・ n.1 アンコール・ワット遺跡群に!

今回はヨーロッパから大きく飛び出しアジアの国へ、
カンボジアはアンコール遺跡へのご案内を。

勿論私が行ったのではなく、同じコネリアーノ在のMさん、
年明け早々に新しい素敵な散歩道を教えてくれた方ですが、
彼女が1月に行ったアンコール遺跡の写真でご紹介です。

1-23-Phnom Bakhengからワットを望む_GF.jpg

旅行から戻られて後拝見に行き、聞きしに勝る凄い遺跡で、
ではブログに拝借、という事になった訳ですが、
ドンと80枚を超す写真が届き、好きなように料理して!と。

ああたぁ、私は東南アジアに出かけた事も調べた事もなく、
アンコール・ワット遺跡、という言葉のみを知る人間なのでして・・、
料理の仕方も思いつかずに日が経ち、
まぁ、次第に免疫が出来るのを待ちつつ、ははは、
遂に重いお尻を上げてここに、という次第です。

彼女は写真についてそれぞれ説明をつけてくれたのですが、
大幅に写真を省略せざるを得ず、彼女の言葉を拝借しつつ、
案内サイトからの知識と共に、新しく。
という事で、いにしえの物凄いクメール文化遺跡群を、
お茶など入れて、ごゆっくりどうぞ!

今回ご覧頂く地図の全ては、「アンコール遺跡群ガイド」の
サイトから同意を得て掲載させて頂いております。
http://angkor.yan-tian.net/index.html
このサイトは大変丁寧な良く出来たサイトで、
ご旅行をお考えの方の良きガイドになると思います。

最初の写真は、ただ一枚含まれていたピンボケですが、
とても美しいので、到底捨てる気にはなれずトップバッターに。
アンコール・トム南大門近くの、小高い丘にある
プノン・バケン寺院・Phnom Bakhengからのアンコール・ワットの眺め。



所で、アンコール遺跡というのはどこにあるの?
ね、大概の皆さんも私同様、詳しくご存じないでしょ?! と、
無理に同意を求め・・、はは、

2-map.jpg

カンボジア王国・Canbodia は、東にヴェトナム、北にラオス、
西のタイに挟まれ、首都はプノンペン・Phnom Pehn、
アンコール遺跡群は北西のシェムリアップ・Siem Reapにあります。

Mさんは乾期の1月を選び、イタリアからイスタンブール経由で
行かれたので、日本からの事情とは少し違いますし、
どこを経由するのか、交通機関は、通貨は、等には
ここでは触れませんのでご了承下さいね。       
       


こちらが、シェムリアップのアンコール遺跡群の地図。

3-0.JPG

一般に、アンコール・ワット遺跡と聞きますが、
こうして見ると、アンコールの広大な遺跡群の中に
アンコール・トム、アンコール・ワット等の遺跡が含まれるのを納得。

ここでちょっぴり受け売りのご案内を。
アンコール遺跡というのは、8世紀から14世紀に建設された
クメール(アンコール)王朝の建造物遺跡の事で、
クメール王朝は度重なるタイのアユタヤ王朝の侵攻に遭い、
1432年にプノンペンに遷都。

放棄され荒廃の一途を辿り忘れ去られていたのが、
150年程前にフランス人により再発見された物で、
その壮大にして荘厳な遺跡は1992年に世界遺産にも登録、
現在は世界からの観光客が訪問する遺跡となっていると。

アンコール・Angkor とは王都、ワット・Wat は寺院を指すそうで、
今回のご案内は、アンコール・ワットを中心に。
       
アンコール・ワットは、12世紀に王廟として建設されたと考えられ、
当時ヒンドゥー教と仏教が併存していたので、
中央祠堂にはヒンドゥー教の神が祭られていたそうですが、
クメール王朝滅亡の後仏教寺院に改修され、
現在は仏像が安置されているとの事。
    
   
      
遺跡への道。
トゥクトゥクというバイクに引かれた屋根付きリヤカー風のポピュラーな
乗り物で遺跡に向かいます。
吹く風で涼しいけど砂埃要注意、と。

4-5-遺跡群への道_GF.jpg



アンコール遺跡群中、最大の建造物アンコール・ワット。 
まず、余りの偉大さに感激! 190mある環濠を渡る橋を渡りつつも
見とれ、正面に見えるワットの外壁回廊になかなか辿り着けず。

5-7-2-堀と外壁_GF.jpg

6-8-ワット外壁入口_GF.jpg

その様ですね、東西1.5K、南北1.3kのほぼ真四角の寺領に、
三重に四角く壁回廊が巡り、その周囲を幅広の濠で囲んだ広大さ。
       
      
       
一番外側の外壁回廊を通り抜けると、また続く長い参道。

7-11-まだ続くワット参道_GF.jpg
 
左に見える手を開いた様な形、これは7匹の蛇を現わす守護神・
ナーガで、中程に見える建物は、図書館・経堂。    



長い参道脇には、蓮池もあり、

8-13-参道沿い蓮池_GF.jpg
    

 
結婚したカップルの記念撮影も。
先頭が結婚したカップルで、後ろ3組は付添組、念の為。

9-10-1-ワットでの記念写真_GF.jpg



寺院の正面は修復中で、横の入り口から回廊に。

10-14-サイドの入り口_GF.jpg



第一回廊は、びっしりと素晴らしい浮き彫りが施された長~い物。

11-16-長ーい回廊_GF.jpg

12-17-レリーフ詳細_GF.jpg

当時の様子や世界観を伺える様々な図像の浮彫で、
また、写真に見える天井は修復された物だそう。



幾つもの階段を下り、とにかく物凄い広さで、外側からも第一回廊を
見物。 これは、王が直接象から降りた、という象のテラス。

13-18-象のテラス_GF.jpg

分かります? 階段無しで、象の背中から直に!
お付きの者達は飛び上がるとか?! ははは。



こちらは第二回廊。
入り組んだテラスや回廊がありの、ややこしい構造で、
あちこちに仏像もあり、参拝客も多いのだそう。

14-19-内部のテラス_GF.jpg

15-20-内部の詳細_GF.jpg



第三回廊の上からの素晴らしい眺め!

