。

35-Simone_Martini.jpg



そして町の東にあるサンタ・キアーラ聖堂。

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ここにも大変清楚な、美しい薔薇窓が。

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最後が短くなりましたが、次回もよろしくお願いいたしま~す!
   
  
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・ n.3 アッシジの春のお祭り カレンディマッジョ 2015

アッシジの春のお祭りカレンディマッジョ、今日は2日目の公演の様子、
写真が多くなりましたが、どうぞごゆっくりお楽しみ下さいね!

いつもの様に開始のファンファーレがあり、長老の登場。

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そして上の地区ソプラの太鼓隊も行進。

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・・ちょっとこの写真良いでしょう? 皆の手が揃って。
へへ、狙ったのでありま~す。



時代衣装の行進も勿論、ずらずらたくさん・・、なのですが、
今日は後ろに見て頂きたいのが詰まっているので、
このふさふさのワンちゃんの登場と、

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好奇心満々の目の、この赤ちゃんのみで、以下略、ははは。

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そして長い長い布が運び込まれ、敷き詰められ、

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こんなパッチワーク布を作るだけでも大変だろうと!



そしてこの上を、ソプラ地区の今年の「春の乙女」5人が次々に登場して
来ますが、この方はその1番目。

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「春の乙女」には、後ろに侍女がお供。
手にスケッチを持っていますから、さしずめ「美の女神」のお供とでも。

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大きな飾り付けをした木も、お神輿風に運び込まれ!

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木を囲み、ソプラ地区の人々の踊りが始まります。

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カレンディマッジョ・Calendhimaggioのお祭りは、元々は中世からの
春を迎える喜びのお祭り。 長い厳しい冬を終え、春を迎える嬉しい喜びですね。
森から木の枝を刈って来て、愛する女性の家の戸口に置くとか、
飾り付けた木の周囲で歌い踊るとかの風習があったのを再現している訳ですね。

舞台ではソプラ地区の楽師達がずっと演奏しているのですが、
カレンディマッジョの期間演奏される中世の音楽を、探しましたのでこちらを。
https://www.youtube.com/watch?v=swRbSRFBrkE
     
最初の「Echo la primavera・エコ・ラ・プリマヴェーラ・ほら、春だよ」
が、お祭りの一番のテーマ曲とでもいえましょうか。

Echo la primavera
che ‘l cor fa rallegrare,
tenmp’ e` d’annamorare
e star con lieta cera.

No’ vegiam l’aria e ‘l tempo
che pur chiam’ allegreza.

In questo vago tempo
ogni cosa a` vagheza.

L’erbe con gran frescheza
e fior’ coprono i prati,
e gli albori adornati
sono in simil manera.

ほら、春だよ。
心を浮き浮きさせ、恋をする時、
幸せな気持を味わう、春だよ。

空気も、季節も、浮き浮きさせる。

この軽やかな時、憂いごともなく、
すべての事が、軽やかで、落ち着いて。

草は新鮮で、花は野原を覆い、
飾られた木々も、同じ様子だよ。

3番目のテンポの速い器楽だけの曲を、踊りの時などよく聞きましたっけ・・!



踊りが終わると、皆がいっせいに拍手!
広場いっぱいに広がる大勢の人が一斉に踊った達成感!!

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さてソット地区の始まり。 子供達のコーラスも舞台に。

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ソットの太鼓部隊も広場を行進し、

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ソットの春の乙女、一番目に登場がヴィットーリア嬢。

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何故知っているかと言いますと、まぁ舞台でも紹介があるのですが、
shinkaiの隣にいたシニョーラが彼女のお母さんで、
私めのカメラとレンズを見て、写真を撮ってくれと、はい。
勿論OK、家に戻ってのち送りましたら、とても喜んだメールでした。

以前の時も、旗振り競技に出ていたボクの写真を頼まれましたっけ。



こちら5人が、ソットの春の乙女達。

19-822_GF.jpg

思うに、いわゆる美人コンテストではなく、その年に何歳、という基準で
選ばれるのではないかと・・。

ソプラとソットの計10名の春の乙女達の中から、
この後に行われる石弓競技の勝者との組み合わせで(闇籤みたいに)
今年の春の乙女が選ばれ、彼女が毎日お祭りの長老と同席します。

ヴィットーリアのお母さんは、それを望んでいたのですが、
残念、右から2番目のキアーラ嬢となりました。



ソットの踊りもあり、

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両地区の今日の出し物が済むと、興奮冷めやらぬ人々が集まり、
あちらでもこちらでもお喋りの輪!! 勿論舞台上でも!

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何度も、次の競技が始まりますので場所を空けてください、の
アナウンスが繰り返され、ははは、



漸くに、こんな風に広場が開き、石弓競技に参加の選手達の紹介。

24-084_GF.jpg



こちらはソプラ地区の、右の3人がソリ引き競技で、
左に3人ほど見える大きなのが、はは、綱引き競技!

