・ アッシジの春を懐かしみ、

今日は朝早くから出かけますので、ちょっと楽をさせて頂き・・、

春らしい陽気となるとパッと頭に浮かぶのが、ウンブリアの春。
近年、春の季節に2回(秋に3回)出かけているのですが、
とりわけ、目にしみる緑のアッシジが想い出深く・・。

今日はそんなアッシジを3枚だけ、はは、
出し惜しみではないのです、ゆっくり探す時間なしの、すんまへんです、

町の東側から、どうぞ!

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写真は、町の上にある要塞から見たサンタ・キアーラ聖堂。
これは2007年の4月、ちょうど復活祭に当たった時で、
聖堂の前広場に白く網のように見えるのは、鳩の飾り付け。


この時の復活祭にわく町の様子は 
アッシジ点描 その1
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460871440.html
      
アッシジ点描 その2 ・ 黄昏から夜に
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461551900.html

アッシジ点描 ・ 朝の風景 
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461552145.html
        
サン・ダミアーノ への道 ・ アッシジ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461552025.html
      


アッシジの町は高台の傾斜地に、東西に細長く広がり、
こんな風に平野が見渡せますが、
左下に見える塔は、町の中心コムーネ広場の時計塔。 

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町の西端に控えるサン・フランチェスコ聖堂。 
この写真は2008年5月、カレンディ・マッジョのお祭りを見に行った時の物。

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なんとも素晴らしいお天気でしたが、
ほら、「空気が青い」って思われません?

以前サンタ・キアーラ教会前広場から、町の風景を描いた時、
「フランチェスコの見た空」というタイトルにした事がありますが、
このアッシジの町は、まさに彼の生きた時代からずっと、
同じ空気を保っている感じを受けるのです。

今もこの写真を見る度に、アッシジの町を懐かしく想い出します。
うん、また行きたいなぁ! 


あの素晴らしく美しく楽しかったお祭りのご案内は

アッシジ 春のお祭り、カレンディマッジョ ・ その前夜
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461552319.html


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・ スクロヴェーニ礼拝堂 ・ パドヴァ 

1月下旬に行きましたパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂。
ここにはかの有名なジョットのフレスコ画があり、近年修復済みの、
素晴らしく明るく美しくなったのに、何十年振りかで再会しました。

ジョットのフレスコ画と言えば、まずアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画、
そしてフィレンツェのサンタ・クローチェ教会も有名ですが、

このパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画は、アッシジのが1295-1297/1299に
描かれた以降の1303~1305の作品で、
一面の絵の大きさも、アッシジのが270x230と大きなのに対し、
こちらは礼拝堂自体も小さめですので、絵の大きさも2m四方。

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アッシジの方は主題が聖フランチェスコの生涯で、
こちらは聖母マリーアとキリストの生涯、という違いもありますが、

簡単にご説明しますと、画家が既に一度取り組んだ様式で、主題は違うものの、
サイズも小さく、確信に満ちて描かれており、表現密度の濃さではアッシジより上、
と評されている部分もあるようです。

今回少人数で礼拝堂に入り、許された時間内とはいえ、濃密なジョットの世界に
浸る事ができ、アッシジのあの喧騒に満ちた大人数での鑑賞とは違う、
大変静謐な印象を受けました。

◆ 追記です ◆       
アッシジの壁画について、改めてブログで取り上げ、じっくり見て、
こちらとの大きな違いに気が付きました。
と、最近の様々な発見、見直しで、アッシジの作品についての本当の画家名も
挙がっておりますので、こちらもどうぞご覧下さい。
       

今回はカメラ持ち込み禁止で全てガイドブックからの写真です、どうぞ。

ガイドブックの写真は多分夜に照明して写していますが、実際は窓からの明かりが
多く入り明るく、大変良く見えました。

トップは、この天使は聖母マリーアの父親ヨアキムの夢の場面に登場する天使で、
テンペラ画特有の陰色の使い方がこのフレスコ画にも、
つまり白い衣服の影部分に、赤や緑が使われているのが良く分かります。



こちらが正面、祭壇部分。 正面中央に小さく見える3体の彫像ですが、
中央の聖母子像は、ジョヴァンニ・ピサーノ作・Giovanni Pisanoで、
現在は祭壇の手前左側が鑑賞者入り口。

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礼拝堂入り口扉が下中央に見えますが、正面祭壇と向き合う壁には、
「最後の審判」の大きな画面があり、この写真だと天井の星空も見えますね。

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当時のこの青色、空の色、聖母のマントの色などには、大変高価なラピスラズリが
使われていて、金同様に、どの程度使うかをも依頼主と相談したそう。



では、一面ずつご案内したいと思うのですが、全部で両壁面の確か34面+祭壇
+入り口+悪癖と徳等と、膨大な数になりますので、
お話の筋が分かる程度に致しますね。

まずは、聖母マリーアの父親ヨアキムと母親アンナの出会い。

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接吻場面はジョットが初めて描いた、というのも読みました。



こうして後の聖母マリーアが誕生、下にも一人見える赤ちゃんは、
マリーアの従妹エリザべッタの子供で、後の洗礼者ヨハン。 

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マリーアとジュゼッペ(キリストの父親)の結婚。
左から3人目の男性が膝で棒の様なものを折っていて、この棒が何を意味するか
知りませんが、ラファエッロの「マリーアの結婚」にも同じシーンがありますね。

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見開きページで見難く申し訳ないです。 祭壇正面アーチの上部で、

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父なる神が大天使ガブリエルを呼び、マリーアに受胎告知をするように、と、
命じている場面。



受胎告知、こちらが大天使ガブリエル、

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そして、受けるマリーア。 このマリーアは威厳に満ち、結婚式の場面に見える
楚々とした乙女とはまるで違いますね。

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受胎告知の場面は、画家の想像をかき立て、どの様に描くか工夫しているのが
良く分かり、勿論どの場面もそうなのですけど、
この場合、女性の感情を男性画家が如何に描くかという事もあり、
ついあれこれ想像しつつ比較します。

レオナルドのあの受胎告知のマリーアも良いですし、
シモーネ・マルティーニの身をよじった彼女も良いですね。

ヴェネツィアの博物館で見た中世の小さな木製像に、左手に機織りの為の糸を
巻いたのを持ち、右掌をちょいと上げているのがあって、
「オーケー! 分かったよ」という言葉が浮かび、うふうふと一人で笑いましたっけ。



キリスト誕生。 こちらのマリーアも、如何にも聖母の雰囲気で美しく、
一方、手前のジュゼッペは途方にくれているというか・・!

