・ n.4 スフォルツェスコ城 ・ ミラノ

漸くにミラノのスフォルツェスコ城のご案内も、これで最後。
やれやれ!という声が聞こえそうですが、はい、私めもやれやれ! ははは。
これで心おきなく日本行きの心準備を始められそうです。

では、スフォルツェスコ城!
写真は、武器展示室の外から覗き込んでいる女の子。
1月4日でしたから、窓が吐く息で曇っていますね。

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もう一度部屋の図をどうぞ。

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この像はどの部屋にあったものか覚えてないのですが、大変きりっとした顔の
美しい彫像でした。 が、無残にも左腕が失われており、アップでお見せするのは・・。

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そしてこの棟の最後の部屋、図で14.15.に当たる部分ですが、
       
まずこれ、壁のジグザグの鮮やかな装飾を良く覚えておりまして、
いつか自分の絵の中に入れたいなんぞと思っていたものでした、ははは。

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この博物館の目玉と言うべき部屋は、先回ご案内のレオナルド・ダ・ヴィンチの
描いたアッセの間、そしてコロンビーナの間、上のガレアッツォ・マリーアの礼拝堂など、
幾つかありますが、

彫刻作品での目玉の一つがこれ、ガストン・ド・フォア・Gaston de Foixの
記念墓碑。 作者はアゴスティーノ・ブスティ・Agostino Busti、
通称ボンバジャ(ヤ?)の繊細で優美、最高傑作と言われている様子。

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ヌムール公ガストン・ド・フォア(1489-1512)というのは、母方から言うと
フランス王ルイ12世の甥にあたり、1511年ミラノ総督に任命。

ヴェネツィア共和国がフランス、ドイツ、教皇側を相手に戦ったカンブレ―同盟戦争
に於いて、1512年若干22歳にしてフランス側の総司令官となり、
「イタリアの雷」と呼ばれる程の活躍を。 が、同年ラヴェンナの戦いで死亡した方。

私がちょっとこの方に興味を持っている、というよりその名前になのですが、
・・それにしても、なんとも素敵な響きの名前でしょう?!
ジョルジョーネの作品の黒い鎧の若い騎士を描いた作品は、このガストン・ド・フォアが
モデルだ、と読んだ事があり、もう一度しっかり読みたいと思っています。



でこの部屋の端の階段を少し下り、回りを囲んだ形の場所にあるのが、
ミケランジェロのロンダニーニのピエタ像・Pietà Rondanini.

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88歳で亡くなったミケランジェロ・Michelangeloが亡くなる3日前まで
手を入れていた最後の作品、という事でも有名ですが、

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ヴァティカンにある清楚で大変美しい聖母のピエタ像から始まり、最後がこの何もかも
余分は一切そぎ落とした様なピエタ像。

最初は別の構想から始まったのが途中で変更されたかの様に、
聖母が後ろから息子を支える、というよりも2人が一体になりかける様な・・。

力強い彼の数々の作品を思い浮かべると、彼が到達した像のたたずまいに、
ちょっと粛然とした想いも受けます。
      
20年ほどの差はあるものの、同じルネッサンス期のもう一人の大天才
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452–1519)は、様々な方面の研究発明を試み、
このスフォルツェスコ城にはアッセの間の樹木を残していますが、

その一方ルドヴィーコ・イル・モーロの大宴会の催しの指揮をとったり、
小話を聞かせたとか言う逸話も残り、

晩年はフランスのフランソワ1世の庇護の下に67歳で亡くなり、
一方のミケランジェロ(1475-1564)は88歳の最後の最後まで制作を。     
              
このピエタ像は、そんな事をも振り返らす何かを持って迫ります。

そうそう、ロンダニーニのピエタ像のロンダニーニというのはどこから?と思って
いましたが、ミケランジェロのアトリエに残されていたこの像は、後にローマの
ロンダニーニ侯爵に買われ、その屋敷にあった事からこの名で呼ばれているのだそうで、
1952年にミラノ市が購入しここに。
       


この部屋を出ると一旦外の通路になり、城の一郭が見えます。
小さな中庭の泉、厚い煉瓦の壁・・。

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そして階段を上がって2階の展示室に。
ボーナ・デ・サヴォイア塔の後ろからの眺めと城壁。

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上の階の展示は模様替えがあったのでしょう、まるで見た記憶の無い物ばかりで、
ここにも素敵な物がありました。 まずはこれ。

14世紀後半に作られた物、という金襴豪華な細工の施された個室で、
生ハムで有名なパルマ市の南にあるトッレキアーラの城・Torrechiareの城内
にある教会にあったもので、人に見られぬように宗教行事に参加する為の物と。

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内部は外の様子に比べると、特別の事もないのですが、内側から
扉と窓が開閉できるようになっています。
     
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ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・ミラノ公、上の礼拝堂でも名が出ましたが、
が任命式で使ったのだと。この辺り、何の任命なのか私には判断できませんが、
パルマはミラノ公国領土内にありましたので、その関係でしょう。
       
それよりも私が一瞬あれっ?!と驚いたのは、トッレキアーラの城という文字で、
やはり説明にもそれが書いてありました。
つまりこの城は、パルマのサン・セコンド・San Secondoに本拠を持つロッシ家の
ピエール・マリーア2世・Pier Maria IIが愛人のビアンカ・ペッレグリーニ・
Bianca Pellegriniと共に引きこもった城として有名なのですね。

n.2 パルマの城 ソラーニャ、そして トッレキアーラの城

n.1 トッレキアーラの城、パルマ ・ 美しく、守備堅固、そして愛の巣の
http://www.italiashiho.site/archives/20181110-1.html

n.2 トッレキアーラの城、パルマ ・ 美しく、守備堅固、そして愛の巣の
http://www.italiashiho.site/archives/20181115-1.html