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まず、石弓競技から。 
イタリア語では石弓はバレストラ・balestraと言いますが、
私はまだ実際の競技を見たことが無かったので、楽しみに。
       
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これは既に3本目が射たれた後の的。



こんな風に並んで射ますが、標的との距離は20m。

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既に西日になったのがこの写真では余り分りませんが、右のソプラは影位置で、
左のソットは日当たりなので、目の部分に影を作り。
プシュ、パシッという音で、的に矢が刺さります。

バレストラの試合では、同じウンブリアのグッビオ・Gubbioと、
トスカーナのサンセポルクロ・Sansepolcroが競技するパリオが有名ですが、
標的との距離は36mだそう。
まぁ、アッシジのこの狭い広場では・・、ですね。



競技者の座る台座はこんな形で、

27-881_GF.jpg



こんな風に座り、石弓の先についている輪を、写真左隣に見えるのでご確認を、
台座の前についている丸い金具に引っ掛けて固定し、

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弦は、これも左の写真に見えるようにギリギリと巻き上げ式に引き、
矢は太く短いもの。

台座に座って射るので標的が狙いやすく、巻き上げ器付きなので
腕の力以上に引け、中世からの大変強力な武器。
騎士の甲冑など軽く射抜いた、恐怖の石弓だったそう!



試し打ちなしで1回目を打ち、その結果を見て各人が調整、2回目をいう事で、
1回目はなかなか中心には届きにくかったですが、

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そう、引き抜くのに、ヤットコを!



2回目はかなり中心近く集まり、こうして的ごと運び、勝者の決定を。

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サイトから見つけた石弓の勝者ファビオ氏と、本年度の春の乙女キアーラ嬢。

30-2-Fabio-Martellini.jpg

これは本日の行事の最後に行われたのが、上の要塞に写真を撮りに行った
私にも聞こえましたね。
       
要塞にも次々に観光客が上ってきましたが、町の人々は皆、下の広場で
騒いでいるのだろう!と言うような騒音がわんわんと上にも届きましたっけ。



さて広場では次の競技、荷ゾリ引き。

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試合前に気合を入れ!

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舞台上のちびっ子達も大声で応援。

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位置に付き、

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それっ!!

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ソットが速かった!! 大変な脚力の違い!

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大喜びのソットの人々。

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次が綱引き。 そう、円柱に綱を巻き、

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こんな風に長めに距離をとり、

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公演会場のほぼ端っこ辺りで、引くのです。
綱の基準位置に、赤とブルーの布が付けられ、

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双方が5人ずつ並んで引くのが、我々日本人の眼には珍しいでしょう?!

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ソプラ・ブルーのしんがりは、こんな太っちょ殿で、ははは、
かなり長~~い間、じーっと双方にまるで動きなし!

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引いていなかった訳ではなく、引いて引いての持久戦だったのでしょう、
最後はずるずるっとブルー・ソプラが引きづられ・・。

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最後はもう、広場の人々も桟敷の人も皆総立ちとなり、
赤・ソットの選手が見えないほど!

こういう古式豊かな競技が、とても興味深く楽しい!!
はるか昔、はは、小学校の運動会では綱引きをした、見た記憶がありますが、
いつの間にか、「古臭い」と思っていた様な・・。

ですが、こういうシンプルな競技が実はとても熱のこもる物だと、
そんな楽しさをも、このお祭りで知ったのでした!
       


またもやごった返す広場中央!!
       
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という、お祭りの2日目でした。 楽しんで頂けましたように!!


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・ n.2 アッシジの春のお祭り カレンディマッジョ 2015 

アッシジの春のお祭り カレンディマッジョをご覧頂いていますが、
今回はn.2 初日の公演後半部をどうぞ!

町を2分しての上の地区・ソプラと、下の地区ソットの競演、
と書いておりますが、まずはこちらの地図をどうぞ。

1-74s-_GF.jpg

ちょうど町の真ん中、緑で囲った所がコムーネ広場、ここが公演会場で、
その右の青の地区がソプラ。 コムーネ広場の少し右に町のドゥオーモの
サン・ルフィーノ聖堂、右下にサンタ・キアーラ聖堂で、この一帯が上の地区に。

町の西端にあるのがサン・フランチェスコ聖堂で、ここは赤の地区ソットに。

ソプラの敬称は、ノビリッシマ・パルテ・ディ・ソプラ・
Nobilissima parte di Sopra・いとも高貴な上の地区。

ソットの敬称は、マニフィカ・パルテ・ディ・ソット・
Magnifica parte di Sotto・素晴らしき下の地区。

もともとが中世の2家族間の争いに端を発した、市民を巻き込んでの
長い争いをも踏まえた地区分けの競演ですので、熱がこもります。



今回サイトで見つけた写真にこんなのが。
つまり公演が始まる前、各地区の旗が祝福を受けるのですが、
上のソプラはサン・ルフィーノ聖堂で、下のソットは、サン・フランチェスコ聖堂で!
      