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聖母の赤い衣服の上から掛けられていたと見える青いマント、
半ば剥げ落ちているのも、画面の中で美しいですね。



東方の三博士礼拝。 聖母もキリストも威厳に満ち、

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エジプトへの脱出。 聖母の顔表現は既に見事に決まっていますね。

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ヘロデ王による嬰児殺し。 先に、エジプトに逃れよとのお告げを聞いた
聖母子とジュゼッペはこの殺害を逃れた訳ですが、

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子供時代のキリストの場面を飛ばしまして、 洗礼を受けるキリスト。
全体の柔らかな色の対比がとても美しく、

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ジェルサレム入城。 威厳に満ちたキリストと、木の上から眺める子供たち。

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中世の絵には、ちょいちょい木の上の人物が描かれ、如何にも楽しそうで、
とても好きです。
アヴィニョンの教皇庁の壁画にもありましたっけ。

アヴィニョンの教皇庁宮殿 その1と2
       


最後の晩餐。 時代がも少し下ると、ユダはすぐ分かる様に、財布の革袋と共に
描かれたり、離れていたりですが、この中ではどれがユダなのか良く分からず、
次の場面「ユダの接吻」の同じ色の衣服から、手前側左端の人物でしょうか。

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ユダの接吻。

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礼拝堂見物の前にヴィデオ鑑賞が行われますが、その説明に、この場面の後ろに
見える槍や棒が突き出された形、これがウッチェッロの「サン・ロマーノの戦い」にも
インスピレーションを与えた、とありました。

他には、「嬰児殺し」場面下の子供たちの死体の重なりが、マンテーニャの
体の遠近法に影響したとか、これは少し?でしたが、
近代絵画の先駆けとして、ジョットの働きは大きかったのですね。



磔刑図。

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キリストの死を嘆く人々。 我が子を抱きかかえる聖母の表情と上半身、
周囲の人々、衣服の色のハーモニー、緊迫感漂う美しさ。

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キリスト昇天図。

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入り口上部の「最後の審判」全体図と、

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その地獄部分。 日本の地獄絵と同じで、いつも嬉しく楽しく眺めますが、
この場面も後世の画家に大きな影響を与えたと。
はい、良く分かります、分かります! ははは。

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画面下中央に描かれた、この礼拝堂を建設、聖母マリーアに捧げた
エンリーコ・スクロヴェーニの姿と、

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そのアップを。 目にハイライトが入っているのに気が付かれました?!
     
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エンリーコ・Enrico Scrovegniは、ダンテが「神曲」の中で悪しざまに書いた
父親レジナルドから、家業であった金貸し業を引き継ぎますが、
彼自身は学問も治め、後には政治の世界で外交官役も果たした人物。

当然世間のやっかみの目も承知していたでしょうし、このローマ期の野外劇場跡の
土地を1300年に買い、熱い風呂付きの屋敷や、二つ塔が付いた礼拝堂を
建設した時に、聖母マリーアに捧げ、一家の菩提寺礼拝堂としたようです。
当時の一流画家であったジョットを呼び、ピサーノにも聖母子像を依頼。

有難い事にこうして現在にまで残り、近年の大々的な修復の後は、
全空調、人数制限付きで見学出来るという次第。

ジョヴァンニ・ピサーノ作、エンリーコの等身大の木像は
パドヴァ その3 黄金の世紀に  
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462330356.html    
   


で、ここからは「悪癖と徳」、各7面ありますが、幾つかを。

左、希望     右、絶望

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左、慈善     右、羨望

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左、悪徳       右、怒り

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悪徳に描かれている木々ですが、この葉の茂りの部分はかなりこんもりと
盛り上げられているのと、
壁画の下部分に描かれた大理石模様は、最初のヴィデオの説明にありましたが、
艶のあるものだったそう。 つまりローマ期に使われていた画法だったと。

この艶のある画法については、こちらをどうぞ。
ポンペイ遺跡 最終回 ・ 秘儀荘 その2 
   
    
       
最後はもう一度、青空の下の礼拝堂の姿をどうぞ!

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礼拝堂のサイトはこちらに。
http://www.cappelladegliscrovegni.it/

入場には予約が必要で、朝の9時から20分毎の予約、英語版もあり、こちらから。
http://www.cappelladegliscrovegni.it/index.php/en/book-now/information-on-ticket-reservation       

ヴェネツィアにお出での時には、近いので、是非お時間を取って
ジョットの傑作を見に、お出かけ下さい!

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・ パドヴァの街の、ちょっぴりお散歩 

先月下旬に、友人と3人で出かけて来たたパドヴァ・Padova.
スクロヴェーニ礼拝堂・Capella degli Scrovegniのジョットの壁画と、
少し南に下った所にあるザバレッラ邸・Palazza Zabarellaで
開催されていた「イタリアの象徴主義展」を見るためでした。

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何十年振りかに見る修復後のジョットーの絵は素晴らしく、
これはまた別にご案内したいと思っていますが、

今日は「パドヴァの街を、ちょっぴりお散歩」という事で、
街の中を歩きながら撮りましたあれこれをご覧下さいね。

    

一帯は現在は広大な公園になっていますが、かってこの礼拝堂はローマ期の
野外闘技場の一郭にあり、こんな風に未だその遺跡の一部が残っていて、

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地図をどうぞ。
一番上真ん中の矢印の先に鉄道の駅があり、広い公園が見えますが、
エレミターニ教会・Chiesa Cattolica Eremitaniの北横に
かっての修道院、現在素晴らしい収容物を誇る市の博物館があり、
この一郭にスクロヴェーニ礼拝堂が。

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今回はスクロヴェーニ礼拝堂、市博物館を見学の後、
南に延びるザバレッラ通り・Via degli Zabarellaを行きますが、
途中、赤い印カヴール広場・Piazza Cavoul でお昼を。

そして 南下のザバレッラ邸で「イタリア象徴主義展」を見て、
Perfettura・県庁の前を通り、Palazzo del Bo・パドヴァ大学、
カフェ・ペドゥロッキ・Caffè Pedrocchiの前を再度素通り、はは、

ラジョーネ宮・Palazzo della Ragioneの北側にあるフルッタ広場・
Piazza della Fruttaで少し時間を過ごし、
すぐ近くにある画材屋さんであれこれ買いこみ、コネリアーノに、という行程。

パードヴァのご案内  その1~3 

パドヴァ ・ 聖アントニオの街(グロリオーザさん)

スクロヴェーニ礼拝堂見学には予約が必要で、また次回にご説明しますが、
博物館入り口前にあったレンブラント展・Rembrandt の看板を。
右端に切れているのが、エレミターニ教会。 後ろに見える建物がかっての
エレミターニ修道院で、中庭を囲む建物すべてが博物館に利用されており、
 
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一旦写真の左奥の入り口から入り、予約切符などを示してから外に出て、
公園を歩き、礼拝堂に行く様になっています。

エレミタ―ジュ美術館からレンブラントの絵が2点、彼の版画、黒色が大変美しい、
凄いデッサンの版画が何点か来ていて、
レンブラントの版画は当時大変な売れ行きで、それを真似した作家、作品が
出回ったそうで、それらもかなりの数が来ておりました。

