・ レオナルド・ダ・ヴィンチの発明した物、考案した物

今年は何かとレオナルド・ダ・ヴィンチについての新発見が多く、最近の
科学審査の進歩に伴い、彼の作品と違うと今迄言われていた何点かが
真品であると認められたとか、
長年言われてきたフィレンツェのヴェッキオ宮の壁の下の捜査も始まる、
という様子で、彼の話題が多い事でした。

shinkaiも歩けば棒に当たるで、浦島たろ子風に世間の話題と関係なく
ウロチョロしている当ブログにも、何度か彼が登場しましたが、

ちょうどこの秋、我が町で彼の残したスケッチ類、発明や考案のスケッチ類を
長年に渡って研究され、小さいながらも動く模型を作られている、
その展示会がありました。
 
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紙に描かれたスケッチが動く、というのが大きな魅力! 出かけて行って
写真を撮らせて貰い、再度説明を聞きつつ動くのも見て、成程!と
思うのも何点か、また、これはお遊びの部類、失礼、というのもありましたが、
それらをここに皆さんにも!

上は会場、アルテストーリア・Artstoria というグループの本部横、
このグループの企画で、展示会や見学にも出かけるのですが、
良く研究され準備された方々で、説明が大変的を得ていて分かり易く、
参加できるのがいつも楽しみなグループです。
http://www.artestoria.org



会場は事務所横の大きな部屋で、
子供達の見学もあったり、実際に動かして楽しんだ様子。

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レオナルドが遺した数々の発明、考案のデッサンは夥しい数に上り、
実際に使われた物もそうでないのも、埋もれた数の方が断然多い筈ですが、
今迄にもモデルに起こした方は何人もおられるようですし、
今回ちょっと見ただけでも、デッサンを分かりやすい絵にしたりの
サイトもたくさん見つけました。
       
展示品は、ヴェネトのジローラモ・コヴォラン教授・prof.Girolamo Covolan
が1997年から取り組んだ物で、
いつもはトゥレヴィーゾを流れるシーレ川沿いのサンクチュアリー・
Oasi di Cervaraの中にある古い建物に展示されている様子。

オアジ・チェルヴァーラ ・ シーレ河の自然公園  n.1 と n.2
このサンクチュアリーも水が枯れ始めていたのを、レオナルドの発明である
水車を用い、シーレ川からの水を運び蘇らせ、コウノトリの繁殖も、という
プロジェクトの一環だそう。

この様子は、イタリア国営放送RAIの番組のYoutubeも見れますので、
こちらをどうぞ。  http://www.macchinedileonardo.it/

右に縦に3つ並ぶヴィデオの内、真ん中のが今回の展示会でご紹介の
モデルのあれこれが実際に動くのが見られ、コヴォラン教授自身が説明を。


つまり今回展示されていた物は、いわば動く小さな模型展とでもいうか、
今迄実際に作られた事が無いのもコヴォラン教授が実現したリの一部分で、
レオナルドのデッサンと並べてご覧頂きますね。


まず、ヘリコプター。
かって全日空の尾翼に、この形のデザインが描かれていたと記憶していますが、

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支えに立て、横の歯車をぐるぐると回すと、ふっと浮いたと。

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こちらは鳥の羽、飛ぶ研究のデッサンを基にした物で、左のテコを上下すると
羽が軽く動きます。 つまり鳥は、羽を上下するのに筋肉を使っている訳ではない
という部分なんだそうでして、はぁ。

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レオナルドは各地の実力領主に招かれ、戦利用の為、城の保守に、また領土内の
河川工事について、あれこれ考案したり設計したりしていた訳ですが、
(その間に勿論、絵の依頼も受け描いていた訳で!)

遺されたデッサンの中には有名な「戦の機械」の幾つかもあり、
こちらは戦車。

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下の箱は展示用で、2つ見える輪を回すと、中の輪車が自由な方向に動く
仕掛けが見える様になっていて、

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中はこんな様子。  中に兵士が入り、歯車の梃子を回し自由に移動でき、
上下の隙間から鉄砲、または小砲を四方に撃てるという形。

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レオナルドはこれ以外にも、機関銃式に次々と撃てる小砲、巨大砲、潜水艦式
などなど、様々な近代兵器も考案しておりますし、

イスタンブルの金角湾に架ける橋の設計も売り込んでいた、と知り驚きましたが、
他にも回転する橋、2層の橋、取り外して持ち運べる橋、などなど、
まさに知れば知るほど驚くばかりの、頭脳のフル回転!

ガラタ橋は、釣り人天国 ・ イスタンブル 
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461093420.html 
      
こちらのサイトに、分かりやすい図にした考案の数々が。
http://www.leonardo3.net/leonardo/machines.htm        




これは、鎌を付けた戦車とでも! 見るからに恐ろしげな戦車のデッサンで、
前にも後ろにも、当たるを幸いなぎ倒す、鎌で切り取る式の戦車。

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モデルに作られたのがこれでして、

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まさに恐ろしい戦車ですがぁぁぁ、
ああた、こんな鎌を前に見ながら、馬が走ると思われます?!
まさに、レオナルドが馬鹿領主を前に大法螺を吹いて、ははは、
自分の売り込みを図る様子が目に見えるようではありませんか?!



これは初めてモデル化されたという、2重のカタプルタ・弩砲と日本語では
いうのだそうですが、大きな投弾機とでも。

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使い方をご説明いたしますので、はは、ごゆっくり眺めて下さいね。
読まないでも分かる(可愛くない)方は、お先にどうぞ!

右の棒の足元にある台に弾(今左に見える丸い玉)を乗せ、・・この仕掛けが
見えませんが、ぐんぐんと迫上げ、一番上の台に乗せます。
そして一番手前の歯車を回しロ―プの付いたしなう板を引き寄せ、
ロープの途中に見える継ぎ目を外し、これはちょっと引くと外せる仕組みで、
しなう板がパンと上の横板を打ち、上の腕部分が回り、回った勢いで
右の上板の弾を打ち飛ばす、
という仕組みでございます、お分かりになりましたぁ?

カタプルタは、中世の城攻めでも良く使われた様で、
弾だけではなく、火を付けた藁玉も撃ち込んだりした様子ですが、
この大きな単純な形を見た事があります。
       
サン クイリコ・ドルチャ ・ 中世街道の分岐点
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461279240.html       


この2つはなんとなしに可笑しい、現在見るから可笑しいのですが、
当時の兵士にとっては命にかかわる城壁防御、左側、と
右は逆に城壁を乗り越える為の梯子。

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左は下の横十字の棒、梃子を兵士が回すと歯車の仕掛けで、城壁の上に
突き出た十字棒が回り、向こう側から上って来た適をなぎ倒す、という物。
右の梯子は移動でき、梯子の角度調節付き。



これはもう、うふうふ笑いそうになった物ですが、

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城壁の上に穴を開け、手前側にこういう仕掛けを付けておき、いざ敵兵が
向こうに梯子をかけ上り始めたら、手前の棒を引く。
と城壁の向こうに突き出ている棒の先の横板が敵の梯子を押し返す、
という仕組みでござるよ、ははは。

       

ここからは彼の平和で、有用な考案物を。
       
レオナルドが大いに関心を持ち研究した物の中に、水とその流れ、そして歯車と
水の流れが自動的に関連して動く仕組みがあるそうで、

こちらは水車を動力源にして、水を他の場所に運ぶ仕組み。
これが上記したオアジ・チェルヴァーラで実際に活用されているものですね。

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これが模型で、水車が左回りに回ると、筒状に巻かれたチューブを通り
水が汲みあげられる仕組みで、

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つまりこれが可能なのは、水の渦巻きは常に、地球の自転により北半球では
左巻きなのを見極めたのを利用し、この筒状の物は左巻きに動き、
水を汲み上げるのですね。

これを聞いた時、ムチムチのshinkaiは思わず、え?!でしたが、
皆さんご存知でした?! ・・と仲間を集める、ははは。
      


これも水力利用の挽き臼と、小麦粉ともみ殻の選別機、

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中央上に見える丸いのが挽き臼で、水車利用で挽き臼が回り、上から小麦を
入れ粉が滑り台を通り、丸い布が筒状になった中に。

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一方水車利用の力で歯車を動かし、これが布の筒の下に見える棒を筒の下を
こする様に左右します。
これで重いもみ殻は布筒の下に残り、軽い小麦粉は筒先から出るという仕組み。



やはり水力利用の、製材機。

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水車が回り、これが上に突き出して見える鋸歯を上下させ製材しますが、
右上に見える丸い歯が左下の重りに連絡し、最後まで製材した後に、
自動的に木材を挟む枠が戻る仕掛け。

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これは実際に活動した様で、ドロミーティーの麓の村に復元され、
ヴェネツィア式製材所、だったかの名前で、グループで申し込むと見学できるそうで、
たまたま息子たちが行った時に開いていて見物出来、
動画に撮ったのを私も見せて貰ったのですね。

実際の大きさは、大きな小屋一杯に埋め込まれる仕組みで、大きな鋸歯が
ギコギコと上下するのは、ちょっとした感動もので、彼らも大いに見惚れたという話。



基材打ち、これも初めてのモデル化だそうで、ドスッと落ちるのを見て、おお!

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つまり、この重しを両側から吊っている鉤状の物が、上に引き上げられ、
上の丸い形に沿って開き、フックが外れ、重しがドスンと落ちる仕掛けで、

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ご想像下さい! ヴェネツィアの街建設為の干潟への基材打ちに、
パラッツォ・ドゥカーレ等の基礎建設にも、大いに活躍した姿を!

パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア その1 
       


こちらは手動印刷機の圧搾の仕組みを、自動的にする改良だそう。

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つまり手前に延びる梃子を回す事により、奥の歯車の仕掛けで、
手前の紙台が上に引っ張り上げられ、ここに傾斜があるのがミソで、圧搾機の下に
上手く入り込むようになっていて、ここで上から押し付ける、という形。

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これは子供達の見学で大いに試され、インクで汚れておりました。

ソンチーノ ・ 中世の要塞と、ユダヤ人の印刷所 その2
   


回転するクレーン。

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レオナルドが考案した物を、フィレンツェのドゥオーモの屋根建設にブルネレスキが
実際に実用化して使った物で、一方向だけでなく、回転してどの部分にも使える、

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高さも上下する、というのがミソですね。



彼の大いなる関心は、歯車の組み合わせにより梃子を一方向に回すにも拘らず、
作用する向きが縦にも横にも、組み合わせる螺旋形、蛇行形により、
途切れることなく様々な動きに変化する、事にも向けられたようで、

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時計の振子運動に相当する物、扇を動かす形、等、様々のモデルも展示
されていましたが、この辺りになると、shinkaiの頭は考える事を停止で・・!
      