2-asi.JPG
 
まぁ、シエナのパリオでは、街のドゥオーモ内にお馬ちゃんたちも入り、
勝ちて帰れ!と祝福を受けるので、この写真位で驚いてはいけませんが、ははは、
町の人々の熱狂度がお分かりでしょう?!



さて太鼓隊の競演が終り、舞台にソットの楽師、コーラスが揃い、

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下地区・ソットの人々の行進が始まりますが、

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まず驚いたのは、子供達の参加の多いこと! 子供の衣装に付いている
黒いマークは塔の形で、これは赤色とともに、ソットのシンボル。

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わっ、幼稚園か!と笑ったほどの子供の数で、ははは、
大きなお父さんの胸の赤ちゃんが、玩具みたいに見えます!



で、またまた、たくさんの赤ちゃん!!

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貫禄~!

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春色の乙女達も登場、

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一際くっきりはっきりの美人さん! 

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こうして、下地区の席も埋まり、賑やかに。

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桟敷席の後ろは狭い通路になっているのですが、行進を済ませたソットの
若者達が、やれ済んだと、ほっとした笑顔で通って行きます。

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そうこうする内、ソプラの楽師達の音楽に乗り、
向こうから白い長い衣装の男達が踊りながらやって来て、
 
18-587_GF.jpg     



なんと、寺子屋の始まりぃ!
黒いヒゲの若者達が、最初は大人しく子供に扮し、ははは、

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ですが、先生の講義をそっちのけに、後ろで勝手に遊ぶわ、走り回るわ、
果ては居眠りを始めるわ、ははは。かなり年長組みの生徒も見えるでしょう?!

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こちらは広場の反対側で、ソプラの出来や如何にと、見守るソットの人々。

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先生の「何々だけど、ま・ma・でも・・?」という質問に、
切羽詰って「マ、・・マンマ!」と答え、広場がどっと笑ったりで、
       
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やぁ、済んだ済んだ、と寺子屋終了にはしゃぐ子供たち!



引き上げ間際に、一人がパッとお尻をむき出し、プリプリッとね。
うん、黒の大型ご愛用なのね、ははは。

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彼らの健闘を称え、即ソプラの人々の唄が始まり、一斉の拍手で〆ます!

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さてこちらソットの人々は、いっせいに手を叩きながら登場。
大変な数の人々で、これだけでも迫力!

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そして、面をかぶった男性2人の登場で、右の男性は、ほらね、楽師の彼。
2人で組んで、さんざんっぱら、ソプラをこき下ろします!

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shinkaiのイタリア語能力では到底付いていけませんが、悪口を言って
いるのはよく分り、ははは、ちょっと褒めていても、結局は悪口だったりね。



渋い顔で見つめるソプラの人々!

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最初は座って聞いていたソットの人々も、大熱狂! 皆立ち上がって大喝采。

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最後は広場の向こうに向かって、見たかぁ!!の大歓声!!
       
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という感じで、多いに盛り上がって終わった公演初日でしたが、
翌日は「春の乙女」のご披露に続き、石弓、ソリ引き、そして綱引き競技の
直接対決と、またまた大変な盛り上がり! どうぞ、お楽しみに!!

短いですが、一応今年の総集編。
https://www.youtube.com/watch?v=q_3s40mj144

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・ n.1 アッシジの春のお祭り カレンディマッジョ 2015

5月6日から4日間に渡って繰り広げられた、アッシジの春のお祭り
カレンディマッジョ・Calendimaggio 2015.

7年ぶりに出かけて楽しみ、・・今写真整理に死ぬ思いですが、ははは、
なんとか纏めて、皆さんにも楽しんで頂こうと思いま~す。
せっかく見て頂くのに整理した写真を余り減らさずに済むように、
見て楽しんで頂こうと、説明も少なくて済みますから、ははは。

よっしゃぁ、では始めてみましょう!!

トップは、会場の桟敷席に座って見る、コムーネ広場はミネルヴァ教会の
奥の屋根。

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いつも広場から見上げるだけで、奥の屋根が見えませんし、
初めて小さな鐘楼も見え、そうか、こうなっているのかと。

隣の塔の時計は正確で、4時10分前。
プログラムでは3時、3時半開始が、いつも30分遅れ・・!



この親子の赤い衣装は、町を2分する区域カラーの、下町・ソット・Sotto.