スクロヴェーニ礼拝堂の切符1枚で、博物館内の作品も、このレンブラントも
全部見れるのですね。
彼の作品は数少ないとは言え、まさに鷹揚なパドヴァ市博物館で、
おまけに、車であれば行けるアルカペトラルカの村の、南に20k程、
ペトラルカの家博物館もこの切符で入れるのだそう。

少し脱線ですが、私が映画好きと知れ、この所ちょいちょい映画を見に
誘って貰っていますが、こちらは夜のみなので、今迄は1人で出かけず、
もっぱらDVD鑑賞だったのですが、ははは、
その映画を見る料金も大変安く、シニア料金で4,5~5,5エウロ、
この時の博物館料金も6エウロ。
      
現在の日本の料金事情を知りませんが、こちらの方がかなり安いのではないか
と思い、経済的負担なしに楽しめる様になっていると思います。

アルカ・ペトラルカ ・ 詩人の里 ・ 中世の町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461499745.html       



こちらが隣接のエレミターニ教会。内部にはマンテーニャの遠近法を活用した
聖クリストフォロの壁画もあるのですが、既にお昼で閉っており、
既に2度ほど見ていますし、まぁ、また来ようね、と・・、

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エレミターニ教会、南側の壁。
パドヴァの街は冬は厳しく夏は酷暑、なのですけど、この日は幸いにお天気。

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狭いザバレッラ通りを抜けて行きますが、射し込む陽射しに街灯のみが光り。

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この写真は昨夏の物ですが、この門をご覧頂きたく。

パドヴァの街はかって市壁に取り囲まれていて、スクロヴェーニ礼拝堂辺りは
市壁の外だった訳ですが、

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その中世の市壁にあった19の門の内、唯一残るこの門、アルティナーテ門・
Porta Altinate門で、写真手前側がカヴール広場。

街には他に6つ、16世紀の市の門が残っていると。
で、この日は向こう側を通るザバレッラ通りからこの門を通り抜け、
カヴール広場の一郭にあるセルフサーヴィスの店で、お昼を食べましたが、



中世の門を通り抜けつつ見た、門の内側の彫像。
明らかに17世紀以降の物なので、後から追加したのでしょうね。
そして鳩除けに、上からすっぽり網で覆われておりました。

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お昼を食べたセルフサーヴィスの店Brek。 お味の事は言えませんが、はは、
お安く簡単で、旅先のとりあえずのお昼には良いかも、とご紹介を。

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パドヴァ以外にもローマなどあちこちにあるようで、
サイトはこちら。 http://www.brek.com/
サイトメニューのDove siamoをクリックすると、他の街の住所なども出ます。
追記:確かめると、現在リフォーム中で暫くお待ちを、と。2018.10.22



さてお腹が落ち着き、ゆっくりとまたザバレッラ通りを。
道の奥にほら、中世の塔が見えて来て、あそこがザバレッラ邸と塔。
道も狭く、この辺りまだまだ中世の雰囲気が残ります。

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右手には古い長いポルティチが続き、こんな紋章も。

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調べましたら、ここは15世紀建設のサン・フランチェスコ教会と修道院
だった事を知りました。



さて、目指すザバレッラ邸。
道に面した門は小さくひっそりで、垂れ幕が無ければ分からない所。

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ですが中庭に入ると、こんなモダンな修復のされようで、

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入り口脇で、鑑賞中のご主人を待つワンちゃん。
3枚目でやっとこちらを見てくれましたが、話しかけられたくない目つき、はは。

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「イタリアの象徴主義展」、ええ、まぁ、最後にヴェネツィアのカ・ペーザロから
クリムト様のユーディットがお出ましになっていて、やはりこれがもう!!
手で触れる程の近くで見れ、何十年前のウィーン以来のクリムト様で、
これで全て他は帳消しに、ははは。
       


ザバレッラ邸の角、正面入り口が見えます、と塔。

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ザバレッラ・Zabarella という名も初めて聞き、どんな一家だったのか
調べました。

14世紀初頭のパドヴァ領主であったカッラーラ家・Carraraを取り巻く貴族の
家柄の一つで、この家も先にカッラーラ家が所有していた物の一つの様ですが、
1390~1405年にかけ、パドヴァがヴェネツィア共和国の下に入る時に
大いに働いたのが、この家出身の枢機卿フランチェスコ・ザバレッラだったと。

16世紀の哲学者ヤコポ・Jacopoの名も有名な様ですが、
家系は19世紀に消滅したと。

この邸宅は入り口のモダンさからお分かりの様に近年大きな修復が行われていて、
その際なんと、紀元前8世紀から5世紀にかけての居住跡、どうやら陶器製造を
ここでしていた様で、その破片がかなり出たのだそう。



狭い道を挟んでのこちらには、一挙に時代が飛んだリヴァティー風の建物。

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西に向かい道を辿りますと、左手の公園にこんなお墓。
アンテノーレの墓・Tomba di Antenore と言い、1283年の物。

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アンテノーレ・Troiano Antenoreという人物は、パドヴァの街を造ったと
言われる伝説的な人物、ギリシャ神話イーリアスに登場の人物ですが、
・・これ以上は聞かないで!

今回読みましたら、アンテノーレという人物がパドヴァの街創立の立役者
という伝説はともかくとして、
お墓の中の人物は、1985年の修復の際の骨の検査により、
3~4世紀に亡くなった、つまりアンテノーレよりずっと後の人物と分かったのだそう。

ですが1275年に、大理石の石棺が発掘され、中には糸杉と鉛で2重の棺が
収められ、アンテノーレの墓と大反響を呼び、 1334年に現在の場所に
設えられた際、棺が開けられ黄金の剣も発見されたのだそう!

それはもう、科学的捜査が無い時代ですから、こんな石棺だと如何に反響が
大きかったかよく想像できますが、
近年20世紀後半の検査で、当時の戦闘士の墓であったろうと。
真実が分かるのは素晴らしい半面、どこか夢を潰しますねぇ!



この公園の向かいには、こんな重厚な建物もあり、元は15世紀の建物が
19世紀にネオゴシック調に建て替えられた、現在は県庁の様子。

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壁にはダンテやカッラーラ家、ジョットの名も見える碑もありますが、
正直意味が良く分からず・・、またに。

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この建物の脇の小路の奥、こんな中世も覗け、

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さて中心に向かって進み、 カフェ・ペドゥロッキの上部を。
例により、地元の人間は素通りをし、がはは、

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近くで出会った可愛いワン君。

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ラジョーネ宮の北側、フルッタ広場・Piazza della Frutta.

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南側のエルバ広場と共に12世紀末からずっと続く、
市民の為の野菜と果物の市場。

手前に見える先の尖った円柱ですが、ぺローニオ・Il Peronioと
呼ばれる中世の物で、広場のテントを張る為の物だったろうと。

柱上部の四角い面には、野菜や農産物の浮彫があるのだそうで、
こういう事はいつも後から知り、次回を待ちます、はい。
     
ぺローニオという名は、ラテン語のperonesに由来し、革製の靴を示し、
ここで売られていたのだそう。



さて、現在の野菜売りの屋台。 冬野菜のラディッキオからトマトまで、
はたまた一番手前には白アスパラガスまで見えますがぁ・・!