という所で、ご案内は終わりですが、
       
レオナルドの生きた15~16世紀、動力源ば人力と動物の力、そして自然の
風水力という時代に、当時にあっては奇想天外な想像力を働かせ、
頭脳の及ぶ限りの研究と考察を続け、これは時に現代の素材と動力元をも
必要とし、当時では実現不可能な物もありましたが、
       
一方、当時の社会状況に根差した水車利用の農機具の改良とか、製材機とか、
基材打ちなどの実用的な物、と二方向に分けられるのが大変興味深かったです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの生家と、その周辺
       
レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について
       
「アンギアーリの戦い」始末記と、その周辺もろもろ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461130197.html      



さて、ちょうどクリスマスになりますので、
最後はやはり、レオナルドの描いた聖母子を。

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そして、いちびりshinkaiとしましては、
サイトで見つけたからには、どうしてもご覧に入れたい、ははは、
レオナルド関連の一枚を!
皆さま、ブオン・ニャターレ!!

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・ n.6 ポンペイ遺跡 最終回 ・ 秘儀荘 その2

お陰さまで、漸くにポンペイ遺跡のご案内の最終回。
こういう旅の纏めはブログをしているからこそできる事で、本当に、お陰さまです!

ポンペイの北西、城壁外に位置する秘儀荘・Villa dei Misteriの
ご案内2回目。 さて、あの有名な壁画の部屋に行く前に・・、

写真は、一つ手前にある寝室で、巫女と、踊るサーティロ・Satiroと。

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隣の壁画にもSatiroの存在があり、これが辞書を引いてもイマイチ、ピンと
来ないのですが、日本の辞書によると、色子とか、性的に貪欲とか表現され、
ギリシャ神話のサチュロス、半人半獣の森の神と。

イタリア語の辞書でも似た様なものですが、我がイタリア語の先生アンナリーザ
によると、役者だと。  という事であれば、

半獣にも描かれておらず、ギリシャ悲劇に出演の子役の様なものかと。
そう考えると、納得できる気もしますが、どなたかご存知の方、お教え願います!



この部屋の床モザイク、色使いも上等でしょう?
寝室と言っても奥の部屋なので、これも納得ですね。

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もう一度、家の平面図をどうぞ。 上の寝室というのは、4.の部分、

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そしてあの有名な壁画は、5.Sala del grande affresco に。

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隣との境は閉じられ、前部からの眺めだけで、良く見えるので文句は言えない物の、
奥は遠く斜めになりますし、細部を眺めるのは無理な状態。

昔子供の頃にこの絵の一部を本で見て以来、なんと美しく魅力的で、
不思議な絵なんだろう、 どんな大きさ? 何を描いているんだろう?
とずっと考えて来ましたから、今回このチャンスを得て
どんな場面か、大きさも等身大と分かると、もっともっと意味が知りたくなりました。

フレスコ画とはいうものの、通常のフレスコ画が艶なしなのに、
ここのは、というよりもポンペイの壁画の大半に共通する特徴の、
艶のあるのがしっかり分かるのは、どういう工程で描いたのかも知りたく、

またつい最近、このポンペイの赤色は、本当は黄色だったのが、噴火のガスの
影響により赤になったのだ、という研究発表があったのも、皆さんご存知ですね?
       
そんなこんなも含めかなり一生懸命に読みましたので、
上手くお伝えできますように!


写真はかなり撮って戻りましたが、なにせ遠く前面からで、斜め位置の写真
となるので、これ以降はガイドブックからと、ウィキペディア・W と記します、
からのでご説明を。

まずは全場面を2つに分けてどうぞ。

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絵のオリジナルはギリシャの紀元前4~3世紀のものだそうで、
これが描かれたのは紀元前1世紀の中頃と見られ、

上の写真でお分かりのように壁の3面に渡って描かれ語られ、
左から右に進む全体の長さが17m、高さ3mの物。

この高さは、壁の床から天井までのものと思われ、描かれた人物は等身大と
お考え下さい。

この古い時代に描かれた物の中でも、これ程の素晴らしい出来ばえの物は
他に類を見ない、という事もありますが、
       
同時に、この不思議な絵について未だに何が主題なのかが論争され続け、
様々な定義付けがあるようで、どちらがというのも到底難しく、
ここでは、どちらの説も一緒にご紹介致しますね。
       


こちらがガイドブックにあった説明図で、I~Xの場面に分けているのに従い、

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登場人物は全部で29人、いずれも舞台の上の高さのイメージで、
これからもかなり劇的要素が強く感じられますが、

I. 儀式の会則を読む少年と、寄進者(写真W)

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ギリシャ神話の酒神ディオニュソス、ローマ神話ではバッカスにあたりますが、
その酒神礼拝というのが当時ローマでも大変盛んで、というのも、
入信すると現実から逃避できるという触れ込みで、悪い風習、多分飲酒が
紀元前2世紀頃に大いに広まったのだそう。

おまけに女性や奴隷も参加できたので、ひょっとして人種混合の性的交わりを
行う秘密宗教団体では、とローマの上院は許可なしの宗教集会を禁止、
違反者は死刑、とのお達しも出たそうですが、ポンペイではまるで関係無しに
続けられていたそう。

近年フランスの歴史家 Paul Veyne なる人が、この絵に新しい意味づけを
与える発表をしているそうで、比較する為にも、こちらの見方も一緒に書きますね。

彼によると、この絵画は宗教儀式にはまるで関係なく、裕福な家庭の
娘の結婚式の準備を描いたものだそうで、
この場面は、花嫁の弟が古典の文章に集中している姿で、後ろに座っているのが
家庭教師で、手に巻物を持ち、左側に立っているのが少年の母親、
学問の進み具合を吟味していると。

右端のお盆を持っている女性は、従来の説では、春を現わす女性が
聖なるパンを備える、としているのに、

フランス歴史家説は、女性は奴隷で、婚礼の良き印としてのゴマの入ったパンを、
招待客に運ぶ為に持っている、と。



II. 従来説、左から夏、冬、秋を現わす女性で、(ガイドブック)

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右の秋を現わす女性が(この絵では切れていて)下の絵の左端に見えますが、
お盆に水を注いでいる所で、真ん中背中の女性が巫女である、と。
すんまへん、書いている私もこの辺りの説明が良く分からず・・。

仏人説では、水を注いでいるのは、婚礼の水浴の為であると言い、
実際ローマ人の風習では、婚礼の初めての性的交渉の前に、宗教的な
水浴をする事が行われていたとか。



III. と IV. ギリシャ神話の森の神、ディオニュソスの従者の半獣神シレノス
が竪琴を弾き、奥の笛を吹いているのは、女性の羊飼いで、
羊飼いが山羊の子に乳を与えている場面。(写真サイトから)

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仏人説、この音楽家は婚礼の為に雇われた事を暗示していると。

右端の女性が驚いた仕草と顔で、大きくマントを広げ逃げる様子ですが、
次に見える少年が掲げる芝居の面に驚いている、と言い、



V. と VI.左場面 別のシレノス、頭に蔦の冠を被り座っている、が、
仲間の若いサーティロ(上記)に、カップからワインを飲ます、または若者が
カップの底を覗きこんでいる、後のも一人のサーティロは、半ば冗談で面をかざし、
(写真ガイドブック)

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いずれも大体似たり寄ったりの説で、右半分が一番剥落部分が多いのですが、

ディオニュソスが既にサンダルを片方脱ぐ程に酔い、アリアドネーの膝に
寄り掛かっている、という図で、この場面は部屋の一番正面に当たり、
宗教的儀式の始まる鍵になる場面だというのですが、

仏人説は、ディオニソスは酔う程に愛人のアリアドネーを愛していて、
自分よりも高い位置に彼女を置いているのは、花嫁の幸せと子宝に恵まれる
暗示であると。


       
VII. 真ん中の跪いた女性が儀式でファッロ・Fallo という自然活動の源を
示すシンボルである棒を取り出し、籠に入れるという場面なのだそうですが、

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ファッロという言葉はもっと直接に男性のシンボルをも示し、
絵が見難いのとで、・・よう分かりまへん。

右に見える羽のある女性が鞭を振り上げている姿が、この場面の中寄りに
見えるのが、私には一番分からなかった部分ですが、

中央の膝まずいた女性に属するのではなく、次の場面の左側に繋がると知り、
納得。 ・・位置配地をもっと上手くしてくれぇ、と内心文句、ははは。



VIII. 左側、鞭うちされた若い女性が、庇護を求めるかのように、
腰かけた女性の膝に蹲っており、

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伝統的解釈では、ディオニュソス礼拝の宗教団体では(新入会者には?)
鞭打ちは一般的な事だったと言い、

仏人説では、この若いヌードの女性は、新婚初夜に恐怖を抱いた言う解釈で、

続いてヌードでタンバリンを持って踊る女性の後ろ姿があり、
その背後に杖を支えている女性姿。
・・う~ん、この辺りの事情背景が分かりませんねぇ。

後ろの女性が支えている杖は、正面の酔っぱらったディオニュソスの膝に
寄り掛からせているのと同じ様ですし・・。
       

       
IX. この場面はいずれも同じ様に、花嫁が婚礼の準備で、
伝統にのっとって髪の毛を6つの房に分けている所であると。

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X. 家の女主人であると言い、最近の説では娘の婚礼準備を援ける母親、とも。

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この絵は、入り口の右手前壁にある様で、これは見ていないのです、
残念、前の方を見たいばかりで気が付きませんでした。

という事で、絵の背景については確かな事は分かりませんが、いささか神秘的で
舞台運びの様な素晴らしい絵と、それを愛でるだけで良いのかもですね。

所で、この部屋はtriclinio・横臥食堂、つまりローマ貴族が横になりつつ
食事をする部屋だったと言い、
こういう絵を見ながらの食事、う~ん、優雅というかなんというか、凄いですねぇ!