と、フレスコ画を剥がして持ち寄り、一郭を再現した大変興味深い場所がありました。
説明も何も読まず写さずで、写真だけご覧頂きますが、
薄い緑の背景に白と黒、ほんのちょっぴり赤を使った図柄で、大変モダンに見えました。

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なんとなしにマントヴァのお城にある、マンテーニャが描いた婚礼の間の、壁画の人物を
思わせる姿で、でも腕はマンテーニャに及ばず、ははは、ですが大変新鮮な印象。



上の写真の、部屋の隙間から見えるマリーア像の祭壇がこれ。
なんとも清楚で素晴らしい顔の、木製彩色。

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他にもたくさんあれこれあったのですが、もう満腹でしょう、皆さん?! ははは。 
という事で、もう一度センピオーネ公園の先の凱旋門を見に行き、

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前の広い中庭を通り、城の正面入り口に向かいます。

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城壁の外側の穴は、大概鳩達のアパートになっていて、首をかしげて見送ってくれ、

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堀の猫ちゃんも、それぞれに忙しそう、
と、我らは夕暮れ近い城を後にしたのでした。

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4回に渡るスフォルツェスコ城のご案内、お付き合い頂き、有難うございました!!
       
到底全部はご案内出来ませんが、それでも多少の糸口にはと思いますし、
私にとっては纏めの作業でしたので、
上手くご説明出来ていると良いが、と願っております。


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・ n.3 スフォルツェスコ城 ・ ミラノ

さて、スフォルツェスコ城内博物館の見学を続けますね。

この部屋がなんという部屋なのかを調べられませんでしたが、
天井のこの装飾は「キリストの復活図」。

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暗い部屋の天井が明るい水色で、下にキリストの復活を見て驚き慌てる兵士たち、
その動きと、キリストの表情もにっこりと手を挙げている感じに見え、ははは、
なんとなしにユーモラスな感じでしょう?!。



窓の外に見える青空と、高い城壁。こうして見るとちょうど角の部屋で、
北に曲がる位置ですね。

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4.の部屋、トスカーナの影響を受けたロンバルディア彫刻、で見た天使像の一つ。

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狭い通路の壁にあった、碑の中の若者の顔。 きりっとして、なかなか素敵でしょう?!

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6.のミラノ中世の歴史記念の部屋で見た、ちょっと可笑しく凄いもの!

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アンナリーザが説明札を見てぷっと吹き出して・・、12世紀終わりの作
「みだら、ふしだらな女」 ははは。ほらね、昔も今も変わらないでしょう?!



7.つづれ織りの部屋。 素晴らしい、大きなつづれ織りがたくさんあったのですが、
私はそれよりもその前にあった、この如何にも貴族的容貌の像に魅かれました。
衣装から見てそう古い像ではないと思うのですが、どなたかな?

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さて北東の角の塔の1階部分にあるアッセの間・sala delle Asse.
ルドヴィーコ・イル・モーロの注文により、1498年にレオナルド・ダ・ヴィンチが
天井と壁に描いた樹木の部屋。

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こちらが入り口から見た北東部角。

天井部へのアーチの出っ張り部分を上手く利用し、木の幹に見立て、
天井、部屋の壁にびっしりと絡み合った枝葉を、そして要所に金色の紐があり、
赤紫色の果物も描かれているそうですが、ちょっと見えません。
     
  

少しアップに。

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この部屋は後世に於いて、上から漆喰が厚く塗られており、レオナルドの絵が
発見されたのは19世紀末なのだそう。

その後東側の壁にあった木製の壁の下から、大きな岩に喰い込んだ
太い植物の根と幹の白黒の下描きも発見されたと。

植物の根は巨大な桑の木で、桑の木は古代より賢明さと慎重さのシンボルだそうで、
イル・モーロとこのモチーフを選んだ、というのがレオナルドのほのめかしであろうと。

と、大変興味深かったのは、なんとなしにフレスコ画と思い込んでいたのですが、
漆喰の上にテンペラで描いているのだそうで、

大話題を提供したフィレンツェはヴェッキオ宮の幻の絵「アンギアーリの戦い」と言い、
同じミラノのサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会の「最後の晩餐」も、
フレスコ画法を使わずに後に問題が出ている訳で、
如何にレオナルドがフレスコ画描法を嫌っていたかが分かりますね。

一日に描く範囲を下塗りし、一気に描き上げるフレスコ画法よりも、
じわじわじっくりと描き込めるテンペラ画法、そして油絵を好む、
こんな所にもレオナルドの性格が見えます。

修復されたとはいえ、緑色もくすんだ暗い色で、これが彼の意図した様に、
明るい戸外へ広がる緑のテラス様に残っていたら、どんなに素敵でしょう!
それがちょっと残念です。
       


11.ゴシックからルネッサンスにかけてのロンバルディアの彫像の部屋の、彫像類と、

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天井装飾。

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この辺りは北側の部屋に当たるので、こんな感じにセンピオーネ公園が掘り越しに。

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13.コロンビーナ・Colombinaの部屋。 この部屋には15世紀半ばの優れた
彫像類を集めており、部屋自体もミラノ公の私的住居の一部をなしていた部分と。

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部屋の名のコロンビーナ・小鳩の由来は、天井に描かれた輝く太陽の上に
表現されている、というのですが分からず・・。

とは言え、この美しい天井の装飾も記憶にしっかり残っており、
再会できるのは本当に嬉しい事!



同じ部屋にあった素晴らしい天使像。
背景に見えるのは、天井部と同じ柄なのですが、下部の剥げ落ちた色の名残が、
大胆な抽象画的でしょう?!