16-21-最上第3回廊からの眺め_GF.jpg

狭くて段差が高い急傾斜の恐怖の階段、と読んでいたのが、
順番が来て見ると、残念安心、木の階段が付けられていたと。
周囲を囲む第二回廊、そして遠くに外壁回廊も見えますね。



こちらは、最初の高所からのアンコール・ワットの眺めを写した
プノン・バケン寺院。

17-22-1-Bakheng寺院_GF.jpg

ここは夕日の眺めとアンコールワットの展望で有名な場所で、
Mさんが戻る夕暮れ時には、まるでラッシュアワー並みの
人々が上へと向かっていたそう。



こちらは市の近郊にあるロリュオス・Poluos遺跡群の中で
一番大きなヒンドゥー教バコン寺院(891年)の入り口。

18-4-Bakong寺院_GF.jpg

主要な遺跡の入口には、どこでも地雷障害者団体の人々が
こうして音楽を奏でて寄付を募っており、
長く続いた内戦を想い、心が痛んだそう。



郊外2時間程にある広大なベンメリア・Beng Mealeaの遺跡に。

近年の観光ブームに沸くシェムリアップの建設ラッシュに比べ、
一般の民家はこんな様子。

19-44-1-郊外の家_GF.jpg



半ば崩れ、修復を待つ寺院の参道にいた子供達。 裸足の子供も。

20-45-子供達_GF.jpg



こちらは、タ.ポローム・Ta Prohm の遺跡。

21-27-ta Prohm_GF.jpg

22-24-密林に埋もれた寺院-Ta Prohm_GF.jpg

「トゥームレイダー」というアンジェリーナ・ジョリーの映画撮影にも
使われた場所で、大樹に食べられつつある遺跡を意識的に残している様子と。 
熱帯大樹の物凄さ、恐ろしさ!            


アンコール遺跡見物の拠点、シェムリアップの街の風景を。

さすが南国を思わす大樹と、

23-1-シャムラップの街路樹_GF.jpg



色鮮やかな品の下がるマーケット。
ああ、こんな場所に行くと動けなくなりそう!

24-2-シャムラップのマーケット_GF.jpg

という所でお終いにし、アンコール・トムの遺跡は次回にご案内を。
お楽しみに!


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・ n.2 活字印刷博物館 訪問

引き続き有難うございます! n.2 活字博物館訪問 をどうぞ!

博物館の展示から、こちらは木製活字、キシログラフ。
       
26-823_GF.jpg


これもキシログラフの版木。
我々日本人には、なじみ深い物ですね。

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こちらも木製の、古い時代の物。

28-836_GF.jpg



これは金属板の彫り込み。

29-838_GF.jpg



活字のデザイン。

30-831_GF.jpg



古い写真で、かっての印刷工場風景。

31-824_GF.jpg

印刷された物をたち切っていますが、この押し切り鎌の形、懐かしいですねぇ。
そして、なんとたくさんの働く子供達。



2階にある図書室の窓から。

32-865_GF.jpg



現在の活字印刷の本を拝見。

33-847_GF.jpg

今も勿論、何軒か、何人かは手仕事の活字印刷を続けていて、
平板な紙の印刷を見慣れた目には、素晴らしく美しい印刷で、
それもまぁその筈、恐ろしくお高い値段になる本なのです。
紙はコットン紙。



そして、これを是非ご覧下さい。
翡翠の杯、玉杯、とでもいうタイトルで、  

34-488_GF.jpg



中はこれ。

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棚にこの本を見つけたのはジュリアーナでしたが、
中にこの印字を見つけた時、息を飲みました。
なんと素晴らしく見えるこの名前、印字の美しさ!

漢詩などは既に忘れ果てていましたが、横に並ぶイタリア語で意味が分かり、
懐かしい世界に、やや茫然となりました。

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下終南山過斛斯山人宿置酒  李白
暮從碧山下  暮に碧山より下れば
山月隨人歸  山月人に隨って歸る
卻顧所來徑  來る所の徑を卻顧すれば
蒼蒼橫翠微  蒼蒼として翠微に橫はる
相攜及田家  相ひ攜へて田家に及べば
童稚開荊扉  童稚 荊扉を開く
綠竹入幽徑  綠竹 幽徑に入り
青蘿拂行衣  青蘿 行衣を拂ふ
歡言得所憩  歡言 憩ふ所を得て
美酒聊共揮  美酒 聊か共に揮ふ
長歌吟松風  長歌 松風に吟じ
曲盡河星稀  曲盡きて河星稀なり
我醉君復樂  我醉へり君も復た樂しめ
陶然共忘機  陶然として共に機を忘れん



そして、これ、

37-474_GF.jpg


これも!
美しい美しい漢字の姿!!

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それに引き換え、まずい写真で申し訳ないです。
イタリア語に対応するために横書きにしているけど、
本当は、右上から縦書きで、左に続くのだと説明しましたが、
サイトで見つけた詩は、PCの世界の、やはり横書きなのでした。



各種印刷機の展示。

39-871_GF.jpg

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44-881_GF.jpg

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42--886_GF.jpg

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どれもがまだまだ充分使える機械ばかりなのですが、世代交代で引退の身です。
こちらに集められた機械類は、全てイタリアの物ばかりで、
世界の物となると多すぎて、到底無理だそう。

とりわけ最後の2つは、アウシュヴィッツの収容所解放記念に放送されたTV番組内で、
収容所内での印刷シーンでたくさん登場し、納得するやら、絶句するやら。

そしてこれらの機械類には、作り上げた技術者たちのなんとも言えない誇りが
込められた装飾があるのですね。
打たれた銘板にしろ、小さな装飾にしろ、長く長く使い込まれる筈の機械に
相応しい物で、それがちょっと辛い想いを伝えて来ました。



見学の最後に、各自の名前の活字を一つずつ拾い、枠に並べます。
逆に打たれた活字を、また逆の向きに並べる訳です。

45-892_GF.jpg



こうして皆の名が揃うと、
ダニエーレ氏が微調整を行い、枠の外を詰め、上から木片でトントンと
そっと叩いて面を揃え、

46-895_GF.jpg



こうして版面が整い、
試し刷りをして、また活字の配合などを微調整。 

47-898_GF.jpg



この機械は、インキのローラーが自動で回り、インキの乗り具合も自動調節で、
脚元のペダルを踏むと紙を挟む爪が持ち上がり、

48-910_GF.jpg



こうしてハンドルを回すと、ぐるっとドラムが回り、印刷できる仕掛け。

49-912_GF.jpg

写真に写っている若者は、高校生かな、アンドレア・Andreaといい、
お母さんと一緒に見学に来ていて、写真掲載許可はお母さんに貰いましたからね。
右に写っているのがレナート・Renatoで、先日のサン・ボルド峠の写真提供者。 



この印刷実演には皆大喜びで、にこにことハンドルを回し、
で、出来上がりがこれ!