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最後に、現市役所に接するアンツィアーニ塔・Torre degli Anziani、
塔に輝く、冬の夕陽を!

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13世紀からの塔で、かっては一番上に鐘があったそうですが、地震で崩れたり、
戦時に徴収されたりで、塔自体も20世紀前半に上が削られ低くなったのだそう。

パドヴァ散歩にお付き合い下さり、有難うございました。
     
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・ n. 2 大聖堂の煌めきを ・ アマルフィ

かってのイタリアの4大海運国の中で、一番古い歴史を持つアマルフィの町の
素晴らしい大聖堂の今日はそのご案内2回目。

天国の回廊・Chiostro del Paradizo、 磔刑教会・Cappella del
Crocifisso、 地下礼拝堂・Cripta、そして聖堂内部をご覧頂きますね。

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写真はガイドブックからの物で、上空から眺めると、聖堂前の階段の長さ高さ、
聖堂の奥行きも良く分かりますが、鐘楼の左奥に四角な回廊が広がり、
聖堂との間にかなり大きな磔刑教会、という配置。



では、聖堂の正面階段を上がり、ロッジャ部を左に、その隅の扉から回廊にどうぞ。

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今迄に見慣れている回廊は花壇があり、または緑の植え込みが模様を描く回廊ですが、
ここには椰子の木があり、はは、アラブ風のアーチ飾りで、やはり南国のイメージ。

天国の回廊と呼ばれる由来は、アマルフィの有力市民の為の墓地として1266~68年に
建設された事に因るそうで、17世紀には殆ど放置された儘になっていたのを、
20世紀初頭に修復、公開されたのだそう。



現在も回廊には7つの礼拝堂が残り、描かれたフレスコ画は14世紀のものと。

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上の真ん中の写真にも見えましたが、ローマ時代の石棺が5つあり、
これなどまさに素晴らしい浮彫が施された物ですが、
あのですね、・・これらも中世に再利用されたのだそうで、ははは。

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回廊の壁面に展示された物の中で、大変気に入ったのは、
このコズマ式モザイク装飾のあれこれ。 左下は床細工、その他は細工の一部。

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細部アップはこんな感じ。
角の小鳥と花以外の抽象的な模様が、今回この一帯でたくさん見かけたもの。

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どこかの柱頭なのでしょうけど、ちょっと笑えません?
ライオンに腰をかけ、頭にゲンコツなのか、タテガミを掴んでいるのか、ははは。

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コズマ式モザイク・コズマーティというのは、12~14世紀にかけて主に教会の床、
祭壇、説教壇などに各種の硬い色石や大理石、ガラス質の金モザイク片などを利用し、
ビザンティン美術の流れを汲む抽象柄の装飾を施したスタイルで、
ローマのコズマ・Cosma家一族が得意としたもので、4代に渡る7名の名、
ロレンツォを初めとする彼らの名が残ります。

彼らの作品の残る有名なローマとその周辺の教会は、
サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂・Basilica di Santa Maria Maggiore、
サンタ・マリーア・イン・コスメディン教会Santa Maria in Cosmedin、
そしてスビーアコ・SubiacoのSacro Specoの扉 ここは確か聖ベネデット修道院。
チヴィタ・カステッラーナ・Civita Castellana、ヴィテルボ近く、ドゥオーモの正面壁。    

皆さんも、教会の床がびっしりと各種の色大理石の模様で埋め尽くされているのは、
こちらで良くご覧になっていると思いますが、
コズマ式、という言葉に出会ったのはヴェネツィアのカ・ドーロの修復について
読んだ時で、そういえば、とサン・マルコ聖堂の床模様を想い浮かべたのですが、
それでもまだイマイチ、柄だけ頭に残らなかったのですね。 
多分面積が広すぎて、凄いなぁ!とだけで、ははは。


所が今回出会ったのは、こんな様子の小ぶりの抽象柄、というのか、
白色の余白が小気味よく斬新、と目に映りました。

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こんな柄が教会内の高く設えられた説教壇にあったりで、白色との取り合わせが
如何にもアラブ風が良く映える南イタリアのイメージですよね。

アマルフィから出かけたサレルノのドゥオーモでその美しさに目が引かれ、
初めてピンと来たのです。 はい、いつも遅めのshinkai!
サレルノのドゥオーモもまたご覧頂きますね。

n.1 カ・ドーロ ・ ヴェネツィアの館
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463740863.html

n.2 ヴェネツィアの館 ・ カ・ドーロ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463741340.html



さてこちらは回廊とドゥオーモの間にある、磔刑教会・Cappella di Crocifisso.
礼拝堂・Capellaという呼び方はガイドブックに、サイトにはバジリカ・聖堂ともある、
大教会の天井の高さと広さ。

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それも道理、元は中世初期に建設された物で、アマルフィの最初のドゥオーモで、
3廊式で、上部に張り出したかっての婦人用の歩廊も。
      


壁にはフレスコ画もたくさん残り、

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ここは最後の修復がつい1996年だそうで、現在は博物館になってて、



こんな浮彫の聖母子像や、

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木彫彩色の聖母子像も。

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マリーア様は媚がなくて良いなぁ、と思うのですが、ボクの方はどこか、
とっちゃん坊やのイメージで・・、失礼をば! ははは。



修復に因り、かっての古い礼拝堂も現れたそうですが、

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展示品には、こんなお輿もあり、18世紀の中国製、黒の漆に金彩色。
元々は世俗で用いていたのが聖堂に贈られ、大司教様がお出ましに用いられたそう。
       
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下部に見える四角い金具の張り出しに棒を通し、前後4人で持つ、という形ですが、
・・籠の様に肩に担ぐのと、腕に下げるのと、どちらが重く感じるのだろ?



こちらは、聖堂の地下礼拝堂・Cripta、大変豪華な造りで、

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元は13世紀に造られ、町の守護聖人の聖アンドレアの聖遺物を祀る為だったのが、
1600~12年にスペイン王フェリペ3世の個人的な意思に因り、この様に修復されたと。

聖アンドレアは、キリストの12使徒の一人で、コスタンティノーポリの正教会の
初代総主教様だそうで、・・これ以上は知らず、書けませんが、
 
1206年に町の守護聖人となり篤く祀られたのが、その後いつともなく紛れ、
1304年に巡礼の一人が、その聖遺物から滲み出る液に因り新たに発見したそうで、
これをマンナ・ディ・サンタンドレアと言い、
聖人の祭日11月30日には、未だにその現象が起こるのだそうで!

