・ グラッパ酒の蒸留所見学 ・ アンドレーア・ダ・ポンテ

10月末に、我が町コネリアーノの近くにあるグラッパ蒸留所、何度も通る道なのに
少し奥にあるせいか、はたまた節穴目か、へへ、まるで気が付かなかった

グラッパ酒の蒸留所・Distilleria della Grappa - Andrea Da Ponte
の見学にグループで出かけました。

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大概見学と言うといつもは圧倒的に女性が多いのですが、グループ自体も、
今回はその逆でして、ははは、男性方は熱心に見、説明を聞き質問。
ですが、工場の見学は機械音が大きく聞きとり難く、それにお察し下さいね、 
柔らかい話の部分はなんとか理解出来ますが、
少し込み入った技術的な話になるとついて行けませんで・・!

工場の見学の後、事務所の奥にある広い試飲販売所兼見学者接待所
とでもいう所に案内され、会社の経歴、様子とか、あれこれ説明を聞き、
そこで美味しいプロセッコとグラッパの接待も受けました。
      
その時に聞いた話にちょっと驚いた内容もあり、ブログ掲載の了解を願いましたら、
後でグラッパ蒸留について概要を書いたのもあるので送りましょう、と快く。


皆さんもイタリアの食後酒グラッパ・Grappa はご存知でしょう?
食後のコーヒーに垂らしたり、小さいガラスのコップで供される強い、
40度ほどの透明なお酒ですね。

ワイン用の汁を絞った後の葡萄の滓から作るのがグラッパ、とは知っていますが、
さて実際にどの様に作るのか、と考えるとまるで知りませんで、
 
サイトでもグラッパ酒蒸留について読み、頂いた概要も読んだのですが、
イマイチぴんと来ず、遂にイタリア語の先生アンナリーザに一緒に読んで貰い、
漸くに、ああ、そうなのか、という納得が多々あり、はい、
ですからここで大いに知ったかぶりで、ははは、ご説明させて頂きます。

トップの写真は、奥の蒸留所の建物。
ガラス越しに、ステンレスと銅の円柱状の蒸留機が見え、
GRAPPA DI PROSECCO・プロセッコ種から作るグラッパ、とあり、



蒸留所の名前 ANDRERA DA PONTE. このダ・ポンテという姓にご留意を。

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地図をどうぞ。 この蒸留所のある位置は、コルバネーゼ・Corbaneseと言い、
コネリアーノからだと車で10分位か、もっと近いかの距離。

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道はずっと北に抜け、ヴィットリオ・ヴェネトから西に向かう道と合流し
ヴァルドッビアーデネ・Valdobbiadeneに。

地図の色のついているこの一帯がプロセッコD O C G の生産地で、その中心の
一番新鮮な葡萄の絞り滓の集まり易い地に、このアンドレア・ダ・ポンテ蒸留所
があり、プロセッコのグラッパと銘打っている訳ですね。



向こうの丘の上にはフォルメニーガ・Foremenigaの教会が見え、

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工場の道の向こうの家は、こんな大きな農家。

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1980年代の最初に、コネリアーノから山沿いの平地にこの大きな蒸留所が
移って来たそうですが、創業は1892年と、既に100年を越す社歴を持ちます。
       
プロセッコのワイン醸造はこの辺り一帯にたくさん点在するのですが、
グラッパの蒸留所もコネリアーノやヴィットリオ・ヴェネトにあり、もっと西奥になる
バッサーノ・デル・グラッパは、まさに町の名が示す様に有名ですね。

n.1 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526381.html

n.2 ヴァルドッビアーデネ ・ プロセッコ ワイナリー訪問
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463526671.html



最初に見て頂いた蒸留塔のある建物の手前を抜けると、大変広い広場で、
ステンレスのタンク・サイロが並びます。

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つまりこのサイロに、プロセッコ種の葡萄の絞り滓、まだ発酵する前の、
絞って4時間以内の絞りかすが順に入れられる訳ですね。
プロセッコ種の搾りかすは、約800軒の葡萄栽培農家分がここに集まってくるそうで、
サイロ1本の収容量なども聞きましたが、いつも通り数字に弱く・・。
       