       
そしてこの背景に使われている赤色、ポンペイの赤、と呼ばれる有名な赤色が、
こうして写真が変わるだけで、随分と発色具合も違いますが、
どんな画材で、どんな描き方をしていたのかも気になり・・。

ポンペイの赤、で検索をかけて出るのがこの赤、随分と上の色と違います。
       
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写真の色の発色は、隣に来る色、全体の暗さ明るさに因って大いに変わりますし、
カメラによる違いもありますね。

色の元を調べると、最初は辰砂を使っていたのが、この鉱石は水銀を含む事から
体に悪いのと、大変高価な事から、
朱に近い色から弁柄色までの自然界の色を使用するようになり、

色の名で言うと、ロッソ・イングレーゼ・rosso inglese、エマティーテ・ematite、
テッラ・ロッサ・ディ・ベローナ・terra rossa di Verona、そしてオークラ・ロッサ・
ocra rossa辺り、

それに土地の特有の赤色があるので、それらを混ぜていたのではないかと、
つまり実際に見た赤色は、上で見る色よりもも少し明るい印象がありましたので。
       

と、つい最近の学者の研究発表で、ポンペイの赤はオリジナルは黄色で、
噴火のガスの影響で赤になった、というのがあり、かなりの反響を呼びましたが、

今迄あれこれご覧頂いた中でも黄色と赤の差は明確に分かりますし、
黄色であったというのであれば、どの種類の黄色が赤になるのか、
その辺りが知りたいですね。

と、肌色との関係から、黄色という背景はかなり難しいのではないか、
背景が赤である事を初めから決めていて、肌の色があるのではないかと、
あれこれ考えますが、

途中であれこれ研究発表の資料もファイルしましたので、
またじっくり読んでみたいと思っています。

cuccciolaさんが、この発表についてこちらに。
http://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/3037807.html       


次に描法ですが、通常のフレスコ画では出ない艶があったのは自分で見ましたので、
これについてもあれこれと。

日本の方のブログで、石灰とロウを加えた石鹸水に色を混ぜて絵具を作り、
鉄ごて、大理石のローラーや磨き石等で描いた絵を磨き上げ、
最後に布でつやだしをする、と書かれているのを何件か拝見しましたが、

当時はまだ石鹸が使用されていない時代であり、石灰とロウを加えた石鹸水で
色を混ぜる、というのは顔料を使ってテンペラを描いていた身にはどうもピンと来ず、

磨き石などを使えば色が剥げるであろうし、と、
どこかに描法が無いかと探し回って、これかなと思うのを。

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エンカウスト・Encausto という古い描法で、大理石、壁、木材、テッラコッタ、
象牙などにも描いていて、
顔料をチェーラ・プーニカ・cera punicaという蜂のロウに溶かし、これは粘着性を
持たすためで、この液を火鉢の中に入れ温めて置いたのを、
筆、またはヘラで描き、その上から金属製の工具で押さえたのだそう。

チェーラ・プーニカという蜂のロウ、蜜蝋は、ほんの少し鹸化し、
これが顔料をすべらかにし仕事をし易くすると。

ですからフレスコ画というよりテンペラ画描法に近く、
仕上げも、乾いた後に少しの油を混ぜ溶かした蜜蝋を上から塗り、
温めた工具などで温めてロウを滲みこませる様にし、
仕上げは適温の布で艶ぶきをしたのだそう。

この描法は既にギリシャ時代に確立されており、ポンペイの壁もこの方法であると。

フレスコ画というのは、壁にした下塗りの乾かない内に絵具を水で溶いて描き、
テンペラ画は粘着性のある卵の白身、黄身などを媒体にして描くもので、
他にも媒体はあれこれありますが、

時代が下がり、かのレオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェのヴェッキオ宮の壁に
試みて失敗したという、「アンギアーリの戦いの図」は、フレスコ画に多分
このエンカウスト描法を取り入れようとして、失敗したのであろうと。

「アンギアーリの戦い」始末記と、その周辺もろもろ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461130197.html

つまり、日本の方のブログで拝見した描法や仕上げは、結果的にまるで違っていた訳
ではないのですが、かなり短絡的説明で、疑問を持ったのが逆に私には幸いで、
レオナルドの戦い図の失敗原因にも、納得もでき、あれこれ知るチャンスとなりました。
エンカウストの描法についてもっと細かい方法も見つけましたが、ここではパスしますね。
       

蜜蝋で作った蝋燭は、中世市などで見かけた事があり、
これは灯しても煤が出ないのだと、聞きました。

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さて、これでポンペイの遺跡、最後の秘儀荘の壁画についてもなんとか書き終え、
ちょっとホッとしています。

長い拙いご案内にお付き合い下さり、本当に有難うございました!
興味を持って書いたのが上手く伝わり、楽しんで下さった様にと願っています!


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・ n.5 ポンペイ遺跡 ・ 秘儀荘 その1 

さて、困りました! ポンペイ遺跡のご案内最後は「秘儀荘」と決めていたのが、
・・いや、正直に申し上げますと、もう1回位は落ち穂拾いと称して、
はは、パスしているのを後から追加させて貰っても良いなぁと思いつつ、
幾ら削っても、一応自分が納得できるご案内を、と思うと
秘儀荘の写真は40枚を超え・・。

で遂にポンペイご案内を5~6と延長し、秘儀荘その1、その2、と分けて
ご覧頂こう、と当たり前に決め ははは、今日は秘儀荘のその1を。

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市壁の外にある大きな屋敷ですので、あの有名なフレスコ画の部屋は
最後の最後のその2に、という事で、今回はあの部屋に至る前奏曲、
という事でご覧下さいね。

これは買って戻ったガイドブックの表紙ですが、遠くからの肉眼では到底見れない
描法が、手首から二の腕、奥の女性の胸辺りにもハッチング描法、
線を並べて描く事で明暗を付ける方法が見え、何となく嬉しく、トップに。



地図をどうぞ。 もう何度かご覧頂いてますから、位置関係はお分かりですね、

2-434.jpg

右下角がフォーロの北端で、15.が先回のテルメになり、ここからずっと町の
北西を辿り、秘儀荘は町の城門外約800mの30に。

27にエルコラーノ門・Porta di Ercolanoがあり、そこからの緩やかな
下り坂はヴィア・デッレ・トンベ・Via delle Tombe、つまり墓地の中を通る道
ですが、大きな記念墓みたいなのや祠があったりで、
寂しいとか怖いよりも、見せびらかしのお墓の展示通り! 



その道を過ぎると、如何にも長閑な畑の道になり、
快晴の春の一日、レモンがたわわに、花も咲きかけ・・ 

3-671.jpg



こちらがガイドブックの秘儀荘の上からの眺めで、右中程に階段が見えますね、
あそこに町からの道が続き、現在の入り口。

4-474.jpg

建物上側の緑に覆われている部分に、元の玄関口があった様ですが、
未だ発掘が全部済んでいないそうで、こちらに墓地からの道が通っていたと。

こうして見ると中庭を囲み回廊が廻り、中庭に雨水の貯水池を作っていたと
いうのが良く分かる屋根の勾配です。 



建物の平面図を。 上でご覧の様に、紀元前2世紀に建設されたという
四辺形の大きな建物で、

5-475.jpg

町中の喧騒から逃れる為と、周辺の農産物の生産管理の為、
ポンペイ周辺ではオリーヴやワインの生産が大変盛んだったそうで、
実際にこの家の北側部分に、葡萄の絞り器が備えられていますが、
  
町のお金持ち達が、こうして町はずれの眺めの良い土地にギリシャ文化風を
持ちこんだ別荘を建てたのだそうで、この家も所有者の名前は分かっておらず、
管理人の名が封印から判別されているのだそう。

海の見える素晴らしい眺め、とあるのですが、この出口・Uscitaの向こうには
ホテルかレストランが出来ていて、海が見える、というのにはまるで気が付かず!

この図の緑の大きな矢印が入り口で、ぐるっと回り、右下の5.Sala del
grande affresco というのがあの素晴らしい絵のある部屋ですが、
とにかくあっちこっちと廻り歩き、部屋数も多く、自分の位置が良く分からない
という状態になり・・、



まずは、町の城門から出てずっと道を辿り到着すると、大きなロッジャがあり、
こんな感じで迎えてくれます。

6-609.jpg



円柱代わりというか、こんな石と煉瓦の柱が並び、
この斜めに組まれた四角い石が面白いでしょ?

7-670.jpg



こちらは同じ屋敷の出口辺りで見かけた壁ですが、ポンペイで今回何度も
見かけたこの斜め石組み、今迄見た事が無かったので、気になり調べました。

8-652.jpg

紀元前2世紀頃ローマ人は、所謂ローマン・コンクリートと呼ばれるセメント工法
を発明し、これが大規模な建物建設に大いに貢献したのですね。

セメント工法と言っても現在のセメントとは違い、モルタルに近く、
粗石や砂、石灰を混ぜて水で練った物の様で、
       
この工法を使ってサイコロ石を斜めに組んだ、煉瓦と混ぜて上の写真の様に
組んだり、煉瓦を間に挟んだりで、

斜めの方法を、網目、または格子組み・Opera reticolata
煉瓦と混ぜた方は、ミックス組み・Opera mista と呼び、
通常はこの上に上塗りをしたり、という使い方だったと。



こちらは、61の台所部分の窯で、この部分は露天の、
つまり屋根が無い場所だった様子。

9-669.jpg



そして、48-9の葡萄絞りの部屋。
長い太い丸太を梃子に使い葡萄を絞っていた様で、

10-613.jpg



丸太の頭が、こんな風に雄羊の顔になっていて・・!

11-617.jpg

首のロープが、天井の滑車を通り丸太の真ん中にある輪に繋がり、頭の脇にある
歯車を回す事により、雄羊の頭が上下し、それで絞り箱の重しの調節を、
という様子ですね。

そして当然この周囲には、ワインの貯蔵庫もあり、道に面した辺りでは、
屋台店にもなっていた様子と。



この部屋が、64.Atrium 中庭・ロビーと。

12-1-619.jpg
       
この奥に16本の列柱に囲まれた一番大きな中庭があるのですが、
なぜか写真が無く・・! 



これはガラスを当ててあり、見難くて申し訳ないですが、面白い落書きがあり、 
・・ここの北の壁に当たると、

12-2-656.jpg



線だけ抜き出したのがガイドブックにあり、
頭に月桂冠を載せたルーフスという人物の戯画で、というのも上に 
Rufus est・ルーフスだよ、と書いてあるのだそうで、ははは。

12-3-477.jpg



62.の小さな中庭。 現在はこうして木が生えていますが、
当時は天水池だった訳で、

13-668.jpg



2.Tablinum・食堂、後には応接間となった様で、黒い背景にエジプト風模様。
       
14-621.jpg

ポンペイの壁画は、時代に因る4つのスタイルに分けられると言い、ですがこれは
大まかな流行とでも言うか、時代に寄る家の改修修復もあり、
同じ家の中にも幾つかのスタイルが混在しています。

1.紀元前2世紀から前1世紀の中頃まで。 艶のある化粧漆喰の上から
  大理石模様を描くという様な形
2.前1世紀の中頃から1世紀の初めまで。 遠近法を用いた騙し絵的な
  部屋を広く見せる形、神話や英雄の話も登場し、色も多彩
3.1世紀中頃。 背景が黒で、人物像も浮き立つ装飾的な物。
4.62年の地震の後から、79年の町の最後まで。 地震の修復という形もあり、
  第3の技法にもっと装飾的要素を加えた華やかな形。
という特長だそうで、この食堂の装飾は第3のスタイルという事に。 



これはどの部屋か記憶にありませんが、
あのぅ、この部屋の隅にあるのは、朝顔?!

16-653.jpg



部屋の床モザイクですが、縁には黒色が使われていますが、
柄の部分は片を入れずに作った柄で、洒落てますよね?!