こういった聖人の奇跡というか、科学的には説明できない現象がイタリアの国には
あちこちにあり、その代表的なものが、ナポリのサン・ジェンナーロで、
聖遺物、聖人の血液が毎年2度液化するのですぞ!



最後は、アマルフィの大聖堂内部。 ご覧の様に、絢爛豪華なロココ様式の物で、

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主祭壇、

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天井。

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どうもこういうのは苦手で、写真も3枚だけ。



表に出て、ほっと一息。 正面階段上からの眺め、目線が高いでしょう?!

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やはり、この正面が一番美しいですね!! もう一度ご覧頂き、

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最後は、アマルフィの海の色をどうぞ! 

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・ ヴィッラ・マニン ・ ヴェネツィア共和国最後の元首の館

今日のご案内はフリウリ・ヴェネツィアジューリア州にある、ヴェネツィア共和国最後の
ドージェ・元首となったルドヴィーコ・マニン・Ludovico Maninの住まい、別荘であった 
ヴィッラ・マニン・Villa Maninを。

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一昨年の冬に既に一度訪問し写真もあったのですが、曇り空で如何にも寒そう、
色も良くないのでお目にかけずのまま。
が今回、この26日日曜の午後の訪問時は上天気となり、
温かい春の様な日で楽しめましたので、どうぞご覧下さいね。



こちらはずいぶん昔に買った絵葉書ですが、屋敷の壮大さが良くお分かりかと。
奥に四角く母屋と庭があり、手前側は丸みを帯びた建物が囲む庭、
そして母屋の奥に広がる広大な庭園と森。
はい、これが裕福なヴェネツィア貴族の別荘、住まいだった訳で、

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この絵葉書を見たずっと昔から、訪問したくてチャンスを待ちわびていた訳です。



ヴィッラ・マニンはどこにあるか、地図をどうぞ。 ウーディネの西、コドゥロイポ・
Codroipo のコムーネに含まれるパッサリアーノ・Passarianoという村にあり、

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すぐ北に見えるリヴォルト・Rivoltoには、イタリア国の儀式に花を添える
「3色の矢」というアクロバット飛行隊の基地があり、

東に見えるカンポフォルミド・Campoformidoという村で、ヴェネツィア共和国を崩壊
させたナポレオンがオーストリアと協議、その領土をオーストリアに分割したり、
罰金を分捕ったりの協定にサインをした、恨みの、ははは、場所。

ヴェネツィア貴族は本土側に領土を持ち別荘を建て出かけていた訳ですが、
ヴェネツィアからこのパッサリアーノまでどの位の距離かと調べて見ましたら、110k程。
馬車の速度というのは、どの位だったのでしょうね?

フレッチェ・トゥリコローリ ・ 「イタリアの3色の矢」飛行隊
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463999146.html



この日の午前中は、パッサリアーノの南西に位置するセスト・アル・レゲーナという
小さな町にある、ベネデット派の8世紀からの教会を見て、近くでお昼。
       
本来なら、今回は即「旨い物!」とアップする筈ですが、まさにそのつもりでいたのにぃ、
少し構えたレストランで、出された物の見かけは上品なのですが、お味はイマイチで、
ク・ヤ・チ・イ! 我らには、安くて旨く量たっぷりのアグリトゥリズモが良いなぁ!
と言いあった事でしたが、

てな事で、shinkaiも必死にヴィッラ・マニンを纏めざるを得ず、ははは。
フリウリの広い広い平野の道をグループのバスは走り、

こんな枯れ木の美しい駐車場に到着。 右下奥に、母屋が見えますが、

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こうして脇門をくぐり、

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こちらは緩やかな円形で庭を囲む厩舎跡、はたまた、各種倉庫の類だったのかも。

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門脇の石組み。 素朴な味でしょう?!

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この脇門を入ると、ちょうど上の絵葉書で見て頂いた、屋敷の地所の真ん中を
横切る道に出て、母屋がこんな風に。
奥に見えるアーチに見える人々の姿、あそこが展示会会場入り口。

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真ん中の通路、現在は車も通り抜け出来、半ば駐車場代わりにも使われている様で
がっかりですが、中央の門から見る母屋。

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道脇、母屋の庭側にはこんな風に池があり、かっては魚を養殖していたのだとか。
今も魚の姿は見えましたが・・。

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母屋のアップ。 イマイチ魅力に欠けるのは、広大な屋敷ではあるのですが、
建物のデザインが素っ気なく、おまけに現在は展示会場に使っている為か、
全て窓が閉じられているので、面白みが無いですよね。

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その点、ブレンタ川沿いの別荘類は素晴らしかった!
ヴィッラ・フォスカリ、 または、 ラ・マルコンテンタ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467561421.html

ブレンタ川沿いに ・ お休みのご報告と予告を
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467389459.html

イタリアで一番素晴らしい植木の迷路 ・ ラビリントを
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467389643.html
 


中の通り抜け道の、東側の門。

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今回ヴィッラ・マニンに行ったのは、「Eapressionismo・表現主義絵画展」が
開かれていて、それを見に行ったのですね。
自分一人だったら、多分、好きではないので行かなかったと。

でも、午前中の古い教会は以前からチャンスを待っていた場所でしたし、
気の置けない友人達との小グループでバスで、となると、これはまた楽しい日帰りの
お出かけですから、少々日程が詰まっていても、はは、出かけますです。
      
こちらが会場入り口へのアーケードで、こんな風に展示作品の大きな垂れ幕が並び、

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敷き石模様。

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2010年11月末にここに来たのはやはり展示会を見にで、その時は「ムンク展」。
かの「叫び」は来ておりませんでしたが、妹を描いた何点か、これが大変素晴らしく、
ムンクへのshinkaiの評価も変りましたが、

彼以外の画家たちの北方風景を描いた作品群が素晴らしく、
名前もまるで知らなかった画家の作品に見入った事でした。

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大変上天気の温かい午後で、皆思いおもいに日向ぼっこ。

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一人女性が肩を丸出しで日光浴! 撮りたいなぁ、と思いつつ写せずの
弱気なshinkai. 所がタータが厚かましく写しているのをお昼に見て、
ああ、これ、写したかったのよねぇ、と言うと、ルイーザの夫レナートが、
俺も、って、ははは。



今回見た表現主義展会場全体で、ああ、これ美しい、とか、良いなぁ、というのが
3,4枚あったでしょうか、エミール・ノルデも何枚かありましたし、他にもたくさん。
という位しか、知らないのです、正直。

この離れた会場で、しかも表現主義展というのに大変な人出で、まぁ日曜にしろ
驚きましたです。 ちょっと日本の展覧会場並みの混み具合でしたから。

で、出てきてバールで一休み。 回廊の出口にある鉄柵。

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所でこのヴィッラ・マニンは、ヴェネツィア共和国の最後120代目の総督、
ルドヴィーコ・マニンの邸宅であった、と書きましたが、
マニン家は元はフィレンツェ出身、14世紀頃にフリウリに。 ここで貴族の位を得て、
経済的政治的にも発展、1385年にヴェネツィア共和国の市民となり、
1651年に大評議会に迎えられたという家系。

この邸宅は、始めは17世紀中頃に建設され、時代と共に拡張、豪華になった様子。
ルドヴィーコ4世がヴェネツィア総督に選ばれた1789年5月の選挙で、
対抗馬であったアンドレア・メンモ・Andrea Menmoは、彼の政策に失望を感じた
自陣の応援を欠き、ルドヴィーコが1回目の投票で選ばれたと。

この時のもう一人の対抗者ピエトロ・グラデニーゴ・Pietro Gradenigoの苦々しい言葉、
「お前たちはフリウリ人をドージェにした。共和国は死んだ!」が有名ですが、
8年後の1798年5月12日に、まさにその言葉通りに!
 