この大きなサイロは一定温度に冷却されており、圧縮された葡萄絞り滓が
発酵しながら底に沈まぬよう、常に新しい葡萄滓が導入される様に管理されていると。
こうして発酵した後、



この建物内の蒸留器に移され、グラッパの蒸留が始まるのですね。

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工場での説明の方に写真の許可を願いましたら、こっちは良いですが
奥はダメです、と言われ、その奥なる物が表の建物かと思い、ははは、

この蒸留器の部分、何機も背の高いステンレスの円柱式が並んでいるのを、
パシャパシャ撮っているのですね。きゃはは。
説明者を皆が取り囲んで聞いているので、写真を撮っても気が付かなかった様で、
私以外にも・・!

最後に事務所でブログ許可を貰う時に、この部分の写真がダメらしいと気が付き、
ディスプレイで見せましたらノーだったのですが、
この建物の窓から見えるのは問題無いという事で、皆さんにはちょっと覗いて
見える部分だけを、はは、shinkaiの出し惜しみではない事を強調し、どうぞ!



どこもかしこも皆オートメ化されており、実際に働いている人は2,3人見かけただけ!

奥の方の工場が大きな騒音で稼働しており、明るい方の内部と、暗い内部と
ちょっと極端でしたが、

こんな風にトラクターで、一見土の様に見える、明るめの茶色の物体を
運んで来ていて、

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こちらの工場の取り入れ口から、こんな風に内部に落ちて行くのですね。
ね、まるで土の様でしょう?
これが蒸留された後の葡萄絞り滓、つまり皮と種でして、

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こちらの工場で、葡萄の種と皮(粉)に分けられるのですね。

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この時点では、皮よりも種の方が断然重くなっているそうで、
葡萄の種からは大変に質の良い油が採れ、化粧品にも多く使われ、
日本にもたくさん輸出されていると!

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へぇ!と驚きましたら、あんた日本人?と聞いて来て、自分の所が直接に
売っているのではないので詳しくは知らないけど、
とにかく日本がたくさん買っているよ、と。
       


こちらは頂いて来たパンフレットから、社の写真。 美しい場所にあるでしょう?

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これがプロセッコ種の葡萄で、食べても美味しいそう。

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手前の建物2階には、こんな風に社の製品がずらっと並び、本当はこの何倍も
棚があり、贈答用の箱入りも各種テーブルに並び、販売もしており、

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その奥に、見学者接待所が続き、

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テーブルには、こんな風に既に誘惑の姿で並んでおりましたが、

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この方が、こちら接待所の方で説明をして下さった社の相談役、
お名前をどこかに控えていたのにぃ・・、
大変洒脱なお人柄で、お話しぶりも、すっきりの応対も気持ち良く。

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さてこちらが社の創業者、ダ・ポンテご一家19時00年代初め。

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奥の列左から3人目がアンドレーア・Andreaで、その右が
弟のマッテーオ・Matteo。

このマッテーオがグラッパ蒸留法についての研究というか、技術面を請け負った様で、
1896年に「蒸留の手引書・Il manuale della distillazione」
という本も出版しているのだそう。

最初に見て頂いた社名の写真で、ダ・ポンテという姓に御留意を、と申しましたが、
この時の社の由来説明で、
モーツァルトの3大オペラ、フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、
コジ・ファン・トゥッテの台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテ・Lorenzo da Ponte
の名が出て驚きました。 詰まり縁続きだというのですね。



こちらが良く見かけるロレンツォ・ダ・ポンテの肖像ですが、

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彼はすぐ近くのヴィットリオ・ヴェネト、正確には合併する前のチェーネダ・
Ceneda の生まれでユダヤ系。

父親がカトリックの女性と結婚する時に一家で改宗し、その時のチェーネダの司教
ロレンツォ・ダ・ポンテの姓を貰い、長男の彼はその名も貰ったというのですが、

つまり、この台本作家として有名なロレンツォの父親から3代目が、
この蒸留所の創業者アンドレーアになるのだそう!