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もう一度部屋の図をどうぞ。 この図の番号と、ご説明している部屋の番号が違い、
ちょっと分かり難いかもしれず、申し訳ないですが、

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上の13.のコロンビーナの部屋というのは、この図では16のアッセの間・レオナルドが
描いた樹木の部屋の西隣、この図では番号の無い部屋。

図で13は、n.1のご説明で象のポルティコ、象のフレスコ画のあるポルティコ、と
ご説明しましたが、ポルティコはその下に見える細長い縦部分で、お詫びと訂正を。
       


で、図で13.の部屋がこれ、公爵の礼拝堂。 ここでミラノ公というのは、
スフォルツァ家に移っての2代目、ガレアッツォ・マリーアを指し、
彼が1473年に建設した物。

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傲慢尊大な性格を持ち、後に暗殺された彼ですが、大変に洗練された趣味の
持ち主だった様で、この礼拝堂を建設するのに、
ヨーロッパじゅうの宮廷の様子を探らせ、金ぴかでありながらも洗練され、
おまけに22人の合唱隊からなる音楽付き礼拝堂を造り上げたのだそう!



そして礼拝堂の一郭にあったこの聖母子の絵、
ちょっと見には、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵に見えますよね?!

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ですが、横にあった説明書きによると、レオナルド・ダ・ヴィンチが1515年に描いた
木板から、1758年に王に雇われた絵描きピカール・Picaultが
このキャンヴァスに移した、と。 

フレスコ画だと下塗り共に剥がし、他に移す事は可能ですが、板に描いたものを
キャンヴァスに移したぁ?!・・まぁつまり、模写したという事なのでしょうねぇ。
ええまぁ、その気で見れば、幼子の顔も少し・・だし、聖母の手がゴツイですねぇ!
それにしても、凄い額!!

追記:リライトしていて「王にやとわれた・・」云々の「王」とは誰?と気になり、
    説明書を写していないかと調べましたが、残念見つからずで、
    どの「王」か判明せずで・・。 2019.4.2
 
      
来週、もう一度のお付き合いをお願い致して置きます、です。
よろしくどうぞ!!


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・ n.2 スフォルツェスコ城 ・ ミラノ

さて先回に引き続いての、ミラノのスフォルツェスコ城のご案内ですが、
内部に設置の市博物館の様子の内、無料で見学できる部分のみを、
それでも膨大な展示でして、それを2回に分けご覧頂こうと思います。

写真は展示物がどの部屋にあるかを示しておりますが、
今回は下側入り口から辿り、最初のちょっぴりを。

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と、ミラノの領主からミラノ公爵に成り上がったヴィスコンティ家、そしてそれを
受け継いだスフォルツァ家についてもざっと纏めてみましたので、
と言う割には長くなりましたが、はは、それらをごゆっくりどうぞ。

       

最初の部屋には、既に今は無くなっているミラノ各地の教会からの、
初期キリスト教の様々な遺物が集まっており、

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あれこれ写真は撮っているのですが、ご説明できる程の知識もなく、
・・で、ブログで見て頂くとなると、
つい、こういう物を取りだしてくるshinkaiです、ははは。



こちらは2.の部屋にある素晴らしい巨大な記念墓碑。 ロンバルディアの
ロマネスク・ゴシック彫刻群のこの部屋の中でも一際目を引く騎馬像。

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作者はボニーノ・ダ・カンピオーネ・Bonino da Campione.
制作年が1360-63年というので、騎馬像が先に作られ、後に石棺の上に
乗せられた形ですね。

騎馬像の主はベルナボ・ヴィスコンティ・Bernabò Visconti 1323-1385
ベルナボのボにアクセントが来る名を持つ、ヴィスコンティ家9代目。



部屋がかなり暗く、高い位置の騎馬像で、下から撮ったのが良く見えず・・、

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で、こちらはサイトから拝借の正面からの姿。 鎧の胸にしっかりヴィスコンティ家の紋、
大蛇が人を飲み込む姿も、鎖の編みもどっしりと、迫力ある武人の彫像。

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実は写真を探していて、騎馬像の下の部分、石棺を支えている円柱に、
百合の花が彫られているのを見つけ、しまった!と思ったのですが、
これからお出かけになる方、是非お見逃しなく!

歴史家の書き残した彼は、見栄えのするインテリで、政治的にも優れた男。
がその半面信じられない程の残虐さを持つ極悪非道の圧政をした暴君で、
最後は自分の娘と結婚させた甥のジャン・ガレアッツォに捕えられ、
毒を盛られての最後ですが、



妻となったヴェローナの領主スカラ家のマスティーノ2世の娘
ベアトゥリーチェ・レジーナ・Beatrice Reginaとの、こんな睦まじい姿も。

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34年連れ添ったこの妻との間に子供が15人! 彼女が亡くなった時は、
家臣たちにも1年間の喪を強制したのだそうで・・。

本妻との間に子供が15人で驚かれた方、まだまだ早いですぞ!
他に愛人との間にも3人、も一人の愛人にも1人と、
戦いに明け暮れながらも、なんともはやお元気な暴君でございました!



所で、何が分かり難いかと言ってです、このヴィスコンティ家、それに続く
スフォルツァ家の家系に何度も登場するガレアッツォ・Galeazzo、
またはそれに何かがつく形の名前でして・・!
ずっと昔、塩野七生さんの「ルネッサンスの女達」で最初にお目にかかった
ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ!
おまけに名が縦書きなので、一字づつ拾い読みした記憶が!! ははは。
       
はい、このガレアッツォ関連の名が両家に6名おりますが、
まずはヴィスコンティ家の系図をどうぞ。

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当主順に番号も振りましたので、少しは分かり易いかと思うのですが、
1.オットーネ・Ottone (1207-1295)
 宗教界に入り活躍、教皇ウルバーノ4世のお気に入りとなり、1262年
 ミラノの大司教に任命を受けます。

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が、当時ヴィスコンティ家よりも勢力を持っていたデッラ・トッレ・Della Torre家を
熾烈な争いの末打ち破り、1277年遂にヴィスコンティ家がミラノの僭主・領主となる、       
オットーネがいわばヴィスコンティ家繁栄の始まり。