17-665.jpg



16.Cubiculm・寝室 
こんな虻蜂取らずの馬鹿みたいな写真で済みません、
なにせ部屋が閉っているのを、色と柄に魅かれて隙間から狙ったもので・・、

18-655.jpg



こちらはガイドブックからの写真で、ここは第2のスタイル、遠近法を使って
色も華やかな、と、覚えたてをご披露して、ははは。

19-472.jpg

遠近法が中世の絵に登場していると、何か偉い発明みたいに言及されて
いるのですけど、なんの事はない、2000年前に既にあったのですねぇ!



ここからの3枚は、6.Oecus・セコンドという名の、どうも第2の応接間だった様で、
この部屋の騙し絵的遠近法と、黒い背景の植物にすっかり魅せられたshinkai。

とりわけこの植物の葉! まさに日本の襖絵を思われません?!

20-664.jpg
       
21-660.jpg

黒い背景に白い葉が流れ、赤の縁取り、そして隣に黄金を思わせる黄色。
まさに簡素にして優雅な職人の美意識!



そしてもひとつ、同じ部屋の騙し絵の扉ですが、この透かしを思わせる部分に、
日本の矢羽根模様を思い重ねました。

22-662.jpg

こんな遠い場所の、しかも2000年も前の家の装飾に、日本を想い起こす
色柄があるのが不思議な気もしますが、

洋の東西を問わず、あれもこれも似た物があるのは既に何度も経験済みで、
人間の感覚、感情はどこかでみんな同じなんだという想いを
またも再認識した事でした。

という所で、これで今日の区切りとしてアップし、
次回にいよいよ、あの壁画を見て頂く予定ですので、お楽しみにどうぞ!


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・ n.4 ポンペイ遺跡 ・ アポロ神殿、テルメ、牧神の家 

ポンペイ遺跡のご案内を続けさせて頂きますが、今日はフォーロの南西にある
アポロ神殿、北にあるテルメ・公衆浴場、そして多分ポンペイの住居では
一番規模が大きいと言われる牧神の家を順に。
という事で、ごゆっくりどうぞ!

まずは、ガイド・ブックからの写真でアポロ神殿。

1-440.jpg



そしてこちらは同じく、想像図をどうぞ。

2-435.jpg

この神殿は、残っている装飾様式から見て、途中で改修があったにせよ、
ポンペイにおける神殿の一番古い物と見られ、紀元前6世紀に溯るそう。

周囲を48本の円柱回廊が取り囲み、基礎が高く造られた神殿も
コリント式円柱で囲まれ、手前に見える祭壇は、ローマ期以前の物という
生贄台で、多分その後ろに白く見える円柱の事と思うのですが、日時計が。
   
手前右に見える像は、弓を引くアポロ像で、 



現在はこんな様子。
若くすらっと美しい体の線で、後ろから見て一瞬女性像かと思ったのですが、
前に回ったら、・・はは、違いましたぁ。

3-744_GF.jpg



円柱が取り囲む回廊の左側の向こうは、フォーロがある位置。
こんな風にフランスからの学生がたくさん居て、賑やかに見物、お喋りで・・、

4-750_GF.jpg



アポロ像の向かい側に、こちらはディアナ像。
どちらも美しい像ですが、本物はナポリの国立考古学博物館にあるのだそう。

5-756_GF.jpg



今日のメニュー、地図をどうぞ。

6-433.jpg

4.アポロ神殿・Tempio di Apollo
15.公衆浴場フォーロ・Terme del Foro
22.悲劇詩人の家・Casa del Poeta Tragico
17.牧神の家・Casa del Fauno

さて15.公衆浴場フォーロ・Terme del Foroですが、
当時の人口12000人程だったというポンペイの町に、テルメと呼ばれる
公衆浴場がいくつあったかと言いますと、4つありました。

上の地図の中
左端下 1.テルメ・スブルバーネ・Terme Suburbane
40.テルメ・スタビアーネ・Terme Stabiane
   ここは町のテルメとしては一番古く大きく、ですが62年の大地震でかなりの
   被害を受け修復されたもの、まだ閉められたままになった物もあった様で、
   この春も閉じられていたので、中庭越しの写真を先回に。
35.テルメ・チェントゥラーり・Terme Centrali
   見ておりませんが、運動場として使われたという中庭の面積は一番の敷地。
+.これからご覧頂く、テルメ・デル・フォーロの4つ。 



テルメ・デル・フォーロの写真、サイトからをどうぞ。

7-15.jpg

このテルメは小さめながらも保存が大変良く、そのエレガントな内部の造りが
良く分かると言います。
が、内部が意外と暗く、全体を写した自分の写真が殆ど無いのと、
公式サイトでも余り部分写真が見つからず、今回はどの部分に当たるのかを
突き止めるのに往生しました!

が、漸くに平面図があるのを見つけ、浴槽の形と、入り口があったという
道路の名から判断し、なんとか間違いなくこの部屋です、とご案内OKかと。

上のサイトの写真は、温浴室・caldariumとでも言う長方形の部屋の、
冷水の出ていた部分。

この部屋の手前部分に、四角い熱いお湯の浴槽がありますが、これは後ほど。

この所謂かまぼこ型の天井をイタリア語で「volta a botte」というそうで、
これも分からず、遂に私設辞書ジュリアーナに電話、即教えてもらえましたが、
それにしてもこの大きさの部屋に、こういうアーチの天井を架ける技術が
既に紀元前にあった事に改めて驚きました。



とアップした後、大変分かりやすい平面図を見つけましたので、ここに追加を。

s-terme.jpg

1.男性用テルメ入り口
2.脱衣所
3.冷浴室
4.適温室
5.温浴室
6.女性用テルメ(ピンク色の部分)
7.中庭、運動場
8.女性用テルメ入り口
     
この公設テルメ・フォーロには男性用部分と、この部分はどのテルメでも大きく、
施設も整っているそうですが、
少し狭い女性用とが、中央にある焚口を挟んであるのが、今回は男性用部分
のみを見て来たようです。

男性用入り口は、施設の東と西、そして北の3か所にあり、北の入り口には
有料トイレがあったそうで、一方女性用の入り口は、北の1ヶ所のみで、
まずいずれも脱衣所に行きます。

男性用の脱衣所には衣服をしまって置く箪笥が備えられていて、その釘跡が
壁に見えるそうで、明かり取りの上の窓には曇りガラスが填められ、壁の色は黄色。

そこから直接に温浴の部屋にも行けますが、まずは冷浴室の写真をどうぞ。



丸い大理石の段が浴槽を囲む丸い部屋で、天井がやはり明かり取りになっており、

8-575_GF.jpg



この部屋を囲むこんな細かく繊細な装飾に魅せられました。
動物や人間がなんと楽しそうに走り回っている事、表現の伸びやかに美しい事!

9-578_GF.jpg

10-579_GF.jpg

ここの装飾は、40.テルメ・スタビアーネ・Terme Stabianeに、
大変良く似ているのだそう。
       


これはガイドブックからの想像図で、女性用部分の脱衣所の様子。

11-1-460.jpg

ここも天井がかまぼこ型で、床のモザイクは白と黒で、ギリシャ神話の
トリトンとイルカ、蛸やウツボが描かれ、壁に見える棚に、衣類を置くように。

でその上に、スプーンが巻いたような形の装飾が見えますね、
これは大理石にも彫り込まれたりする装飾模様ですが、元の形は
ストゥリージレ・strigile と呼ばれる金属製の物で、
当時石鹸がわりに使用されていた油と軽石の粉を混ぜた物質を
体から掻き落とすための物だそう。
       
ほら映画にも、ローマ貴族がオリーヴオイルを体に塗ってマッサージさせて、
ヘラみたいなもので拭う場面がありますね、あれですね。

という様な事をイタリア語の先生アンナリーザに話していましたら、
そうそう、馬を洗った後にヘラで搔き落とすとすぐ乾くのよ、と、ははは、話が飛び、
はい、彼女の実家はトロット競馬の馬を育てているので・・。

ねこ、ネコ、猫、馬、犬、そしてまた 猫 



こちらは男性用適温室・tepidariumの、素晴らしい装飾を。
周囲の壁にはこんな男性像で仕切られた棚があり、ここに上記した軟膏類や
浴用道具を置いた様子。

11-2-582_GF.jpg

12-583_GF.jpg
        

      
そして小男性像の棚の上には、こんな素晴らしい装飾があり、これが全体を
覆っていた様子をご想像下さいね。 公衆浴場とは言え、この豊かさ!

13-592_GF.jpg



この部屋も元々は壁も床も2重構造で、熱い空気によって暖められるのが、
このテルメの装置は最新式だったのが地震で壊れ、当時は部屋の真ん中に、
寄贈された大きな火鉢があったそうで、

これがその青銅製の火鉢、脚の装飾、素敵でしょう?! 

14-593_GF.jpg
     
       

で、最初にご覧頂いたサイトからの写真の、温浴室・caldariumにあった
冷水の出る円形の泉で、

14-585_GF.jpg

縁に見えるブロンズの文字は、誰それが幾ら寄贈した、という文字だそう!



部屋の奥にある熱いお風呂で、浴槽内には10人程が一度に入れる程の大きさ。

15-588_GF.jpg

勿論この部屋も壁と床が2重構造で、焚口からの熱い空気が通って、
部屋全体が温められていたといい、
2000年前のこういった公衆浴場の設備に驚くばかり!

冷水、温水の浴室も勿論、いわゆるサウナ式の部屋もあった訳で、
その使用料金は見つかりませんでしたが、
ご存知の方、お教え願います! そんなに高くはなく、大変に流行っていたそう。

お風呂に行く時間は、多分午後の早い時間であったろうといい、
ポンペイ市民は朝早くから仕事を始め、お昼過ぎには切りあげ、
適当に運動し、浴室でサッパリと、という生活状態だったかもと想像でき、
う~ん、快適でしたねぇ!



ポンペイn.2の記事、アッボンダンツァ通りの所でもちょっとご覧頂いた
伝統的なポンペイの家の造りについて、こちらの想像図をどうぞ。

20-442.jpg

町の北西部に位置する6区と呼ばれる地区、テルメ・デル・フォーロや、
次にご覧頂くファウナの家が7区で、それのもひとつ北側になりますが、
この辺りが町で一番古い定住区だったと言い、紀元前4~3世紀には
大きな家が立ち並ぶ地区だそうで、記録も残っていると。

町の人口が増え、拡大し始めると南東部に広がりつつ家も狭くなり、
各種民族の移住で特徴が薄れていく訳ですが、

この想像図はローマ期におけるポンペイ風特徴を捉えた物で、
入り口は、右端の中程の緑の扉で、ロビーに入り、中庭に。
ここは天井部が開いていて、雨水を受ける為の四角な貯水池。

その奥にいわば食堂、サロン部分があり、ここまでが所謂公的と言える部分。
その奥に円柱に囲まれた奥の中庭が広がり、果樹や野菜畑もある私的空間、
という訳です。



で、この形式を最大限にしている家が、17.牧神の家・Casa del Fauno.
上の地図で、南北に通る道いっぱいに広がる様子、約3000平米になる
広さのご確認をどうぞ!