早とちりのshinkaiは最初の驚きが醒めぬままに、ロレンツォとアンドレーアが
兄弟だったのかと思い訊ねると、だって最初にハッキリ説明されなかったのですものぉ、
いえ、父親から数えて3代目、100年の違いがあります、と。
ははは、数字に弱い私は、年代がパッと計算できないもんね。

現在の経営者はフランチェスコ・ファブリス・Francesco Fabrisと言いますが、
彼の父親ピエール・リベラーレ・ファブリス・Pier Liberaleが、
アンドレーアの娘ブルーナと結婚しているのだそうで、
社名として創業者アンドレーアの名が引き継がれている訳ですね。

日本だとこういう場合、婿に、となりそうですが、イタリアはそういう事も無く、
夫婦も別姓のままです。

ロレンツォ・ダ・ポンテの破天荒な生涯については、ペーシェクルードさんが


で、実際の写真が使えないので、サイトから拝借の写真で、
実際の蒸留器や蒸留の仕組みを簡単にご説明しますね。

これがマッテーオが作り特許を取ったという蒸留機ですが、

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以下の写真はいずれもバッサーノ・デル・グラッパの橋の脇にある
ポーリ・Poliという蒸留所が公開している博物館の物。

こちらが一番初期の形で、右上に見える図の様に、釜の下から火を焚き、
アルコール分が蒸発したのが左の細い管を伝わる内に冷やされ、液化するという物。

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そして一段進んだものがこれ、いわゆる湯煎型、
イタリア語ではバーニョマリーア・Bagnomariaと言います。
熱が直接に当たって葡萄滓が焦げたりせぬよう、沸いた湯の熱が伝わる方法で、

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この左の写真が、ダ・ポンテのパンフレットにあるバーニョマリーア機。

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現在は技術研究、革新も大変に進んでいまして、この湯煎法も下からだけの
湯ではなく、ぐるっと周囲を取り巻く方式。
その加熱も常にゆっくりと、つけたり消したりだそうで、この伝統の銅製湯煎器も
最新型で、蒸留所建物内で稼働中。

ダ・ポンテの製品の内の2種、ヴェッキア・グラッパ・ディ・プロセッコ・
Vecchia Grappa di Proseccoと、
ウーニカ・ダ・ポンテ・Unica Da Ponteが、この古い形の蒸留機で作られているそう。



全て完全にオートメ化され、内部の様子が映るディスプレイがあり、上の右写真、
一面の霧状態や、右写真の様にポチャン、ポチャンと滴の落ちる映像も見え。

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こちらがサイトから拝借の、最新の真空継続蒸留機、という言葉でよいのか、
真空にした場合の利点などもあれこれ読んだのですがぁ・・、

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つまりです、より美味しいのが蒸留できるようで、がはは、
こんな短いものではなく、最初にご覧頂いた写真の様に、
4階の建物分の天井まで届くのが、何機も稼働中でした!


ここまで書いて来た所で、では、グラッパの定義とは、ですが、
グラッパ・Grappaと呼べるのは、イタリアとサン・マリーノで作られた物、
とヨーロッパ議会で決められており、

グラッパとは、葡萄の搾りかすを発酵させ、蒸留して作る物。
             
フランスにも同様に絞りかすから作る物があるそうですが、上記の条例により、
アックワヴィーテ・Acquaviteに含まれます。

アックワヴィーテと呼ばれる物は、絞りかすが既に発酵した物から蒸留する、
または絞り汁(モスト・mosto)から蒸留させる物で、

ブランデー、コニャックは、ワインを蒸留させた物、
という事で3種、それぞれに違う種類という訳ですね。

蒸留した際のアルコール分は65~86度にもなり、飲むのに適正な40~42度に
蒸留水で薄めるのだそう。



こうして蒸留の後液化した、いわば葡萄絞り滓のスピリト・魂、または葡萄の精
とでも呼べるアルコール、葡萄が育った土地の香り、葡萄の種の違い、
収穫年の出来具合をも全て含んだ葡萄の精は、

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フランスはLimousin産の楢の木樽に入れられ、4年から12年熟成され、
果物や花、香料の香りが強まり、優しく精製されるのだそうですが、
木樽で熟成させるこの段階は大変複雑だそうで、湿度と温度そして年数が絡み、
熟練技術が必要とされると。