眉が密集、生彩を欠いた茶色の目、大きな鷲鼻、上唇が飛び出し、歩調は疲れ、
体が少し傾いている・・、という、素晴らしい人物描写も見つけましたです、はぁ。



それはともかく、この館はナポレオンが1979年に約2カ月間、最初の妻の
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと住んだ事でも有名で、
ジョゼフィーヌがイタリア語でジュゼッピーナである事にピンとこず、
誰、これ?! 女連れだったのかいな、と、失礼をば、ははは。
       
カメラ持ち込み禁止の為、サイトでもこんな小さな写真1枚のみを見つけましたが、

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これが見物出来るナポレオンの部屋で、小さな寝室、丈の短いベッドが隣設していて、
この部分だけ、ちょっと豪華な屋敷の片鱗を垣間見れ、

入り口に続くロッジャ部分には、馬車などの展示もあり、写真が多すぎパスしますが、
ここの部屋内の柱の様子から見て、ここに厩舎があったのかも。

ヴィッラ・マニンの公式サイト。英語版も。 http://www.villamanin.it/

国際的な展覧会が開催される様ですが、今年の12月半ばからティエポロ展が
来年4月まで。 何年か前のヴェネツィア展を逃しているので、これは楽しみ!

ヴェネト州アーゾロの近くにある、マニン家所縁の別荘は
ヴィッラ・バールバロ・ディ・マゼール
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463456543.html



表現主義の展覧会を見て出てくる頃には、そろそろ陽が傾き、
屋根の上の彫像に、雲間からの陽が。

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あ、ケンタウロスもいる、と射手座のshinkai。

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屋敷部分から、円形の庭園に出て、

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先日の寒さに生き残ったと見られる、僅かなパンジー。

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円形の庭を囲む、エセ―ドラ、と説明がありましたが、
庭園の一郭に柱廊を廻らした屋外の建築物、というのだそう。
       
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で、左横にはかっての礼拝堂があり、



何か別の展示がされていた様で、表にこんなかっての、出張研ぎ師用の自転車が。

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終戦後の貧しい時代、こうして出稼ぎに出歩いたのだそうで、見えますか、
自転車のチェーンで砥石を回し、上の小さな銅の筒から水が落ちる様な仕掛けです。

後ろのシニョーレ2人。 あ、日本人が写真を撮ってると笑っていますがぁ、



へっへっへっ、研ぎ用自転車だけではないんだぜ、
あんさん方が抱擁しているのも、撮ったもんね!

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緩やかにカーヴを描く建物に当たる陽。

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アーチの上には、こんな顔、あんな顔。

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庭園の芝はまだ枯れているのですが、余りのお天気の良さに、
僕たちがゴロンゴロンと。

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庭園の一番南端の門の外まで行ってみました。
とにかく敷地が広すぎ、建物が長く、1枚の中には上手く収まりませんで。

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南の庭の端から、遥かに望むこんな母屋群。

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最後は館内にあった絵葉書で、どうぞ!
すぐ隣町に基地を置く「三色の矢・フレッチェ・トゥりコローリ」との
コラボレーションで、ヴィヴァー・リターリア!!

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・ n.1 大聖堂の煌めきを ・ アマルフィ

ナポリの南、サレルノ半島の南西部に位置するアマルフィ・Amalfiの町。

イタリア4大海運国の内でも一番歴史が古く、11世紀に繁栄の最盛期を
迎えましたが、その後は次々と侵略され、領主が代わり衰退の道を。

海がこの町に繁栄を齎しましたが、同時に何度もの天災被害も蒙り、
とりわけ1343年の津波は、領土の三分の一を消し去り、
町は再度立ち上がれない程の打撃を受けたと言います。
       
1461年にナポリ王フェルディナンド1世が庶出の娘マリーアと、
フェルディナンド・ピッコローミニとの結婚に際し、婚資としてこの町を贈り、
そのまま16世紀後半まで。
近代になり観光業の陽の目を迎えるまでは単なる地方の町、
紙の生産と漁網、索具の製造の町として埋もれ続けた町。

町の繁栄の歴史についてはまたのチャンスに、という事で、今回は2度に分け
町が最高に栄え始めた時に建設された素晴らしい大聖堂をご覧頂こうと思います。

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先回も書きましたが、アマルフィの町滞在中は余りお天気に恵まれず、
青空の写真が少ないのですが、が、上の様に夕方近くに一瞬の青空のチャンスもあり、

黒と白の大理石で描かれた幾何学模様、そして如何にもアラブ風な空気を
漂わすアーチの中の組み飾り、上に聳える金色モザイクの煌めき。
と、イタリア中世の、数少ない生き残りの美しい大聖堂。

左端に聳えている鐘楼がこの写真では見えませんが、



四角い塔の鐘楼の上部はこんな風に、円筒形の周囲に小さな円筒形が4つ。
それぞれに屋根と塔の飾りは、緑と黄色のマヨリカ焼きタイル。
鐘楼は12世紀に既に建設された物で、18世紀に修復が行われたそう。
       
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陶器、マヨリカ焼の町 ・ デルタ
       


こちらが塔の上部のアップで、実は遠くからの写真で、上の屋根の半分だけが
緑に光るので、どんな形のタイルなのかと、好奇心で、はい。

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見えますか、上部だけ見ると円筒形に見えるのですが、下の小塔の屋根で、
現在も普通に見られる半円形の瓦が、互い違いに組まれていると分かります。
で上部は、風対策でしっかり埋められているのが見えました。



少し靄のかかったお天気で、右の建物修復中の覆いが邪魔ですが、
正面階段手前から。

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階段の形と左右の欄干の形、聖堂正面の扉の上の半円の金モザイクの
聖アンドレアの姿、そしてその上部のフレスコ画、
最上部の三角形のキリストの図のある部分の図柄にご注目を。



この古い図をどうぞ。 これはアマルフィの元の造船所を修復して公開されている
「羅針盤とアマルフィ海洋公国博物館」に展示があったもので、ガラスの反射ご容赦、
1871年に設計家エッリーコ・アルヴィーノ・Errico Alvinoによって描かれたもの。