彼は外交的に上手く立ち回り、弟の孫に当たる 2.マッテーオ1世・MatteoI
(1250-1322)を後継者とし、これが2代目。

マッテーオ1世は賢明で、5万フィオリーニ金貨と引き換えに、
神聖ローマ帝国皇帝エンリコ7世(イタリア語読み)から、終生副王の任命を受け、
ヴィスコンティ家支配の正当化に成功。

そして元々の大貴族では無かったのをエステ家との婚姻縁結び、つまり次男の
ガレアッツォ1世にベアトリーチェ・デステ・Beatrice d'Esteを迎え、重みをつけます。
ですが終生ライバルのデッラ・トッレ一族との争闘が続き、ミラノから追放されたり
教皇とも上手く行かず、戦いに明け暮れた生涯だった様子。

で上記の、エステ家のベアトリーチェと結婚したマッテオ1世の 3.次男ガレアッツォ1世
(1277–1328)が3代目。 彼は大した政治手腕も発揮せずに済み、
       
その息子 4.アッツォーネ・Azzone(1302-1339)が4代目。
彼は平和と芸術、文化を愛しつつもミラノ領主として勢力、領土も増やしますが、
若くして後継者なしに亡くなり、

叔父のルキーノ・Luchino 5代目(1287頃–1349) と
ジョヴァンニ・Giovanni 6代目(1290頃–1354)に後継が戻ります。

2人は一緒に領主としてコムーネから認定を得たものの、ルキーノは残虐な性格を
持ち憎まれていた様子で、多分その為、ミラノの大司教であったジョヴァンニと一緒に、
という事だったろうと想像しますが、実際に殆ど行政はルキーノが行った様子。

約20年間に渡り、教皇から一族はミラノの街と共に破門を受け悩まされながらも、
彼の時代にヴィスコンティ家は大一族にのし上がり、大領土を持つように。
ルキーノは武人でもありましたが、商業の繁栄につながる馬の飼育や、
織、武器の職人にも熱心な男だったと。

ルキーノの2度目の妻イザベッラ・フィエスキ・Isabella Fieschi、
ジェノヴァの名家出身、類い稀なる美女、教皇アドリアーノ5世の姪なるものの、
その取り留めのない挙動からフォスカ・霧というニックネームがつき、
愛人の数は限りなし、・・に毒を盛られたというのですがぁ・・。

ええ、あれこれ読む内にこういう逸話にぶつかるのが妙味でして、ははは、
だからブログはやめられないという、好奇心と無知ムチのshinkai、はぁ。

もう一人の領主の大司教でもあるジョヴァンニも外交術にたけ、
ルキーノの死後3人の甥、ルキーノに謀反を企て追放されていた3人を呼び戻し、
1354年にジョヴァンニが亡くなると、統治が兄弟に移ります。

マッテーオ2世・MatteoII 7代目(1319頃–1355) 南部を統治
ガレアッツォ2世 GaleazzoII 8代目(1320–1378) 北西部 
そして既に上記したベルナボ 9代目(1323-1385) 東部担当を。

便宜上何代目と書きましたが、この3人が領土を分割し統治を。
そして長兄のマッテーオ2世は弟2人に、実際に手をくだしたのは兄弟3人の
実の母ヴァレンティーナ・ドーリア・Valentina Doriaらしいのですが、
毒殺され、領土は2人の兄弟で分割統治に。

毒殺の原因は彼の性格が放埓自堕落で、このままでは領土が危ないと
兄弟2人は恐れたらしいのですが、とりわけ彼の統治に含まれていた
ボローニャについての意見の違いで、マッテーオは教皇との争いを好まず、
街の独立を認める形だったのが原因だった様で。

3人兄弟の内ベルナボが最後まで残り、短気な暴君、政治的に機敏賢明な男が
広大な領土を1人で握った訳で、

甥であるガレアッツォ2世の息子ジャン・ガレアッツォ・Gian Galeazzoには
自分の娘カテリーナ・Catelinaと結婚させ、取り込みを図りますが、
逆に囚われ2人の息子ともどもに毒殺に。



さてヴィスコンティ家の最大の繁栄を築いた10代目がジャン・ガレアッツォ・
Gian Galeazzo(1347–1402)、こちらが良く見る肖像ですが、

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こんなのも見つけましたが、これ素敵でしょう?!

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若い頃から大変な賢明さで、武道にも特別に優れていたそうで、
心の内を悟られぬよう叔父のベルナボには心からの愛情で接し、最後には、
巡礼を口実に息子2人とミラノから出るように仕向け、いともた易く捕え、という
謀反の形で権力を握ります。

従妹のカテリーナ以前の、最初の結婚がフランスのジャン2世善良王の娘
イザベッラ・ディ・ヴァロア・Isabella di Valoisで、
婚資として持参したシャンパーニュの領土と公爵位も。



1402年のジャン・ガレアッツォの領土図をどうぞ。

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鮮やかな緑色の部分が、ローマを囲む黄色の教皇領に迫る勢いで、
アドリア海沿岸を除くと、ジェノヴァ共和国、マントヴァのゴンザーガ家、フェッラーラの
エステ家、フィレンツェ共和国が挟まるだけで、シエナからペルージャ、アッシジまで!