50-187_GF.jpg

一番上に見えるArteStoriaが、あちこち見学に一緒しているグループ名で、
ちゃんと宣伝して!と言われましたので、はい。

我々は、ただ活字を拾いハンドルを回しただけですが、
ここに至るまでの大変な仕事を見た後でしたから、皆が大満足だった訳です。


       
最後に、活字印刷の普及の年代を記した掲示を。
少し見難いのですが、

51-901_GF.jpg
      
Magonza、グーテンベルグのマインツの街 1452年
イタリアでは、スビアーコ・Subiacoが一番早く1465年
ここは確かべネドット派の修道院がある町ですね。
そしてローマ・Romaが1467年、ヴェネツィア・Veneziaが1469年。

ヴェネツィアでは、アルド・マヌーツィオ・Aldo Manuzioが1475年に、
既に商業印刷出版所を開き、ルネッサンス文化に大いに貢献した歴史もあり、
他にもたくさんの印刷所があったそうです。

ヨーロッパ圏外では、マロッコが1520年、メキシコ、ロシアと続き、日本は1582年と。
木版刷りはそれまでにもあった訳ですが、これは活字を使った手動印刷、という年で、
これがどこの誰による物か、まだ判明できずにいます。
天正四少年が手動印刷機を持ち帰った、と読みましたが、彼らの帰国は、もう少し後で。
   
日常生活からは消えましたが、500年間続いた活字印刷の歴史がこうして残り、
知る事が出来た、興味深い博物館訪問でした。

最後までお付き合い下さり、有難うございました!

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・ n.1 活字印刷博物館 訪問

今日のご案内は、1月半ばにグループで見学した
活字印刷博物館・Museo del Carattere e della Tipografiaを。

ご存知のように、ほんの20年ほど前まではまだ活字印刷、写真植字などが
印刷の主流でしたが、コンピューターの登場、技術革新の凄まじい早さに
駆逐され、あっという間に姿が消えました。

この博物館の趣旨は、
引退に追い込まれた活字印刷の様々な印刷機の歴史と展示、
また、それ以前の印刷の歴史も学べるように工夫され、
最後には、見学者が自分の名前の活字を拾い、印刷もできるという
大変興味深く楽しい物でした。

言葉での説明よりも一見に限ると、写真も多くなり2回分に分けましたが、
最後には意外な物もありますので、どうぞお気軽に!

こちらはピアーヴェ河・Piave.  かっては上流のべッルーノから筏を組み、
木材をヴェネツィアに運んだという河ですが、農業用水や発電に水を使うとかで
川床の広さにしては水量が少ないのです。が、

0-752_GF.jpg

ピアーヴェ河は歴史には、殆どヴェネトとフリウリの境界線の様なイメージで登場し、
第一次大戦では、この河を挟んで激戦が繰り広げられました。
で、今、ピアーヴェを西に渡ります。



上が博物館への標識で、
下が第一次大戦の戦没者慰霊廟への印。

1-1-761_GF.jpg



この一帯の地図をどうぞ。
右上、太線で囲ったコルヌーダ・Cornuda に活字博物館があり、
その上を斜めにかする河がピアーヴェ。

1-2-uda_GF.jpg

コルヌーダから南東に斜めにまっすぐ伸びる道と、下に見えるカステルフランコ・
Castelfrancoから真っ直ぐ東の合流点にトゥレヴィーゾがあり、
そこから南30Kほどにヴェネツィア、という位置関係。       
       
上から順に、
ポッサーニョ・Possagno アントーニオ・カノーヴァの塑像博物館 夕暮れ
      
ヴェロネーゼの騙し絵で有名な ヴィッラ・バールバロ・ディ・マゼール
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463456543.html

n.3 アーゾロ ・ ヴェネトの奥 文化の香る小さな町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460978208.html

サン・ヴィトー・San Vito、カルロ・スカルパ設計の
トンバ・ブリオン ・ そして、お盆
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463693503.html

アルティーヴォレ・Altivole、キプロス女王であったカテリーナ・コルナーロ大別荘跡
アーゾロを彩る女性ふたり ・ アーゾロ市立博物館 n.2
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463693935.html

西に バッサーノ・デル・グラッパ ・ グラッパ酒、アルピーニの橋
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461664355.html
       
南に カステルフランコの町 ・ ジョルジョーネ展
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462522712.html

こうして見ると、我ながら結構真面目にご紹介している、と思いつつ、へへ、
ロマーノ・デッツェリーノ・Romano d'Ezzelinoの中世風お祭りがまだだった、
と宿題も思い出し、
モンテべッルーナ・Montebelluna も何度も通過しながら・・。 
ええまぁ、ぼちぼちと。



この運河を左に渡った所に博物館があり、

2-763_GF.jpg

オレンジ色の建物の壁に、カナピフィーチョ・ヴェネト・Canapificio Veneto
と読めますが、カナピフィーチョというのは麻繊維工場で、運河を利用しての作業と。

奥に煉瓦の煙突風が3本見えるのは、石灰を作っていた窯だそうで、
現在は勿論活動せずで、少し破壊しかけておりました。

石灰を作る窯については、夏のドロミーティーのハイキングでも傍で見た事があり、
こちらでご案内を。
       


こちらが今日の訪問先、活字博物館。
この建物もかってのカナピフィーチョ、麻のロープを作っていた工場跡利用で、
右はかっての教会跡で、こちらも利用です。
 
3-767_GF.jpg    

  

壁にあった開館時間。

4-769_GF.jpg

下地に以前の案内がうっすらと見えますが、今のが断然すっきりとした案内で、
流石、字体に拘っている、と眺めました。
ご覧のようにサイトは http://www.tipoteca.it



案内をして下さったダニエーレ氏・Danieleに迎えられ、
背景は入り口脇の壁を飾る、かって実際に使われていた木製活字。
材質は梨とか桜の柔らかい物で、細工がしやすい物の、千部程の印刷で消耗したと。

4-770_GF.jpg



所で、ちょっぴり活字印刷についての変遷を。       
一番最初の活字印刷は、グーテンベルグ・Gutenberg が1455年に
ドイツのマインツで聖書を印刷した、というのが定説ですが、
その数年前から彼は活字を使った商業印刷を始めており、
       
活字による印刷の先駆者は、オランダ人のヤンソン・コスター・Janszoon Coster
という説もあるようですし、
はたまたイタリアはヴェネトのフェルトゥレ・Feltre出身、医者にして文学者の
パンフィーロ・カスタルディ・Panfilo Castardiが、グーテンベルグに先立つ
22年前の1426年に、木製の活字の固まり(単語の事と)を使っての
手動印刷をした、という研究もあるそうです。

カスタルディの妻がマルコ・ポーロの孫で、マルコ・ポーロが中国より持ち帰った活字を
持って嫁入りしたのがカスタルディの研究の始まり、という信憑性に満ちたもので、
彼の客人がマインツにその活字を持ち帰った、のが
グーテンベルグにアイディアを齎し、金属活字を発明、という物です。