そして最後にマイナス10度前後の温度で濾されますが、
この温度がグラッパに特有の透明度を与えるのだそう。



という訳で普通のグラッパは透明色ですが、例外も勿論あり、
薄く黄色になったグラッパの年代物もありまして、

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葡萄酒だと同じ名前のワインでも、何年産と呼ばれますが、
ダ・ポンテのグラッパの場合、高級2種はブレンド物で、
ヴェッキア・グラッパ・ディ・プロセッコ・Vecchia Grappa di Proseccoが
8年分のブレンド、
この写真のグラッパ・ウーニカ・Grappa Unicaは10年分!
ね、美味しそうな色をしていますねぇ。

つまりそれだけ品質保持に努めている事になりますが、展示されていた品の
お値段もお高うございまして、
勿論化粧箱入りでしたが、30とか60エウロとかの朧な記憶。

サイトで見ましたら10年ブレンドが31エウロ、
8年ブレンドが24エウロ、と出ておりましたぁ。



最後のこの写真は、今春のヴェローナ、ヴィニタリー・VINITALYの会場写真で、
我々に説明して下さった方がサンタ・クロースに扮しての、
クリスマス用グラッパ、メリー・クリスマスの宣伝です。

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この為に何カ月もかけて髭を伸ばされたそうで、かゆかったと!

なぜこのクリスマス用グラッパが登場するかと言いますと、
ロレンツォ・ダ・ポンテは晩年をニューヨークで過ごし亡くなりましたが、
1822年のクリスマス・イヴに招かれた友人宅で、ヨーロッパのクリスマスについて
あれこれ語ったのを、その友人が書き遺している、という事に因むのだそうで・・。

親戚の叔父さんのお話とお仕事を結びつけたというご愛敬ですが、
・・まぁクリスマスも近い事でありますので、こちらをどうぞ!
       
Viva la grappa di Babbo Natale!
No grappa No Christmas! ははは。
                     
社のサイトは
http://www.daponte.it/index.php

Youtubeがあれこれ見れます
http://www.youtube.com/distilleriadaponte

shinkaiはです、グラッパの試飲はしておりませんで、なぜと言いますと、
接待で最初に出された、プロセッコのドン・ジョヴァンニ・Don Giovanni、

社ではプロセッコも作っていまして、勿論この命名もモーツァルトのオペラ、
ロレンツォ・ダ・ポンテ台本の「ドン・ジョヴァンニ」に因む訳ですが、

これが美味しかっただけでなく、それが供された細身のグラス、
DとGがデザインされている美しいグラスが欲しくなり、
ははは、若い時以来した事のない、黙ってのお持ち帰りを、ね。
       
このブログを載せましたら、社の方にご報告を致しますが、
イタリア語に訳して最後までじっくり読まれない事を願いつつ、へへへ、
       
皆さんにも、楽しんで頂けましたように!       

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・ ちょっぴり歴史に名が残る、 我が町コネリアーノの様子を

昨日土曜にこちらイタリアでの初個展が無事済み、今日日曜はごそごそと、
ブログ再開の下準備に取り掛かり、お洗濯をし、のんびりゆっくり始動開始を。
で、個展の総括は最後に書かせて頂くとして、

ブログ再開の第1回は、我が町コネリアーノ・Coneglianoの話題を。
ヴェネト平野の北、人口3万5千人程のまぁ穏やかな町ですが、

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以前からご紹介したかった2つの話題、ちょっぴり歴史に顔を出し名が残る、
という2つを纏めてで、
       
一つはフランス王アンリ3世に関するもの、もひとつはキプロス王ジョヴァンニ2世と、
その妃カテリーナ・コルナーロに関するものです。
事件があった訳ではないのですが、まぁ、以前から興味を引かれ
調べたりしたので、どうぞ見て、読んでやって下さいね。

上は、町の中心部の西端にあるカヴァッリーノの門・La porta del Cavallino
と呼ばれる場所のロータリーで、正面に見える建物の壁に描かれた絵が、
本日の第一話。

3年程前になるでしょうか、アクリルで描かれており、まぁ、絵そのものは・・ですが、
興味を引かれたのはその主人公と日付でした。



コネリアーノの町の地図をどうぞ。 地図はいわば町の中心にもあたり、
真ん中に見える電車の印に鉄道駅があり、赤い印1に上の写真の建物が。

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2の印がキプロス王の家のある位置で、その左にある丸い小さな印が
今回の個展会場の場所で、上向きの矢印がスコミーゴ村への道。