1395年神聖ローマ皇帝ヴェンツェルより10万フィオリーニにてミラノ公爵位を受け、
ミラノ公国となりますが、彼の野望はミラノを首都としたイタリアの統一。

大工事が大好きで、大金をはたいてのパヴィアの修道院、ミラノの大聖堂の建設、
はたまたミンチョ河、ブレンタ河の流れを替える喜び。
ですが55歳の若さでペストで命を落とし、亡くなる前に2人の嫡出の息子と
1人の庶子に領土を分け与えます。
        

ジョヴァンニ・マリーア・Giovanni Maria(1388-1412) 11代目     
フィリッポ・マリーア・Filippo Maria(1392-1447) 12代目

この2人は2度目の結婚、従妹のカテリーナとの子で、最初の妻
イザベッラ・ディ・ヴァロアとの間に生まれたヴァレンティーナ・Valentinaが、
オルレアン公爵のルイ・ディ・ヴァロアと結婚しており、
後年その息子が継承権があるとミラノに乗り込んでくる事件も起こります。

ジョヴァンニ・マリーアはミラノ公としては2代目で、父親のジャン・ガレアッツォが
亡くなった時はまだ13歳。 母親の摂政の下に領土を継ぎますが、
直に治め切れず綻びが出始め、傭兵隊長のそそのかしに乗り、母親を捕え閉じ込め、
毒殺かペストかで間もなく死亡。

大変残虐なというより、血に飢えたサディストという性格で、これは今まで書いて来た
どの暴君よりも残虐な所業の数々で、読むのが嫌になる程のものでしたが、
遂には暗殺されます。


こちらがヴィスコンティ家最後、ミラノ公3代目のフィリッポ・マリーア。

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フィリッポ・マリーアは2度結婚したものの子に恵まれず、父親の庶子である弟、
または甥を後継ぎにというのにも信頼度が不足。

という所に愛人アニェーゼ・デル・マイアーノ・Agnese del Maianoに生まれたのが
娘ビアンカ・マリーア・Bianca Maria(1425–1468)で、
幼い頃から聡く過剰な奢侈には目もくれず、頑固であるのを見て、
きちんとした教育を施し育て、娘の夫を後継ぎにともくろみます。



傭兵隊長を務めていたフランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforza
(1401–1466)との婚約が整ったのは彼女がまだ5歳の時で、彼は25歳年長!
       
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その後もあれこれの変遷があり、実際に結婚したのは1441年、
この相対図では中年っぽいですが、失礼、ビアンカ・マリーア17歳の時。

2人の結婚生活はと言うと、ビアンカにとって結婚は絶対的なもの、であるのに対し、
フランチェスコは無頓着、まぁね。
結婚後最初の愛人の存在がばれた時、彼女は子供に会いに行くのを阻止し、
愛人も不可思議な誘拐、そして殺害という事件があったとか。

父親であるミラノ公フィリッポ・マリーアはかなり気まぐれな性格、その上に疑い深く、
最後まで婿を信頼しきれなかった様ですが、フィリッポ・マリーアが1447年に亡くなり、
ミラノでも政治混乱に見舞われ、ヴェネツィア軍の侵攻などもあった後、
1450年、遂にフランチェスコとビアンカはミラノに戻り、
ここにスフォルツァ家によるミラノ公国継承となります。



お疲れ様でした! ちょっと一息ね。

ベルナボの騎馬像のあった部屋の天井、フレスコ装飾をどうぞ。
素晴らしく優雅で繊細で・・、しばし感嘆し眺めました。

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ヴィスコンティと言うと、我らには映画監督のルキーノ・ヴィスコンティ・
Luchino Viscontiが即思い浮かびますね。
リアリズムではあるものの、その美的感覚が一種独特で、とりわけ貴族社会を
描いた物には重みがありましたよね。

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「山猫」 「ヴェニスに死す」 「地獄に堕ちた勇者ども」 「若者のすべて」
「夏の嵐」「ルードヴィッヒ」 「イノセント」等など。
写真を探していて、美しき主演女優達の姿もあれこれ見つけ、とても懐かしかった。
皆さまもしばしの息抜きのお楽しみを!
https://www.youtube.com/watch?v=h5v9eFvhYCI       

ヴィスコンティ監督はミラノ大公の血筋ではありませんで、
ご興味お有りの方はもう一度系図をご覧下さいね。
1.オットーネ・Ottoneの弟に、アンドレオット・Andreottoがいて、その息子にテバルド
  Tebaldo. ミラノ領主はテバルドの息子マッテーオ1世に移っていくのですが、
       
系図には載っていないマッテーオ1世の弟にウヴェルト・Uveruto(1280-1315)で、
その息子ヴェルチェッリーノ・Vercellinoが公爵ヴィスコンティ・ディ・モルドーネ・
Mordone家の流れとなり、最初は侯爵だった様子、
で、彼はこの直系にあたり、公爵ロナート・ディ・ポッツォ―ロ・
Conte di Lonato Pozzolo、他にも爵位と肩書があれこれの方なのでした。



さてもう一踏ん張り、ははは、スフォルツァ家もやっつけてしまいましょう!
系図をどうぞ。

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1.ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティと結婚し、ミラノ公国を受け継いだ
  フランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforza. ミラノ公4代目

2.長男のガレアッツォ・マリーア・Galeazzo Maria(1444–1476) ミラノ公5代目
  22歳で後継となりますが、その傲慢尊大で放埓な性格から母親とすぐに衝突、
  10年後謀反により暗殺されます。

3.その息子ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・Gian Galeazzo Maria
  (1469–1494) ミラノ公6代目
         
父親が暗殺された後、1478年彼はたった9歳で母親ボーナ・ディ・サヴォイアの摂政の
下に公爵位を継ぎ、1489年にイザベッラ・ダラゴーナ・Isabelle d'Aragona、
ナポリ王アルフォンソ2世の娘と結婚。
その後徐々に政治の職務から離れ娯楽、気晴らしに身をやつすようになり、
         
叔父であるルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ・Ludovico Mariaというより、
イル・モーロ・Il Moroの通称が有名な叔父に追い出され、最後は多分毒殺と・・。

4.ルドヴィーコ・イル・モーロ (1452–1508) ミラノ公7代目
  イル・モーロ、ムーア人というニックネームは、肌の色が浅黒く黒髪だった、と
  言う説が一般的ですが、
  代々のスフォルツァ家の中で彼が一番有名なのではないでしょうか?!