大変興味深い話だと思うのですが、彼について調べているというニュースもあり、
記事がアップされましたらお知らせいたしますね。

フェルトゥレにあるカスタルディの像はこちらに。
フェルトゥレ ・ ドロミテの麓、小さな高貴な町
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462862246.html



で、活字はどのように作られるのか、ですが、

5-827_GF.jpg

6-826_GF.jpg

7-828_GF.jpg

まずこの様に、一番元になる打ち型、金型・プンチが作られます。
この形は、読む活字の逆の姿ですね。



そして、柔らかい金属にプンチを打ち込み、活字の原型ができ、

8-829_GF.jpg



その原型に鋳物風に金属を流し込み、活字が出来上がる、という訳。

10-1-491_GF.jpg

10-2-780_GF.jpg

この様に上下2つに分かれ、その間に原型を挟み込み、上に見える穴から
溶解した金属を流しこみ、冷めたら取りだし、縁の余分を削って1活字の出来上がり。
       


こちらは、いつの時代の物か、珍しい中国の木版。

11-489_GF.jpg
       
版は反りを打ち、割れてもいますが、両面使われていました。
大体いつの時代の物か、どんな内容か、どなたか読んで頂けると
博物館の方にもお知らせ出来て、嬉しいのですが、
両面の写真がありますので、お知らせ頂けましたらお送りします。



最初に説明を聞いた部屋ですが、
この薄い引き出し風の棚、タンス、全てに活字、活字で、
まだ他の部屋にもいっぱい詰まっているのでした。

12-944_GF.jpg



モノタイプ・Monotype機。
上でご覧頂いた活字は全て手作りだった訳ですが、そこに登場するのが、
このモノタイプという活字製造器で、

13-786_GF.jpg



まずこちらで、望む活字のタイプを打つと、この青い紙に穴が開きます。
ご覧のように、活字の大きさも指定でき、


14-787_GF.jpg



この水色の型紙を、こちらの機械に入れ込みます。
正面からの写真が、色が飛んで見えにくいのでこの写真で失礼し、

15-793_GF.jpg

前部分の奥に、上に飛び出した部分がありますね、少しでも分かるかと水色を
ちょっと入れましたが、あの部分にロールのペーパーを挟み込み、

その下脇には、活字鋳物に要する金属を溶かし、自動的に注入する部分もあり、
一字づつ作っていた活字が自動的に作れる様になった画期的な機械という訳ですね。

19世紀末に発明され、大変複雑な機械操作の為、ロンドンに5年間勉強に赴き、
その後に操作出来たと言い、現在この近くに当時の技師がひとりおられ、
時に様子を見に来るそうです。



息抜きに、部屋の片隅にあった銅製の手洗い所をどうぞ。
美しいでしょう?!  こんなのが、あちこちの部屋にありました。

16-1-790_GF.jpg



展示されていた、かっての活字拾いの部屋の写真。
働いている少年の姿も見えますね。

16-2-840_GF.jpg

こうして拾った活字を組んで印刷した後、活字を1つずつ再び指定の枠内に戻す訳で、
その作業時間がバカにならなかったと言います。

所で、活字を作る金属はこれもグーテンベルグの発明で、錫と鉛とアンチモンの合金。
微細な型のなかに入る流動性と、凝固の時に収縮する度合の小さいもの、
という事だそう。
    
   

手動印刷機。

17-797_GF.jpg

この様に版に活字を組み、ローラーでインキを載せ、左手に跳ね上がっている版に
紙を挟みこの活字版に伏せ、右に見える圧縮板の下に差し込み、印刷、という手順。

活字を組んだ周囲に様々な形の支え、活字版がずれない為の金属のブロックがあり、
これは後になっての発明で、グーテンベルグの時代には木片を差し込んでいたそう。
      
 

こちらが、全体の様子。

18-803_GF.jpg
   

この手動印刷機の古い形、また、グーテンベルグが使った当時の木製の印刷機、
これらについては、ソンチーノの印刷博物館のご案内でどうぞ。
n.2 ソンチーノ ・ 中世の要塞と、ユダヤ人の印刷所
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/464089153.html



リノタイプ・Linotype機。
英語ではライノタイプと呼ぶようですが、モノタイプよりも暫く後に
開発されたもので、こちらは単語のブロックを作ります。

19-805_GF.jpg

やはり下のタイプライターを打つと、自動的に単語の活字が出来て、
上の線が並んでいる部分から落ちて来て集められ、左下の版に並んだのだそう。

一緒に見学に行ったジュリアーナ、彼女は長年中学の先生をしていたのですが、
これを見た途端に、わぁ~、懐かしい! と声を上げ、生徒を連れて新聞社だったか、
見学に行った時に見たようで、
それを聞いた案内のダニエーレ氏がこれは”つい最近まで”使われていた、
と言葉を訂正、あはは。

ジュリアーナによると、単語の活字が上から列を作ってどんどん落ちて来て下に集まる、
という活気に満ちた光景だった様子で、やはり当時としては大変高額な機械だったそう。



リノタイプ機の左脇にある、活字用金属の小溶鉱炉、とでも。

20-808_GF.jpg
     
このリノタイプになると、使った活字は再び溶かして再生したのだそう。



前にあった、如何にも使い込まれた感じの皮張り椅子。

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こちらは、ずらっとリノタイプ機が並んだ部屋。
20世紀初めのトリノの新聞社・Gazetta del Popolだそうで、壮観!

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そしてこちらは楽譜印刷。 金属板に、直に彫り込みで、

23-816_GF.jpg



その道具類。

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そしてこの写真! 専門職というか、職人仕事の最たるものというか・・!!

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という所で、N.2 にお進みを!


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・ アルノ河の、ミズスマシたち 

今日ご覧頂くのは、フィレンツェのアルノ河・Arno.
そして、そこに生息するミズスマシたち、いや違った、アルノ河でボートやカヌーの
練習をする人々、です。
ヴェッキオ橋から見ていると、まるでミズスマシみたいに軽やかに、行ったり来たり。
       
日曜祭日は朝から、平日は仕事の済んだ夕暮れ時に、アルノ河の煌めく水の色、
刻々変わる夕暮れの空と水の色の中、無心にトレーニングに励む姿をご覧になり、
皆さんも心を遊ばせて下さいね。

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フィレンツェの街の中心部にかかる橋は4本、東・上流から、アッレ・グラツィエ、
ヴェッキオ、サンタ・トリニータ、カッライアで、
この区間の先には上・下流とも堰がありますから、
彼らミズスマシ族は、この間を行ったり来たりして練習する訳です。

という訳で、上の写真は上流側アッレ・グラツィエ橋の東にあるアルノ河の堰。
見える塔はサン・ニコロで、山上に広がるのがミケランジェロ広場。
堰の右の、水の流れが淀む辺りに白い水鳥が幾つかいるのが、見えますか?