紀元前120年頃の家で、2つのロビー、列柱に囲まれた広い中庭が2つで、
我々は家の裏口から入った形で、この脇には庭師の家などもあったのだそう。
       
これは奥の広い果樹園を囲む円柱の列。

21-688_GF.jpg



円柱の柱頭飾り部分。

23-696_GF.jpg



これが南にある玄関口で、こちらは閉められていた隙間から、この家の名の由来と
なった踊るファウノ像・Fauno・牧神が最初の貯水池の真ん中に見えますが、
本物はナポリの博物館に。 高さは約80センチと。

24-722_GF.jpg



これは家の前にモザイクで書かれたHAVEの文字。
ラテン語で、いらっしゃい、の意味だそう!

25-720_GF.jpg
     


ガイドブックからの写真で、正面玄関口からと、 

26-447.jpg



想像図を重ねて。 上のポンペイの家の一般想像図を見ながら、
かっての豪奢な生活ぶりを、ご想像下さい!

27-446.jpg



こちらは、家の奥庭と中庭に挟まれたテラス部分にある有名なモザイク画で、
本物は例によりナポリだそうですが、

28-692_GF.jpg

アレクサンダー大王とペルシャのダレイオス3世のイッソスの戦い(紀元前333年)を
描いたものだそうで、5,12 x 2,77 mの大きな物。
到底自分が立った高さでは1枚に収まらず・・!


この手前の倒れた馬の流れる血潮の表現などなど、表現技術の素晴らしい事!

29-694_GF.jpg



全体図をサイトからの写真でどうぞ。

30-800.jpg

で、眺めていて例によって後から、アレッ!と気が付いたのは、ははは、
左の落剥の多い中に運強く残っている男、



この方、これがアレクサンダー大王像として紹介される顔かたちで、

31-333.jpg

乗っている愛馬の名はブケパロスと言い、「大きな黒い馬で、額の星が牛の角の形
であったことから「ブーケパロス(雄牛の頭)」・・と呼ばれた。
雄馬といわれるが語尾変化から雌馬ともいわれる。

また伝説では星ではなく角が生えていたともいわれ、ポンペイでの絵にも角が
描かれている」と日本版ウィキにありましたが、

う~ん、馬体は茶色に描かれ、見えるのは角ではなく、耳ではないのかなぁ?!
額には何か黒い色の柄が見えますけど・・。

勿論、この戦はアレクサンダーの勝ちで、2~3倍にも及ぶペルシャ軍を打ち破った、
という勇壮なお話。

ギリシャ絵画を摸したであろうというのですが、こんな逸話が屋敷のモザイクに選ばれ、
かなりの技術者を使う、という事からも、この館の主の人となりが偲ばれますね。

という所で、予定していた悲劇詩人の家がパスになりましたが、今回はこれで。
次はいよいよ、予てからポンペイで一番見たかった秘儀荘に行く予定で、
・・はい、しっかり読みますです!


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・ 気分を変えて、・ ヴェネツィアでのひとこまを 

ポンペイの遺跡関係が続いているので今日はちょっと一服、
現代に戻り、ヴェネツィアで見かけたワン・シーンをどうぞ!

朝の大運河での一枚ですが、やはりヴェネツィアは被写体に困らない、
逆にあり過ぎて選択に困る、という様子で、
暖かい冬の一日をカメラ片手にうろつきたい、と改めて思った事でした。

1-558_GF.jpg



で、こちらが本日の主題、というか、おまけ式に、サン・マルコ広場近くで
行き合わせた写真撮影中のモデルさん。

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それがまぁ、ああた、ドゥカーレ宮からスキアヴォーニ河岸沿いに渡る橋、
はい、運河の奥上に溜息橋が見えるあのパーリア橋東詰め、ヴェネツィアでも
一番人通りの多い場所とも言える橋脇、牢獄の建物の壁沿いでお仕事中でして、



やはり目立つのですよね、普通の女性の雰囲気とはまるで違いまして、
うん?! あれはなんだ?! と
この日手持ちのささやかな武器、コンパクトを取り出し、

3-536_GF.jpg

コンパクトのディスプレイというのは、なぜにあんなに見難いのでしょうねぇ、
・・と言うと、最近のはそんな事無いよ、と言われそうですが、私めのはいささか
古いタイプになりつつあり、大快晴で殆ど見えないのを半ば勘で、



橋の袂の方で、カメラマンの助手が「ノー、フォト!、ノー、フォト!」と
叫んでおりましたが、私からは彼が見えない位置でしたので・・、ははは、

4-538_GF.jpg

5-541_GF.jpg

6-539_GF.jpg

家に戻って見ましたら、折角の素晴らしい大きな胸が半ば隠れているのもあり・・、
ンもぅ・・、   ですが、・・やはり大っきいなぁ!!


       
こういうのを見ると、ワンちゃんともども、うぉ~ん、うぉ~んと・・、ははは。

7-570_GF.jpg



二人でする一番いい事は・・

8-569_GF.jpg

ははは、TVでも放映されたという、残念、見ておらず! ヴォダフォンのCMが
リアルト橋南の広場に大きく出ておりましたので・・。


さて、また元気を出して、頑張って参りましょう!!

お陰さまで、このブログも、この12月で7年目に入ります。
時にもっと長く続けておいでの方のも拝見しますが、
我ながら良く続いている、と感心します。
とはいえ正直な所、逆に今頃は、調べて知る事を楽しんでいる事も確かで、
自分が旅先で何を見て来たのか、改めて知る事が大きな楽しみになっています。
      
そして、おいで頂き、長いのを読んで下さる方々、コメントを残して下さる方々、
励ましのクリックを押して下さる方々、 
いつも本当に有難うございます!!!
お陰さまで励まされ、楽しんで続けさせて頂いてます。
この先また1年、どうぞよろしくお付き合い下さいませ!

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・ n.3 ポンペイ遺跡 ・ パン屋、ルパナーレ、フォーロ

ポンペイ遺跡のご案内3回目、今日のメニューは、まずパン屋さんを、
そして皆様お待ちかね(であろう)ルパナーレ、はは、
はい、ポンペイの代名詞にもなりそうな有名な娼家を。

そして、町の政治経済活動の中心広場で、庶民の集会場でもあった
フォーロの周辺あれこれを。では、ごゆっくりどうぞ!

写真は、フォーロの北側にある円柱の並び。
こうして見ると、北イタリアはフリウリのアクイレイア、ローマ遺跡ではローマに次ぐ
規模、と言われるアクイレイア・Aquireiaにもそっくりなのがありましたっけ。

1-735_GF.jpg

アクイレイア・Aquileia と グラード・Grado
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463998126.html

アクイレイア ・ ローマについで栄え、そして衰退の町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462970421.html
       
n.2 アクイレイア と、 アルティーノ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462970554.html



地図をどうぞ。 先回は、40.公衆浴場スタビアーネまでご覧頂きましたが、

2-432.jpg       

38.パン屋・Panificio
39.ルパナーレ・Lupanare 娼家
6.フォーロ・Foro
8.エウマキアの建物・Edificio di Eumachia
9.ヴェスパジアーノ神殿・Tempio di Vespasiano
11.市場・Macellum
12.ジュピター神殿・Tempio di Giove
13.穀物倉庫・Granai del Foro
14.公共計量所・Mensa Ponderaria
69.名誉門・Arco Onorario



日常生活に欠かせないパン屋さんですが、これはアッボンダンツァ通りで見かけた
小さなパン屋。 手前に見える砂時計型が粉挽き臼で、右後ろにパン焼き窯。

3-1-458_GF.jpg
       


こちらはパン屋の想像図。38.パン屋・Panificioの写真に重ねた物で、

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経営者は多分Popidius Priscusという人物で隣の家に住み、
解放奴隷を使ってパン屋を営業していたと言い、これが当時は普通で、
ポンペイの町に34軒あったそう。

以前は小麦粉をそのままお粥式に食べていたものが、紀元前2世紀頃
パンがローマ人の間に普及したのだそうで、窯は薪を燃やす現在とほぼ同じ形。
ですが、粉はパン屋で挽いていたのですね。 見える砂時計型のが粉引き臼で、
下の基礎部分は地面に埋め込まれ、上から小麦をいれ、見えている穴に
横棒を通し回す仕組み。

臼に使われた石の材料は溶岩で大変固く、小麦を引いた時に臼自体の石が
破片を出す事は無いのだそう。

このn.38のパン屋には、品を売るカウンターが無いので、多分大口の顧客に
売っていたか、または解放奴隷の徒歩販売を使っていたのだろう、と。

当時のパンの形は、想像図の右の籠の中に見える、丸くて8等分に
分け目が入った形で、実際に炭素化したこの形のパンが発掘されているそう。



で、40.公衆浴場スタビアーネの西角の道を北に辿りますが、
これは壁に嵌め込まれていた飾り。 単なるレンガ壁にしておかない美意識
というか、こんな細工を頼める余裕があったというか・・。

4-534_GF.jpg



この道は、横断歩道の石も2つと少し狭めですが、それでも建物脇の歩道は
ちゃんと設えていますね。
で、この道の名は、ルパナーレ小路・Vicolo del Lupanareで、

5-535_GF.jpg



39.ルパナーレ・Lupanare・娼家でございます。
近年修復されたという事で、2階部分もきちんしていますが、見学は1階のみ、

6-539_GF.jpg



これはサイトからの写真で、入り口部分からの様子。 写真に見えるよりも狭く、
見学は入り口から奥への一方通行で、左奥の扉から外に。

7-39.jpg

部屋数は一階に5部屋とトイレ、2階にも5部屋あり。 



部屋の上部分に描かれている絵が、メニュー代わりと言われる、有名な物で、

最初は写して来たのを全部見て頂こうかと思ったのですがぁ、はは、
・・まぁ、絵の保存も良く、良く写ったのを3枚どうぞ。

8-548_GF.jpg

9-542_GF.jpg

10-543_GF.jpg
 

女性がブラジャーというか、ビキニの上を着けているのが興味深いですね。    
「ルパナーレ」の名の由来ですが、ルーパ・雌狼が、ラテン語で売春婦を
意味するそうで、

ポンペイの町には、約25の娼家があったと言いますが、人口約12000の
町にしては数が多いといい、う~ん、私めには多いかどうか見当が付きませんが、
まぁ、人の往来の多さもあったかも知れず、
きちんと届を出していた、という事かも知れず・・。

大概が食堂の裏や2階の一部屋が充てられていた規模だそうで、
ここのは、きちんと組織された物なのだそう。
経営者の名も分かっていて、アフリカーノ・Africanoとヴィットーレ・Vittore、
2人で運営するこの宿は大変繁盛していたそう。