摂政から入り込み、政治に関心のない甥を追い出し徐々に大権力を握る、野心満々、
そして芸術、文学、科学を愛する男だった様ですが、ここではちょっと別の興味を。



ルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステ・Beatrice d'Este(1475–1497)
の結婚式、1491年の様子をまず。

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イル・モーロ39歳、ベアトリーチェ16歳、
かのイザベッラ・デステの妹ですが、このヨーロッパで最高に洗練された当時
のミラノの宮廷にあって、どこかまだ少女の下膨れの顔にも見え、
垢ぬけない感じを受けませんか? と意地悪shinkai。



正面の顔はやはり下膨れで、失礼、美人とは言い難いのですが、
この素晴らしい織の意匠、髪飾りをご覧下さいね。
彼女は嫁いで僅か6年、二人の後継者を授けた後22歳の若さで産後の死を。

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一方こちら、イル・モーロの素晴らしい衣装の写真。
なんとも手の込んだ小紋柄の様な衣装で、平安貴族をも想像しましたが、
帽子の飾りのM、真珠のついたお洒落なもので・・!

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イル・モーロはレオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテも迎え、豪奢なミラノの宮廷を
愉しみますが、妻にベアトリーチェを迎える以前からの有名な愛人
チェチ―リア・ガッレラーニ・Cecilia Galleraniを描いたレオナルドの作品がこれ。

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こんな美人の愛人が同じ城にいたのでは、ベアトリーチェもさぞや・・!

ダ・ヴィンチのデッサン「白貂を抱く・・」
http://italiashinkai.seesaa.net/archives/20181205-1.html 
        
最盛期を極めたイル・モーロでしたが、晩年はフランス王ルイ12世の
イタリア侵攻で捕えられ、8年間のフランスでの獄中生活の後1508年に死亡。

イル・モーロとベアトリーチェ、二人の息子の
5.エルコレ・マッシミリアーノ・スフォルツァ・Ercole Massimiliano(1493-1530)
  ミラノ公8代目ですが、僅か3年間でフランスのフランソワ1世の侵入により退去、
  パリで死亡。

6.フランチェスコ・マリーア2世・スフォルツァ・Francesco Maria II (1495–1535)
  僅か3歳の時に父親と一緒に捕えられ、21年間の亡命生活。
  漸くに1521年ミラノに戻り9代目のミラノ公となりますが、フランス勢に常に脅かされ
  心配の絶えない政治状況。
1535年病み殆ど盲人となり、若くして後継者なく亡くなり、遂にミラノ公は9代目で、
ヴィスコンティ家のオットーネの台頭から約250年程続いた時代が終わります。

こうしてフランスの下に下ったミラノは、それ以降スペイン、オーストリアの占領下に
360年間を過ごす事になります。
       
という、ヴィスコンティ家とスフォルツァ家の世襲のお話でした。

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・ n.1 スフォルツェスコ城 ・ ミラノ 

皆さまこんにちは!
秋晴れの良いお天気が続いている、北イタリアですが、
皆さまもそれぞれの秋を、お楽しみの事と思います。

さて今回からミラノのスフォルツェスコ城・Il castello Sforzesco
のご案内を、と言いましても、私も確か3,4度訪問はしているのですが、
即ご案内できるほどには知りませんで、宿題提出が滞っておりました。

で、年明け早々に行った写真と首っ引きで突き合わせ、
ヴィスコンティ家の事、城の名に残るスフォルツァ家の事も
あれこれ必死に読み、図も集めました。

という事で、現在はミラノ市の博物館となっているスフォルツァ城、
ドゥオーモと並びミラノのシンボルとも言える、
あの壮大威容な城の一端をお楽しみ頂ける様に頑張りますので、
よろしくお願い致しま~す!

まず、雑誌から拝借の素晴らしい写真を。

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こちらはサイトから拝借の、上空からの写真で、

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これもサイトから拝借なのですが、城を囲む建物群の様子を見て頂きたく。

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城の後ろに広がるのは広大なセンピオーネ公園・Sempioneで、
入り口正面から続く道は、真っ直ぐにドゥオーモ前に。


年明け早々の、ミラノの街 散歩  街中心の地図もここに。
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460939254.html
       
ミラノのドゥオーモ ・ Duomo di Milano
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460940205.html
     

  
さて私の写真で、正面向かって左側。 手前に大きな噴水があり、


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こちらが正面入り口のフィラレーテの塔・Firarete.
そうなのです、ちょうど修復で全面覆われていまして残念!

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私めの初のイタリア旅行、既に30年程前になりますが、きゃぁ!
初の海外旅行、初のイタリア、そのまた初訪問がこの城だったのですが、
その時のこの門、城の威容さに物凄いカルチャー・ショックを受けた事は、
よお~く記憶しております。

壁のあの厚み、高さは、まさに歴史の経緯とともに無言の迫力で迫り、
それと共に、内部の部屋のフレスコ画の装飾の素晴らしさには、
教会の黄金背景の祭壇画ともどもに魅せられ、
自分もテンペラ画を描くようになった、最初の対面でした。
今も変わらずに存在する同じ壁を眺めながら、本当に懐かしかった!

そんなこんなで時に感傷的な言葉が出ても、ご容赦願います。
今回一緒に行ったアンナリーザは、この城は始めてだそうで、
こんなに覆われていても、その素晴らしさに感嘆しておりましたです、はい。
      
因みに名に残るフィラレーテというのは、1452年の建築設計者の名で、
この塔は一度1521年、当時駐屯していたフランス兵のドジで、武器庫に
充てられていたここで爆発があったのだそう。1905年に修復され、現在見る姿と。



こちらは正面右手。 手前の草地はかっての堀の名残で、
現在は野良猫ちゃんたちがたくさん!