こちらはアルノの南から見るウッフィツィ美術館。下に3つの大きなアーチを持ち、
真ん中がコの字型建物の、中庭兼通り抜け道。

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左下の河畔に緑の垂れ下がりがありますが、後ほどご覧に入れますね。
2年前の秋晴れの空。



お馴染のヴェッキオ橋。
あの真ん中のアーチ部、東西に開けた場所からミズスマシ群を待ちうけます。

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ヴェッキオ橋 ・ フィレンツェ



どこで写した物か、正確に覚えていないのですが、ダンテの神曲地獄篇の一節。

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フィレンツェの街中、いやイタリア中の町村の一郭に、ダンテが自作に読みこんだ、
その場に関連する一節の碑が掲示されています。

良く意味が分からないのは元々なのですが、何に関連する言葉かを、
今回はつきとめましてございます、はい。

地獄篇13曲146 を頼りに検索をかけ、見つけましたのが、
sempre con l’arte sua la farà trista;
e se non fosse che ’n sul passo d’Arno
rimane ancor di lui alcuna vista, 147

山川丙三郎氏の訳によると、

その術(わざ)をもて常にこの邑を憂へしむ、
もしその名殘のいまなほアルノの渡りにとゞまるあらずば 一四五 ― 一四七

という部分と思われますが、ちょっと読んだだけでは分からない部分が多すぎ、以下略。

ですが、3つほど全出、全訳のサイトを見つけて喜んでいます。
というのも、まるで手掛かりが無いのも詰まらないですし、時にダンテが、
自分の尺度に合わない人間は全部地獄行きにしたのでは?! ははは、
と思う事も多々あるのですもの。
取りくむ教科書類だけでも整えて置きませんと。



こちらが先ほど遠望頂いた河岸の緑の幕の下。

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上の通りには、アルノ河を、ヴェッキオ橋を見る観光客がうようよ。
ですがその下、蔦の緑のカーテンの下には、フィレンツェ市民の、
多分ミズスマシ族関係の憩いの場が。
    


で、上のうようよの群れの一人となって下を見ましたら、
日曜の朝だったか、練習に取り掛かる前の整備中で、

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あ、若い女性がいる、 あはは、パンツ丸見えじゃん!

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屈強な男どもに伍して、背番号も1ですぞ。

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ヴェッキオ橋の上から見ていると、こんな2人漕ぎも、

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まさにミズスマシみたいに、波紋を引いてやって来て、

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水を煌めかせて通りすぎ、

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下流の堰で折り返し、また通りすぎて行きます。

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向こう岸に白くぽつんと見える水鳥、詐欺かな、もとえ、鷺かな?

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夕暮れに、また戻って来たヴェッキオ橋から。 下流側のサンタ・トリニータ橋。

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背番号1、はい、あの女性は舵とりで、多分ピッチも数える係だと。
この夕暮れの写真は別の日ですから、毎日練習なのですね。

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幾つものミズスマシ。

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奥の方で、方向転換をしているのが見えますね。

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どんどん夕暮れの空が暗くなり、街の明かりも点き、風も冷たくなっていくのに、
まだまだ粘って練習するミズスマシたち。

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じゃぁ、夕御飯を食べに行くからね、頑張ってね、チャ~オ!


◆*◆
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先月血液検査をしたとお話しましたが、蕁麻疹の経過やら、コレステロールの
検査の物で、コレステロールの数字はぐっと下がっており、痒みもまるでなくなり、
これで無罪放免まちがい無し、と意気込んで皮膚科に。

が、女医先生が驚くほどの、素晴らしく高いアレルギーの数値がでて、
何が原因かと、もう一度血液検査に追いやられました。
豚肉は食べるか、リンゴは、などなどリストがずらっと並び、その結果も先日判明。

結果を持って行く前にそっと覗きましたら、物凄く高い数値の一つに、
コーダ・ディ・トーポ・ネズミの尻尾、というのがあり、何これ??!!
いくらなんでも、そんなもの食べまへんよぉ!!
もひとつ高い数値のは、辞書で、ニガヨモギと知りました。

女医さんのお話によると、私は野草類にずらっとアレルギー持ちで、
その上に、トマト、リンゴ、桃、小麦粉、犬・猫のフケ、埃、ナッツ類、大豆、海老等など
なんとまぁ、今迄生きて来れたのが不思議なくらい並びました!
ホントかなぁ、この数値?!

ネズミの尻尾というのは、野草の名前だそうで、白い穂を出す植物でやれやれですが、
とにかくこの結果を壁に貼って注意しなさい、家庭菜園はしない事、との先生のお話で、
それでも一応の決着を見ましてやれやれです。

春先に目が乾いた感じで、時にムズムズする位で、桃はアレルギーがあるのを
感じていますから食べず、リンゴも少ししか食べず、で長年大過なく過ごして来たので、
まぁ、これからもアレルギー体質である、と自覚し、
その辺りは少し食べるのを控える、位で大丈夫だろうと。

ワインは関係ない、としっかり確認しましたし・・! 大好きな魚介類も海老に
少し気をつけるとOKのようで、早速にお寿司が食べたくなって・・。

若い時は体力があるので問題なく越えて来た各種のアレルギー食品でしたが、
これからは気を付けないと、という、改めての健康指針でした。

*****

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・ 我が町コネリアーノ ・ 美しき夕暮れ

先週土曜の午後遅くグループで、我が町コネリアーノにあるフランチェスコ会派の
修道院などの見学をしましたが、町の高台に位置するので眺めが素晴らしく、
折しも大変暖かな日の美しい夕暮れとなりましたので、その様子をご覧下さい。

上は修道院の庭から見上げるジェーラ邸・Gera. パッラーディオ風の
素敵なお屋敷が、ほんのりと夕焼けの色に染まりかけて。

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右奥の木陰に垣間見えるのは、コネリアーノのお城の塔です。
  


修道院の庭から。

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15世紀の建物と言われますが、ナポレオンによって打ち壊され、その後兵舎、
病院、学校とあれこれ転用され、現在は文化的施設として使用。
       
広々とした庭から遥かにヴェネト平野の地平線が望め、手前がドゥオーモの鐘楼。



修道院の扉から。
上の階、中庭と見て回る間にも、夕暮れの時が近づき・・。             

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扉から出て、向こうに見えるのは隣町のサン・サルヴァトーレのお城の塔。
暖かな気持ちの良い午後で、皆が陶然となって、遥かなお城を見つめました。

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中世の城跡 ・ サン・サルヴァトーレ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463525627.html



坂を下り、ドゥオーモのロッジャの階上にある、全面フレスコ画で
埋められた部屋を最後に見て解散。

夕陽を浴び、ドゥオーモの壁の色、壁画も美しく浮かびあがり。

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このロッジャの上の歴史ある部屋もご紹介が済んでいませんが、
屋根の雨漏りで、しばらくしたら閉じて修復にかかるのだとか。
       


ドゥオーモ、入り口前のロッジャの灯り。 話を聞いている最中にぽっと灯り。
 
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西の空の色が刻々に変わる時は、説明そっちのけで、
ただただ貪欲に撮りたいだけですが・・!