蛇足ながら、右下に打った小さな赤マルの位置にホテル・チッタ・ディ・コネリアーノが
あり、ここはお値段も50エウロ程で、場所もまぁ便利でお勧めです。



カヴァッリーノの門のある位置は数年前再開発され、この宣伝の様な大きな住居と
事務所に生まれ変わったのですが、向こうの丘の上にはコネリアーノのお城も見える、
という位置にあります。

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先程のアクリル画ですが、その主たる場面はこんな感じで、
左にフランス国王アンリ3世がコネリアーノを訪問した姿で、右に町の鍵を持った
代表がお迎えしている、という図。

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実はこのアクリル画が出来上がった時に除幕式があり、地図でご覧の様に
ロータリーを中心に道が5本交差する位置。
集った人々が道にはみ出し、車がかなり停滞をし、私も止められた記憶がありますが、
絵の主題は考えなかったのですね。

所がブレンタ川の船行きをブログに載せた時、あれこれ読んでいる内に
フランス王アンリ3世がヴェネツィアに行くのにブレンタを船で行った、
という記述を読み、へぇ~と思い、それを友人のエレオノーラに話した所、
あそこの壁画にアンリ3世がコネリアーノに来た場面を描いているよ、と。

早速見に行き、それをルチーアに話しましたら、あれはヴェネツィアに行く時に
通ったのよ、といとも明快に。

ヴェネツィアに行く時にコネリアーノを通ったのか、
それともブレンタを通りヴェネツィアに行き、そしてコネリアーノから戻ったのか、と
こうなるといささか執拗に、ははは、調べ始めたshinkaiです。



実はこの絵の下に字が描かれておりまして、少し見え難いですが、
IL RE ENRICO III ARRIVA A CONEGLIANO IL 14 LUGLIO 1574
LA CITTA` LO ACCOGLIE IN FESTA
アンリ3世王はコネリアーノに1574年7月14日に到着した
町は彼をお祭りでお迎えした と。
       
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所で、フランス国王アンリ3世(1551 - 1589)と言っておりますが、
実際まだこの時点ではフランス王ではなく、未来のフランス王アンリ3世で、
この時はまだポーランド王でありました。

と読み出したら、これがまた大変可笑しい、ひひひ、と笑えるほどの
お話が詰まっておりましたので、皆さんにもゴシップ並みの話題をね。

アンリ3世のお顔をどうぞ。

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彼は1551年9月にフランス国王アンリ2世の3男として出生、
母はイタリアからお輿入れのカテリーナ・デ・メディチ。
夫婦仲はあまり芳しくなく、夫には結婚前からの有名な愛人がいたそうで、
このアンリは母親から「私の目」と呼ばれ溺愛されて育ったのだそう。

父国王アンリ2世が馬上槍試合で右目を貫かれたのが原因で死亡、
長兄フランソワ2世が王位を継ぐものの16歳の若さで死亡。
次兄シャルル9世が継承しますが彼は病弱、兄弟仲は当然良くないですね。

ですがポーランド王が死亡後、議会が新国王を選挙で選ぶ事になり、
彼も立候補し、前国王の妹で次期の国王妃とみなされていたアンナが彼を支持、
こうして1573年5月にポーランド国王に被選出。

兄の病状が進むのを見てポーランドに行く事を躊躇いつつも、
迎えに来られ送られ、遂に10月574年2月に戴冠式を。
ポーランド貴族との関係も上手くいかず、28歳年上!のアンナとの結婚にも
踏み切れず、国王としては上手い滑り出しとはいえなかった様子ですが、

遂に5月30日に兄王逝去、の知らせが母親カトリーヌから6月17日に届き、
帰国を促します。 で、アンリは6月18日深夜に側近数人を伴い、
ポーランド国王冠のダイヤモンドを盗み出し、王宮から逃亡、ははは。

つまり国王が国を捨て逃げ出した、という驚愕的事件だった訳ですが、
オーストリアとの国境を越えると、これはもう未来のフランス王ですから、
ウィーンで皇帝の歓迎を受けた後、ヴェネツィア共和国に入り、
7月14日にコネリアーノに、という次第なのでした。