小部屋の中の様子をどうぞ。

11-553_GF.jpg

12-545_GF.jpg     
  
狭いのと、2枚目のなんぞは体の筋でも違えそうな狭さ! と、絵にある様な
柔らかそうなベッドではなく、壁と同じ様に石造りなのに驚き!
で、この上にマットレスを置いていたそうで、

部屋の木の扉には、女性の名と、メニューの値段、そして現在使用中、
の札があったそうで。

働く女性たちは奴隷身分の、多くはギリシャとか中近東からで、そして自由民の
売春婦もいて、ここの2階の部屋は、狭い外階段で直接テラスに上り、
そこから各部屋にという造りになっていて、部屋も下よりも広く、メニューの絵もない、
つまり1階より少し高級な貸し部屋になっていたのだそう。

で、そのお値段ですが、2~8アッシ・assi だったと言い、ワイン1杯が1assiと言い、
・・あのう、値段安すぎませんかぁ?!と言いたくなりますが、
おまけに奴隷身分で、稼ぎは全て主人の懐に入ったのだそうで・・。

アッシという貨幣単位ですが、先回簡易食堂テルモポーリオの所で、
カウンターの壺の一つが売り上げの金庫代りにされていて、
683セステルツィ(Sesterzioの複)入っていたと書きましたら、
ophthalmosさんが、1セステルツィオが大体現在の価値で400円程度、
最上級のワインが1杯飲めたそう、と教えて下さり、
       


アッシ(asseの複)との関係を調べましたら、サイトにこんな分かりやすい図が。

13-800.jpg

ウィキペディア様、いつも有難うございます!
次回にも、僅かながら寄付をさせて頂きますですです。

貨幣価値はその時代によってずいぶん違うにせよ、
ローマ貨幣の価値関係は、4アッシが1セステルツィという事で、
普通のワイン1杯が1アッセで、最上級が1セステルツィオ、というのも納得。
が、それにしても女性の値段が安すぎる気がしませんかぁ??!!



そして有名な落書きですが、これもサイトからで、勿論ルパナーレの壁の物!

14-800.jpg

少し訳してサイトにあるのを読んでいると、まったくもう、いつの時代の男性方も
変わらぬなぁと率直な感想で、ははは、大いに笑わせて頂きました。

確認されたのが134もあるそうで、中にはジュリアス・シーザー並みに、
「俺は来た、やった、帰った」という知的なのもありますが、ははは、
「俺の値段に、全部の男のも含めやがって」という文句もあったり、ははは、
中には、その落書きにまた応えるのがあったりだそうで・・。

まぁ、落書きでうっぷんを晴らせた、というのは、読み書き出来た、
ということの証明でもありますね。



最後のこれは、通路の奥にあったおトイレ。 下に桶でも置かれ、
洗濯屋がリサイクル回収にね!

15-549_GF.jpg



という所で、すっきりの青空、深呼吸をどうぞ! ははは。
6.フォーロ・Foroに参ります。

18-565_GF.jpg



ガイドブックより、フォーロの南側より全体を。

19-438.jpg



そして、その想像図。

20-437.jpg

正面奥が12.ジュピター神殿・Tempio di Giove.
これは紀元前2世紀に建設の、町で一番大きな重要な神殿で、基礎部が高く、
石段を上る様な造りになっていて、

ローマ征服後もカピトリウム・Capitoliumと呼ばれ、ジュピター、ユノー、
ミネルヴァの神殿となったものの重要な価値は変わらずにいたのが、
62年の大地震で大きな被害を受け、まだ修復中だったと。

フォーロ・Foroはまさに町の行政経済、市民の集まる一番の中心広場で、
38X142mの広さを誇り、周囲を円柱が立ち並ぶ回廊が取り囲み、

その外側には、



これは今回の最初に見て頂いた円柱の並びですが、
右奥、東側にある建物は11.市場・Macellumで、

21-566_GF.jpg



中はこんな様子。

23-739_GF.jpg

手前に見える丸く12本の柱が取り囲んだ部分は、円錐形の屋根のあった部分、
東屋風かな、

写真は入り口部から右奥を見ていますが、あの右奥で肉や魚を売っていたそうで、
反対側の左奥は、いわゆる皇帝に敬意を表しての宴会、皇帝が出席したか、
またはその名においての宴会が開かれた場所の様。

で、この今撮っている場所の左手前に、建物部分があり、



そこにこんな壁画が残っておりました。

24-737_GF.jpg

この下には、ガラスのケースに入った所謂人型、石膏を流し込んで取った、
という人型があり、私の感覚としてはブログに載せたくないので、失礼を。



こちらはフォーロの東南端にある、8.エウマキアの建物・
Edificio di Eumachiaの美しい入り口の浮彫。

26-563_GF.jpg

このエウマキアというのは、巫女で洗濯場の持ち主だったそうで、洗濯組合の名で
建物が紀元後に建てられ、ここも62年の大地震で被害を受け修復中だったと。

入り口や内部にも職業柄からか、皇帝家に繋がる彫像とか置かれていたそうで、
内部には円柱の立ち並ぶ回廊があり、建物は羊毛や布の倉庫に充てられ、
また洗濯組合の事務所があったそう。
という様な記述から、巫女さんでもお金持ちの事業家であり、
職業による組合もあった事が分かりますね。

そうそう、入り口右側に壺が埋め込まれていて、小用が足せるようになっていたと。
ここのが74年にヴェスパジアーノ帝(ウェスパシアヌス)の作ったと言われる
有料の公衆トイレなのかどうか・・?

所で有料というのは現在の有料とは違い、つまり使用者が払うのではなく、はは、
安心されましたか?! ・・いや、昔は良かったと現実に憤慨かな? あはは、
脱線。
集めた液を洗濯業者に有料で売っていた、という事でお間違いなき様、
はい、貴重なこの液は漂白に脱脂に、大いに有効なのだそうで。
             


こちらはフォーロ南西側に残る円柱の様子で、この後ろ側に4.アポロ神殿
がありますが、この神殿については、また次回にご案内を。

27-562_GF.jpg



14.計量所・Mensa Ponderaria、フォーロの西にあり、市場にも近く、
公共の計量所。

28-14.jpg

ここは見ておりませんで、写真もサイトからですが、
前2世紀の終わり頃より活動している計量所だそうで、それぞれの窪みが
示された分量に適確し、計った物は下にある穴に移すようになっていたそう。

イタリアの古い町の市場がある、あったという広場横には、中世の計量基準
みたいな物が彫り込まれているのを見かけますが、
こういうのが紀元前からあったというのに、まぁ当たり前かもですが、少し驚き。



こちらはフォーロの広場の東端にある69.名誉門・Arco Onorarioの
北側からの眺め。

29-732_GF.jpg

フォーロの北を占める主たる神殿・カピトリーナを挟み、名誉門は西と東に2つ
あったのだそうで、皇帝家を寿ぐために建てられ、こちらはアウグスト門、
西にはネロ門が。

が、ネロ門の方は、68年に皇帝が亡くなった後、後ろからの道の眺めを塞ぐ、
とかいう理由で取り壊されたと。

こちらのアウグスト門の方には泉があり、門の上にはティベリオ帝騎馬像が
上に載っていたそう。

で、この門の北側を行くと、メルクーリオ通りにもひとつ門がありますが、
近くからカリギュラ帝の騎馬像が見つかったそうで、カリギュラ門と呼ばれているそう。



最後は、名誉門と奥にカリギュラ門が重なって見える、
フォーロの東側からの眺めをどうぞ。

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・ n.2 ポンペイ遺跡 ・ 野外闘技場と、店あれこれ

今春見て来ました、ポンペイの遺跡のあれこれをご案内しておりますが、
今日ご覧頂くのは、野外闘技場と剣闘士のお話、
アッボンダンツァ通りの飲み屋とクリーニング屋、そしてパン屋さん、
・・と庶民の生活レベルを想像しつつ、よろしくお付き合い下さいませませ!

写真は、サイトから拝借の野外闘技場・アンフィテアートロ、

1-800.jpg



ここは実際に見ておらず、位置とその大きさ等調べた事を、地図と共にどうぞ。

2-457.jpg

建設されたのは紀元前80年から70年にかけてと見られ、正確な記録は
残っていないものの、ローマ期に建設された野外闘技場の最古の物と見られると。

大きさは長さ135m、幅104mで、闘技場は土間の叩きというのか、
打った地面のままで、ローマのコロッセオに見られるように他の闘技場には
地下室がありますが、このポンペイのにはありません。

観客は、西側の外階段から中に入れる様になっており、上からすり鉢状の
闘技場までは6mの高さ。

楕円形に長い南北に2つの出入口が見えますが、片方は剣闘士たちの
登場する扉で、もう片方は死者や負傷者を運び出す出口なのだそう。

闘技場の周囲と観客席の境には約高さ2mの仕切り壁があり、
先回ご紹介の大小の劇場同様、下の最前列は町の政治家や有力者用、
中央は一般庶民用で、最上階は女性用になっていたと。

収容者数は16000~20000人と見られ、夏の厳しい陽射し、そして雨に備え、
建築物全部を覆うテントが備えられていたそう!

で、この闘技場で59年に死者も出る大喧嘩が発生。
ポンペイよりも南、現在のサレルノ県に含まれるノチェーラ・Noceraの住民と
ポンペイの住民との間の事件で、ノチェーラが植民市に昇格し、ポンペイに
含まれていた土地がノチェーラ側に渡る事になり、これが不満の元となった様子。

闘技が済んだ後、最初は悪ふざけ式に始まった物が石が投げられ、刃物が
持ち出され、何せポンペイ人の数が優勢、相手方の住民の多くが惨殺されたと。

で、議会はこの闘技場を10年間閉鎖する事、喧嘩を引き起こした者数名は
所払いに処されたとか。
ですが、3年後に大地震が起こり、その後の庶民への娯楽提供の必要もあり、
この処置は取り消しになったそう。 

地図の野外闘技場の西側に大きな広場61.が見えますが、
これは真ん中にプールのある大運動場・Palestra Grandeで、
2000年前に、こういった設備が充実していたという事実に、まったく驚くばかり!

地図に打った番号を、お目にとめておいて下さいね。 野外闘技場の北に
真っ直ぐ東西に抜ける広い道がアッボンダンツァ通り・Via dell'Abbondanzaで、
      
野外闘技場、運動場の上辺りに見える番号なしの緑の印、ここに昨年崩壊した
「剣闘士の家」があった様子で、今日ご紹介したい店は、この通りの並びにあります。



これらは出土した、剣闘士たちの兜。

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彼らが奴隷の身分であったのは、映画などで既に皆さん良くご存じと思いますが、
剣闘士にするかどうかの目利きの選抜を経て、多分体格的にも優れている
若者達が選ばれたでしょうし、彼らが命をかけて戦いの技を磨き、
闘技場に登場する訳で、

残っているたくさんの落書きなどからも、奴隷ではあっても一種のスター、
アイドル的存在で、女性たちも熱い眼差しを注いでいたのが、分かるのだとか。
これは良く分かりますよね?!