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shinkaiは良いカメラを持っている、との評判がほぼ定まり、何やらグループの
お抱えカメラマンになりつつあり、前に押し出されて写したりで、
・・それは嬉しいのですがぁ、逆に姿が見えないとすぐ探されたりで・・、
のんびり一人でふらふら写せなくなりましたぁ、ああ。
       


名残の空の色。

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ほんの少し時が経つうちにも、既に名残の色に変わって行きます。
町の灯が点き始め、土曜の夜の賑やかさがそろそろ始まる時、
・・・わたいは家に戻りますぅ。 アホやで、ホンマ!


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・ A.ヴィヴァルディが洗礼を受けた教会と、その周辺を

今日のご案内はヴェネツィア。 アドリア海の真珠と称されるこの街は、
17~18世紀にかけて文化的にも爛熟しきったヴェネツィアの、豊満で
官能的な魅力を、またアドリア海の煌めきをも聴く者に彷彿とさせる音楽、
そう、アントーニオ・ヴィヴァルディ・Antonio Vivaldiの街でもありますね。

皆さんも、ヴィヴェルディの音楽はお好きでしょう?! はい、私も大好き!
で今日は、そのヴィヴァルディが洗礼を受けた教会にご案内です。

写真は1年前の冬と春のものからですが、
千年以上もの歴史を持つ街は、いつも変わらず魅力的!!

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サンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会・S.Maria della Pietà.

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サン・マルコ小広場からスキアヴォーニ河岸を東に、橋を3つ渡った所に。
赤毛の司祭と呼ばれたアントーニオ・ヴィヴァルディが、この教会併設の
孤児の女子音楽院で教えていた事は有名ですが、

現在の教会は18世紀、ヴィヴァルディの去った後に、以前の古い破損した
教会が取り壊され建て替えられた物で、かっては今の教会の右の位置に
あったそうで、正面壁は20世紀に整備されたとの事。
       


地図をどうぞ。
左下にサン・マルコ聖堂があり、大運河沿いの道がスキアヴォーニ河岸・
Riva degli Schiavoniで、数字29がサンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会。

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そこからまた一つ橋を渡り、緑の点をつけた小路から入ると、
Campo S.Giovanni in Bragoraと書いてある広場がありますが、
現在はカンポ・バンディエーラ・エ・モーロ・Campo Bandiera e Moroと変更、

ははは、1989年出版15000リーラのガイドブックなのですが、
なかなか地図にしろ情報にしろ、ちょうど良いのが少なく、
未だにこれも重宝に使っておりまして、・・脱線。

で、数字26が、今日ご案内のヴィヴェルディが洗礼を受けた教会、
サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ・S.Giovanni in Bragoraです。



サンタ・マリーア・デッラ・ピエタ教会の内陣。 写真はサイトから

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天井にはティエポロの絵もあるというのですが、気が付きませんで。
というのも、確かに教会なのですが、現在内部が美術関係の展示会場にも
なっていて、何か変な印象で余りきちんと見た事もなく・・。



こちらは、教会入り口を入った所の壁にある、修道士ピエトロ・ピエトルッチョ・
Pietro Pietruccio d'Assisiの像。

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彼はサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会・S.Francesco della Vigna
の修道士だったのですが、最後に付く「ダッシジ」の名前から、多分アッシジからで、

当時のヴェネツィアの街に溢れる捨て子を見るに見かねて
17軒の借家をして捨て子の収容を始めます。14世紀半ばの事です。
サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会は、魚に例えられるヴェネツィアの、
ちょうど尻尾のつけ根の背中側にあり、ジョヴァンニ・ベッリーニの素晴らしい絵も。
      
ヴェネツィアは港町通商の町で、外からの客人も遊女の数も多かった訳ですが、
それに比して私生児、結婚していない未亡人・Vedova biancaも多く、
貧しさから、両親ともに働く為に育てられない、また育てられるだけの稼ぎが
ありながら捨て子をする、という、とんでもない道徳の低下もあったと言います。
    
最初は男の子だけ収容していたのが次には女の子も、という様子で、
戸口から戸口にピエタ!ピエタ!・お慈悲を、と叫んでの喜捨、貴族や一般市民
からの援助もあったようですが、捨て子の数も多く到底賄い切れなくなり、
遂にヴェネツィア共和国政府の元に、捨て子の為の施設が作られたという訳で、
ここに彼の像があります。



地図には見えませんが、教会のすぐ東横にある小路カッレ・デ・ラ・ピエタ・
Calle de la Pietà.

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小路はこんな様子で、ヴィヴァルディの顔の入ったポスターも。
写真に見える物売りの黒人が気になり即退散したのですが、
ポスターに「ピエタの小博物館」とあるのに気が付きましたので、次回に。

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つまりこの左側は現在のピエタ教会の壁になる訳で、元はここに
孤児収容所のオスピーツィオ・Ospizioがありました。

壁に聖人像を祀る小壁龕があり、下に碑文の嵌め込みが見えすが、
今回調べていて、この壁にはかって捨て子を収容するための回転扉・
ruota degli espostiがあった事を知りました。

捨て子をする親が顔を見せずにすむ回転扉、というと、フィレンツェの
インノチェンティ捨児養育院が有名ですが、ここヴェネツィアにもあったのですね。

碑文には、1548年の、しびれを切らした法皇パオロ3世の勅書、
捨て子をする者を破門する、との厳しい勅令が彫られているそうですが、
それでもやはり捨て子は後を絶たなかった様子。

で、我らの今日の主人公ヴィヴァルディが、このピエタ教会の音楽院で
女子捨て子の教育に関わった、という事に繋がります。  



同じくカッレ・デ・ラ・ピエタ小路にある碑文。
この手の訳が大変苦手なのですが・・、(他のは得意かや?)