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最初の簡単な図をどうぞ。

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1.フィラレーテ門、城正面入り口 1452年建設
2.5.トッリオーニ・Tprrioni 正面両脇の円柱形の塔
6.ピアッツァ・デッレ・アルミ・Piazza delle Armi・武器、部隊広場
7.ボーナ・ディ・サヴォイア塔・Torre Bona di Savoia
  これはガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・Galeazzo Maria Sforzaの妻の名
  に由来するそうで、彼女は大変な美人だったそう。
  夫ガレアッツォ・マリーアは、ヴィスコンティ家からミラノ公位がスフォルツァ家に移った
  初代フランチェスコの息子で、1476年僅か8年の結婚生活で夫が暗殺され、
  その時彼女はまず円柱形のトッリオーネに逃れ、そこから続く城の中心に位置する
  この塔に入った、のだと。
8.奥のこの部分が、古くからの城の中心部、居住区だったそう。
9.こちら側が、ミラノ公宮廷部分
       
所でこの城がスフォルツェスコ城・スフォルツァ家の城と呼ばれているのは、
それ以前のミラノの領主、そしてミラノ公となったヴィスコンティ家・Viscontiが、
1447年フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ・Filippo Mariaの死により途絶えます。

強力な圧政独裁のヴィスコンティに反撥した地元の貴族などのグループが
アウレーア・レプッブリカ・アンブロジアーナ・Aurea Repubblica Ambrosiana
と名乗り、城の一部を破壊。
石は切り出されて借金の支払いに充てられたり市壁の修理用に使われたと。

そしてヴィスコンティ家最後のフィリッポ・マリーアの庶出の娘、唯一の相続者である
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ・Bianca Mariaが、ミラノ公連隊の指揮官を
務めていた傭兵隊長、ヴェネツィアに付きミラノに対抗した事もあった
フランチェスコ・スフォルツァ・Francesco Sforzaと結婚、ミラノ公の称号をも継ぎ、

14世期に建設されていた要塞、城を補強し、1450年大要塞を建築したのが、
現在見る姿、スフォルツェスコ城と呼ばれる所以というのですが、
その後次々と増築され強力な要塞となり、当時のヨーロッパでも最高だったと。

スフォルツァ家が1535年に滅びた後は、スペイン、オーストリア、フランス等などの
次々と大軍事要塞駐屯地となり、その後は半ば放置状態であったのを
19世紀末から20世紀初頭に大改装し現在の姿に。

ミラノ市の博物館、文化的行事の催事場という事で、当初の大要塞の
何分の一かの大きさなのだとか。
       
今回私はこのブログの為にあれこれ読みましたが、
正直最初はまるで頭に入りませんでした、はぁまぁ、これはいつもの事ですが!
というのも、現在の博物館、無料で見れる部分だけでも大変な広さ、
おまけにヴィスコンティ家と言い、スフォルツァ家と言い、
その変遷を良く知らない上に、なんとまぁ、同じ様な名前が次々と出て来まして・・!

そんなこんなを読み返しながらそろそろと整理し、漸くに纏まったので、
多分これを読まれる皆さんも同じだろうと思い、ははは、
そうで無い方も大勢おられるのは勿論承知しておりますですが、はい!
という事で、

全部を一度にざっと書かずその折々に、写真をご覧頂く順に連れ、
読んで興味を持った事などを書かせて頂きますね。



さて正面のフィラレーテ門を入ると、広大なピアツァ・デッレ・アルミ。
正面左手に見えるのが、ボーナ・ディ・サヴォイア塔で、
中央が古くから残るジョーヴィア門・Porta Giovia。

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このジョーヴィア門を通り抜けて行くと、裏手に広がる広大な公園に抜ける
城の裏門バルコ門・Porta del Barcoに行きます。

ヴィスコンティ家が14世紀に元の要塞、城館を建設していた訳ですが、
1360~70年にこのジョーヴィア門から繋がる街の城壁、
馬で走れる城壁、というのをご想像下さいね、を建設した、とあります。

その後ヴィスコンティ家の最絶頂期を迎えたジャン・ガレアッツォ・Gian Galeazzo
そしてその息子達ジョヴァンニ・マリーア、フィリッポ・マリーアの時代に
城はもっと拡張されたと言い、

現在見る様子の四角形で一辺の長さが200m、四隅に角の塔があり、
街に向かった湾曲部の塔はとりわけ壮大な物で、周辺の壁は厚さ7m!



ボーナ・ディ・サヴォイア塔のアップ。

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ボーナ・ディ・サヴォイア塔に続く壁、この威圧感!
高さもそうですが、この壁には窓が一つもありません。

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この壁の向こうに内庭ロッケッタ・Rocchettaと呼ばれる中庭を囲んだ
古くからの居住部分があり、勿論防御の為なのですね。
       
       

こちらは西側を向いた所で、右に見える門はサント・スピリト門・
Porta di Santo Spirito.

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正面入り口側に当たるこの棟部分は、現在図書館や学校部分に充てられて
いますが、壁に見えるのはヴィスコンティ家の紋というよりもミラノ市のシンボル、
そして私にはアルファ・ロメーオで~す。

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西のサント・スピリト門を出た所、見えるのはリヴェッリーノ・Rivellino
と呼ばれる半月堡で、堀に突き出した形。

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右の壁の奥に塔が見えますね。 内側からだと高さが違わずで余り塔には
見えないのですが、これだと良く分かりますね。

カステッラーノ塔・Torre del Castellanoと言い、この1階部分は宝物の間・
Sala del Tesoroと呼ばれ、ルドヴィーコ・イル・モーロが宝を納めていたのだそう!



こんな図も見つけました。これだとかっての様子を良く想像できますね。
今は浅い草原になっている堀の外に、もう一回り城壁があったのですね。

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で、このかっての堀には、正面側もそうでしたが、野良猫ちゃんがいっぱいいて、
折からの冬の西陽の温かさを満喫中!