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まず太鼓とラッパが現われ、開始を告げます。

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前列右の男性の顔にご注目くださいね、後ほど何度も出て来て、
かなりの役者なのを発見、ははは。



お祭り全体の長老が登場、

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アッシジの市長も登場。 後に続くのは姉妹提携都市の方々で、

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いよいよお祭りの始まり、始まりぃ~!

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上の地区・ソプラ・Sopraの楽師達が笑顔で登場、舞台に。

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そして、上の地区ソプラの太鼓部隊登場。

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凄しい大音量の太鼓の音が広場に響きわたり、背筋がぞくぞくっと!!

アッシジの町の中心コムーネ広場から、今奥に見える坂道が
サン・ルフィーノ聖堂に向う道で、上の地区ソプラの区域。



コムーネ広場に降りて来て東側で広がり、広場中央に進みます。
真ん中の黒い衣装が隊長、7年前と変わっていました。

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こうして広場中央、舞台前から桟敷に向ってご披露。

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あの音の凄さ、テンポの変化、なんとかお伝えできないかとヴィデオを探し、
今年のは見つかりませんでしたが、2012年のが見つかりました。
 
やはり毎年、間の取り方、リズムを変えているようですが、
あの広場を圧する音の凄さ、ゾクッとするような感覚を少しでも!
https://www.youtube.com/watch?v=hcVmiLawe0Y



こちらが上・ソプラ地区の進行係で、ご挨拶。

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楽師、コーラス隊の奏でる中世の音楽に乗り、

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ソプラの人々が登場、行進を。 上の地区・ソプラの区域カラーはブルー。

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子供達も登場、

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赤ちゃんもたくさん! ちっちゃな好奇心に満ちた目線がおかしいですねぇ。

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春の乙女達も次々と。

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舞台前を通った後、広場の向こうで休む騎乗の騎士たち。

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この午後は少し曇り空となったのですが、とても暑く!
時代衣装はビロード生地が多く、さぞ暑かろうと思いましたが、
お馬ちゃんたちも写真を見ると汗だくで、ご苦労さん!



巻き毛の可愛い子。

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さて、下の地区・ソットの楽師たち、気合を入れて登場!

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ほらね、下の写真の真ん中の茶の衣装は、お祭り開始の太鼓の男性で、
その斜め前の女性は、ソットのコーラスの指揮者。



お馬ちゃんが通ると、必ずお土産を置いていくのですけど、ははは、
一人神経性の下痢だったのか、ははは、べチャッとしたのを落とし、
シクレッツァ・保安係りの小父ちゃんが掃除の最中。

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なんとかお水も撒いて安全な様にしたのですけど、間に合わず、
時代衣装の人がいつ上を通るかと、こちらはハラハラしながら見物。

列の先頭の人はチラッと見ながら避けますけど、ははは、
次々続く人はそこまで目が届かず、ついに長い裾を引きつつ・・!
shinkaiと隣のシニョーラは思わず、きゃぁ~!

遠いアッシジのお祭りで、隣の桟敷に座ったシニョーラはなんとパドヴァの方で、
家族との旅行でこの日一日をここに。
我が家近くの日本食品を売っているお店を教えて貰いましたぁ!



こうしてやっと空いていたソプラ区域の桟敷が埋まり、
漸くにお祭りらしい彩りが出来始め、

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こちらは、下町ソットの進行係。

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下町ソットの人々の登場口はコムーネ広場の西側、インフォメーションの
北側の坂道。 今ファンファーレが鳴り響き、

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なんと、登場して来たのは子供の太鼓隊!

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そうか、前日に下の広場で見たのは、この太鼓隊に参加の兄弟だったのだと。
マンマに励まされている子も!
大きな拍手に迎えられ、舞台前を通り過ぎていくと、



いよいよソットの太鼓部隊。

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太鼓の音は凄く、素晴らしいのですが、どこかソプラと違う感じ。リズムかな?
隣のパドヴァのシニョーラも同じ印象を持ったみたい。

ですが、太鼓の皮を見て! ボコボコにへっこんでいるんですよ。
中年にかかったシニョーレも2人ほど見えるのですけど、若さに任せ、
力を込めてぶったたくのでしょうねぇ!きっとソプラの太鼓もこんな様子ね!!

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舞台前を通り、  後姿の衣装もなかなか良いでしょう?

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広場の東側で隊列を整え、 後ろに見える人々は、ソプラ地域の人々。

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町を2分しての競演合戦で、まさに火花が散りそうなほどの
激しい競争の始まり、始まりぃ~!

ソットの今年の太鼓隊のヴィデオがありました。
それも、ほぼ私が見ていた桟敷に近い場所からのもの!
https://www.youtube.com/watch?v=qoWVYsvPCes

という所で、n.1を終えます。 早々の続きをお楽しみに!!


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