こちらは、こうであったろう、という想像図を実際の遺跡の写真に重ねた物ですが、

剣闘士たちのパレードで、野外闘技場での戦いを終え、大劇場の近くにあった
彼らの宿舎に戻るのに、このアッボンダンツァ通りを通ったのだそう。

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通常20組の戦いが行われたそうで、こうして宿舎に戻れるのは何人いたのか、と
彼らの悲惨な生活に想いが行きますが、
市民たちが大いに熱狂した娯楽であり、熱い市民の声援を受けて、という状況も・・。



こちらが現在のアッボンダンツァ通りの様子。 ご覧の様に通りの両脇に
広い歩道が付いていて、町の東西を抜ける長い通り。

5-460_GF.jpg

上の剣闘士たちのパレードにも見える、通りの中の3つの置き石が、今、舗装道を
歩くカップルの後ろにちょっと見えますが、これがポンペイの有名な横断歩道。



この写真は別の道なのですが、分かりやすいと思いここに。
石の隙間を荷車が通った、轍の跡も残っていて、

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家の脇を通る歩道が道より一段高く、歩道の高さのまま道を渡れるように、       
多分雨振りの時にも足が濡れぬよう、そして、多分道路が下水の役も
果たしていたのかもで、足を濡らさぬよう、というのは納得ですね。

そして道の両脇、歩道脇が少し低いのは、道の水はけを良くするために、
という役割なのかも。



もう一枚の地図をどうぞ。 真ん中を通るのが、アッボンダンツァ通りで、
次に見て頂く場所を、
67.酒・簡易食堂、煮売り屋・Termopoli del Larario
52.洗濯屋・Fullonica(detta)di Stephanus
53.ララーリオ・ディ・アキッレの家・Casa di Larario di Achille
   ここは閉っていて、玄関先からの写真を1枚。

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40.公衆浴場スタビアーネ・Terme Stabiane
39.娼家ルパナーレ・Lupanare
こちらは見ておりませんが、何があるのかのご案内に、
49.ギタリスタの家・Casa del Citarista
50.チェイイの家・Casa dei Ceii
51.メナンドゥロの家・Casa del Menandro


       
では、67.酒・簡易食堂、煮売り屋・Termopoli del Lararioを、
現在の様子の上に加えた想像図でどうぞ。

8-450.jpg

現在のスナック・バーとか、ファースト・フード店に当たる簡易食堂は、ローマ期の
町のどこにもあったようですが、ここポンペイでは大変に繁盛していて、
全部で89店を数えるのだそう!

この様に店先にテラコッタの壺を埋め込んだカウンターがあり、最初にこれを見た
おっちょこちょいshinkaiは竈と思ったのですが、

壺の中に飲み物と調理済みの食べ物が入っていて、客はこんな風に立ち食い、
立ち飲みをするか、時に奥で、または店の表にベンチがあったりで、
座って食べたり休んだりできるようにも設えられていたとか。

Termopoli・温かい食べ物 という呼び名はギリシャ語からで、同様の店が
ローマ期の他の町では、ポピーナ・popinaとかカウポーナ・caupona
と呼ばれていたのが、実際ポンペイの中でこの名で残っている店を見つけましたが、
テルモ―ポリというのが一番流行っていたとか。
       


この店は正式には、Thermopolium di Vetutius Placidusという様で、
呼び慣らされているLararioというのは、
カウンター奥に見える祈祷所を模したフレスコ画からで、     
       
こんな様子。

9-521_GF.jpg

描かれている神々は私には特定できませんが、家の守り神であるラーリ・Lari、
複数形でサイトの説明にあるので、2人描かれているのかも、
商業の神のメルクーリオ(マーキュリー)、ワインの神ディオニソスとの事。

下に見える2匹の蛇は、他の家の壁画でも見ましたが、災厄を防ぐ印、だそうで、
奥の部屋の壁の赤色がちらっと見えますが、こじんまりとした家主の家ながら、
洒落た壁画があるのだそう。



こちらはサイトで見つけた写真で、ポンペイではなく、同じ様にヴェスーヴィオの
噴火で埋まったエルコラーノ・Ercolanoのテルモポリウムの写真ですが、
カウンターの壺の状態が良く分かるので、どうぞ。

10-28.jpg

こんな風に、飲み物や食べ物がカウンターの壺の中に保存されていた訳ですね。

所でポンペイの上の店ですが、こうして埋め込まれていた壺の一つが、
売り上げの金庫代りに使用されていたそうで、
中には683sesterzi(単位が分からず、残念!)残されていたそう!

◆追記を。
ophthalmosさんがコメント欄で教えて下さった所に因ると、
1sesterzioが大体現在の価値で400円程度との事で、
となると683X400=273200円?!
高額ではないですか?! ええ、食べ物商売は流行ると大きいと言いますが・・!



こちらは同じアッボンダンツァ通りにあるテルモポリウムの一つ、ここは修復で
閉めておりましたが、壁に書かれた、選挙用のスローガンで有名なのだとか。
まるで読めず分からず、残念!

13-514_GF.jpg



53.ララーリオ・ディ・アキッレの家・Casa di Larario di Achille
ここは閉っており、玄関先からの写真を1枚。
中には素晴らしい壁画がある様子です。

14-513_GF.jpg

入った所に見える掘り込んだ池ですが、その部分の天井が開いていますね。
で、ここから振り込む雨水を池に貯め、使用していたのだそう。
       
そしてそのまた奥に内庭が見え、間口はそう広くなくとも奥が結構長く続き、
そんなポンペイの家の造りについては、また別の機会にご説明を。



こちらは家の名が分かりませんが、やはり上と同じ様な造りで、
手前に貯め池、部屋があり、そしてその奥に内庭と。

15-504_GF.jpg



さてここから、52.洗濯屋・Fullonica di Stephanusで、

16-527_GF.jpg

以前あった家を改装し、1階部分は洗濯の仕事場に、2階部分が住居と、
洗濯物の干し場に充てられていたと。
   


1階の中庭部分にかなり大きな天水用水槽があり、周囲の壁に赤色が見えますが、
この水槽も装飾されていて、
最初は、工房に置かれた水槽に装飾? と少し驚いたのですが、

17-526_GF.jpg

左側の赤壁に装飾が少し見えますね、後ほど他の装飾と共に見て頂きますが、
この部分は仕事場というよりは住居部の内庭で、この水槽も家庭用という事なのかも。



水槽の中側はこんな風でかなり深く、底部分に傾斜が付けられているのが見えます。

18-475_GF.jpg



想像図をどうぞ。 但しこれは、染色屋も兼ねた店の様子で、

19-449.jpg

当時のポンペイにあって、洗濯屋とその関連業はかなり活発な経済活動をしていた
職業だそうで、生の羊毛を洗う工房が13、紡織と織りに携わる業者が7、
染色が9つ、そして洗濯屋が18軒あったと。

アイロンはまだ無かった時代ですから、圧搾して絞り、干していた様子で、
食べ物に関してもそうでしたが、まだこの当時、大きな洗濯物は
家庭内では大変だったのでしょうね。



で、このステファヌスの洗濯屋ですが、中庭の奥に大小一連の水槽類が
備えられており、あっち側からとこっち側と両方ご覧下さいね、

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この水槽内の水とソーダを混ぜた液の中に浸け、足で踏んだ様ですが、
当時はまだ石鹸は存在せず、ソーダ、またはなんと「おしっこ」を使用していたと!
含まれるアンモニアが油脂分除去に効果的なのだそうで、

この「貴重な液」を収集するのには、ははは、食堂とか公衆建物の前に、
それ用に桶かな、壺かな、を備え、それを集めたのだそう。
ええ、まぁ、公衆衛生にも役立つエコロジー作戦、リサイクル活用ではありますねぇ。



ここからの何枚かは、この洗濯屋ステファーヌスの家の壁で見つけたフレスコ画で、
大変に洒落た美しい物。

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ポンペイの壁画の種類は、4種類に分類出来るそうですが、
それもまた秘儀荘の時にでも、という事で、ここでは、先ずご覧下さい。

シンプルな装飾から、神話的人物像、そして鳥、動物、植物と、
その装飾性と色に驚きます。

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こちらは、アッボンダンツァ通りに面してあった顔。
案内板の字の大きさと比して、小さいのがお分かりでしょうが、
何を現わすのか、なかなかユーモラスでしょう?!

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これは、40.公衆浴場スタビアーネ・Terme Stabiane.
閉じられていて、こうして広い中庭越しに。

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中庭で運動した後、さっぱりと汗を流し、マッサージを受け、という
当時の生活だったそうで、 ・・う~ん、今より快適さを享受していたかもですねぇ!



パン屋さんが次回送りになりましたが、
最後に皆様お待ちかね(であろう)ルパナーレ、これも次回送りになりますので、
申し訳に、はは、かの娼家の案内板をちらっとね。

30-541_GF.jpg

「ルパナーレの訪問は、1度に10人以上は入れません。
 訪問者は、どうぞ順番をお待ち下さい」

・・部屋数も、確か1階2階ともで10部屋だった筈で・・、
これはユーモアかなぁ?! ははは。 
ともかく、現在は中が立て込んでおりますゆえ、ははは、
もう少しお待ち下さいませ、ませぇ。

いつも有難うございます、お世話様です。

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・ n.1 ポンペイ遺跡  ・ 劇場二つ

今日から何回かに分け、世界遺産にも指定されているポンペイ遺跡を
ご覧頂く予定で、今の所3回分と考えておりますが、4回になるかもで・・。

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あの日一日中歩き回り撮ったにも関わらず、自分が持ち帰った写真と、
地図やガイドブックを付き合せて見ると、当たり前とはいえ、
午後の陽が傾く頃には、頭の中も満杯状態だったですが、
あの広い広い遺跡の中のほんの少ししか見ておらず・・。

周辺のエルコラーノ・Ercolanoなども含めて世界遺産指定、
全世界からの観光客が集まる考古学遺産では、世界で2番目、
2010年度の訪問者は230万人を超す、という有名な遺跡ですが、
皆さん、遺跡の写真だけではピンと来ませんよね?!
なにせ2000年もの時の隔たりがありますし・・、
       
という事で、以前買って手元にある1冊のガイドブック、現在の遺跡の
写真の上に、かってはこうであったろう、という再構築画の透明フィルムを
重ねて見れる、という、
まぁ、小中学生向けにぴったりのガイドかもしれませんが、ははは、
shinkaiなんぞ、ははぁ、こうだったのか、と大いにとっつきやすく感じたので、
この写真も時に混ぜながら見て頂こう、と思います。
どうぞよろしくお付き合い下さいませ、ませ。

トップの写真は、ヴェスーヴィオ山・Vesuvio の火口口。
この写真はガイドブックの航空写真ですが、
噴火口が、まるで金属の切り口の様に見えません?!