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サント・スピリト門の天井にあった、ヴィスコンティ家の紋、
イル・ビショーネ・大蛇・il Biscione。

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王冠を戴く大蛇が、肌の浅黒い男を飲み込んでいる姿ですが、
ヴィスコンティ家は元々の大貴族ではありませんで、政治的才覚を持ち合わせ、
どしどし伸し上って来るとともに、当時一種の流行りであった
神話的な源のお話と紋章が出来たと。




さてアルミ広場に戻っての、東側の眺め。

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威圧的また機能的なとも言える素晴らしさ、を感じる壁。

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内庭ロッケッタに抜ける小さな門。

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所で左に見える青いポスター、ぺテルツァーノ・Peterzanoと読めますね。 
実はまるで知らずに通り過ぎましたが、
このぺテルツァーノというのは、かのカラヴァッジョの師匠なのだそうで、
  
昨年一時カラヴァッジョのデッサンが数多く発見された、というニュースが流れた事が
ありましたが、実はこの師匠のデッサンだったという、展覧会だったのだそう。

詳細は「ヴェネツィア ときどき イタリア」のfumieveさんがこちらに。
http://fumiemve.exblog.jp/17354356/



小さな門を潜った内側から見上げる威圧の壁。

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こちらは北のバルコ門に。

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門から見るセンピオーネ公園の向こうの凱旋門。
まだクリスマス、お正月の休暇中で、大勢の人で賑わい・・。

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ミラノ公宮廷の建物に囲まれた内庭、これは西向きの眺め。

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素敵な柱頭がぽつんと。

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という所で、おさらいを兼ねまして、ははは、各部分の名称と位置をもう一度。
1.正面入り口フィラレーテ門
2.西側にあるリヴェッリーノ・半月堡
6.ピアッツァ・デッレ・アルミ、またはコルテ・マッジョーレ・大広場
7..ボーナ・ディ・サヴォイア塔
8.内庭ロッケッタ、ここにはCortile della Raccoltaとあります
10.カステッラーノ塔、宝物の間
11.ジョーヴィア門
12.ミラノ公宮廷内庭

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13.象のポルティコ・ポーチ
15.ガレアッツォ・マリーアのロッジャ
16.アッセの間 レオナルド・ダ・ヴィンチの描いたフレスコ画の間
   ファルコニエーラの塔・Falconiera
17.ルドヴィーコ・イル・モーロの渡り廊下



さて上図にある13.象のポルティコがこれ、
はい、動物たちと人物が描かれたポルティコの一郭。

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ここは公的行事に使われていた場所だそうで、様々な動物たちが描かれていた
様子ですが、現在残るのはこの象と、



ライオンの後ろ脚部分のみ、と。

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このポルティコの下にある、このちょっと不思議な雰囲気の像。

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このポルティコ部分は、2度目の城訪問の時に見て大変気に入り記憶に残るもので、
今回再会し、とても懐かしく嬉しかったのです。

傍らにあった説明文を写したのを読みましたら、この部分は上から漆喰が
掛けられていたのを20世紀初頭に発見されたのだそうで、
ルドヴィーコ・イル・モーロの時代の記録に書かれているのが見つかったと。
       
そして大変興味を引かれた一節は、最近の研究により、この作品には
バルダッサーレ・デステ・Baldassarre d'Este、1461~69年にかけ、
このミラノの宮廷で働いていた、彼の手が入っている様子と。



バルダッサーレ・デステという画家は暫く前に偶然知ったのですが、
こちらが彼を知るきっかけとなったその作品。

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可愛い少年像ですが、誰あらん、マントヴァ侯爵フランチェスコ2世、8~14歳の肖像。
マントヴァ侯爵フランチェスコ2世ゴンザーガ・Gonzaga(1466-1519)は、
武勇に優れ、そう、妻はかのイザベッラ・デステ・Isabella d'Este.

ちょっと横道にそれますが、バルダッサーレ・デステ、またはエステンセ・
エステ家のバルダッサーレ(1441頃-1504)という名を持つ画家についてちょっぴり。

生まれはレッジョ・Reggio、エミーリア・ロマーニャ州ですが、
つまりフェッラーラ、エステ家のニコロ3世・Niccolò IIIの庶子であろうと。
そうでないと特異的にフェッラーラのエステ家の宮廷画家となり、
報酬を受けていた理由が見つからないと。

絵の師はコスメ・トゥーラ・Cosimo Turaで、並ぶ腕を持ち、肖像画を得意と
していた様子で、エステ家のボルソ・Borsoのそっくりと言われる肖像画も残ります。

横道にそれついでに、もう一つ。
父親だろうと言われるニコロ3世は、まだエステ家初期の侯爵位、あちこちに
女をつくって歩いた事でも有名なのですが、800人以上だって!ははは、

それ以外に有名なのは、
2度目の妻として迎えた若いパリジーナ・マラテスタ・Parisina Malatestaが、
彼が最も愛した女という愛人との子、後継と決めていたウーゴ・Ugoと不義密通に。
年の離れた夫よりもずっと年も近く、繊細な若い男ですものね、ははは。
それが発覚し、二人とも斬首刑になった、というお話。

フェッラーラ・エステ家の城 その1と2



という所で、現在スフォルツァ城に置かれたミラノ市博物館の内部に。

たくさんの部門に分かれ、絵画館、楽器、エジプト博物館等などは有料ですが、
無料でもたくさんの展示物が見れ、
その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの描いたアッセの間や、
ミケランジェロの最後の作品、ロンダニーニのピエタも含まれます。

博物館入り口はジョーヴィア門を潜った脇にあり、こんな様子で、収蔵品に溢れ・・。

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実はこの後も切りの良い所まで、と思って始めましたが、
いささか横道にそれたせいか、長くなりました。

という所で、今回のご案内は市博物館入り口まで、とし、
長くなるかもしれませんが、ははは、ご寛容の心を持って、
次回をまた楽しみにしてやって下さいませませ!

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