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これに依ると階段も手前部分が無く、上り口両脇にライオン像があり、何よりも
階段下中央に大きな十字架が見えますね。
正面扉の上の聖アンドレアの像も違い、その上にもモザイク画が見え、
最上部の三角形の中の図柄も違います。
つまりこれらが、修復によるかってと違う部分ですが、



こちらもどうぞ。 古い絵葉書を見つけ買った物で、年代分からず、いずれにしても
1世紀前位でしょうか、現在と同じ形の階段、聖堂の姿、図柄になっています。

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で、この修復について読んでいて、面白い事が分かりました。
1861年12月24日、なんとクリスマス・イヴの日ですね。 強風の為にそれまでも
保存状態の悪かった上部が2度3度に渡り、下の突き出した廊下部に落下したそう。

聖堂の損害は大した事が無かったのだそうですが、これをチャンスに、聖堂建設以来、
次々と重ねられた継ぎ足し部分、ルネッサンス、バロック期の物を取り除き、
かっての姿に近い物に再建修復する事が決められたそう。

で、この時の設計士が上の図を描いたエッリーコ・アルヴィーノだそうで、
大変賢明な、勇気ある決定がなされたものと思います。
       
このアマルフィの聖堂建設は、もともとは二つあり、それもほぼ同時代の9世紀と
1000年頃に建設され、どちらも使われていたのが13世紀に一つに統一、
現在の形に拡張され再建されたのが16、18世紀と。



では各細部を。 まず階段上り口の欄干、

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正面扉上部の聖アンドレア。
キリストの12使徒の一人で、アマルフィの町の守護聖人。 背後に見えるX形の
十字で殉死したというので、このXが彼のシンボル。 魚は彼が漁師だった印。
その上部も修復の時にフレスコ画に。

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ではもう一度大聖堂の美しい正面と、各部のアップを。

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最上部の三角形、玉座のキリストと預言者たち。

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その下方はこんな様子で、撮った日のお天気に因る色違い、ご容赦願います!

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こちらが左上部。 白と黒の大理石の柄に、金色モザイクがはめ込まれ、
所々に円形の柄タイルが埋められていますね。

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この円形の色タイル装飾は、形は違う物の似たのをヴェネトに近い土地でも。

メーゾラの森、 そして、ポンポーザの修道院
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463258528.html



では、聖堂に上がって頂きましょうか、どうぞ!

白黒柄の半円アーチを埋める、アラブの組み格子。 支える円柱がとても細く。

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鐘楼の角と繋がっていますが、角の円柱はローマ期の物の再利用でしょうね。

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アーチの下部を埋める円形柄も近くで見ると、こんな風にモザイクで埋められ、

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階段上から見るドゥオーモ前広場。 かなり急傾斜の、長い石段、
そして細長い傾斜した広場。

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正面の青銅製扉は、なんとコスタンティノープル、現イスタンブルで鋳造された物と。

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なぜコスタンティノープルから、と思われますよね?
1000年当時、既に海洋国として最盛期を迎えていたアマルフィの国は、
中南部イタリアのみならず、海を越えコスタンティノープル、アレッサンドリア、
キプロス、ベイルート、トゥリポリなどにも商館を置き、
物資(香水、高級織物、絨毯、香辛料)の取引をしていたのだそう。

ラヴェンナに今も燦然と残る素晴らしいモザイク群、あれもコスタンティノープル、
つまりビザンティン帝国の首都からの職人の手になる物と思いますが、
まさに当時のコスタンティノープルは、通商の都であると同時に、
美術工芸の技術に於いても、職人たちは優秀だった様子。
       
ヴェネツィアの博物館で見た、1辺が1mm程もの細かい細かい片でキリストを描いた
モザイク画に驚嘆した事がありますが、ちょっと目にはテンペラ画かと思った作品が、
やはりコスタンティノープル作で、あのロレンツォ・イル・マニーフィコの
所有品だったと知り、彼の鑑識眼にも敬意を表したのを覚えています。
       
で、この扉は1066年に、パンタレオーネ・ディ・マウロ・Pantaleone di Mauro 
当時かの地のアマルフィの植民地の長が、どうやら艦隊長を務め武勇も詠われる
貴族だった様で、2つ製造させ、一つはここに、
も一つは現在は東隣の町になっているアトゥラーニ・Atraniの教会、
当時はアマルフィの領土だった、に贈ったものと。 この隣町の教会についてもいずれ。


ラヴェンナ ・ モザイク詣で n.1
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463938572.html
 
ラヴェンナ ・ ビザンチン・モザイクの輝き
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463253355.html



扉の中央部分をどうぞ。 素晴らしい24枚の図柄からなる扉ですが、ライオン君も
上の聖人も良き信仰の善男善女に撫でまわされ、金属も撫でてすり減るものと!

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この重い扉を支える周囲の石枠がまた素晴らしく、葉、ライオン、鳥等も彫り込まれ、
ここに見えるのはケンタウロスではないかと・・。

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聖堂前のロッジャ部で、下から見た左側。 奥左に見える扉が鐘楼部で、
右奥に回廊と教会。

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鐘楼への扉前から、中央部の様子と、

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ロッジャの円柱、柱頭部。 聖アンドレアのシンボル、Xも見えますね。

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こちらが天国の回廊・Chiostro del Paradisoと呼ばれる
周囲を柱廊が取り囲んだ中庭部分。

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なぜ天国の回廊という名なのかと疑問に思いましたら、1266~68年に造られた、
町の有力者の為の墓地、礼拝堂用だったそう。
       
細い2本の円柱に支えられたアラブ・ノルマン式アーチ組み格子が、如何にも南国風。
1600年代に放置された儘だったのを、1908年に修復公開されたのだそう。
  
という事で、回廊を取り巻く部分に展示されたモザイク装飾、この一帯のモザイクは
本当に素晴らしいのですが、と、聖堂内、クリプタのご案内は次回に致しますね。



最後は、港から見た鐘楼と聖堂の最上部の眺めをどうぞ。

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町が小さく、建物が狭い土地に建てこみ、まさに家並に埋まって見えます。

ではまた次回に。

*****

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・ アマルフィの町に、夕暮れが迫る頃

今日ご覧頂くのは、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサと並び、イタリアのかっての
四大海運国の一つ、アマルフィ・Amalfiの夕暮れ時を。

昨春ナポリからポンペイ、カプリと出かけた時に訪れましたが、3日半の滞在中、
アマルフィを基地に出かけたサレルノ・Salerno、ソッレント・Sorrento、
ポジターノ・Positano、・・はは、まだ丸残りだぁ、と笑いでごまかし・・。
どこも良いお天気に恵まれたのですが、肝心のアマルフィ滞在時がぐずり気味。
それにもめげずたくさん写しており、それが未だ写真未整理、資料未読で
ご案内が遅れ、漸くに重い腰を上げ、ぼちぼち見て頂こうと。