こちらはサイトからの、ヴェスーヴィオ噴火の想像図、
ポンペイ・Pompei最後の日となったのは、西暦79年8月24日の事。

2-day.jpg

この日付については、学者で軍提督、この火山爆発により亡くなった
大プリウスの甥が書き残しており、これが定説となっているのですが、
近年研究が進むにつれ、もっと後の秋になってではないか、それも、
ブドウの収穫が済み、ワインが発酵状態になっていた時期、
という見解も出ているのだとか。

この17年前、西暦62年にこの一帯を大地震が襲い、大被害を受けた町は
ただちに修復に取り掛かったものの、まだ全部済んでいない状態だった様。

明け方、ヴェスーヴィオの上に大きな煙が立ちあがっているのが見え、
朝の10時に突然大爆発が起こり、火山礫が破片となってすさまじく
ポンペイの町に降りかかり、その上に雨と火山灰が太陽を覆い隠す程に濃密、
そして有毒ガスと、
・・こうして、この町は僅か1日にして壊滅状態に。

追記:ヴェスーヴィオ山の噴火日については、つい最近新しい発掘で
   見つかった落書きから、
   「10月24日」という日付けが改めて確定されたとの事。
   こちらをどうぞ。 http://italiashinkai.seesaa.net/article/464163929.html



この一帯の被害を受けた範囲の様子を、サイトからの図で。

3-652.jpg

町を襲った火砕流は6mを越す高さで町を覆い尽くし、当時12000人程だったろう、
と言われる町の人口の約2000人ほどが一瞬にして亡くなったろうと。
火砕流の早さは時速100Kmを超え、温度は300~600度に達したろうという事で、
その凄まじさをご想像下さい。
       
こうして埋もれたままに時を経て忘れ去られた町が、16世紀になって
近くの運河の建設を発端として、石碑や家が発掘され、町が埋まっている事が
知られますが、実際に発掘が始まったのは1748年。

この時はまだ秩序だった科学的な発掘では無く、家が発掘されると
その装飾品などは掘り出し、また埋め直すという・・
19世紀イタリア王国となって後、漸くに組織的な発掘が行われ、
この時に犠牲者の姿形を、石膏を流し込んで取る、という事も行われ、
一つの町が一瞬にして消え去る、という類を見ない大災害の証人として、
歴史に再登場した訳ですね。

実際、古いローマの町が2000年前の火山爆発時のまま、家、建物から、
家具調度から装飾品迄一切合財、まるで時が止まっていたかの様に再出現
した様子で、訪問して受けるインパクトたるや大変な物!

今回の訪問の一番の印象は、その存在の強固さ、それも規模の大きな、でした。



町の地図をどうぞ。 ご覧頂くと、かなり計画的に造り上げられた町の様相で、
通りが縦横に碁盤の目の様に通り、周囲を城壁が取り囲んでいるのがお分かりと。

4-430.jpg

町自体は紀元前7世紀頃から起こったようですが、ギリシャ人、エトルリア人とが
交互に支配しつつ発展、遂に紀元前89年にローマの元に、
前87年自治市、前80年には植民市に昇格、

日本語の字面だけを見ると、自治市よりも植民市の方が格が上、というのが
不思議に思いますが、
自治市・municipiumというのは、ローマ市民ではあるものの選挙権なし、
植民市・coloniaがローマ市民と対等の扱いを受ける、のだそう。
この下に同盟市・sociiというのがあり、市民権も自治権もなく、
軍役、納税義務が負わされた町との事ですが、
この辺り勉強不足で、上手くご説明出来ず申し訳ないです。

ポンペイは当時は海に面しており、港を活用したローマへの中継の商業都市として、
大いに発展を遂げた様です。
実際に現在も見る事の出来る家の素晴らしい装飾、舗装された道、そして
立ち並ぶ店の跡なども見ると、かなり猥雑で、活気ある賑やかな町だったろう、
という印象を強く受けました。
・・で、そんなこんなを、順に見て頂こうと。
       
今回は下の、緑の印を付けたPiazza Esedraの入り口から入りましたので、
まず下に見える番号44. 45.辺りのご案内を。
43.大劇場・Teatro Grande
44.Quadriportico dei Teatri・劇場の四角なポーチ、とでも
45.小劇場・Teatro Piccolo
60.野外劇場



この地図だと、上からの形と大きさが見えますので、想像しやすいかと、
両方共に見て頂くつもりですが、
6.町の中心広場のフォーロ・Foro
22.悲劇詩人の家、先回玄関先の犬のモザイクを見て頂いた家
39.ルパナーレ・Lupanare  はい、かの有名な娼家はここに。

5-432.jpg



では、参りましょうか、
まずは、44.Quadriportico dei Teatri・劇場の四角なポーチ、
四角な草地が広がり、周囲を円柱が囲むのが見えますが、
ここは背後に2つ並ぶ劇場のロビーとして使われた様子で、 

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1枚目と3枚目の写真のバックに階段状の物が見えますね、
ここが大劇場なのですが、こちらは野外劇場なので、雨の時の避難や、
幕間の散策に使われたのであろうと。
ですから当然、回廊は円柱の並びに屋根付きだったのですね。

で、回廊に囲まれた内の広場は、若者たちの体操場や文化的な催しにも
使われたと言い、長さが40m、 幅30mの広さ。


 
こちらは、この四角い回廊の南面を占める建物。
62年の大地震の後に、剣闘士たちとその指南者の住居に充てられていたと言い、
18世紀の発掘の際には、剣闘士たちのパレードに使われたと見られる盾や槍、
兜が出土したと言いますから、この広場も彼らの訓練場だったのでしょう。
       
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昨年、「剣闘士の家」が崩壊という大きなニュースがありましたが、
この家は町の東端にある60.野外劇場、に近いヴィア・デル・アッボンダンツァ・
Via dell'Abbondanza、地図に緑の点々で示した通り、にあり、
多分62年の地震で被害を受け、使われずに放置されたまま、
野外劇場から遠くにはなるものの、こちらに引っ越しをして来ていた様子。



回廊の柱に残る色。 劇場の観客のロビーがわり、というので、
きっと美しく装飾されていた事でしょう。

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こちらは45.小劇場・Teatro Piccoloの、舞台から見上げる観客席。 

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上から見るとこういう形ですが、中程奥にアーチのトンネルが見えますね、
あそこが入り口で、隣の回廊からすぐに続いていて、

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現在は写真の上奥に隣の回廊や広場、剣闘士宿舎も見えますが、
かってのこの劇場は音響効果を考えた屋根付きで覆われており、
音楽やパントマイム、詩の朗読などが上演されていたと。

舞台を囲み、最初の4段がゆったりのすべらかな石の座席で、ここは元老委員や
参事委員用、そして10段ほどが急傾斜ながら良く見えそうな座席、
そしてそのまた上にと、当時の身分階級による座席の仕分けがなされているのが
良く分かります。      
       


正面の壁の石組み、さいころ石が斜めに組まれた物で、このポンペイの壁の
あちこち見られましたが、ローマ期の古い石組み方法だそうで、
また調べてお知らせいたしますね。

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これは上の段の石の座席で、座ったら痛そうですが・・。

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そしてここの石段も、ヴェローナの野外劇場もそうなのですが、
一段毎がとても高いのですよ!
上るのに、よいしょよいしょと頑張るほどの急傾斜と高さで、当時の人の元気さと、
足の長さを、ははは、想像させられます。

でもね、通路に当たる部分には、途中に段が増やされているでしょう?!



劇場の上段がどれほどの高さになるのか、書いたのが見つかりませんでしたが、
周囲がこんな様子で見渡せます。

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劇場の東横を南北に通るのが、地図に赤点々を付けたスタヴィアーナ通り・
Via Stabianaで、北に行くと名が変わりますが、町の中心を抜ける通りで、
きちんと舗装されているのが良くお分かりと。

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屋根が全て無くなっていますので広々と見え、住居の間取り、
道の通り具合が地図の様に分かりますね。

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石を組み、煉瓦を積み、壁を継ぎ足し・・、

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こんな風に道に面してのカウンターの跡、多分煮売り屋、食堂だったと
思うのですが、これが本当に多くあるのが目につきました。

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ローマ期にはまだ貧しい一般庶民は、住む家の事情からも各家では
火を使う炊事を余りせず、多分労働者たちもこうした安易に飲食できる
立ち食い立ち飲みの店を大いに利用した事でしょうし、お持ち帰りも多分ね。
まさに当時の人々の生活が偲ばれるようで、大変興味深かったです。

最初は、竈の跡、と思ったのですが、この部分にはテラコッタの壺を埋め込み、
飲み物を入れていた事を知ったのと、
店では確かに調理済みの食物を売っていた様ですが、ここのは竈ではなかった事を、
追記させて頂きます。



屋根が無い家や建物の並ぶ町というのは遺跡とはいえ、見るのに少し寂しく、
ヴェスーヴィオ噴火前の町の想像図をどうぞ。

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ローマの一都市とはいえ裕福で、ギリシャの文化も受け継ぎ、
かなりの歴史も持つ、賑やかだったろう町をご想像下さいね。



引き続いて、小劇場の上階からの眺めですが、これは、南隣の
四角い回廊の端にある石段。

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と、その横に見える、43.大劇場・Teatro Grandeの西側部分。
なんで近く迄見に行かなかったのか、我ながら不思議!

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ですが、初っ端から遺跡の広大さ、凄さに驚き、小劇場を見ただけで、
その上から広がる遺跡を見ただけで、もうこれは到底全部は見きれない、と
満足方々諦めの境地だったのかも!



という事で、ガイドブックからの写真で大劇場の現在の様子と、

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こうであったろう、という想像図を。

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この大劇場は天然の傾斜地を利用して造られたもので、小劇場同様に
下方の座席は大理石で、元老院や町の重要人物用。
舞台やその上は彫像で飾られ、屋根の無い屋外劇場ですが、
必要に応じ、張り出しのテントで覆われたそう。

約5000人収容可能で、上演はカンパーニャ地方の笑劇、仮面劇、
そして喜劇やパントマイム、音楽ダンス付きのパントマイムも。



小劇場の下の通路から見える大劇場側。 通路から階段が上の階に
連絡しているのも見え、壁に壁画の跡も見え、美しく飾られていた事でしょう。

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これは小劇場の最下段の、重要人物用席の入り口にある翼を持つグリフィン・
伝説の鳥の足元と、上は一般市民用の席で、奴隷像、かな、

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で、下の通路を抜け、町の中心を南北に抜けるスタビアーナ通りに出て、
北に向かいます。

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という所で今回はこれでお終いにして、次回に。
余り殺風景な遺跡風景ご案内にならぬよう、考えておりますが、
楽しんで見て頂けると嬉しいです。


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