ヴェネツィアに到着は18日という事ですから、きっとトゥレヴィーゾでも
町を挙げての大歓迎だったに違いなく、ゆるゆると進んだ様子。

ヴェネツィア共和国当時のドージェは85代アルヴィーゼ・モチェニーゴ・
Alvise Mocenigoで、アンリは大歓迎を受けます。
同年5月11日にはドゥカーレ宮が火事になったり、それ以前にはトルコとの屈辱的な
協定もあった時期だったのですが、

10万スク―ディを利子なしで借り出したり、1125スク―ディを費やし香水を買い、
当時フランスではまだ使われていなかった4本に分かれたフォークを使ったり、
歌人で高級娼婦でもあるヴェローニカ・フランコ・Veronica Francoも
賓客のおもてなしに参上!

彼の魅力、洗練された上品な物腰は、彼の行く先々で大きな熱狂を
引き起こしたようですが、
       
ヴェネツィア共和国側のもてなし、ヴェローニカとの様子はpescecrudoさんが
こちらに詳細に書いておられますので是非!
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-176.html

長い間あれこれ興味を持って考えた彼の行程だったのですが、
pescecrudoさんがヴェネツィアでの日々を書いて下さっていて、
あっけなく解決したのでした、有難うございました!

アンリ3世はヴェネツィアからブレンタを船で行き、フランスに戻ったのですね。
実際ポーランドからの道を考えると、こちらの方が断然真っ当な行路ですよね。

王位についていた期間は、カトリックとプロテスタントの抗争で次々と問題が起こり、
彼も結局それで暗殺されたのですが、
こういうのをあれこれ読みだすと、本当に嵌りますです!

ブレンタ川の船行きについては 
ブルキエッロ ・ ブレンタ川を、船でゆるゆると その1と2 
       
ヴィッラ・フォスカリ、または、ラ・マルコンテンタ 
      


さて、2つめの話題はこれ、キプロス王の家・Casa del re di Cipro.

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マドンナ通りの北側を占める家並はこうなっておりますが、
この手前から2つ目の大きな3連のゴシック風アーチの家がそれなのです。

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実はこの通りは平日大変な交通量ですが、これは日曜に撮ったので良く見えます。

ここの空間は不思議な建物の並びで、つまり、このキプロス王の建物と呼ばれる
15世紀の建物の前すぐを現在は道が通っているのですが、
この一群の建物の東側は道だけが通り抜けれる広さで、かっては多分門があり、
中が内庭風に建物に囲まれ、また西側にも多分門があり、川に迫っていたのだろう、
と想像出来る場所なのですね。

長い年月の内に並んだ建物が併設され、門が無くなり道が突き抜けたのだろうと、
コネリアーノに住み始めた当初から、不思議な一郭とは思っていたのです。

この道をバスが通りますから、古い不思議な建物をいつも見つめ、壁に殆ど
消えかかったフレスコ画が残っているのを眺めては、摩訶不思議なイメージを
見つめていましたが、偶然に「キプロス王の家」と呼ばれる事を知り大いに驚きました。

なぜって、キプロス王というのは、ヴェネツィア共和国の養女として嫁いだ、
カテリーナ・コルナーロ・Caterina Cornaroの夫を指しますし、
なぜその家がコネリアーノに?!



3階には3連の美しいヴェネツィア風窓があり、

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1473年と刻まれた、天使が盾を持つ形の古い家紋があり、
この家紋はキプロス王家の家紋とは違うのですが、

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うっすらと、かっては全面にフレスコ画が施されていたことが窺えます。

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この動物の姿も何度もバスの窓から見つめ、虎かな、何かなと想像していましたが、
牛なんだそうで。

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現在は1階部分に店が入っておりますが、真ん中部分には大きな厳めしい扉があり、
私所有の建物だそう。
ご覧になれますか、アーチにも残るフレスコ画の名残を。

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15世紀の建物と言われ、建設は当時のキプロス王カテリーナの夫の
ジョヴァンニ2世とも、カテリーナの居住用に建てられたとも記述があり、
私の関心はずっと、なぜコネリアーノに、という事でした。