という事で、予告編も兼ねまずは纏めやすい、はは、夕暮れ風景から、どうぞ!
これは、港から西の風景。

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この日の朝カプリからソッレントに渡り、バスで山を越え到着でしたが、
高波の為予定の船が出港せず、なんとか次の大型船に乗れソッレントに到着。
が予定していたバスは既に出た後で、雨。 おまけに次のバスが時刻表通りに来ず、
2時間以上待ったかな、という事で、午後遅めにやっとアマルフィに到着。

で、このバスが恐ろしい程の崖っぷちを突っ走るのですが、薄暗い雨模様とはいえ、
素晴らしい海岸風景が見え、悔しい!
お天気が良く、もすこしゆっくり走ってくれたら、ははは、それはもう最高だったろうと。
     
まぁ、無事になんとかホテルに着き、荷を置き、早速に町の中心に出かけ
ドゥオーモを見物、そして港に。
なんとか雨が上がり、ちょうどうっすらの夕陽が始まる時刻。


カプリ島の海と空と ・ 朝と夕暮れ



世界遺産にも指定されているアマルフィ海岸一帯ですが、海側はどこも
崖がすぐそこにまで迫り、家々が崖にへばり付く様に立ち並びます。

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一旦港の広場から町の中心に行きますが、町の門前のこの道が、
西のポジターノから東のサレルノに抜ける道。
写真では奇跡的に車が写っていませんが、多分信号が赤なのでしょう!

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この狭い、いやアマルフィ海岸を通る道はどこもが狭く曲りくねった、
おまけに傾斜した恐ろしい程の道で、ここを横切るとすぐにドゥオーモ前広場に。
       
この一帯、そして町の地図は次回にご覧頂きますね。



ドゥオーモ前広場の一郭にこの泉があり、上に見える聖人はサンタンドレア。
泉の中に、小さな陶器人形のプレセーピオ、普通はクリスマスに飾りつける
キリスト誕生の逸話再現が設えられているので、皆が見ているのですね。

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広場から山の手に向かって続く緩やかな坂道沿いに、レストランやバールが並び、
我々もこの奥の方の、なぜか2晩同じ店に通い・・。

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この辺りでメニューを眺めていると、客引きの若いお兄ちゃんが中にどうぞ、と。
友人と、ここはやめとこうと決めると、すっと気配を察して、
シー・ユー・トゥモロウ!とあっさり。

英語だぜ! 凄いねぇ!と世間知らずの大和撫子2人は、ははは、カプリにしろ、
世界遺産指定のこの周辺の町々での英語流通にいささかあっけに取られ・・。



狭い崖地に造られた町なので、こんな狭い石段が、上の道とを連絡し、

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タバッキの店の壁に描かれた十字。
かってのアマルフィ海洋共和国・Repubblica marinara di Amalfiの紋であり、
他の3つの海洋国のシンボルと共に現在もイタリア海軍の旗に使われている十字。

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アマルフィの特産品は、リモンチェッロ、手漉き紙、そして陶器。
こんな風にいっぱいに飾り付けたお店も。

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広場から見るアマルフィのドゥオーモ。 正面に大きな高い石段があり、
上に白と黒の大理石の柄、そして一番上には金モザイク画で、
アーチの下の格子柄もアラブ風。

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正面扉の上にも聖アンドレアの像が見えますが、左側にはちょっと変わった装飾の
鐘楼もあり、ドゥオーモの様子はまた別にご案内致しますね。



もう一度港の広場に戻り、夕暮れ、灯りの灯り始めた風景をどうぞ。
あんな高い所に教会がある、家がある、と灯りが灯ると、道の様子も良く分かり。

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遠くの高台に見える教会。

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アマルフィの町外れ、崖の上のこの高級ホテルサンタ・カテリーナは、元修道院だったと。
私のイタリア語先生のアンナリーザが、子供の頃祖父母と一緒に泊まった事があるそうで、
海辺まで直接に行けるエレベーターが付いていたと!

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こちらは町の西側の一郭で、一番上に小教会。 あそこはいつも開いているのか、
と訪ねると、何かの折には開くけど、いつもは閉まっているとの事。

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この海に臨んだ家の固まりの風景を、リンクして頂いているブログ「風色明媚」の
日本画家の二木さんが描かれており、

その絵が映画「アマルフィ 女神の報酬」に出演し、その顛末をこちらに。
http://blog.goo.ne.jp/futa2560/e/9efbb100db88f1eecd655335ab0112b2
       
私がアマルフィに行く、とブログに書きましたら、懐かしいアマルフィの写真が
見れると喜んで下さったのですが、バタバタした1年でこんなに遅くなりました。
肝心の土地でお天気に余り恵まれなかったせいもあり、閉っていると聞いた
教会前にまで行くのも億劫となり横着を。
今こうして眺めていると、もっと歩きまわらなかったのが残念。



港前に広がる公園にある像。 あれは誰?と訊ねましたら、羅針盤を発明した、
というより完成させたという方が言葉が正しいかも、の
フラヴィオ・ジョイア・Flavio Gioiaという13世紀のアマルフィ出身の男性像。

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海洋国として発展を遂げたこの町に如何にも相応しい人物で、
昼間の写真で、また見て頂きますね。



広場の外れ、町の門に近い場所にあるバール。 ちょっと良い雰囲気でしたよ。

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通りにはやはりスーヴェニール店が多く、

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町の東を望み。 空の色が一番美しく出る刻。

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一番右端のあの突き出した先に、かっての海賊船見張り要塞の残りがありますが、
道筋は美しい眺めが途切れることなく、サレルノまで!

サレルノまでのバス路線の素晴らしい眺めはまたご覧頂く予定ですが、
この一帯、突き出す岬ごとにこんな要塞の塔が残っていて、これ全て、
イスラム圏からの海賊船に対してなのですね。 要塞ごとのガイドブックも
見つけて来ましたから、何か面白い話でも見つかる事をお楽しみに。
          
 
         
岬の一番先には、かって劇作家のイプセンが泊まり、ワーグナーも
泊まったというホテルがあり、 ワーグナーはここからラヴェッロに行き、
かの「パルシファル」のインスピレーションを受けたのだそう。

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n.1 ラヴェッロには、ワーグナーの旋律が良く似合う
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464232541.html

n.2 ラヴェッロには、ワーグナーの旋律が良く似合う
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464232691.html



さて、美味しい魚介の夕御飯も食べ、とっぷり暮れた海辺の道を宿に。
浜辺に突き出す散歩道にはレストランやバールの椅子が並び、
まだ肌寒い早春の夜を楽しむ観光客も。

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という、アマルフィご案内の幕開け、夕暮れの風景でした。

アマルフィ沿岸の町々のご案内が上手く纏まるよう、願ってやって下さいませませ。
日暮れて道遠し、の感多く、の毎日で~す!


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