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この場所に、アントーニオ・ヴィヴァルディが1703~1740年まで
断続的に関わったピエタの音楽院があった。
ヴェネツィアにも世界にも、「四季」を含む彼の比類のない
素晴らしい音楽を与えた年月であった。



で、もう一本橋を渡ると、この建物の並び。
2つ目の茶の建物は確か軍関係だったと。で、奥に緑のテントが見えますが、

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壁にこんな標識も見え、訪ねる教会も間近です。

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東の方の眺めはこんな様子で、あの正面に見える建物の手前を
左折して行くと造船所。

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造船所に行かれる方、前に並ぶライオン像のうち、雌ライオンちゃんの泣き顔に
笑い、転ばぬようご注意をね! 
はぁ、一度余りに笑い、足元の落差に気が付かず転倒、足首が腫れあがり、
えらい目に遭った経験がありますの、はい。
       


で、先ほどの緑のテントのあった手前の小路にこの標識。
カッレ・デル・ドーゼ・Calle del Dose

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この小路に入ります。 小路から振り返ると、こんな風。

12-031_GF.jpg      



一転して開ける、かなり広いバンディエーラ・エ・モーロ広場。
広場北側にある大きな素晴らしい建物は、グリッティ・バドエル邸・
Gritti Badoerで、現在はホテルに。

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広場南東の端にあるこの教会が、ヴィヴァルディが洗礼を受けた
サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会・S.Giovanni in Bragora.

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元は8世紀の古い教会があったのを15世紀に再建と。 こじんまりと優しい
正面で、鐘楼の形も古いもの。

広場の南面に並ぶ建物類、この辺りの借家で、アントニオ・ヴィヴァルディが
生まれた、との事ですが、どの建物かは正確には特定されていません。



教会入り口に掲示の、

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「赤毛の司祭」と呼ばれた、アントーニオ・ヴィヴァルディ、
この教区で、1678年3月4日に生まれた偉大な音楽家、
この教会にて洗礼を受ける。



では内部に。 入り口上、かすかに残る洗礼図。

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内部はこんな様子で、正面祭壇にあるのは、

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図らずも我が町コネリアーノ出身の画家、ジャンバッティスタ・チーマ・ダ・コネリアーノ・
Giambattista Cima da Coneglianoが描くキリストの洗礼図。

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彼の作品の内でも、色も大変美しい、良い作品と思います。



入り口左脇に、ヴィヴァルディの洗礼証明書のコピーと説明があります。

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アントーニオ・ヴィヴァルディが生まれたのは1678年3月4日で、
たまたまこの日ヴェネツィアはかなり大きな地震に見舞われ、
おまけに彼自身半ば半死の状態で生まれたため、産婆のマルゲリータ・
Margherita Veroneseが仮の洗礼を授け、
この教会での正式の洗礼は、5月6日に行われました。



洗礼を授けた教区司祭はジャコモ・フォルナチェーリ・Giacomo Fornacieriで、
洗礼証明書にはこの様に。

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1678年5月6日。
故アウグスティン・ヴィヴァルディの息子で演奏家のジョヴァン・バッティスタと
その妻、故カミッロ・カリッキオの娘であるカミッラとの息子、
アントーニオ・ルーチョは3月4日に瀕死の状態で生まれ
死の危険があったため、産婆のマルゲリータ・ヴェロネーゼ氏が家の水にて
洗礼をさせたが、本日教会に連れて来て、私ジャコモ・フォルナチェーリより
魔払いと聖油を受けたものである。
(以下略)

この中に記されている様に、既に皆さんも良くご存じかもですが、
父親は、ジョヴァン・バッティスタ・Giovan Battista Vivaldi
母親はカミッラ・カリッキオ・Camilla Caricchioといい、

それぞれの父親が仕立て師であった事から知り合ったと言われ、
彼らは1676年6月11日に結婚していて、アントーニオが長子で、
幼くして亡くなった2人を含め、全部で9人の子が続いて生まれます。

父親のジョヴァン・バッティスタは貧しい床屋であったと言われますが、
ヴァイオリンの名手でもあり、サン・マルコ聖堂の、当時はヴェネツィア総督の
私的教会としての位置付けでしたが、ヴァイオリン奏者でもありましたから、
証明書にある演奏家という言葉も頷けます。

アントーニオ・ヴィヴァルディの作品、そして彼の人生についても、
忘れ去られていたのが戦後になって再発見されたと言う史実があり、
まだまだ謎の部分がたくさんある様子です。

彼がのちに家族と住んだ家も、既に写真は撮ってあるのですが、
まだ準備が整わずそのままになっています。
       
リンクして頂いているpescecrudoさんのヴィヴァルディの家をどうぞ。
http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-146.html



このサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会内には、常にヴィヴァルディの作曲した
宗教曲が流れ、なかなか良い雰囲気です。

チーマ・ダ・コネリアーノの祭壇画の他にも、こんな素晴らしいテンペラ画も。

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これはバルトロメーオ・ヴィヴァリーニ・Bartlomeo Vivarini
という15世紀の作品。



教会前からの広場の眺め。

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こうしてまたスキアヴォーニ河岸に出て、再びヴェネツィア散策を!

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今回は、ヴィヴァルディの軽やかで優雅な音楽に似ず、少し重たい部分も
ありましたが、当時の事情も含め彼の生きた時代を、
少しでもお伝えできた様にと願っています。

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・ 時代衣装の彩りを ・ ダーマ・カステッラーナのお祭りの

先週木曜の午前中、写真教室の流れで、我が町コネリアーノのお祭り、
「ダーマ・カステッラーナ」の事務局の中に招かれて時代衣装を写した、
とお話しましたが、今日はほんの少しその時の写真をご覧下さいね。

成人教室があるのは、元サン・マルコ連隊の兵舎跡ですが、
地下に大きな駐車場があり、正面と右手に大きな古い兵舎が残り、
真ん中は広い石の広場になっていて、

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市や病院関係、警察の駐車場でもあるのですが、撮りながら町の中心に
移動する予定が、石を撮ったり、古い兵舎の建物を撮ったりしているうちに、

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こちらの扉、上に25の数字の見える扉が開き、ここはダーマ・カステッラーナの
事務局ですが、管理の人が掃除を始め、

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扉の上のランプなんぞをを撮る我々を見て、
あなたたち、そんなものを撮るより中にどうぞ!と。

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我が町 コネリアーノ ・ ダーマ・カステッラーナのお祭り
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463527210.html



入り口に並べられた刀剣の玩具や、天井の古い梁などを写します。

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「ダーマ・カステッラーナ」で一度見た事のある、我がスコミーゴ村の旗、
と称する物もあり・・!