ここよりもっと北に行ったカステッロ・ローガンツゥオーロには、生地のカ・ドーロと
ヴェネツィアの中間になり気温が温暖である、という理由で、かのティツィアーノも
家を持っていた様ですが、イマイチ納得が行かなかったのですね。

なぜと友人の歴史研究者に訊ねた時に聞いた答えは、当時はヴェネツィア貴族が
本土に別荘を持つのが流行っていたからと。

が、たまたまこの辺りの中世からのユダヤ人研究をしている方の本の出版記念に
行った時にちらっと聞いたコネリアーノの金貸し、多分大きな影の力を持っていた筈で、
それとキプロス王家とが関係があった、と知り、
ああ、そういう事なのか、と漸くに腑に落ちた事でした。



建物の前のアーケードはこんな感じで建物ごとに整備され繋がりますが、

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このキプロス王の家のアーケードの支えの下には、こんなフレスコ画が残り、

手前側には飾り綱で、奥は、

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こんな様子の、受胎告知。 肝心の下側が無く残念ですが、
背景には、要塞化された町の壁も見えます。

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という、ちょっと中の様子、中庭を覗いてみたい思いにさせられる
キプロス王の家なのでした。

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キプロス王に嫁いだカテリーナ・コルナーロについては
アーゾロを彩る女性ふたり ・ アーゾロ市立博物館 n.2
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463693935.html


***

先週1週間はこちらイタリアでの初の個展を開く事が出来、お陰様で漸く
無事終わる事が出来ました。
      
オープニングには大勢の友人知り合いが集まってくれ、賑やかに盛りたてて頂いた
様子は先回ご覧頂きましたが、

その後、日本よりお客様の数は少ないもののそれでもぼちぼちと来て頂き、
そして絵に対しては、本当に有難い嬉しい評価を受けました。
が、それに反し絵の売り上げは芳しくありませんでした。

今のイタリアのこの不況では、絵を買う気持ちにならない人々の様子も良く分かり、
また日本とは違いきちんとした画廊のない町、文化センターなどでの日頃の
趣味活動も少ない人々の様子も思い起こされ、
まぁ、嬉しい評価を受けた事を有難く受け止めよう、
来年の上諏訪での個展に向け、気持ちをしっかり、と考えています。

そうそう、会期の終了間際に来年の個展会期が決まりました。
2013年10月12日(土)から20日(日)まで、
長野県上諏訪のギャラリー橋田さんで開かせて頂きます。
年が明け春頃には、と思っていた会期も早々に決まり、
ぶつぶつ文句を言わずに、とにかく描け! 良い絵を描け!
と励まされた想いでおりますが、やはり得難い経験だったと思います。
       
はい、頑張りま~す!

そうそう、先回ご覧頂いた「カンシーリオの森」写真のジョヴァンニを通し、
面白い提案も出ました。彼の奥さん、そして義理の妹さんと一緒に見に来てくれ、
この義理の妹さんミケーラは何とスコミーゴ村の小学校の先生だそうで、
私に子供たちに絵を教えてやってくれ、というのです。 授業の一環として。
       
今の緊縮経済で子供が15人以下だと学校閉鎖になるのだそうで、
現在の所20人程! で、危機感を持ち、何か活性のある事をと、
先生はこの人、と貼りだして宣伝しても良いか、どうぞどうぞ!
貧乏なので報酬は払えません、問題無いですよ。
 
なんぞと話しておりましたら、ジョヴァンニが横から、
(その分、俺が)カンシーリオに連れて行くけん、と。
いえいえ、彼が広島弁で言った訳ではないのですが、ははは、
私にはしっかりそう聞こえ、奥さんと顔を見合せて笑った事でした。
       
あちこちから、日本に行きたいのだけど、という声も出始め、
日本の旅行社に様子を聞いてみようか、という動きもあります。

日頃はまるで日本人と出会わない生活なのですが、今回はお陰さまで、
コネリアーノ在住の君江さん、ヴェネツィアからはfumieveさん、
トレント方面からは「おお、信州人!」でご一緒した小平さんご夫妻、
そしてパイプオルガン奏者の愛さんご夫妻が来てくださり、
久し振りに日本語でのお喋りも!
    
そんなこんなの友人達の有難い支えを、しっかり感じたイタリアでの初個展でした。
有難うございました!!
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!


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