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波打つ壁に写る陰なども面白く・・、

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はい、女性の方はこちらにどうぞ!とのお招きで、そういう言葉には即反応し
奥の扉の中に入りますと、するとまぁ、ああた、700着程とかいう
ダーマ・カステッラーナのお祭りに使われる時代衣装が、ずらっと吊るされていて!

大喜びで写し始めると、向こうも見せたがり屋で喜び、あれこれ出して来てくれ、
ただマクロレンズをつけていて、おまけに全体を写せる距離がなく、
ならばと部分を写した様子を以下に説明なしに、ごゆっくりどうぞ!

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多分、肖像画などからデザインを起こして仕立てるのでしょうが、

この明るい空色はゴンザーガ家の物だとか。 はい、マントヴァのゴンザーガ家で、
当時の暗い色調の中で、ひときわ鮮やかなフランス風なのだそう。

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帽子もあれこれありました。

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再度いつでも来て良い、との約束も貰い、いよいよ失礼する時が来ると、
こちらに、と台所に!

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と、こうしてスプマンテまで振舞って頂いたという、
はい、番外編続出の撮影教室でした。


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・ サン・ボルド峠 ・ 難所の峠越えは

今日ご覧頂くのはサン・ボルド峠・パッソ・サン・ボルド・Passo S.Boldoの様子で、
写真は最初の8枚がレナート・Renato、先日巴里の写真をご覧頂いたルイーザ・
Luisaのご主人の写したもの。

1月上旬にサン・ボルド峠を通った時に雲海を見た、と見せてくれたのがとても美しく、
拝借したのです。 Grazie Renato!

まず、谷から雲が湧きたつ様子。

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サン・ボルド峠はどこにあるか、地図をどうぞ。
もっと広くすると、細かい地名が消えるのでこれでご勘弁を。

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右下にヴィットリオ・ヴェネト・Vittorio Venetoが見えますが、
一旦北に行き西に続く道、これは白ワインの道とも繋がる素晴らしい景観の道で、
ここの中程トーヴェナ・Tovenaから屏風の様に北に繋がる山越えの
海抜706mがサン・ボルド峠。

一度一昨年の冬息子セルジョの車で、山の家に行くのに挑戦しましたが、
ふたつほどカーヴを過ぎた所で、山崩れのため通行禁止、とあり引き返す羽目に。
何で坂道にかかる前に表示しないの?!という事で、まだ私は通った事がありません。

古代からの道で、トーヴェナから峠の難所を越えて行くと、地図の右上に切れて
見えない、にあるべッルーノ・Bellunoから、西の先にあるフェルトゥレ・Feltre、
これも見えない、を繋ぐ道の、トゥリキアーナ・Trichianaに出ます。

フェルトゥレは、ローマ期の主要道クラウディア・アウグスタ街道・
Via Claudia Augusta、ヴェネツィアの本土側アルティーノ・Altino から始まり、
アルプスを越え、オーストリアのアウスブルグまで続く街道が通っていましたから、
それに繋がる重要な峠の道だったのですね。

と書きながら、改めてローマ人の偉大さに感嘆するshinkai !

サン・ボルド峠の西にプレデラデーゴ・Prederadegoという舌を咬みそうな名の
峠もあるのが、こちらは1358mと高く、古代には使われたようですが、
サン・ボルド峠が整備された今はこちらが主要道となっている様子。

ついでにご説明しますと、地図に印を入れたメル・Melの下の四角い赤、
ここに7,8世紀に作られた古いズメッレ・Zumelleの城があり、
その写真を今回一緒に、と思って用意しましたが、
       
峠の事を調べているうちに、面白い写真があれこれ見つかり、急遽予定変更、
サン・ボルドの峠越え、のみで今回どうぞ!

上の写真に繋がる、谷の眺め。

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谷を埋める雲海。

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ルイーザ、レナートに言ってよぉ、構図のど真ん中に電柱なんぞ入れるな! 
少しどっちかにずらしてくれ! って。



白い雪山、ドロミーティ山系はすぐ北に。

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で、これからはサイトのあれこれから見つけた写真でご覧頂きますが、

レナートの写真では、緩やかな峠道に思われたでしょう?
何の、何の、今からが本番!!
彼は、大きな素晴らしい車に乗っている飛ばし屋で、
走っている時は到底停まって写真を撮るなどしないでしょうからね。

こちらがトーヴェナの峠へのさしかかり。
「18 tornanti」、そう、九十九折りのカーヴが18続くのです!!

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どうやらこのトンネル部分が最大の難所のよう!

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如何?! 

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で、ここを羊ちゃん達が移動して行くのです!!

12-488_GF.jpg

なんと、凄い数でしょう?!  ちゃっかりと、途中で道草を食っているのも。
それにしても、凄いシャッター・チャンスです!!
春と秋、北のトレントから南の平野にと、約6万頭の羊がこの峠を越えるのだそう!

先頭の羊飼いが抱えているのは、生まれたばかりの子羊で、
これは春、山に戻る行列。



こちらは秋に、平野にやって来る姿。

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この羊の移動の写真を見つけて嬉しく、是非ご覧頂きたく、
shinkaiはサン・ボルド峠のご紹介に絞ったのでした。


羊の群れの移動は、ちょいちょいヴェネトでは見るのですが、
我がスコミーゴ村を通った時の様子はこちらに。

北のお客人 ・ そして、春の訪れ
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462252694.html

北のお客人 ・羊の群れ、到着!
http://italiashinkaishi.seesaa.net/article/460927524.html



皆さんのご好評と、ゆんぴょさんのコメントにお応えして、ははは、
トンネルの中を歩く羊ちゃん達の写真もどうぞ! 探し回りましたぁ!!

pecore.JPG

羊の写真の下2枚はCorriere del Venetoの2010.9.6の記事からですが、
残念、既に見つからず。
       


勿論サン・ボルド峠を通るのは羊ちゃん達だけではありませんで、ははは、
こんなサイクリング・メンバーとか、

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バイクの連中とか、

15-ej_GF.jpg

サイトで見つけたサン・ボルド峠の殆どの写真は、バイク・クラブのサイトとか、
バイク愛用者のブログで、一般の車通行以外に、スポーツ愛好者達に
大いに愛されている峠の様です。



古い写真をどうぞ。

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この峠道が整備されたのは1918年、当時北イタリアを治めていたオーストリア軍によりで、
  
17-aci_GF.jpg 



女性たちは、トーヴェナの人々と。
当時としては、大変な工事だった事でしょうが、僅か100年前の姿形の違いに驚き!

18-ena_GF.jpg



最後はまたの予告編として、今回はずれた、メルのズメッレの要塞を一枚どうぞ!
古代の通商道の要の位置にあった、という言葉がまさに!と納得できる山上の要塞。

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次のチャンスに!

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